2010年5月9日日曜日

鷲尾山城(広島県尾道市木ノ庄町木梨)

鷲尾山城(わしおやまじょう)

●登城日 2010年1月30日
●所在地 広島県尾道市木ノ庄町木梨字大平
●築城期 建武3年(1336)
●築城者 杉原信平・為平
●形式 山城(放射状連郭式)
●標高 324m
●遺構 郭(30)、空堀、土塁、井戸、築庭等
●指定 広島県史跡(昭和52年3月4日)
●別名 鷲城・霊鷲城・釈迦ヶ峰城・(木梨城)

◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」等)

 鷲尾山城は、尾道市街地から北方約10キロに向かった位置にあり、真南には山陽自動車道尾道ICが近接する。また、西方2キロには石見銀山街道(出雲街道)の国道184号線が南北に走っている。
【写真左】鷲尾山城遠望
 南側から撮ったもの。






 当城の概要について、現地の説明板から転載しておく。

広島県史跡 鷲尾山城跡

 1336年(建武3)足利尊氏に従い、九州多々良浜(博多)の戦いで戦功を立てた杉原信平・為平が、木梨13カ村(尾道・後地・栗原・吉和・久山田・木原・猪子迫・白江・三成・市原・木梨・小原・梶山田)を賜り、木梨に鷲尾山城を築き居城とした。

 以来、信平、光信、元盛、元直、光恒と続き、備後の覇者として武威を張ったが、1543年(天文12)6月、雲州富田城主尼子晴久によって、城は攻め落とされ、光恒は城内で自害、その子高盛は捕らえられた。やがて、大内氏の助力を得て鷲尾山城に帰り、名を釈迦ガ峰城とめた。
【写真左】鷲尾山城平面図
 規模は700m×300mもあり、全体が要害堅固な山城である。本丸は35m×25mの大きさを持ち、北側には尾根伝いに7段の郭を配し、それぞれ東部に土塁を設置している。
 連続する郭先端(北端部)鞍部に大きな堀切を設けている(同図には図示されていない)。

 もっとも要害堅固な個所は、南から西にかけての位置で、天然の切り立った斜面を有効に使っている。



 その後、石原小次郎忠直に再び攻められ高盛は戦死、その子元恒は古志氏を頼って新庄に落ち延び、小早川隆景を頼り、再度木梨へ帰り、石原氏を滅ぼし鷲尾山城を回復した。

 1584年(天正12)、元恒は千光寺山に権現山城を築いてここに移った。

 1337年(建武4)築城以来、実に247年木梨杉原氏の本城として備南地方を鎮めた鷲尾山城も、1591年(天正19)秀吉の山城停止令によって廃城となった。
 現在も、山上から尾根線に沿って、郭、井戸、空濠など多くの遺構を残し、規模、内容とも県内を代表する山城跡である。

 広島県教育委員会 尾道市教育委員会 鷲尾山城址保勝会”
【写真左】五輪塔群
 登城口へは当山の途中まで車で行くことができるが、その途中に五輪塔群が祀られている。おそらく杉原氏一族のものと思われる。





 以上が当城および城主の杉原氏などの動きだが、杉原氏自身はその後文禄4年(1595)、毛利輝元の命によって周防国爪止荘に移封されている。

 ところで、説明板にある杉原信平・為平は、兄弟であり、信平は又太郎といい、木梨氏の祖となり、為平が当城の初代城主とされている。なお、史料によっては、鷲尾山城を「木梨城」とするものもある。
 為平の後裔としては、神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)主となった忠興や、伯耆・出雲で活躍した杉原盛重などがいる。

【写真左】城下入口付近の案内板(惣門跡)
 この写真には見えないが、正面に鷲尾山城が見える。南側城下には集落が点在しており、この場所は、「惣門跡」と呼ばれている個所。

 車ではここから左側の道に入っていくが、集落付近の道幅は大変せまく、鋭角のカーブなどがあるので注意が必要。




【写真左】登城口
 中腹まで車で行くことができ、駐車場も4,5台程度は確保されている。この場所から徒歩になるが、全体に険峻な山のため、途中石などが崩落している個所が多い。

 ただ、地元の方々の尽力によって定期的に管理保全されているようで、利用する者にとってはありがたい。


 なお、天文12年(1543)尼子晴久が当城を攻め落としたとされているが、おそらくこれはその年の暮れから翌天文13年にかけての出来事と考えられる。というのも、以前京羅木山城・砦群(島根県八束郡東出雲町植田)の稿でも紹介したように、天文12年の春、大内・毛利軍が月山富田城を攻め入った時、大内氏などは大敗北を喫した。

 尼子氏はその後石見銀山などを攻略するなど、この年は主に東西地域(石見・伯耆)の守りを固めている。

 記録では、翌天文13年(1544)3月11日、毛利元就・隆元父子が、備後国田総(庄原市総領町付近)で尼子晴久と戦う、とある。鷲尾山城を攻略したのち、帰国途中この地で戦ったものと思われる。
写真左】大堀切
 登城後10数分登っていくと、鞍部に写真にある大堀切が見える。本丸方面はこの写真の右に向かうが、左側尾根を少し行くと、削平された平坦地(郭)が見える。

 当城を南側から攻め入るのは容易でないため、この西側が重要な位置を占めていたと思われる。


 ところで、尼子晴久がこの鷲尾山城という瀬戸内を眼下に見下ろす備後最南端に、なぜ唐突に攻め入ったのか、はっきりしないが、よほどこの城を落とす大きな理由があったことは否めない。
 想像だが、晴久としては、鷲尾山城を落とすことによって、瀬戸内の海上権益をも手中に収め、伸長著しい毛利元就の東方侵略を、ここで分断しようとしたのではないかとも考えられる。
【写真左】登城途中
 この写真の左側が既に郭段を構成しているところで、登城路は西側斜面をほぼ真っすぐに向かう。



【写真左】六の段跡
 冒頭で示した7段の郭の中の6段目の郭である。幅は狭いものの、長さはかなりある。また施工も岩山の割に丁寧な仕上げになっている。

【写真左】石垣跡
 地元の方々によってこうした説明標識が設置されているのはありがたい。



【写真左】五ノ段跡
 段数番号が少なくなるにつれて、長さは短く、幅は広くなっていく。段によっては、整備されていないか所もあるが、おおよその形は想像できる。

【写真左】井戸跡
 2ノ段か、3ノ段辺りか覚えていないが、この個所に井戸跡が見える。すでに埋まっていてその形状は確認できないが、地質とこの位置の高さを考えると、相当深い井戸だったと思われる。

 また、この付近には「柱穴」などもあったことから、掘立柱による建物があったものと思われる。



【写真左】本丸跡
 前記したように、本丸は広く施工が丁寧である。なお、本丸周囲にも土塁の跡が一部残る。
本丸の隅には祠が祀ってある。

 現在、本丸跡に跡には、桜の木が数本植えてあり、簡易な照明器具も設置してあることから、その時期にはおそらく当地で地元の人によって、花見が行われているのだろう。


【写真左】本丸跡にある祠
 石積みをした跡に建ててある。



写真左】虎口跡
 上記祠の左側には虎口の跡が残っている。この位置から下段に郭が取り巻いているが、その側面には大岩が2,3カ所あり、容易に侵入できない構造となっている。



【写真左】本丸下段にある石垣跡
 前段で紹介した北方に伸びる7段の郭のうち、高低差の高い個所にはこうした石垣が残る。

 なお、南側の遺構については写真を載せていないが、急峻な斜面を構成している。西方には馬場跡が残っているが、残念ながらそこまでは踏査していない。




【写真左】南方に瀬戸内海を見る 方向としては、瀬戸内しまなみ海道の各諸島が望めるが、当日は靄がかかりはっきりしない。



【写真左】南方に建設中の尾道~三次高速道路を見る。

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