2010年5月12日水曜日

木村城(広島県竹原市新庄町新庄町字城の本)

木村城(きむらじょう)

●登城日 2008年3月15日
●所在地 広島県竹原市新庄町字城の本
●築城期 正嘉2年(1258)
●築城者 小早川政景
●形式 山城
●遺構 郭、空堀、井戸、石垣、土塁
●指定 広島県指定史跡
●標高 150m(比高130m)
●別名 新庄城、篠原城

◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」等)
 広島県竹原市にある山城で、瀬戸内海に面する竹原港から賀茂川を約5キロほど遡った新庄地区にある。

 賀茂川と並行して走る国道432号線が、山陽道(国道2号線)と交差する位置にも近いことから、古代・中世を通じて交通の要衝でもあった。
【写真左】木村城遠望
 西側から見たもので、城跡は北に伸びる丘陵先端を堀切り、南北の尾根に10数カ所の郭が設けられている。




 築城期は正嘉2年(1258)といわれるから、後深草天皇のときで、鎌倉幕府は宗尊親王、執権は北条長時である。

 翌年は「正嘉の飢餓」と呼ばれる災難が発生し、疫病も流行した。

 現地に当城の概要が簡単に記されているので、下段に記す。

県史跡 木村城跡
  昭和48年3月28日指定
 正嘉2年(1258)都宇(つう)竹原荘の地頭職として、竹原小早川家の初代である政景沼田小早川茂平の子)がこの城を構えた。

 天文19年(1550)毛利氏から養子として迎えられていた14代隆景が、沼田小早川家を相続して、本郷の高山城に移るまでの約300年間、竹原小早川家の本拠であった山城である。
 城跡は、本丸を中心に数多くの「曲輪」が配置され、井戸跡や土塁跡、堀切などの遺構をとどめている。
  竹原市・竹原市教育委員会”
【写真左】木村城要図
 西側にある登城口付近に設置された図で、右方向が北を示す。当城は東から南にかけてかなりの数の竪堀が設置されている。





 また、竹原小早川家の菩提寺や墓地関係の説明板もあるので、併せて載せておく。

“(1)法常寺跡―竹原小早川氏の菩提寺であった寺跡に五輪塔や宝篋印塔が残っている。

(2)竹原小早川家墓地―天平風の石組の基壇の上に、蓮座を二段重ねた大型宝篋印塔を中心に約30基をこえる宝篋印塔や五輪塔が並び、戦国時代の者が多い。 この墓地の裏山には、13代興景公夫妻の宝篋印塔がある。

(3)居館跡―正面の長さ約52m、高さ約3mの古風な石垣が残り、この両端には勝負の壇が見られる。“
【写真左】登城路途中に設置された「古川家乃墓」
 東側から向かう登城路の斜面に、忽然と当該墓が建立されている。小早川家の重臣としては、手島氏が有名だが、この「古川家」の墓がなぜ、この場所にあるのかわからない。

 「日本城郭大系14巻」にも同氏(古川家)のことについては記載されていない。
 墓そのものは、近世の形式だが、その大きさから考えて、小早川氏や木村城と何らかの関係があったと思われる。
 
 裏付けするものはないが、前稿で紹介した「本郷城」の古志氏が、出雲国栗栖山城から移住してきたとき、同氏に随従してきたのが古川氏ではないかと考えられる。

 出雲国の古志氏については不明な点が多く、南北朝後期から室町期にかけて、その一部は備後(本郷城など)へ、残りは同国に残るものの、戦国期になると同氏は各地に離散したような形跡がある。

 当城に建立された古川家の墓も、そうした本郷城を起点として、その後、何らかの経緯を経て、小早川家に仕えた同氏の一部ではないだろうか。
【写真左】井戸跡
 登城路の終了地点東側平坦地にある。









 小早川氏略系図によると、同氏の元は土肥次郎実平に始まり、その子・遠平から小早川を名乗り、実子である惟平と、養子景平に分かれる。

 元々、土肥氏は桓武平氏で、相模国(神奈川県)湯河原一帯の土肥郷に居を構えていた。また隣接する早川荘(小田原市)も知行していたことから、相模国にあった時、すでに「早川」や「小早川」を名乗っていた。

 小早川氏が竹原を含む安芸国に来住してきたのは、元の領主沼田氏が滅亡し、土肥実平が沼田荘地頭職として入った文治元年(1185)ごろで、建永2年(1207)には、茂平が沼田荘地頭職を安堵され、建保元年(1213)になると、季平が沼田新荘地頭職を幕府から安堵された。
【写真左】北端部にある祠跡
 神社(若宮社)のようなものがあったらしく、現在は礎石などが残っている。



 政景の父・茂平が木村城のある竹原荘や都宇の地頭職を得たのは、それから後で、いわゆる承久の乱をきっかけに、承久3年(1221)に当地の地頭職を得ている。

 30年後の正嘉2年(1258)、説明板にあるように、茂平は子・政景に当地の地頭職を譲った。木村城はその年に築城された。 応仁の乱の際、竹原小早川家は西軍山名方に属し、城主11代・弘景は二度にわたって、沼田本家の高山城を攻撃、文明9年(1477)沼田本家の所領を割譲させた。
【写真左】本丸付近
 当城の規模はさほど大きくはないが、帯郭など遺構の保存度は良好である。








【写真左】本丸跡
 幅10~15m×長さ18mで、楕円形となっており、西側には一部石垣を残す。









写真左】本丸付近から北方を見る
 右に走る道は、国道432号線で、同線と沿うように賀茂川が流れている。なお、写真左の山東麓には手島屋敷がある。

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