2010年3月27日土曜日

伊秩城跡(島根県出雲市佐田町一窪田)その1

伊秩城跡(いじちじょうあと) ・その1

●所在地 島根県出雲市佐田町一窪田 錦
●登城日 2007年12月14日、および2010年3月27日
●標高 236m
●遺構 土塁、郭、竪堀、櫓台、堀切、井戸、虎口他
●形式 山城
●築城期 応仁元年(1467)
●築城者 伊秩伊勢守政行

◆解説(参考文献「佐田町誌」等)
 今月の投稿で取り上げた山口県下関の大内義長墓地・功山寺(山口県下関市長府川端)の際、大内義長の墓地の隣に安置されていた「伊秩氏累代之墓」を少し紹介していたが、今稿はその伊秩氏が関わった出雲国(島根)の伊秩城を取り上げる。

【写真左】伊秩城遠望
 南側からみたもので、伊秩山は独立峰として本流神戸川と支流・伊佐川の分岐点に立っている。

 この位置からは、神戸川を下っていくと東方の高櫓城に繋がり、北方へは日本海に面した多伎町へ、また伊佐川を登ると石見に繋がり、戦国期の毛利尼子合戦の際、重要な戦略上の境目となった。


 場所は、出雲の西部にあたる旧佐田町窪田という地区である。佐田町は、古代出雲の歴史発祥の地ともいわれ、出雲大社と非常にかかわりが深く、特に須佐神社は有名である。

 伊秩城の東麓を流れる神戸川は、島根県と広島県の境に位置する女亀山(830m)を源流とし、赤名・来島(飯南町)と下り、佐田町を通って出雲市・大社と流れ、日本海にそそぐ。この神戸川と沿うように国道184号線が走っている。中世の歴史的な関連でいえば、伊秩(窪田地区)は、この神戸川を中心として特に南部の飯南町との関わりが濃い。

 記録によると、伊秩地区(窪田)において、暦応4年(1341)、佐々木高綱5代の孫・佐々木備後守常宗が、足利尊氏の命によって、吉栗山に城櫓を築いて居住(出雲風土記考証、簸川郡史)し、伊秩山には応仁元年(1467)、この地に封ぜられたと伝えられる伊秩伊勢守政行が、伊秩城を築いた(明教寺文書)、とある。
【写真左】麓にある案内図
 伊秩城を含むこの場所は、「やすらぎの森」と命名され、伊秩山多目的保安林整備事業によって管理されている。地元の人にとって、気軽に登れる山である。




 なお、同町東部には須佐地区に戦国期、本城経光が拠った高櫓城跡(島根県出雲市佐田町反辺慶正)があり、この城は伊秩城築城から約20年後の文明18年(1486)、尼子経久が出雲守護となってから築城を見ている。

 このことからわかるように、佐田町の中でも東部・須佐地区は、国守(文治系)が長らく当地を治め、伊秩城のある西部・南部は、南北朝時代から武士の支配下に入っていたようである。これらを補完する史料として、文永8年(1271)の千家文書によると、当時の荘園について

(イ)伊秩庄
  来島松助(※ 一説に杢助とあり)入道、60丁4反300歩を、来島庄(飯南町)兼ねる。

(ロ)須佐郷
  相模殿(北条氏、式部大夫北条時輔?)30丁3反歩。(これは後に、足利尊氏が石清水八幡宮へ寄進した)

 また、須佐地区は、須佐神社が社領として、上古から鎌倉、戦国時代までその石高をほとんど変えることなく続いたようである。

※来島松助
 来島氏は、伊秩のある窪田地区から神戸川を登り、現在の飯南町来島地区を治めていた一族である。
【写真左】伊秩氏の菩提寺といわれた明教寺本堂
 伊秩城南麓に創建されている寺院で、周辺には旧窪田小学校跡地や、三所神社などがある。



 さて、伊秩城主である伊秩氏については、前掲のとおりであるが、同氏の出自等について改めて記す。

 伊秩氏の菩提寺であったという、一窪田の「明教寺縁起」によると、

 伊秩氏の本国は、因幡国で、初代は井筒行守といい、山名宗全の家臣であった。応仁の乱では、山名氏に属し、細川勝元と戦い、戦功があったので、宗全は将軍・足利義政にその旨を言上。論功行賞として、伊勢守と義政の政の一字を授けられ、このときから伊勢守政行と名乗る。

 さらに所領として、出雲国伊秩庄を賜り山名家から家臣300人を下附され、前述の通り応仁元年(1467)当地に城を築き、井筒を改め、地名の伊秩をもって姓とした。
 山名家から下附された主だった家臣としては、矢田兵部少輔(出身は上州秩父)、吉川讃岐、京極三郎、高木左門、溝口五男などがいた。
【写真左】明教寺前の道路から伊秩城遠景
 写真に見える集落は当時、伊秩氏家臣らの屋敷があったところ思われ、具体的な遺構は残っていないものの、中世・戦国期の雰囲気が濃厚に感じられる景観を持った場所だ。



 下って戦国期である。大永3年(1523)3月、月山富田城主・尼子経久によって、合戦10数日の末、落城した。時の城主は、5代・伊秩甲斐守重政であったという。
 参考までに、初代から5代までの城主名を下段に示す。

●初代 伊秩伊勢守政行
●2代 伊秩下野守政方
●3代 伊秩常陸介一政
●4代 伊秩日向守政元
●5代 伊秩甲斐守重政

 ここまでは具体的な史料があるため、把握できるが、落城したといわれる大永3(1523)年から56年後の天正7年(1579)、今度は毛利氏によって攻められ落城した、という記録がみえる。
 現地の説明板にも、どちらの落城についても載せてあるが、この間の経緯については示されていない。

 ただ、現在の出雲市大津町来原の三谷神社に、天文20年(1551)10月27日、伊秩左京亮保連から、石塚神社に対して、

 「雲州神門郡久留原の三谷権現の神主敷、いち敷(神主、巫女の職務手当を作り出す田地)、権現御神田に関する諸々のことを、今後も今まで通り相違なく勤めよ」

 という申渡し状がある。同社では伊秩保連は、伊秩城の城主であると伝えている。
 このことから推察すると、5代甲斐守重政のあと、再び伊秩氏を名乗る一族が当城を治めていたと考えられ、重政直系のものとすれば、保連は孫あたりになるだろうか。

 以上の内容は、主に地元に残る史料・所伝からまとめたものだが、次に長門国・下関にある伊秩氏関係から、同氏に関する記録を拾ってみる。
【写真左】井戸跡
 内側の施工も丁寧で、おそらく当時の状況とほぼ変わらないものだろう。








長門国の伊秩氏

 佐田町誌によると、下関在住の伊秩秀宜氏一族は、先祖が出雲国伊秩城の城主であったという。
 この一族の系図では、下関の伊秩氏の祖が、尼子経久の子であるとし、政久、国久の次に「伊秩美作守元久」がいたという。そして美作守元久の子として下記の4人を挙げ、さらにその子を並べている。
1、伊秩甲斐守 
    その子:男 元忠・甚次郎・左京・安房守
         :女 伊秩城落城の際12歳
2、某
    その子:田儀家養子 次郎左衛門
         母家女 実は美作守長男、出雲国田儀の家督
         天正6年、田儀城落城の際自害
3、伊秩源左衛門(久正)
    近侍勝久(その他省略)
4、玄房
    天正7年伊秩城落城の際、乳母に抱かれて避難し、後出家その後、還俗して赤穴に棲む。

 上記のうち、山口県に住む伊秩氏の本家は、1、の元忠の末裔であり、長府藩(5万石)に仕えて、家老職(1千石)を勤め、伊秩源左衛門久正の末裔(下関伊秩秀宜氏)は、同じく長府藩馬廻り役(250石)、玄房の末裔(山口県豊浦郡菊川町吉野の伊秩氏)は、長府藩の分藩である清末藩(1万石)に仕えている(30石)。
【写真左】本丸付近
 写真のように公園化を図っているものの、山城としての主だったところはほとんど改変されていない。

 休憩用の小屋が作られており、くつろげる。ただ、この位置から周囲の眺望は、一部を除いて期待できない。
 特に東方の眺めが確保できると、最高なのだが…。


 さらに、同じ山口県で、伊秩家と深い関係のある上里家の累系によると、前掲の三谷神社文書に出てきた伊秩左京亮保連と、おそらく同一人物と思われる「保連」の名前が見え、元忠は、伊秩元処の子となっている。

 以上、地元の記録と、長門・下関の伊秩氏関係の記録を照合して整理すると、佐田町誌では次のような経緯が考えられるとしている。

 先ず、因幡国出の井筒氏が伊秩城に居城し、大永3年(1523)尼子氏によって陥れられる。その後、石見銀山が近いこともあり、尼子・毛利の同山争奪戦が始まり、当初尼子方は、同町須佐の高櫓城に本城経光を置き、西方の伊秩城には、尼子一族であった元苗(元久の孫?)を置いた。しかし、天正7年(1579 )毛利氏によって落城した。

 なお、ここで最大の疑問が、同誌でも述べられているように、尼子経久の子として、元久なる人物が全く記録にもなく、またよく取り上げられる「陰徳太平記」や「雲陽軍実記」にも出てこない点である。
 経久の子として定説になっているのは、長男・政久、次男・国久、三男・興久(塩冶)で、あとは長女・いとう(北島氏室)、二女(千家氏室)、三女(宍道久慶室)の6人である。

 こうなると、伊秩美作元久は経久の実子ではなく、大永3年の尼子氏が当城を落とした際、経久が伊秩政行の遺児を養子として引き取り、後に偏諱を与え元久としたのではないかと思われる。その際、経久としては、姓も尼子を名乗らせるところを、あえて当地および、伊秩氏の命脈も残させるためにこうした形をとったのではないだろうか。

 次稿では、山口県の伊秩本家にあるという、天正2年の伊秩城落城の記録について紹介したい。

0 件のコメント:

コメントを投稿