2010年3月20日土曜日

高嶺城(山口県山口市上宇野令)

高嶺城(こうのみねじょう)

●所在地 山口県山口市上宇野令字高嶺
●登城日 2008年4月11日
●築城年 弘治3年(1557)
●築城者 大内義長、毛利元就
●城主 大内義長、市川伊豆守経好、柳沢元政、佐世元嘉
●形式 山城
●標高 338m
●遺構 石垣・井戸・郭
●指定 国指定史跡
●別名 高峰城・鴻峰城
●廃城年 寛永15年(1638)
◆解説(参考文献「『日本城郭大系14巻』新人物往来社」等)
【写真左】登城口付近
 登城口は国道9号線の北側の狭い脇道から入るようになっており、入るとすぐ木戸公園や木戸孝充(桂小五郎)旧宅跡がある。

 写真は公園と、木戸孝充旧宅との間にある道で、この右側の道を登って行く。




 築城者である大内義長は、今月取り上げた臼杵城(大分県臼杵市大字臼杵)主・大友宗麟の異母弟である。彼が大内家に養子となっていったいきさつは、前稿の周防・若山城(山口県周防市福川)主であった陶隆房(晴賢)が、主君・大内義隆を打倒する(陶隆房のクーデター)ことから始まる。

 天文20年(1551)8月下旬、陶隆房は若山城から山口に入ると、義隆は逃走し、9月1日、長門深川の大寧寺で追い詰められ自害する(大内義隆墓地・大寧寺(山口県長門市深川湯本)参照)。代わって、義隆の甥に当たる大友晴英(はるふさ)が、翌天文21年3月、豊後から山口に入り大内氏の家督を継ぐことになる。同時に、大友晴英を改め、大内義長とし、陶隆房は、大友晴英の偏諱を受け、陶晴賢と改名する。

 大内義長は大内家の家督を継いだといっても、明らかに陶晴賢による傀儡政権である。当初、異母兄である大友宗麟は反対していたという。
【写真左】木戸神社遠景
 ちょうど桜が咲き、この地区の住民の憩いの場所でもあるようだ。



【写真右】木戸孝充邸址
 現地の敷地内には民家があり、その庭に写真にみえる石碑が建っている。民家には現在も住んでいる人がいるので、断ってから中に入った。

 明治新政府樹立の立役者の一人だが、明治10年に病気により45歳で亡くなる。亡くなる前に彼は、この地にあった本宅・山林などを地区民に与え、子弟育英の資とするよう言い残した。地元民はこれに感謝し、後にこの地に社を建てたのが木戸神社である。



 弘治元年(1555)10月、厳島で陶晴賢が敗死(宮島・勝山城と塔の岡(広島県廿日市市宮島町)参照)すると、急速に大内・陶家臣団は弱体化し、その2年後の弘治3年4月、毛利元就による防長計略によって、義長は高嶺城を捨て、重臣内藤隆世の居城・勝山城・勝山御殿(山口県下関市田倉)へ敗走するも包囲され、最後は長福院(現・功山寺)大内義長墓地・功山寺(山口県下関市長府川端)参照)にて自害した。享年26歳。


辞世の句は、以前当ブログのタイトルに添付していたものだが、改めて紹介して置きたい。

 誘ふとて  何か恨みん  時きては
          嵐のほかに  花もこそ散れ

【写真左】高嶺城跡地形図
 木戸神社から車で登れる道はあるが、普通車1台がやっとで、対向車が来たらアウトである。幸いこの日は下りの車もなく、下の写真にある駐車場まで行くことができた。

 写真地図が小さいのでわかりにくいが、登り道はこの木戸神社側とは別に、東麓にある山口大神宮側からのルートもあるようだ。

 ただ、これは完全な歩道である。遺構をすべて見ようとすれば、この山口大神宮から3,4カ所の郭段があるので、そちらの方がいいかもしれない。
 なお、この付近一帯は「鴻ノ峰想像の森」という名称の森林公園形式となっている。

【写真左】駐車場付近
 左側の建物は以前使用されていたテレビ局の建物で、写真右にはNHKの建物が建っている。

 なお、この位置からすでに遺構の一部で、郭跡でもある。なお、写真の中央奥にみえる山の方向に主郭がある。

この場所にも説明板がある。上記の内容と重複するところもあるが、全文を転載しておく。

“史跡 大内氏遺跡
高嶺城跡
 昭和34年11月27日文化財保護法により指定
 大内氏は全盛時代、他に見られないような城郭は設けなかったといわれている。


 大内氏最後の義長は、弘治2年(1556)の春、毛利氏の来襲に備えて標高338mのこの鴻峯に築城した。弘治3年3月、毛利元就が来攻のとき、義長はこの城に拠ったが、ついに守り難きを察して、長門国勝山に逃れ、4月3日、長福寺で自刃して果てた。

 この城は、高嶺城と呼び、高嶺は、また高峯・鴻峯ともかかれ岳山ともいった。急峻な崖をめぐらした独立した丘陵の稜線上に階段状に郭を連ねている。

【写真左】途中にある長い平坦地(郭)
 テレビ塔から頂上部までの距離はさほどないものの、2,3段の郭を経ていくと、写真のような長い平坦地がある。おそらく馬場跡かもしれない。



 最頂部の郭は、石垣をめぐらしており、一つの山城として典型的なものである。

 大内氏滅亡後、山口は毛利氏の手中に入り、城番をおいてこの城を守った。ところが、元和元年(1615)6月、幕府は一国一城令を発した。
 これにより、毛利氏は居城・萩指月山城を残し、山口・高嶺上、長府・串﨑城、岩国・横山城を破却することとなり、寛永15年(1638)に高嶺城は廃された。

 現在、最頂部にはこの城の主要部分である郭の遺構が残っているが、尾根の平坦部にも郭の跡があり、また、石垣・井戸も現存している。
 最頂部の郭からは、大内菱の紋のある棟瓦も出土している。
管理団体 山口市
昭和47年 月建 山口市”



【写真左】主郭直前の郭からみた石垣の一部
 写真では主郭・本丸の大きさを感じなかったが、登城してみてその予想以上の大きさに驚く




【写真右】本丸跡
 目測では長径60m、短径40mの変形6角形の形状である。




 また、本丸跡にも説明板があり、これも上記と内容が重複する部分もあるが転載しておく。

“史跡 (大内氏遺跡附凌雲寺跡)

高嶺城跡
昭和34年11月27日国指定
 高嶺城は、大内氏最後の当主・大内義長が毛利氏の侵攻に備えて、弘治3年(1557)に築いた城です。同年、義長は形勢が不利となり、長門国(下関方面)に逃れましたが、4月長府の長福寺(現在の功山寺)で自刃しました。

 義長が去ったのち、毛利氏は城の改修を行い、市川経好を城番として置きました。永禄12年(1569)に大内輝弘が山口に攻め入った際に、毛利勢はこの城の守りを固めて寄せ付けなかったといわれています。

【写真左】本丸跡に残る瓦片
 説明板にもあるように、現在でも当時の瓦片が散在しており、高嶺城は、当初から本格的な城造りを目指し、さらにこうした主だった郭部分にも建造物を計画していたものと思われる。
 

 元和元年(1615)、徳川幕府から一国一城令が出されたため、毛利氏は萩指月山城を残し、山口県高嶺城、長府串崎城、岩国横山城を破却することとしました。寛永15年(1638)高嶺城は廃城となりました。

 高嶺城跡のある鴻の峰は、標高338mの丘陵です。城跡は頂上の主郭を中心に、四方に伸びる尾根に曲輪群が広がっています。主郭やその周囲の曲輪には石垣がめぐらされ、礎石や瓦片が発見されています。

 なお、史跡大内氏遺跡は、館跡・築山跡・高嶺城跡・凌雲寺跡の4遺跡で構成されています。
管理団体 山口市
平成17年3月建 山口市”
【写真左】本丸下の帯郭付近にある井戸跡
 井戸はおそらくこの場所以外にも数カ所あったものと思われる。手押し用のポンプが設置されている。




【写真左】本丸跡から眼下に山口市内を見る
 位置的にも長い山口市街を眺望できる場所にある。









佐世元嘉
 
ところで、冒頭の高嶺城城主のうち、廃城前の城番として、佐世元嘉を挙げているが、彼は元は出雲国(島根)大東町(現雲南市)の佐世城に拠った佐世氏の一族である。

 佐世城は当ブログでまだ紹介していないが、大東町に正中3年(1326)、佐世七郎左衛門清信が築城して以来、9代佐世伊豆守正勝にいたるまで270年余り続いた。8代の伊豆守清宗までは尼子氏の家老格として忠誠を励んだが、永禄8年(1565)より毛利氏に属し、防州山口に移住。

 高嶺城の城番を務めた元嘉は、9代正勝の弟である。兄正勝は、文禄3年(1594)再び郷里佐世城に迎えられたが、彼には嗣子がいなかったため、慶長6年(1601)逝去と同時に、甥に当たる防州山口佐世丹羽守元量が後職に任じられたため、当地佐世家は断絶した。

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