2010年1月15日金曜日

一宮城跡(徳島県徳島市一宮町)

一宮城跡(いちのみやじょうあと)

● 所在地 徳島県徳島市一宮町
●史跡指定 県指定史跡
●登城日 2008年4月29日
●築城期 暦応元年・延元3年(1338)
●築城者 小笠原長宗
●標高 144m

【写真上】一宮城案内図
 四国霊場13番・大日寺のほぼ真上の山にある。主な遺構としては図にもあるように、倉庫跡、才蔵丸、明神丸、本丸、釜床跡、畑跡、貯水池跡、水手丸(2カ所)、郭などがある。


◆解説(参考文献「週刊 日本の100人番外編№04 豊臣秀長」「西国の戦国合戦」山本浩樹著、その他)

 前稿「引田城」探訪後、隣の徳島に入り、一宮町の一宮城を訪れた。所在地である一宮は、徳島市中心部から吉野川の支流である鮎喰川をさかのぼったところにある。
 城下には四国霊場88札所の第13番大日寺が建ち、道路21号線を挟んで、一宮神社と神宮寺跡がある。主な登り口は上図のように、2カ所だが、南側から上がるミニチュア版遍路道のようなコースをたどる方法もある。
【写真左】登城口付近
 この左側には、神宮寺跡がある。登城路は全体に整備され、登城する人も多いようだ。








 一宮城は、延元3年(1338)年小笠原長宗によって築城されたとある。小笠原氏の始祖は甲斐国で、のちに信州に移り、その後地元と京都に分かれ、庶流は、阿波、備前、備中、石見、三河、遠江、陸奥などに分散していく。

 ちなみに、以前取り上げた石見国の山城で、度々出てくる小笠原氏(温湯城・その1(島根県邑智郡川本町河本谷)参照)は、直接信州から下向したのではなく、一宮城のある阿波からその一族がやってきている。

 時期は津和野・三本松城を吉見頼行が築城した永仁3年(1295)ごろで、小笠原長経の孫・長親が同国邑智郡村之郷(現島根県美郷町の南山城が最初の居城)に入っている。
【写真左】一宮城立体配置図
 上段の図と同じようなものだが、立体的な絵図で分かりやすい。なお、この図では、2カ所の水の手丸のうち、高所のものを「小倉丸」と明示している。



 さて、阿波小笠原氏は、その後姓を一宮氏とあらため、一宮城を居城として阿波国を治めていく。

 一宮城の概要については、現地の説明板より転載する。

“徳島県史跡 一宮城跡
 一宮城は延元3年、小笠原長宗が構築したもので、自然の地形を利用した城として知られる。また、阿波山岳武士の根拠地として、さらには戦国時代の一宮氏の拠点として活躍した名城であった。

 今日残っている本丸の城壁、明神丸、才蔵丸等の跡は、この頃のものであろう。その後、長宗我部氏の侵入、豊臣秀吉の四国統一の際、攻防場となり、天正13年、蜂須賀家政が入国のときにも、徳島城に移るまで居城となっていたものである。元和元年、一国一城の制により廃城となっている。

昭和43年11月 徳島市教育委員会、一宮城跡保勝会”
【写真左】倉庫跡
 登り始めて最初に見えるのが、倉庫跡といわれるところで、登城路脇のものと、途中で枝分かれした道の先端部にもある。この日は、後者の方までは探訪していない。



 当城の名前が特に出てくるのは、上記説明板にもあるように、戦国期である。

 四国を統一した長宗我部元親に対し、秀吉(信長)は紀伊国統一後、天正13年(1585)大掛かりな布陣を擁して攻め入った。その規模は10万余りで、阿波、讃岐、伊予の三方から攻め入る作戦に出た。

 このうち紀伊・和泉の兵3万を率いたのが秀吉の弟・秀長で、同年6月16日、堺から淡路に到着。ここで、明石から同じく3万の兵を率いて渡海した甥の秀次と合流し、同時に阿波に入った。
【写真左】上記倉庫跡付近から徳島市街方面を見る
 豊臣秀長らが一宮城に向かったルートはおそらくこの写真にある徳島市街からだと思われる。
 道のわきに綺麗な花が咲いていた。



 最初に秀長らは、木津城(鳴門市)を陥れたが、その後長宗我部軍の抵抗が激しいため、兵を海部、一宮、岩倉の三手に分けた。

 一宮城の戦いでは、秀長は鮎喰(あくい)川を挟んで、辰ノ山に陣をとった。四国を平定する際の重要な戦いがこの一宮城戦だった。

 戦況が好転せず、長期戦の様相を呈し始めた時、大阪城で病気治療していた秀吉は、自らが出向くと再三決意したが、秀長らが度々の書状をおくって押しとどめ、2ヶ月後の8月6日、ついに元親の降伏により和睦となった。

 元親が降伏した理由は、直接的には秀長らによる同城の水路の阻止が挙げられているが、伝承では元親が、秀吉軍が持ち運んだ騎馬の屈強さ、能力の高さに驚いたからだともいわれている。
 なお、降伏した長宗我部元親は、同日の和睦条件の中で、出身地である土佐1国を安堵された。
【写真左】曲輪跡
 後段に示す才蔵丸や、明神丸が出てくる前に見える郭で、確か2段あったと思われる。











【写真左】堀切
 明神丸と才蔵丸の中間部にあるもので、これにより区画としては才蔵丸を孤立させたものだという。従って、写真左側に才蔵丸専用の入口がある。








【写真左】門跡
 上記の堀切を抜けると、この門跡に出る。写真右を行くと、明神丸に向かう。左方には帯郭や井戸跡がある。










【写真左】明神丸周辺案内図
赤い文字位置が上記門跡。










【写真左】明神丸から徳島市街を見る
 明神丸は上図のような形状で、展望台として使われており、眺めがいい。
 写真中央に流れているのは、鮎喰川で、中央の山並み鞍部には、銅鐸・銅剣が出土した源田遺跡がある。なお、この写真の右下丘陵地には「御殿居」といわれた場所があり、一宮氏のものと思われる。






【写真左】帯郭
 明神丸と本丸をつなぐ部分で、戦略的にも重要な場所である。









【写真左】本丸その1 本丸の形状図面
 三角形の縄張りで、周辺に石垣を積んでいる。












【写真左】本丸その2
 東側にある本丸登城用階段部
 小ぶりな石垣だが、全体に破損個所が少なく、見ごたえのあるものである。この位置からの高さは4m前後だが、北側の方になるとぐっと深くなり、要害堅固な城造りを見せる。






【写真左】本丸その3
 平坦面の精度がよいことから、蜂須賀家がいたころには建築物(天守)があったと思われる。











【写真左】本丸その4
 中心部に建立されている「若宮神社」










【写真左】本丸その5 
 東端部から登り口方面を見る











【写真左】本丸跡から辰ノ山(辰ヶ山)を見る
 前述したように、豊臣秀長らが布陣した山で、標高は197mと、一宮城よりは少し高い。










【写真左】本丸下の釜床跡付近













【写真左】堀切
 本丸を過ぎて小倉丸方面に向かう途中に堀切がある。このあたりからは管理が少し雑になっていて、雑木が目立つ。









【写真左】曲輪跡
 明瞭な遺構としての郭ではないが、このあたりの地形に合わせた小ぶりな廓が点在している。









【写真左】小倉丸の側面
 ここに来ると、本丸ほどの整備がされておらず、登るのを断念した。
 図面を見ると、二段の構成となり、西側に土塁を南北に伸ばし、先端部に櫓台があるという。






 このあと、方向音痴になり、一宮城の南の幹線道路に出てしまった。このため、最初の登城口まで歩いて戻ることになった。しかし、そのルートはおそらく搦手側になると思うので、これはこれで無駄ではなかった。
【写真左】一宮神社

2010年1月13日水曜日

引田城跡(香川県東かがわ市 引田)

引田城跡(ひけだじょうあと)

●所在地 香川県東かがわ市 引田
●登城日 2008年4月29日
●築城期 西暦667年
●城主 四宮氏・仙石氏・十河氏・生駒氏
●形式 海城

◆解説(参考文献「サイト:城格放浪記」など)
 前稿に続き香川県の山城で、「多度津城」とは反対の位置(東部)にある引田城を取り上げる。
 この城は、山城というより、断崖絶壁にたつ平山城もしくは、海城形式のもので、城の起源は現地の説明板によると、天智天皇の6年(667)という極めて古いものである。以下、説明板より転載する。
【写真左】現地の案内図
 この場所は、瀬戸内海国立公園・城山園地という区域で、その東半分が引田城域になる。瀬戸内海の播磨灘を眼下に見るところで、さらに東に数キロ行くと、徳島県(鳴門市)と接している。

 おもな遺構名としては、馬屋池、丹後丸、北の郭、櫓、玄関谷、西の郭、化粧池、石囲い、南の郭、東の郭、物見台、狼煙台跡等がある。


“引田城址

 城の起源は遠く天智天皇の6年(667)11月、屋島築城のとき、安倍比羅夫率いる引田氏によって築城したものであるといわれ、また、屋島城(軍団)との連絡のためにできた「狼煙台」として造られたのが城の始まりになったともいわれている。

 この城が、内海の要塞として、代々の城主・四宮氏・仙石氏・十河氏・生駒氏などにより改修が加えられ、近世の城として体裁を完備していったが、元和元年(1615)の一国一城令により、廃城となり、今は山上に石垣・土塁、そして空堀などを残すのみで、城郭としての規模は分からない。

 しかし、引田の住民は、この城を拠点として、事ある時は軍船を操り、水軍の衆として大活躍をなし、平時に当たっては内海はもとより、朝鮮・支那の遠海に運航し、特に永正年間、大内氏と結び、近くは堺・兵庫、遠くは台湾・呂宋まで渡航して貿易に従事し、引田港の全盛を招来した。
  城址区域 東西250m、南北500m
  引田町教育委員会”
【写真左】登城口下の駐車場
 主な登城口は南北各1カ所あり、写真はその中で北側の登城口付近にある駐車場。

 この駐車場は、この位置から下にあるキャンプ場用のものだが、登城口からさほど離れていない上に、駐車台数も多いため便利だ。




 以上のように、このブログで取り上げてきた山城の築城時期の中では、最も古い部類に入る。天智天皇の時代というから、白鳳(飛鳥)時代である。

 築城されたきっかけは、おそらく天智2年(663)に、日本・百済の連合軍と、唐・新羅連合軍の白村江での戦いで大敗したとき、あわてて、西日本各地に造られた海城の一つと思われる。
【写真左】北の郭付近その1
 登城口からしばらく歩くと、写真のような石垣をもった「北の郭」が見えてくる。

 現地の説明板より

“北の郭
 当城址中もっとも古い石垣の偉観が見られる場所であり、地元の和泉砂岩・礫岩を使った石垣の構造様式も、天正期の特色がよくあらわれている。

 二段に築かれた上段の石垣は、南へ伸び城門跡から西の郭に続いており、一部石垣の崩れたところでは、裏ぐりに海の石を利用したと思われる丸いぐり石の露出が見られる。 

 北側は自然の岩山まで石垣を築き、その岩山と石垣上に近世の建物が建てられていたことを証する同時代の丸瓦が出土している。
引田町教育委員会”
【写真左】その2











【写真左】女郎島・西の郭・引田灯台方面との分岐点
 このあたりから城域の中心部に差し掛かるところで、写真手前には櫓跡があり、当時の大手口がキャンプ場・西の郭の間にあった玄関谷方面と思われる。









【写真左】引田灯台
 上記の位置から東に向かうと、物見台、東の郭にさしかかり、さらに東端部に足を延ばすと写真の引田灯台にたどり着く。

 この灯台は昭和29年に設置されたものだが、戦国期にもおそらく同じような役目を負っていたのだろう。

 この場所から突端にある「女郎島」にまつわる悲話が残されている。具体的な内容は書かれていないが、奥女中と若僧の悲恋物語「おせんごろし」の伝説という。

 なお、写真にあるように、この場所から右(南)方面に向かい、化粧池、南の郭を目指した。

【写真左】化粧池
 名前からして、さぞ綺麗な池と思ったが、現地は荒れ放題の湿地帯状態だった。

 海岸部なので、生活する上では真水の確保は死活問題だっただろう。おそらくこの池がその役目を果たしたものと思われる。







【写真左】南の郭付近からみた引田の港と播磨灘
 天気がよいと、この写真左前方に淡路島も見えるという。この景色でも十分堪能できる。









【写真左】南の郭
 文字通り南側を防御する場所だが、上記写真にもあるように、播磨灘の東方や、陸路の阿波方面からの動きを監視する物見台的要素の強い郭と思われる。

 現地には石碑が建っていた。





【写真左】西の郭

 現地の説明板より

“西の郭・天守台・南の郭

 ここは、西櫓跡といわれているところで、方形の石垣が残っており、その上には展望台らしい構造物跡があるが、これは大正12年久邇宮良子殿下(昭和天皇皇后)行啓予定地の報により、展望台道路の整備等をなし、現状が一部変更されている。

 ここから南東方、魚の神付近に天守台、さらにその先に南櫓跡の石垣が残っているが、近年崩れ落ちた個所も多い。また、この付近の石垣は、後年引田港一文字波止堤防用としてくずされ利用された。

 その堤防は眼下南方に現存する。天守台等の建造物については、瓦片等から想像し、生駒時代の構築と考えられている。  引田町教育委員会”
【写真左】狼煙台跡付近
 このあたりからだんだんと下がっていく地形だが、数カ所でこうした眺望が堪能できる。
 この位置にある狼煙台を考えると、引田城下の報にいち早く知らせる目的があったように思える。






【写真左】南側の登城口
 最初に登城した位置より、南方(引田の街)側にあるもう一つの登城口。

 結局、北側の登城口からスタートし、引田城域を周回し、南側に降りたことになる。このあと、最初に留めた駐車場まで徒歩で戻った。

 なお、最初の登城口付近(北側)には、馬屋池というのもあったが、残念ながら写真に撮っていなかった。

◎関連投稿
昼寝城(香川県さぬき市多和)

2010年1月12日火曜日

多度津城跡(香川県仲多度郡多度津町桃山)

多度津城跡(たどつじょうあと)

●所在地 香川県仲多度郡多度津町桃山
●探訪日 2008年3月8日
●築城年 貞治3年(正平19年:1394)頃
●築城者 香川氏
●備考 別名 本台山城

 このところ、石見国や島根県の山城に偏った紹介が続いたので、今稿はこのブログでは初めてとなる讃岐(香川県)の山城・多度津城を取り上げたい。
【写真左】多度津城遠望
 南側の駐車場からみたもの。この城山の奥が瀬戸内海になる。








◆解説(参考文献「サイト:城格放浪記」「サイト:武家家伝」その他)

 築城者である香川氏は、元々相模国の一族で、当時の諸将一族と同じように、承久の乱における軍功によって、安芸(広島)と、讃岐(香川)などの所領を得た。また別の説によれば、同氏は鎌倉権五郎景政の末孫香川兵部少輔景房が、細川頼之に従って讃岐に下り、貞治元年(1362)の白峰合戦の功によって多度津の地を与えられ、その後この地に多度津城を築いたという。
【写真左】桃陵公園配置図
 公園として大幅な改変がされているので、多度津城の遺構は、どの程度残っているものか分からないが、右側部分が高くなっておるので、この位置に主郭があったものと思われる。



 それからのちの戦国期に至るまで、紆余曲折をたどりながら、四国統一を果たした長宗我部氏に属し、長宗我部氏が豊臣秀吉に降ると、同氏も九州征伐に参陣。
 このとき知られるように、四国から入った長宗我部氏一群は、島津軍のまえに大分で大敗北。長宗我部元親の失意と判断のまずさから、香川氏最後の一人であった親和は23歳の若さで亡くなり、同氏の直系は滅亡したという。

 多度津城は、香川氏のいわゆる居城であったが、有事の際は、この場所から南方3キロ余りにある天霧山を拠城とした。
【写真左】本丸・主郭跡と思われる場所
 遊技施設が劣化し、使用禁止となっている場所で、写真左の小高い所(水槽のようなものが建っている)が、そんな雰囲気を残している。




 ところで、多度津城の役割とどの程度関係があったものか分からないが、文安2年(1445)の記録とされる「兵庫北関入船納帳」という史料によれば、多度津船籍の船が延べ21艘、兵庫北関を通関している。

 この中で香川氏所有の船が7回通過、同年5月には10艘が一度に通関している。こうしたことから、香川氏は瀬戸内海水運の水軍領主的な権力を中心とした一族でもあった可能性がある。

 さて、多度津城跡は、現在ほとんど公園化され「挑陵公園」という施設になっている。よって、現地にある説明板では、山城そのものに関する内容は少ないが、参考のため転載しておく。
【写真左】同上付近その2
 一見すると、主郭と思われる周辺が帯郭状の形状を残している。
 案外この付近は大掛かりな改変がなかったものと思われるが、現地には元の遺構名を表示するものが一切ないため、あくまでも想像の域を出ない。


“挑陵公園案内板

 挑陵公園は、中世の豪族・香川氏が居館をかまえた本台山(多度津城)一帯で、その面積は10.06haである。

 小高い丘の公園には、ドライブウェイと遊歩道が整備されている。公園北端に設けられた展望台の眼前は、江戸時代から明治にかけて、金毘羅参りの船や、北前舟でにぎわった多度津港である。その展望台下、本瓦葺きの民家の町並みにその時代のにぎわいを見ることができる。

 また、正面のあくまでも青い海に、瀬戸の島々が点在している。公園内には、2500本の桜があり、県内でも代表的な桜の名所である。春は桜、つつじ、ふじ、秋には、はぎ、冬には、椿が咲く花の名所でもある”
【写真左】公園端の展望台付近より、多度津の港を見る。
 向こうに見えるのは瀬戸内海






 なお、当地が県立公園の指定を受けたのが戦後間もない昭和22年で、都市公園の指定が昭和31年というから、山城の遺構残存度は期待できないものの、公立公園としての歴史的価値はあるということだろう。

【写真左】現地から、香川の名峰「讃岐富士」を見る。
 瀬戸内大橋から最初に出迎えてくれるのは、いつもこの讃岐富士だ。この山はどの角度からみても美しい山である。

2010年1月11日月曜日

八幡城跡(島根県邑智郡美郷町浜原)

八幡城跡(はちまんじょうあと)

●所在地 島根県邑智郡美郷町浜原
●登城日 2008年6月24日
●標高 248m
●築城期 室町時代後期
●築城主 佐波興連(おきつら)
●備考 別名 唐樋山城、公園化により削平

◆解説(参考文献「島根県遺跡データベース」等)
 前稿まで石見国の石西地域を主に取り上げてきたが、今稿は石東地域にある山城「八幡城」を取り上げる。
【写真左】八幡城登城口付近
 軽トラックの4WDなら中腹まで登れそうな道だが、幅が狭いため、車はこの付近に留めた。




 八幡城のある美郷町浜原は、旧邑智町にあった場所で、中国一の大河・江の川がこの位置で大きく西南に蛇行している。

 江の川とほぼ平行に走っているのが、JR西日本が経営する三江線である。八幡城は、この三江線の浜原駅の背後の山にあり、そのほぼ真下には国道375号線の浜原トンネルが走っている。

 佐波氏は鎌倉、南北朝期にかけて活躍した一族で、後醍醐天皇が伯耆船上山で倒幕の旗を掲げた時、他の石見諸氏とともに馳せ参じた。

 同氏はその後、以前取り上げた高津長幸、三隅兼連らと同様、南朝方となり、観応の擾乱が起こると、足利直冬に属し活躍する。観応元年(1350)、足利尊氏が派遣した高師泰の軍によって、八幡城の江の川対岸にある青杉ヶ城山にて、討死したとされている。
【写真左】現地にある説明板
 本丸跡にも石碑があるが、雑草の繁茂により、判読不能。内容は下記の通り。






概要は現地本丸下の説明板から転載する。

“八幡城の由来
 今を去る400年前、ここ八幡城は、佐波越後守興連、佐波家14代・常陸介隆秀父子により、弘治2年(1556)築城という。

 天文20年8月、大内義隆滅亡のあと、石見銀山をめぐり、安芸の毛利元就、出雲の尼子晴久の抗争は激化し、弘治2年5月、元就銀山を奪うとともに、晴久は銀山の奪還を試み風雲は急となる。
 龍岩寺城に拠る興連、隆秀は、元就の一翼となり、都賀の要路城を固め、八幡城を構築す。八幡城は、はじめ唐樋山城という。桂根八幡宮の背後に立つゆえ、その名を八幡城と称す。隆秀の子・恵連に至り、備後の東城に移り廃城となる。
 標高253mの堅城、八幡城は赤名からの進攻に攻め口少なく、志学からの攻撃は久保の連峰、これを阻む。
 頂上に立ては、沢谷川を一望に、はるか泉山城、瀬戸山城、幻を描き、江の川の上流は登矢が丸、青杉の諸城が歴史を浮かべる。足下に広がる浜原の町並み、下流に彩る小原の集落、さらに眼を移せば、霊峰・三瓶山の雄姿。戦国武将もかくや眺めんと、尽きせぬ往時の哀歓に浸る。
   昭和62年11月吉日 建立 浜原交友会
   撰文  石村 禎久 先生”
【写真左】中腹の平坦地
 当時の郭なのか、改修されたものか不明だが、位置的には郭などがあった可能性は高い。







 上記説明板の中にある、龍岩寺城は、浜原駅の次の駅である粕淵駅付近で、現在の邑智中学校に当たる。

 当然、遺構はほとんど消滅している。要路城は、この場所から江の川をさらに登り、同線の石見都賀駅の対岸にある山城である。
 泉山城は、本流江の川を離れた支流・沢谷川を登り、旧石見銀山街道沿いにある山城で、鎌倉前期に当地を治めていた出羽(いずは)氏が築城している。この場所から東に向かうと、すぐに出雲国の来島郷(飯南町)に入り、赤名の瀬戸山城に繋がる。

 弘治2年(1556)は、毛利元就が石見国を着々と手中に収めていく時期である。同年4月8日、元就・隆元は、出羽元祐に君谷半分・山南半分を与え、12月には、岡部元良に、都賀城在番料として、70貫の土地を与える。佐波氏については、隆秀に祖式郷福屋久佐村の土地を、9月26日付で与えている。
 以上の土地は、ほとんど石見銀山の南方入口に当たるところで、尼子方が江の川沿いから攻め入っていくルートを、ここで断ち切ろうとする狙いがはっきりとわかる。
【写真左】本丸跡付近に立つ石碑
 説明板が設置された昭和62年当時、おそらく現地は整備されていたのだろうが、最近はほとんど手が加えられていないようだ。

 遺構の規模や、歴史的価値からみれば、指定を受けている山城に比べ、それらは劣るものかもしれないが、当時の地元の人たちの熱意が伝わる。

 ただ、時代を経た次世代の人たちに受け継がれなくなるというのは、なんともさみしいものがある。地方の過疎化の象徴の一つとして、こうした史跡保存には端的にあらわれてくる。

【写真左】本丸跡に設置された展望案内図
 この絵図は、八幡城本丸から、江の川対岸にそびえる山並みを示したもので、左側の山が、青杉ヶ城で、その右の山にはテレビ塔が建っていると書かれている。

 この峰々は、大きく迂回した江の川が挟むような位置にあり、青杉ヶ城のほかにも、鼓ヶ﨑城、丸屋城といった支城もある。さらに南方には、正治元年(1199)三善氏築城といわれる矢飼ヶ城もある。

 そのあと天正19年(1591)に、佐波越後守広忠が入ってくる。広忠と、説明にある恵連が同一人物か、はっきりしないが、同族であることは間違いない。



 なお、説明にもあるように、佐波隆秀の子・恵連はのちに、備後(広島県)東城に移ったとあるが、これは、昨年取り上げた庄原市の「五品嶽城」の中でも記されたように、毛利氏の命によって、それまで治めていた宮氏は、出雲に転出する。
【写真左】青杉ヶ城方面を見る。
 おそらくこの遠景が青杉ヶ城と思われるが、確証はない。どちらにしても見るからに要害堅固な山城のようだ。

 何度か登城路を探しているが、いまだにわからない。ただ、現地の状況を考えると、道は管理されていないだろう。
【写真左】本丸跡から江の川が大きく旋回する粕淵駅付近を見る。
 毛利氏が度々石見にやってくる際の川路は、おそらくこのあたりまで船で下り、ここで降りて石見銀山などへ向かったものと思われる。

 右側に見える道路は、375号線で大田市方面に向かっている。江の川をそのまま下ると、最終的には江津市に出、日本海へ注ぐ。

2010年1月10日日曜日

津和野城(島根県鹿足郡津和野町後田・田二穂・鷲原)

津和野城(つわのじょう)

●所在地 島根県鹿足郡津和野町 後田・田二穂・鷲原
●登城日 2007年2月12日
●指定 国指定
●標高 367m
●築城期 永仁3年(1295)
●築城主 吉見頼行
●備考 別名 三本松城
●遺構 郭、帯郭、腰郭、石垣、堀切、竪堀、連続竪堀、横堀、虎口、櫓台その他
【写真左】津和野城遠望
 国道9号線から見たもの。
撮影日 2017年3月11日
【写真左】津和野城遠望
 東側を走る国道9号線から見たもの。
東麓の谷間に延びる津和野の街並みと、山上に残る石垣が往古を偲ばせる。
(2012年1月16日撮影)





【写真左】津和野観光リフトの下にある石碑と説明板
 登城方法には、リフトに乗って尾根までたどり着く方法と、リフトより少し北に上がった位置から徒歩による方法とがある。この時は、徒歩で向かった。










◆解説(参考文献:現地説明板、「島根県遺跡データベース」「津和野郷土誌」等)

 現地の説明板より

“中世山城 津和野三本松城跡
 文永11年(1274)、弘安4年(1281)の元(蒙古)軍の北九州・北浦への来襲を受け、鎌倉幕府は西石見の海岸防備を吉見頼行に命じた。頼行は弘安5年(1282)家来とともに能登から木曽野(津和野町北西部)に地頭として入り、永仁3年(1295)この城山山脈に築城を始めた。


 以後、吉見氏は14代300年間、随時増築補強を行い、城山山脈の諸所に曲輪・堀切・竪堀・横堀などを構築して堅固な中世山城(一本松城あるいは三本松城と呼ばれた)を築いた。


 この山城は、天文23年(1554)の「三本松城の役」では、大内氏・陶氏・益田氏その他の大軍に山麓を包囲されながらも、4月から8月までの100日余の籠城戦に耐えた。
 吉見氏は関ヶ原合戦(1600)で、毛利氏とともに西軍として戦い、敗れて萩へ退転した。江戸期に入り、坂崎出羽守が初代津和野藩主として入部し、現在の本城と織部丸の位置に近世山城を築いた。(一部省略)”
【写真上】津和野城配置図


 以上が当城の略歴である。 

 説明板にある「木曽野(木薗)」という地区は、津和野城より北北西へ約15キロ向かった場所で、山口県境(現萩市)まで北西2キロというところである。この場所が、当初本拠としたところで、吉見頼行は弘安5年(1282)から、永仁3年(1295)までの約13年間在住したことになる。

 しかし、実際には、津和野城の築城後も、同地との往来はあったようで、吉見氏旧館跡である「御所屋敷」などが、嘉暦2年(1327)ごろまで使用され、頼行夫人の墓もこの地に埋まっている。

 南北朝期については、以前「高津城」の稿で紹介したように、南朝方に入って活躍している。15世紀後半からは、以前にも述べたように、吉見氏VS益田氏の領有争いが始まり、応仁の乱を含め、戦国期になってもその構図は変わることがなかった。

 特に、吉見正頼の代にはその激しさと、複雑さが交錯した。正頼は、当時石見守護であった大内義興の女大宮姫を室としたこともあり、陶晴賢のクーデターにより、大内義隆は正頼を頼ろうとしたが、長門大寧寺で自刃する。このため正頼は毛利元就と連絡をとり、大内氏復仇を決意する。その後の動きが、前掲「説明板」の内容である。なお、同板にある「大内」とは、大内義隆自刃後、陶晴賢は九州の大友義鎮の弟・晴英を迎えて大内氏の世継としたもので、傀儡領主であった。
【写真上】出丸跡の図




 坂崎出羽守直盛が吉見氏に代わって入ったのは、慶長6年(1601)10月である。しかし、元和2年(1616)千姫事件に関連して自殺したため、同氏の治世はわずか17年間である。この後亀井氏の藩政が始まった。
【写真上】本丸跡から東方に青野山を見る
【写真上】本丸付近その1

【写真上】その2

【写真上】本丸跡付近より南方を見る


【写真上】本丸跡より津和野の街を見る(その1)


【写真上】その2

向横田城(島根県益田市向横田)

向横田城(むかいよこたじょう)

●所在地 島根県益田市向横田
●別名 片木城・首旁(くびき)城・首片木城・頸ヶ滝城
●標高 90m(比高70m)
●築城期 文治元年(1185)、または貞応年間(1222~24)
●築城主 石川治部少輔頼恒、または領家公恒
●遺構 本丸・二の丸・出丸、郭・土塁・空堀等
●登城日 2007年2月12日及び2013年1月19日

◆解説(参考文献「島根県遺跡データベース」、「益田市誌(上巻)」等)
【写真左】向横田城遠望
 東側から見たもので、常設の登城道はこの裏側(西側)にあり、麓には駐車場も整備されている。






現地の説明板より

“向横田城址の由来

  1. 文治元年(1185)源義家を祖とする石川治部少輔頼恒は、源頼朝の命により、この峯に首旁(くびき)城を築いて居城とした。七尾城よりも8年早い石見最古の築城といわれる。
  2. 貞応元年(1222)、領家対馬守公恒は、鎌倉幕府から向横田、神田、大滝、川登4カ村の地頭に補され、一番家老椋木清左衛門以下を従えて、相模国からこの地に下り、養階山片木城(別名要害山首片木城)を築き、福林山に出丸を置いて居城とした。
  3. この峯から一望すれば、当時は横田の二本松城をはじめ、奥田の小倉虫追の大嶽、東に高浪、南に三星、西に丸嶽の諸城があって、互いに対峙しあっていた。延文4年(1359)、片木城主・正利は弟の三星城主・恒利を攻め、これを殺したが、このとき邯鄲の枕奪取について有名な物語がある。
  4. 貞治6年(1367)、片木城の軍兵200余名は、内田氏の二本松城を陥れ、一時期2万余石の知行を擁して全盛時代を築いたが、文明3年(1471)、七尾城主・益田兼堯に攻められ落城し、249年続いた領家氏の時代は終わった。
  5. 楠木正成から5代目に当たり、領家氏と祖を同じくする益田氏の家臣・城市勘助正雄は、文明10年(1478)軍功により、この峯に頸ヶ滝城を築いて居城として天文2年(1551)死没するまで、この地に善政を布いたと伝えられている。
  6. 徳川時代は、津和野藩の治下に入り廃城のまま明治維新を迎えた。明治38年地元の住民は、峯の本丸跡に忠魂碑を建て、忠魂山と改め管理にあたったが、第二次大戦後は荒廃した。昭和45年再開の上、祭事を行い、49年には城域の所有者6名から約60アールの土地を寄贈され、50年には文化財として益田市の指定を受けた。
  7. 地元においては、本会を組織して管理に当たり、併せて登山道路をはじめ地域に各種の施設、花木、球根類の植栽と保存にあtり、市民の憩いの山として公園化事業を推進して今日に至っている。
        平成元年11月吉日 向横田観光開発振興会”
【写真左】案内図
 西側駐車場に設置されている。東側(右)が本丸及び二の丸で、二の丸の西端部に土塁を介して比高約6,7mの深さを持った堀切があり、その西の峰に出丸が構築されている。

 なお、現物は大分劣化し明瞭でなかったため、管理人によって彩色等を施している。




【写真左】本丸下から見上げる。














 築城されたのが文治元年(1185)だが、石川頼恒が初めて石見に来住したのは、これより23年前の応保2年(1162)3月である。きっかけは、周防国大内満盛から源頼朝へ言上があり、采地百貫文をあてがわれた。

 なお、このころ出雲国では出雲守・源光保らは謀反のかどで遠国へ配流(1160)、また石見では、頼恒が石見に来住する前年の応保元年(1161)に、石見守だった藤原永範が罷免されている。いわゆる平氏・清盛の隆盛時期である。

 頼恒が首旁(くびき)城(後の片木・向横田城)を築城した文治元年は、事実上平氏が滅亡する時期で、彼が実際に活躍するのは益田兼高に与してからである。
 元暦元年(1184)2月7日、益田兼栄(かねひで)・兼高父子は、源頼朝の下知に応じて、義経に従って一の谷の戦いで軍功をあげている。その後、兼高は石見国押領使に任命され、これによって石見国御家人は兼高を中心として、平家追討の任を負う。石川頼恒はこの時期に主だった活躍を見せているようだ。
【写真左】本丸付近・その1
 この日探訪した時、地元の俳句の同好会のような方々10数人もおられ、この場所にたって句を詠じておられた。

 短時間で登れる山城であることや、現在は、説明板にもあるように、公園化をめざし、だれでも気軽に登ってもらいたいという関係者の目的もあり、こうした趣味を持った人にはちょうど手ごろな山城といえるかもしれない。
【写真左】本丸付近・その2
 2回目に訪れた2013年1月19日のもので、少し雪が残っていた。







 源頼朝が、益田兼栄・兼高父子の所領を安堵したのは、元暦元年(1184)11月25日である。その明くる年の3月24日、壇ノ浦の戦いがあり、平氏が滅亡する。

 壇ノ浦の戦いにも当然、益田兼高や石川氏など石見御家人も参陣した。首旁城(向横田城)の完成は、そうした凱旋後の時期であったと思われる。
【写真左】出丸
 本丸の西に残るもので、東西に約30m近い長さを持つ。
なお、この西端部には土塁があり、その下には高さ7,8mの切崖を設け、西方の出丸と画している。



 石川氏は、その後頼恒から恒親と継承され、三代・吉左衛門尉就恒におよび、彼は蒙古襲来の際、軍功があったという。さらにその子・恒那(つねとも)は正応3年(1290)病没している。
以降の動きについては、説明板の通りである。
【写真左】向横田城本丸から出丸といわれた「高浪山城」を見る。
 高浪山は、向横田城から南東にある山で、上記の説明板では福林山といっていた。
 貞応元年、地頭職として入部した領家氏は、高津川を挟んだ東部の豊田城領主・内田致茂と境を接し、たびたび紛争をおこしている。

 おそらく、高浪山城の役目は内田氏との抗争を目的として築城されたものと思える。このためか、340m余りの標高をもつので、向横田城の90mよりはだいぶ高い。
【写真左】井戸跡
 本丸から北へ降りていくと、途中で左側傾斜面に設置されている。
 標柱のみで、多少の窪みは残るが、ほとんど埋まっている状態。



 また、当城の構図については、現地の別の説明板(「史跡 向横田城跡」によれば、

“…この城は南北に長い約400mの尾根を利用して築かれています。南端の本丸跡直下には高津川が流れ、北方の愛宕山には出丸があります。出丸跡の周囲には平坦地がとりまいており、馬場跡といわれています。

 城の東は急斜面で、西側の山との間は空堀で遮断された堅固な山城でした。本丸跡は標高約95mに位置し、西側には土塁が設けられ、北側は空堀を隔てて、長方形をした二の丸跡に連続していますが、ここにも土塁が残っています。二の丸跡から北の出丸跡までには、全長300mに及ぶ武者走りと思われる遺構があります。

 このように、この城は本丸、二の丸、空堀、土塁などの遺構が明確に残っており、さらに武者走り、出丸、馬場と推定される遺構も備えた中世の貴重な山城跡です。

平成11年3月 益田市教育委員会”

とある。
【写真左】向横田城の近くにある八幡社
 貞応年間、領家氏が建立したとされている。

2010年1月1日金曜日

あけましておめでとうございます

あけまして、おめでとうございます。【写真上】景石城(鳥取県用瀬町)遠望

 一昨年末に立ちあげた拙いこのブログも、不規則な投稿ながら、なんとか1年間続けてきました。

 御覧の通り、PCなどには至って疎い管理人で、ブログの編集も不細工なままで、公開してきております。また、歴史や城郭の専門家でもなく、ただ山城に魅了されて、徘徊探訪のような登城記録を公開してきたわけで、どれほどの方がこのブログを見ておられるものか、まったく分かりません。
 しかし、少しでも山城に興味を持っていただいた人が増えていたとすれば、うれしく思います。

 本年もどの程度の探訪記録を公開できるのか、分かりませんが、体力と時間と気力の続く限り、ご紹介できればと思っています。

 皆様のご多幸をお祈りします。
                トミー拝

2010年 元旦