2018年4月8日日曜日

山城・山崎城(京都府乙訓郡大山崎町天王山)

山城・山崎城(やましろ・やまざきじょう)

●所在地 京都府乙訓郡大山崎町大山崎天王山
●指定 国指定史跡
●別名 鳥取尾城
●高さ 270(比高240m)
●築城期 不明(南北朝期)
●築城者 不明(赤松政則)
●城主 赤松政則・山名是豊・羽柴秀吉
●遺構 郭・土塁・井戸等
●備考 宝積寺
●登城日 2015年11月30日

◆解説(参考文献 『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』仁木宏・福島克彦編等)
 山城・山崎城(以下「山崎城」とする。)は、有名な「天下分け目の天王山(天正10年6月)」といわれた羽柴秀吉と明智光秀の戦いが行われた山城である。
【写真左】山崎城遠望
 南側の中腹部にある古刹・宝積寺境内から見たもの。
 なお、宝積寺については後段で紹介したい。





 現地の説明板より

“山崎城跡

 大山崎周辺は京都の出入り口にあたり、南北朝内乱や応仁・文明の乱の際、しばしば戦場となった。その際、軍勢が天王山山頂(標高270m)に陣取り、城が築かれることも見られた。

 天正10年(1582)6月、山崎の合戦で勝利した羽柴(後の豊臣)秀吉は、翌7月、山頂に山崎城を築き、大山崎を城下町として保護した。この時、秀吉は織田信長の後継者を意識し、千利休らと大山崎で茶会を開いた。
 しかし、大坂築城が本格化すると、同12年4月に山崎城は破却された。このとき、山崎城の「天主」も取り壊されたといい、高層建築物があったことがわかる。山頂周辺は、字「古城」と呼ばれ、後世も城跡と認識されていた。
 現在も天守台、曲輪、土塁、空堀、井戸、食違い虎口、石垣などが残存する。

平成25年3月 大山崎町教育委員会“
【写真左】大山崎町 観光案内図
 現地に設置されているもので、山崎城は左上に図示されている。

 また、後段でも紹介している宝積寺(宝寺)は、天王山(山崎城)ハイキングコースの中にも組み込まれている。
 天王山の南麓部に当たる大山崎市街地付近は、南側に桂川、宇治川、淀川の三本の川が大きく蛇行して麓まで迫り、この付近がもっとも平坦部としては幅が狭くなっている。

 その狭い中を阪急京都線、東海道本線、東海道新幹線が、さら西国街道である府道西京高槻線などが走っている。



鳥取尾城

 山崎城は別名「鳥取尾城」とも呼ばれた。説明板にもあるように、秀吉と光秀による天王山の戦いが行われた戦国期以前からこの場所では度々戦が行われている。この理由は大山崎周辺部が淀川を挟んで南に男山(石清水八幡宮)が迫り、中世には京都と西国を結ぶ西国街道が走り、交通の要衝であったからである。このため、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて度々戦場となった。
【写真左】天王山登り口
 天王山の登城道は3か所ある。一つはこの日選択した真南の位置から、もう一つは、東南麓の大山崎瓦窯跡から、そして3つ目は、北東部にある第二大山崎小学校のところからである。
 写真は登り口付近に設置されていた「天王山登り口」と記された石碑。

 この近くには、山崎宗鑑冷泉庵跡がある。宗鑑は室町期に連歌師として『犬筑波集』などを著し、後の俳諧の基礎を作った人物で、元は足利将軍義尚に仕えていた。



 建武5年(1338)6月、北朝方の林真弘は「八王寺山」に馳せ参じ「鳥取尾城」を要害警固にして守ったという(『尊経閣文庫文書』)。この「八王寺山」は、天王山のことであり、「鳥取尾城」とは、その尾根の一つと考えられる(『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』仁木宏・福島克彦編)。
【写真左】宝積寺
 登城道途中で左側のコースに向かうと、聖武天皇勅願所の古刹宝積寺がある。

 天王山の戦い後の9月、筒井順慶が「山崎財寺城」を訪れ、秀吉と会談したとあり、また10月にも細川幽斎が同じく山崎に滞在し、秀吉と面談している。二人は光秀の誘いを断った武将たちだが、秀吉から嫌疑をかけられていたのだろう、これを晴らすために訪れている。

 なお、「山崎財寺城」はおそらくこの宝積寺のことで、当時当院も山崎城の一部であった(『近畿の名城を歩く 滋賀・京都・奈良編』仁木宏・福島克彦編)。


天王山の戦い

 冒頭でも紹介したように、山崎城が一躍有名になったのは、秀吉と光秀による天正10年の戦いである。ただ、この名称「天王山」という名があるため、あたかも天王山(山頂付近)で戦いがあったような印象を受けるが、実際には天王山の麓である東側の平坦地が主な合戦場となった。

 天正10年(1582)6月11日、秀吉が備中・高松城(岡山県岡山市北区高松)から「中国大返し」で尼崎にたどり着いたとき、明智光秀はその2日前の9日、京都で禁裏や寺社への銀献上を行い、下鳥羽へ出陣、明くる10日には、洞ヶ峠(ほらがとうげ)(現在の国道1号線の京都府と大阪府の境)まで進み、河内国の国衆や筒井順慶(筒井城(奈良県大和郡山市筒井町)参照)の参陣を期待した。
【写真左】登城道
 宝積寺の脇を抜けると、ここから本格的な登城道となる。次第に傾斜がきつくなり、九十九折のコースが続く。





 しかし、順慶は光秀の誘いに応じなかった。このため、洞ヶ峠の陣を撤収して下鳥羽に帰り、淀城(伏見区)を修築した。このとき、光秀は山崎及び天王山にも兵を配置していたが、これも併せて引き下げ、勝龍寺城(京都府長岡京市勝竜寺)と淀城を前線基地とした。そして、ここから少し西に進んだ円明寺川(現在の小泉川水系)で秀吉を迎えることになる。

 12日、秀吉は富田での軍議の結果、左翼山の手を羽柴秀長、黒田官兵衛らに、中の手を池田恒興、秀吉の旗本には中村一氏(飯山城(鳥取県米子市久米町)参照)を配置させた。秀吉方の先陣を切ったのは高山右近(宇陀沢城(奈良県宇陀市榛原区沢)参照)と中川清秀である。右近は山崎の町に入り、清秀は天王山を奪取した。このとき、天王山では明智方の足軽と小競り合いがあったが、翌13日秀吉軍が一挙に山城盆地に進出した。
【写真左】酒解神社の鳥居
 登っていくと、最初に青木葉谷広場という開けた場所があり、そこからさらに進むと、本丸付近に建立された酒解神社の鳥居が出てくる。
 この場所には、「山崎合戦之地」と刻まれた石碑や、「旗立松」などがある。



 光秀は下鳥羽から勝龍寺城の前にあった御坊塚(おんぼうつか)に本陣を移し、しばらく秀吉の動きを監視した。この日(13日)の午前中は雨であったこともあり、目立った動きはなかったが、昼過ぎになると、織田信孝や丹羽長秀らが秀吉の下へ参陣してきた。

 そして、夕方になると光秀軍の方から仕掛けてきたという。その先鋒は斉藤利光(興禅寺と春日局(兵庫県丹波市春日町黒井)参照)らで、彼らの動きを合図に合戦が始まった。合戦は2時間足らずで大勢は決した。光秀はこの戦いで破れ、一旦勝龍寺城に戻るも、秀吉軍による追手もあり、夜陰に紛れて脱出、近江坂本城に奔る途中の小栗栖(現京都市伏見区)で、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺され深手を負い、股肱の家臣・溝尾茂朝に介錯させ、自害したという。天正10年(1582)6月13日のことである。
【写真左】北東麓を俯瞰する。
 天王山の真下は名神高速道路のトンネルが走り、それを東に抜けると、北から伸びてきた京都縦貫自動車道が大山崎JCTで交差している。

 天王山側に最も近く流れる川が現在の桂川だが、当時秀吉軍は大山崎の隘路を抜けた位置まで来ており、この前線には高山右近、仲和賀清秀、池田恒興が布陣し、少し下がって堀秀政が配置した。
 対する光秀軍の先鋒隊には、斉藤利三、阿閉貞秀、津田等近江衆、伊勢・諏訪・三牧等旧幕府衆らが対陣した。

 その場所は、この写真でいえば左側の山の裏側に当たる。
 なお、この酒解神社鳥居(旗立松)付近では、既に羽柴・黒田の別働隊がここまで登ってきており、天王山の搦手側には光秀方の松田(山崎住人)、並河(丹波衆)が対峙していた。
【写真左】山崎城 概要図
 山崎城は途中まで傾斜のある登城道が続くが、後半になると傾斜は緩やかになり、平坦部が多くなる。
 この日の登城コースとしては、左図の右にある酒解神社側から入り、西に進んで主郭を目指した。
【写真左】自玉手祭来酒解神社の神輿庫
 すでに城域に入っていると思われるが、東側には前述した鳥居の酒解神社が祀られている。


現地説明板より

“酒解神社(自玉手祭来酒解神社(たまてよりまつりきたる さかとけじんじゃ)
 祭神 酒解神・素戔嗚命他九柱
 祭礼 5月5日
 文化財(重文) 板倉造神輿庫

 その創建は奈良時代にまで遡るといわれ、平安時代の延喜式神名帳にも月次、新嘗の官祭を受ける名神大社であることが記されている。神名帳によると、旧名を山崎社と称し、元正天皇の養老元年(717)建立の棟札があったという。

 中世には山下の離宮八幡宮の勢力が強大となり、同社は山崎山(天王山)上に遷座し、山上の神はやがて天王社と呼ばれるようになり、山も天王山と呼ばれるようになっていった。

 さて、今日同社には非常に珍しい重文の神輿庫が残されている。一般によく用いられ▽形の木を積み上げた校倉形式ではなく、厚さ約14cmの厚板を積み上げた板倉形式で建立されている。この板倉形式の遺構は非常に少なく、重文に指定されているものでは、奈良市内の春日大社にあるものが唯一であるが、それは江戸時代のもので新しく、現存する板倉としては当庫が最も古く非常に貴重な建造物である。

昭和61年3月”

【写真左】本丸に向かう道
 この辺りから少し視界が広がる。
【写真左】周囲の郭群
 登城道付近の郭群はご覧の様な竹林となっている。
【写真左】本丸直下付近
 周辺部の郭間の段差はあまりないが、本丸方向に向かうにつれて少し傾斜がつく。
【写真左】虎口
 いよいよ本丸に入る。
【写真左】本丸
 手前に主郭があり、その奥に天守台がある。
【写真左】土塁
 主郭の西側に残るもので、長さ15m前後のもの。
【写真左】石積
 天守台を構成するもので、主郭の北側に積まれている。
【写真左】「天王山 山頂」の標柱
 天守台跡に設置されている。
【写真左】天守台から下の郭群を見る。
 本丸周辺部は予想以上に広く、また平坦な形状をなしている。
【写真左】井戸跡
 主郭の南西側にある郭には井戸が残っている。
 天正年間の山崎合戦の跡、秀吉が山崎城を修築した際、この井戸を設けたといわれる。表面は四角い柵で囲ってあるが、円形石積井戸となっている。
 1980年当時には深さ5m程度あったとされ、山頂にあることから、湧水ではなく、雨水を貯めた形式のものだったとされている。


篠笛の音

 ところで、この付近に差し掛かった時、どこからともなく笛の音が聞こえてきた。その音色に誘われて、近くまで来た時、その音の主は途中まで一緒に登ってきた地元の老婦人であることが分かった。この方は麓に住んでいる方で、ときどき気分がいいと天王山に登ると言っておられたが、このような優美な篠笛の音色を山崎城で聞けるとは思いもよらなかった。

 我々はその音色を聞きながら下城することにした。
【写真左】大念寺の五輪塔
 大念寺は宝積寺に至る手前に所在する寺院で、登城時スルーしていたため、下山途中立寄った。
 縁起によれば、当院は弘治元年(1555)、大山崎荘在住の井尻但馬守長助が京都知恩院の徳誉光然上人を開山として建立した浄土宗知恩院派の寺院。

 後段でも述べているように、元治元年(1864)の禁門の変において全焼し、明治12年再興されている。
 境内を散策していたら、ご覧の大小の五輪塔が祀られていた。天王山における幾たびかの戦で亡くなった武将のものだろう。


禁門の変第一次長州征伐
 
 ところで、この山崎城周辺では幕末期にも大きな戦いが繰り広げられている。発端は文久3年(1863)のいわゆる「8月18日の政変」からだが、翌元治元年(1864)7月19日、長州藩兵が京都に侵入、幕府軍と鳥羽・伏見・蛤門などで交戦した。この戦いで、長州藩の尊皇攘夷派の急先鋒・久坂玄瑞らが戦死している。

 また、長州藩とは別に筑後水天宮(福岡県筑後市)の神官真木和泉守ら尊皇攘夷派の志士たちは、長州藩の京都回復運動に同調し共に上京し、山崎に布陣した。しかし、長州藩は敗れ、退却を余儀なくされたが、長州藩の国元引き揚げを見送ったあと、真木以下17名は、禁裏のある京都の地を去るに忍びないとして、天王山に登り、7月21日、幕府軍の来襲を前に烈士揃ってこの地で壮烈な自刃を遂げた。
【写真左】十七烈士の墓(維新の史跡)
 鳥居(酒解神社)をくぐり更に登っていくと、近世の史跡として、「十七烈士の墓」が建立されている。
 幕末、尊皇攘夷派の活動家であった真木和泉守以下17名が眠る。

 

善次郎の戦死

 因みに、この戦いの4日後にあたる7月23日、松江藩に「長州征伐の命令」が到達し、「石州口二ノ手」が命じられた(第一次長州征伐)。
 以前にも紹介したが、この時、管理人の初代・文右衛門の長子・善次郎は松江藩に徴兵され、石見(浜田)において深手を負い、2年後の慶応2年(1866)9月26日死去している(浜田城(島根県浜田市殿町古城山)参照)。

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