2016年12月14日水曜日

宵田城(兵庫県豊岡市日高町岩中字城山)

宵田城(よいだじょう)

●所在地 兵庫県豊岡市日高町岩中字城山
●高さ H:155m(比高:130m)
●築城期 永享2年(1430)
●築城者 垣屋隆国
●城主 垣屋国重等
●遺構 郭、土塁、竪堀等
●登城日 2015年3月28日

◆解説(参考資料 「出雲古志氏の歴史とその性格  古志の歴史Ⅱ」長谷川博史執筆、古志史探会編 1999年発行、「西国の戦国合戦」山本浩樹著等)

 宵田城は此隅山城(兵庫県豊岡市出石町宮内)から西におよそ12キロほど向かった日高町岩中にあって、円山川に合流する手前の稲葉川が北東麓を流れる。
【写真左】宵田城遠望
 東側から見たもので、ほぼ本丸直下を国道312号線がトンネルで南北に走る。








垣屋氏

 宵田城の城主及び、築城者は垣屋氏といわれている。同氏についてはこれまで、鶴城(兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城)桐山城(鳥取県岩美郡岩美町浦富)道竹城(鳥取県岩美郡岩美町新井)などで触れているが、宵田城が築かれたのは永享2年(1430)とされる。

 築城したのは、宵田城の北麓を流れる稲葉川を凡そ3キロほど西方へ逆ぼったところに築かれた楽々前城(ささのくまじょう)の城主であった垣屋隆国である。楽々前城は未登城であるが、元々垣屋氏が山名氏に従って最初に下向したのが、そこからさらに北西に上った現在の神鍋高原付近といわれている。
 その後次第に稲葉川を下って、鶴ヶ峰城(同市日高町観音寺)を築き、さらに楽々前城から、日高町中心部へと扶植を拡大していった。
【写真左】縄張図
 現地に設置されたもので、大分周辺部は劣化が激しいが、中心部の遺構は確認できる。
 最高所(155m)に本丸を置き、その東側に二の丸、一段下がった北に三の丸を配置している。

 北側から東側にかけて稲葉川が当城を囲むように流れているが、特に東側の川筋は人為的に濠として新たに造られたように思われる。

 というのも、宵田城の東隣には本流となる円山川が走り、北方(上)の日本海に流れているので、本来なら北麓を流れている稲葉川はそのまま東に進んで円山川に合流していたはずであるが、わざわざ宵田城の東麓を流れ、南側で大きく蛇行させて円山川と合流しているからである。


 隆国が築いた宵田城には、彼の次男国重を城主とさせたといわれているが、口伝の域を出ないようだ。国重の子・遠忠は、文明18年(1486)播磨国、英賀において、赤松政則(置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)参照)と戦い討死した。これは、嘉吉の乱によって、垣屋氏の主君であった山名氏が一時、播磨を支配することになるが、その後赤松氏を再興すべく政則が、播磨を奪還する戦いで行われたものと思われる。
【写真左】登城口付近
 登城口は南麓側にあって、稲葉川を渡ると、麓に山王大権現という社が祀られている。







古志重信垣屋豊続

 ところで、戦国期出雲の尼子氏に属し、同国神門郡古志郷を領した一族、古志(こし)氏がいた(栗栖城(島根県出雲市上島町)参照)。
 古志氏も尼子氏と同じく近江佐々木源氏の流れだが、泰清の次男・義信が祖とされるから、出雲尼子氏の祖といわれる持久よりかなり早い段階で出雲に下向している。

 天正年間、但馬国における毛利、織田の争奪戦の中で、キーパーソンとなったのが古志重信である。重信は同氏嫡流ではないが、永禄5年(1562)に毛利氏によって当地・古志郷を奪われた後、京に上り、永禄12年(1569)1月5日に起った「本圀寺の変」には、室町幕府将軍足利義昭の配下となって、明智光秀・荒木村重などと共に三好三人衆と戦っている。
【写真左】旧道
 最近周辺部の樹木が伐採されたせいか、この東側斜面は見通しがいい。また、そのとき作業のために林道のような幅の広い道が設けられていたので、この日は「旧道」と表示された道を使わず、大回りだが険しくないコースを選んだ。


 ところで、永禄9年(1566)、出雲月山富田城が落城すると、山中鹿助はその後畿内を中心に潜伏するが、しばらくしてから、京で鹿助らは重信と再会した。そして重信は一旦義昭の元を離れ、同年(永禄12年)6月の尼子勝久を擁した出雲国における尼子再興軍の蜂起の段階から行動を共にすることになる。そして重信は元の所領地の一つであった戸倉城(出雲市稗原町)を奪還した。

 しかし、翌元亀元年(1570)になると、再興軍は毛利氏の前に劣勢を強いられ、主だった部隊は当地を離れた。この年(元亀元年)の11月、在国していた古志重信はそれまで拠っていた戸倉城を明け渡し、吉川元春と起請文を交わし、毛利氏へ帰順することになる。
【写真左】竪堀
 しばらく登っていくと、道路脇に「竪堀」の標柱が立っている。ただ、竪堀がいつしか小谷状態となって大分崩落したようで、遺構としての状態は良くない。


 この後、重信は毛利氏の配下となって、備中・伯耆・但馬などへ出陣、特に但馬国においては、天正8年前半まで長期滞陣し、調略活動をしながら、度々吉川元春に対し、戦況報告を行っている。このとき、地元但馬国において、重信と行動を共にしていたのが、垣屋豊続である。

 垣屋豊続の出自については不明な点も多いが、父は宗時の子とされ、永禄年間には轟城(豊岡市竹野町轟字城山)の城主であった。但馬においては、もともと山名氏の重鎮であった垣屋氏などがいたが、同氏一族をはじめ、山名氏の衰頽によって、中小の国人領主たちは毛利氏と、織田氏の間で揺れ動き、不安定な状況を生み出していた。
【写真左】二の丸直下の位置。
 ご覧のように四輪軽トラック程度なら通れる道を進んで行くと、ここが行き止まり。

 ここから左の手すりがついている階段を登ると二の丸及び三の丸に繋がる。


 天正6年(1578)6月2日付で、吉川元春はこの古志重信に以下の書状を送っている(「出雲古志氏の歴史とその性格  古志の歴史Ⅱ」長谷川博史執筆、古志史探会編 1999年発行)。
 
※訓読 (抜粋)      

“一、出石の御事、今に敵とも味方とも相澄まず、む◇と候哉、さるころ、宵田表豊続相戦われ候時も、出石より少人数なりとも差し出され候はば、いよいよ勝利たるべく候処に、その儀なきの由に候、世上を見合わさる趣に候哉、何もその表の様体時々見聞き及ばれ候て、示しに預かるべきこと本望たるべく候、それにつき、豊続より案書申し請われ、かの三人へ相届けらるの由に候、その手札候はば差し越されるべく候、

一、その表敵境に一城取り出され、当所務等申し付くべきの由承り候、何篇豊続と内談申され候て、様体しかるべき儀に候はば、その御歎息専一に候〱、何共こなたよりはその表の儀方角無案内に候間、見はからい申す儀もならず候、当城普請悉く相調えられ、警固の者上着候はば、在番仰せ付られ、御方・宇山両人の御事、このたび相付れられ候する城にお越しあるべきの由、これまた余儀なく候、何と成とも然るべき様御気遣い肝要に候〱、…(以下略)”
※下線(管理人による)
【写真左】二の丸・その1
 登りきると二の丸の南側に至る。左には本丸の表示。








 吉川元春が古志重信に送った書状の天正6年の6月2日前後といえば、山中鹿助・尼子勝久ら尼子再興軍が播磨上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)に籠城し、毛利軍が包囲したころである。そして、その1ヶ月後の7月5日、上月城は落城、勝久が自害することになる。元春の書状はまさにこの上月城包囲中に陣地から認められたものである。

 上掲した書状のうち、上段のものは、
 ―――宵田城で垣屋豊続が戦った際、垣屋氏の元主君であった山名祐豊(「出石の事」・有子山城(兵庫県豊岡市出石町内町)参照)が、全く動かず、少しでも援兵を送ってくれたなら、この戦い(宵田表の戦い)で勝利しただろう。―――

 と元春が記している。因みに、祐豊はこの戦いの前の永禄12年(1569)、山中鹿助らの出雲国入国に積極的に支援しているので、元春もある程度は予想していたことだったと思われる。
【写真左】二の丸・その2
 本丸の東側に設置された郭だが、先端部で北に伸びたL字状のもの。その下段には三の丸が控える。
 郭の大きさとしては、後述する本丸より広い印象が残っている。


 下段のものは、
 ―――宵田城との境に向城(「一城」)をつけたいとの考え、承知した。その都度垣屋豊続と相談し、最良の方法を取ってもらいたい。こちらは但馬の様子については無案内なので、見計ることもできない。件の城普請が竣工し守備兵が到着したなら、重信殿と宇山殿が入城すること、これも異存はない。―――

 というような内容である。なお、重信と一緒に行動していた人物として宇山氏の名が見えるが、彼もまた旧尼子氏の家臣で、山本浩樹著「西国の戦国合戦」では、宇山久信とある。宇山城(島根県雲南市木次町寺領宇山)でも紹介したように、尼子氏の中でも筆頭家老であったが、義久の代になると、鹿助ら若手組と意見が合わなくなり、讒言によって自害したともいわれているが、伝承の域を出ないので、本人(飛騨守久信・おそらくこのころ70代)とも思われる。
【写真左】二の丸から進美寺山城を遠望する。
 東南方向には稲葉川が合流する円山川が流れ、その奥の東岸には進美寺山城が見える。
 南北朝時代には、但馬の南朝方の拠点となった天台宗の古刹・進美寺(しんめいじ)が建立されている。
 また、当城付近には、白山城・掻上城の二城が隣接している。


荒木村重の謀反

 吉川元春が重信に送ったこの書状には、このほか6項目にもわたる細かい内容が書きつづられているが、元々この書状は、重信に対する返信の形をとっており、当時上月城攻めで動きが取れなかった吉川元春に対し、逐次重信は但馬をはじめ、丹波、丹後の情勢を詳しく報告している。

 更に注目されるのは、播磨三木合戦(三木城(兵庫県三木市上の丸)参照)で秀吉軍に加わっていた有岡城主・荒木村重が、天正6年(1578)、10月突如反旗を翻すことになるが、その4カ月前に、件の書状で元春から重信に対して、調略せしめるよう伝えていることである。
【写真左】二の丸から本丸を見る。
 二の丸先端部から振り返ると、本丸が見える。
 二の丸から本丸までの比高差は10m前後あるだろう。本丸は後ほど踏査することにして、、下に降りて三の丸に向かう。
【写真左】三の丸
 二の丸の先端部が北に曲り、その尾根筋状に設置されたもので、長径40m×短径15m前後の規模を持つ。
【写真左】三の丸から振り返って二の丸を見る。
【写真左】三の丸の下の段
 三の丸からさらに下にも郭段が続くが、これは最初の段で、縄張図にもあるように、この下にも段を設け、そこからさらに北東方向に伸びる尾根に沿って下がると、東麓を流れる稲葉川沿い(標高70m辺り)にも4,5段の小郭群が構築されている。おそらくこの郭群は船溜まりとして設けられたものだろう。
 このあと、西側に回り込む。
【写真左】三の丸から西側を見る。
 左側斜面の上が本丸に当たるが、この付近には6条の竪堀や、4,5段の小郭が連続し、中段部には虎口などの遺構が記されている。
 ただ、現状は最近伐採されたらしい立木などが整理されないまま放置されているため、全ての遺構の確認は困難。
【写真左】竪堀
 大分崩れている。このあと、伐採された木々を跨ぎながら、西に向かう。
【写真左】鉄塔のある郭
 中腹部を周回しているつもりだったが、段々と下がっていき、この場所に出た。
【写真左】北西麓を俯瞰する。
 この写真の左側(西)をさらに遡ると、垣屋氏が初期に領地していた鶴ヶ峰城に至り、そこから北西にR432号線を進むと、神鍋高原に繋がる。
【写真左】鉄塔のある郭段から南に本丸を見上げる。
 ここから上を見ると、もう一つの鉄塔が建っている箇所が本丸である。
 先ほどの三の丸下から回り込んできたが、大分下がった位置にきていたようだ。
【写真左】虎口
 保存状態は良好だ。
【写真左】竪堀
 伐採された木が放置されているが、規模としては大きい方だ。
【写真左】帯郭
 本丸直下で北側から巻き込み、二の丸へ連絡している。
【写真左】本丸に向かう階段
 いよいよここから本丸に向かう。
【写真左】石垣
 雑草やコケなどに覆われて視ずらいが、この箇所にはまとまった石積跡が残る。
【写真左】本丸・その1
 東西を長軸として凡そ30m前後の長さを持つ。
 西側の一角は少し下がっている。
【写真左】本丸・その2
 本丸の一角には土塁が残る。
【写真左】本丸・その3
 虎口。
 さきほどの二の丸から登ってきた道に繋がるもので、左右には土塁が配置されている。
【写真左】本丸・その4
 中心部附近で、北東方向を見たもの。
【写真左】本丸から水生城及び、三開山城を遠望する。
 中央には円山川が流れ、手前には日高の町並みが広がる。奥に連なる山々を超えると、丹後国(京都府京丹後市)に入る。

 左側には水生城(みずのおじょう)別名水生古城があり、織田方城督が守備していた宵田城を垣屋豊続・古志重信らが攻めようとしたら、織田勢が出撃し、最終的には水生城で合戦となった。当城については未登城だが、機会があれば登城したい。

 円山川を挟んで対岸には前稿の三開山城が対峙している。なお、三開山城より右側には此隅山城があるが、この写真では入っていないようだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿