2016年12月1日木曜日

此隅山城(兵庫県豊岡市出石町宮内) ・その2

此隅山城(このすみやまじょう)・その2

●所在地 兵庫県豊岡市出石町宮内
●指定 国指定史跡
●高さ 140m(比高120m)
●備考 出石神社
●登城日 2015年3月28日、2012年3月7日(出石神社)

◆解説
 前稿でも述べたように、今稿では南麓にある出石神社や、紹介しきれなかった此隅山城の遺構などを取り上げたい。
【写真左】出石神社側から此隅山城を遠望する。
 出石神社は此隅山城の南麓に鎮座しており、ここから南東麓に向かうと、南側から登城できるコースもある。
 ただし、この登城口付近には駐車スペースがないので注意が必要。


出石神社長尾氏

 此隅山城は標高140m余り(比高120m)と山城としては低い部類に入る。後に山名氏が移ることになる有子山城(兵庫県豊岡市出石町内町)は、320m余りなので、およそ1/2の高さである。此隅山城の築城期は文中年間、すなわち山名氏が初めて当地但馬に下向した頃であろうとされているが、山名氏が当地に入る前にいたのが、此隅山城の南麓に鎮座する出石神社の神主職であった長尾一族(源氏姓)である。
【写真左】出石神社・その1
 正面鳥居付近









 当社由緒より

“但馬国一宮出石神社由緒
 出石神社は、天日槍命(アメノヒボコノミコト)が新羅の国よりお持ちになりました八種の神宝を出石八前大神として、また天日槍命の大御霊を御祭神として斎祀しています。
 天日槍命は、古事記、日本書紀ともに新羅国王の王子であり、日本に渡来されたとし、その事績は記紀のほか古語拾遣、播磨国風土記等にうかがうことができます。
 八種の神宝とは、古事記には珠二貫、振浪比礼・切浪比礼・切風比礼・奥津鏡・辺津鏡と記しています。
 天日槍命のご子孫には、田道間守命や神功皇后があります。
【写真左】拝殿
 当社に参拝したのは、此隅山城に登城する前の雪が残る2012年の3月初旬である。






 神社の創立年代はあきらかではありませんが、社伝の一宮縁起には、谿羽道主命と多遅麻比那良岐と相謀り、天日槍命を祀ったと伝え、諸書によりますと、およそ1300年前にはこの地で祭祀がおこなわれていたことがうかがわれます。
 
 但馬の国一宮として当地では別名を一宮(いっきゅう)さんと呼び親しまれています。天日槍命は泥海であった但馬を、円山川河口の瀬戸・津居山の間の岩山を開いて濁流を日本海に流し、現在の豊沃な但馬平野を現出され、円山川の治水に、また殖産興業に功績を遺された神として尊崇を集めています。
【写真左】「旧鳥居残欠」
 昭和8年に出石川改修工事中に鳥居橋の地中から多くの古銭と共に出土したもので、昭和53年に町(市)の指定文化財となっている。

 なお、鳥居橋は出石神社から西におよそ1キロ向かったところにあるので、当時の参道は相当長いものだったようだ。



 現在の社殿は大正3年に再建され、透塀で囲まれた三間社流造の本殿、その前面には切妻造りの幣殿と祝詞殿があり、拝殿は舞殿形式で、入母屋造り平入りで蔀戸をつり、正面に拝殿の屋根と独立した平唐破風出桁の向拝は、他に類のない珍しい建築です。神門は丹塗の八脚門で、数多くの蟇股を飾り、左右に連なる塀も丹塗りです。
 境内東北隅に約600坪の禁足地があり、老樹が生い茂り、入れば祟りがあるといわれています。”
【写真左】此隅山城の郭配置図
 前稿で紹介したものとは別のもので、鮮明なものでないが、おもな郭の配置が分かる。







 『出石神社文書』、『神床家文書』によれば、嘉禎4年(1238)に源家則、元亨4年(1324)に同家朝、建武5年(1338)に同家景(長尾彦太郎家景)など、これら長尾氏一族が補任されたとある。しかし、その後の正平7年(1352)の軍忠状を最後に長尾氏の名がここで途絶える。

 そして、当社に関わる文書として出てくるのが、明徳元年(1390)の但馬守護であった山名氏清が神主に宛てた書状など、山名氏の名が出てくる。
 これらの記録文書などから推考すると、山名氏が当地但馬に赴く前は、但馬国一宮であった出石神社の社領田141町も領有していた長尾氏が神主職と併せ、領主として当地を支配していたことは間違いないだろう。そして、南北朝の動乱期に至ると、社領地であった但馬もその戦禍に逢い、長尾氏も神職職を奪われていったと思われる。

 但馬の新しい領主・山名氏が、此隅山城という出石神社の北隣の小丘に城砦を築いたのも、おそらく長尾氏に代わって同社をこれまで通り鎮守し、村人の信頼を得ようとしたためと考えられる。
【写真左】此隅山城に集結する但馬山名軍(想像図)
 現地展望台に設置されていた絵で、南西麓の御屋敷付近を描いたもの。
 手前には田圃が描かれているが、当時は未だこの付近は沼地の中に湿田が点在していたと思われる。


但東往還

 ところで、此隅山城や有子山城などが所在する地域は、但東と呼ばれる。中央を南北に流れ、日本海にそそぐ円山川水系以外の四周は全て山々に囲まれ、陸路で他の地区に往還するには、各所の険しい峠越えが大きな負担となった。
【写真左】有子山城から北に出石川流域を臨む。
 この写真は2013年に登城した有子山城本丸から俯瞰したもので、此隅山城の頂部がかすかに望める。また、その奥には投稿を予定している三開山城が控えている。

 出石川と合流した円山川は豊岡市街地を通り、日本海へ注ぐ。


 此隅山城及び出石神社付近の地勢を見てみると、現在その西方に拡がる田園地帯の地盤高はおよそ5m余りである。そしてその中央部には円山川支流の出石川が流れているが、この川床の高さも5mほどである。つまり高低差がほとんどない。

 このことから、築堤により川(出石川)と田面の区画がなされているものの、山名氏が但東に下向したころは、おそらく南側から流れてきた多くの支川が日替わりの如く不規則に流れ、梅雨時には湿田は沼地と化していたと思われる。
【写真左】東麓から此隅山城を遠望する。
 此隅山城南北麓をそれぞれ流れる袴狭川と入佐川合流点付近から見たもので、手前ですぐに出石川と合流する。

 田圃と川床の高低差がないことから、築堤はかなり高く造成されている。


 また、さらに出石川が円山川と合流して下っていくと、川東に広大な田園が続くが、この辺り(八社宮・伏等)は、中世にはかなり大きな湖沼があったのではないかと推測できる。

 こうしたことから、山名氏は此隅山城を築いた初期のころから交通手段の一つとして水運・海運に重きを置いていたのではないかと思われる。従って、戦国期に海賊衆であった奈佐日本介が登場してくるが、彼ら水軍領主衆はそれ以前から山名氏と接点をもっていたと考えられる。

此隅山城遺構(追加分)

 前稿の写真では主要な遺構しか紹介しなかったが、今稿ではその他の遺構をランダムになるが載せておきたい。
【写真左】南の段
 本丸から一段降りて、さらにもう一段の郭がある。
 ここから尾根が下り始める。(下の写真)
【写真左】下る尾根
 所々小郭の段があるように見えるが、ほとんど自然地形の景観。
 この尾根を降っていくと、前稿で紹介した宗鏡寺砦がある。残念ながらこの日はそこまで向かっていないが、HP『城郭放浪記』氏が詳細な写真を紹介されているので、ご覧いただきたい。砦としては密度の濃い遺構があるようだ。
【写真左】東尾根郭群に向かう。
 この日登城したコースは北側に伸びる尾根から向かっているが、この尾根と対峙するように東にも長い郭群がある。現地説明板の「案10~14」までのエリアになる。
【写真左】郭
 最初に出てきた郭で、主郭側との比高差はこの段階で30m以上はあるだろう。
【写真左】先端部
 上記郭先端部
【写真左】次の郭
 先ほどの郭から少しおりて犬走りを進むと細長い郭が出てくる。
【写真左】連続する郭
  面白いことに、この付近は高度が下がるにつれて、両側の谷が険峻になり見事な切崖を見せてくる。
【写真左】竪堀か
 左側の斜面に見えたもので、堀切とセットになっていたのかもしれない。
【写真左】物見台か
 下っていった途中で突然このような高台が出来ている。明らかに人の手が加わっていると思える。
【写真左】さらに下る
 左側は70度ぐらいの傾斜を持つ切崖状の斜面。
【写真左】最先端
 この先は余りの急傾斜と高さがあり危険なため、ここでUターン。
 しかし、縄張図を見ると、ここを一気に下りて、次の郭段があるようだ。

 少し休憩した後、再び元の位置に向かう。
【写真左】別の尾根の郭
 先ほどまでの尾根元まで戻り、東の方へ向かうと、もう一つの尾根が繋がり、上段にはご覧のような中規模の郭がある。
【写真左】その下の郭
 先ほどの郭から急傾斜となって次の郭が見える。
 あまりに傾斜がきつく、滑るように降りる。
【写真左】さらに下の郭
 上記の郭で終わりと思ったら、さらにその下にも郭が見える。
 この郭まで降りてしまうと、再び登る体力もないため、ここで断念。

 印象としては、主郭付近よりも、この北東部の根伝いに配置された郭群が見ごたえがある。

0 件のコメント:

コメントを投稿