夕部山城(ゆうべやまじょう)
●所在地 岡山県総社市下原
●別名 伊世部山城・勝山城
●高さ 107m
●築城期 天正3年(1575)以前
●築城者 明石兵部少輔
●城主 明石兵部少輔
●遺構 郭等
●登城日 2015年2月21日
◆解説(参考文献『日本城郭体系13巻』等)
夕部山城は、岡山県の三大河川の一つ高梁川の支流・新本川の西岸に突出した舌陵丘陵・伊与部山に築かれた城砦である。
【写真左】夕部山城遠望
北側から見たもので、遺構が残るのが右側の頂部だが、左側の頂部も物見櫓的な用途として使われたと考えられる。
手前から左側に向かって新本川流れ、その後高梁川と合流する。
現地の説明板
“伊与部山(夕部山)
総社市下原にある標高105m、山頂は、二つに分かれ西は城山(城の辻)、東は八畳岩の名で地区民に親しまれている。1995年(平成7年)山頂に桜を植え、史跡も整備して伊与部山公園と名付けられた。
【写真左】伊与部山史跡公園入口
登城口は、東側の高梁川と支流新本川が合流する手前の県道279号線と278号線の合流地点で、当城の東麓部にある。
簡易舗装されているこの道を進むが、幅員が狭いので、対向車が来たらすれ違う際注意が必要。
伊与部山弥生墳丘墓 弥生時代
1966年(昭和41)岡山大学考古学教室により発掘調査が行われた。墳丘は一辺約7mで、大小二つの石室状の配石墓が発見された。この中に箱形の木棺が納められていたものとみられる。副葬品は発見されていない。
また墳丘の東南すみに木棺のまわりに石を置いた7~8基の簡単な配石墓が見られる。いずれも小さいもので子供用とみられる。この遺跡からは普通器台・壺・高杯など土器が出土している。
【写真左】駐車場
かなり高い位置まで車で向かうことができ、駐車場も完備されている。ただ、斜面なので、サイドブレーキは普段以上にしっかりと掛けておく。
この先からそのまま主郭に向かって道が整備されている。
伊与部山二号墳 古墳時代
墳丘墓の北東20mに築かれた14m×10mの方墳で、中央に埋葬施設がある。副葬品には内行花文鏡・石釧・勾玉・斧・鉇など鉄器が出土している。
【写真左】登城道
距離は短いが、途中の所々にこうしたお地蔵さんが祀られている。四国の88か所霊場の短縮バージョンのようだ。
伊与部山城跡(夕部山城) 戦国時代
戦国時代(16世紀)の山城で、要害の山頂を平らにし築かれる。市内28個所のうちの一つで1575(天正3年正月16日)鬼身城攻撃に当たり、毛利の武将小早川隆景が陣を敷く、城主は明石兵部少輔とその養子彦三郎である。
鬼身城主上田実親は、毛利の攻撃を受け、城主実親は20歳の若さで自刃し、城兵三千人の命を救ったといわれている。”
【写真左】夕部山城頂上
「伊与部山城跡」と記された看板がたち、簡単な休憩所も設置されている。
当城は、二つの郭で構成され、北側に「一ノ壇」、南に「二ノ壇」を設けている。写真はそのうち1m程「二ノ壇」より高い位置にある「一ノ壇」。
明石兵部少輔
夕部山城の築城期についてははっきりしないが、築城者は明石兵部少輔といわれ、その時期は天正3年以前といわれている。『日本城郭体系13巻』によれば、当城は鎌倉末期か南北朝初期に既に築かれていたのではないかと記している。
【写真左】一ノ壇
外周部には石が設置されているが、これは公園にしたとき設置されたものだろう。
この明石氏については、児島麦飯山城(両児山城(岡山県玉野市八浜町八浜)参照)主・明石源三郎の一族、あるいは三村元親(鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原)参照)の重臣であった明石与四郎の一族ではなかったかと諸説あるが、確定していない。
さて、この明石兵部には嫡男がいなかったため、中島大炊介(経山城(岡山県総社市黒尾)参照)の四男彦三郎を養子に迎え、明石与次郎または余次と名乗らせ、継嗣させたという。
【写真左】二ノ壇・その1
一ノ壇から見たもので、少し低い段だが、大きさは二つとも600㎡前後のもの。
なお、右奥が搦手に当たる。
備中兵乱
説明板にもあるように、天正3年(1575)毛利氏は、備中・鬼ノ身城(岡山県総社市山田)を落とすため、夕部山城を陣城として重要な戦略拠点に置いた。鬼ノ身城は夕部山城から北西凡そ8キロの位置にある。前稿で紹介した備中・市場古城(岡山県総社市新本)がこのとき既に、毛利方永井氏の手中に入っていたと思われるので、鬼ノ身城攻めは少なくともこれら二城からの攻めを以て攻略されたと思われる。
【写真左】二ノ壇・その2
公園化しているため、郭跡には桜の木などが植えられている。
左側が一ノ壇になる。
なお、遺構としては二つの郭があるのみで、堀切などは残っていない。
【写真左】第2展望所から見た紹介図
この図では、城跡として、鬼ノ身城、木村山城、荒平山城、鬼ノ城などが書かれている。
【写真左】夕部山城から鬼ノ城、経山城を見る。
両城は手前の高梁川を挟んで北東方向に見える。
【写真左】荒平山城を遠望する。
荒平山城(岡山県総社市秦)は夕部山城の真北に当たる。
このあと、東側の頂部に向かう。
【写真左】夕部山城主郭から東方の頂部を見る。
夕部山城の尾根筋を北東に凡そ200m進んだところにあり、高さは夕部山城とほぼ同じ100m余り。
この位置からは高梁川が南進し、小田川と合流する箇所も確認できる。
【写真左】53番円明寺阿弥陀如来と記された岩塊
一旦、駐車場側まで降り、再び登り坂を進むと、ご覧の岩が出迎える。
夕部山城を含め、このあたりは岩山が多いが、特にこの東方頂部にはこうした景観が目立つ。
【写真左】伊与部山二号墳
前段で紹介した二号墳で、この辺りに埋葬されていたようだ。
【写真左】陸軍特別大演習司令所
この大岩あたりに司令所が置かれ、昭和5年11月14日から3日間、高梁川河原を中心に、広島第五師団・姫路第十師団の将兵3万人が参加、大演習が行われたという。
戦国時代小早川隆景がここを陣所として使ったあと、350年余を経て再び当地で近代戦争のための演習が行われたということを考えると、よほどこの場所は立地条件が備わっているということだろう。
【写真左】鬼ノ身城を遠望する。
夕部山城側からも見えなくもないが、鬼ノ身城を遠望するには、この東方の頂部からのほうがよりわかりやすい。
小早川隆景らが陣所としていたとき、物見台としてはこちらの方がより多く利用していたのかもしれない。
●所在地 岡山県総社市下原
●別名 伊世部山城・勝山城
●高さ 107m
●築城期 天正3年(1575)以前
●築城者 明石兵部少輔
●城主 明石兵部少輔
●遺構 郭等
●登城日 2015年2月21日
◆解説(参考文献『日本城郭体系13巻』等)
夕部山城は、岡山県の三大河川の一つ高梁川の支流・新本川の西岸に突出した舌陵丘陵・伊与部山に築かれた城砦である。
【写真左】夕部山城遠望
北側から見たもので、遺構が残るのが右側の頂部だが、左側の頂部も物見櫓的な用途として使われたと考えられる。
手前から左側に向かって新本川流れ、その後高梁川と合流する。
現地の説明板
“伊与部山(夕部山)
総社市下原にある標高105m、山頂は、二つに分かれ西は城山(城の辻)、東は八畳岩の名で地区民に親しまれている。1995年(平成7年)山頂に桜を植え、史跡も整備して伊与部山公園と名付けられた。
【写真左】伊与部山史跡公園入口
登城口は、東側の高梁川と支流新本川が合流する手前の県道279号線と278号線の合流地点で、当城の東麓部にある。
簡易舗装されているこの道を進むが、幅員が狭いので、対向車が来たらすれ違う際注意が必要。
伊与部山弥生墳丘墓 弥生時代
1966年(昭和41)岡山大学考古学教室により発掘調査が行われた。墳丘は一辺約7mで、大小二つの石室状の配石墓が発見された。この中に箱形の木棺が納められていたものとみられる。副葬品は発見されていない。
また墳丘の東南すみに木棺のまわりに石を置いた7~8基の簡単な配石墓が見られる。いずれも小さいもので子供用とみられる。この遺跡からは普通器台・壺・高杯など土器が出土している。
【写真左】駐車場
かなり高い位置まで車で向かうことができ、駐車場も完備されている。ただ、斜面なので、サイドブレーキは普段以上にしっかりと掛けておく。
この先からそのまま主郭に向かって道が整備されている。
伊与部山二号墳 古墳時代
墳丘墓の北東20mに築かれた14m×10mの方墳で、中央に埋葬施設がある。副葬品には内行花文鏡・石釧・勾玉・斧・鉇など鉄器が出土している。
【写真左】登城道
距離は短いが、途中の所々にこうしたお地蔵さんが祀られている。四国の88か所霊場の短縮バージョンのようだ。
伊与部山城跡(夕部山城) 戦国時代
戦国時代(16世紀)の山城で、要害の山頂を平らにし築かれる。市内28個所のうちの一つで1575(天正3年正月16日)鬼身城攻撃に当たり、毛利の武将小早川隆景が陣を敷く、城主は明石兵部少輔とその養子彦三郎である。
鬼身城主上田実親は、毛利の攻撃を受け、城主実親は20歳の若さで自刃し、城兵三千人の命を救ったといわれている。”
【写真左】夕部山城頂上
「伊与部山城跡」と記された看板がたち、簡単な休憩所も設置されている。
当城は、二つの郭で構成され、北側に「一ノ壇」、南に「二ノ壇」を設けている。写真はそのうち1m程「二ノ壇」より高い位置にある「一ノ壇」。
明石兵部少輔
夕部山城の築城期についてははっきりしないが、築城者は明石兵部少輔といわれ、その時期は天正3年以前といわれている。『日本城郭体系13巻』によれば、当城は鎌倉末期か南北朝初期に既に築かれていたのではないかと記している。
【写真左】一ノ壇
外周部には石が設置されているが、これは公園にしたとき設置されたものだろう。
この明石氏については、児島麦飯山城(両児山城(岡山県玉野市八浜町八浜)参照)主・明石源三郎の一族、あるいは三村元親(鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原)参照)の重臣であった明石与四郎の一族ではなかったかと諸説あるが、確定していない。
さて、この明石兵部には嫡男がいなかったため、中島大炊介(経山城(岡山県総社市黒尾)参照)の四男彦三郎を養子に迎え、明石与次郎または余次と名乗らせ、継嗣させたという。
【写真左】二ノ壇・その1
一ノ壇から見たもので、少し低い段だが、大きさは二つとも600㎡前後のもの。
なお、右奥が搦手に当たる。
備中兵乱
説明板にもあるように、天正3年(1575)毛利氏は、備中・鬼ノ身城(岡山県総社市山田)を落とすため、夕部山城を陣城として重要な戦略拠点に置いた。鬼ノ身城は夕部山城から北西凡そ8キロの位置にある。前稿で紹介した備中・市場古城(岡山県総社市新本)がこのとき既に、毛利方永井氏の手中に入っていたと思われるので、鬼ノ身城攻めは少なくともこれら二城からの攻めを以て攻略されたと思われる。
【写真左】二ノ壇・その2
公園化しているため、郭跡には桜の木などが植えられている。
左側が一ノ壇になる。
なお、遺構としては二つの郭があるのみで、堀切などは残っていない。
【写真左】第2展望所から見た紹介図
この図では、城跡として、鬼ノ身城、木村山城、荒平山城、鬼ノ城などが書かれている。
【写真左】夕部山城から鬼ノ城、経山城を見る。
両城は手前の高梁川を挟んで北東方向に見える。
荒平山城(岡山県総社市秦)は夕部山城の真北に当たる。
このあと、東側の頂部に向かう。
【写真左】夕部山城主郭から東方の頂部を見る。
夕部山城の尾根筋を北東に凡そ200m進んだところにあり、高さは夕部山城とほぼ同じ100m余り。
この位置からは高梁川が南進し、小田川と合流する箇所も確認できる。
【写真左】53番円明寺阿弥陀如来と記された岩塊
一旦、駐車場側まで降り、再び登り坂を進むと、ご覧の岩が出迎える。
夕部山城を含め、このあたりは岩山が多いが、特にこの東方頂部にはこうした景観が目立つ。
【写真左】伊与部山二号墳
前段で紹介した二号墳で、この辺りに埋葬されていたようだ。
【写真左】陸軍特別大演習司令所
この大岩あたりに司令所が置かれ、昭和5年11月14日から3日間、高梁川河原を中心に、広島第五師団・姫路第十師団の将兵3万人が参加、大演習が行われたという。
戦国時代小早川隆景がここを陣所として使ったあと、350年余を経て再び当地で近代戦争のための演習が行われたということを考えると、よほどこの場所は立地条件が備わっているということだろう。
【写真左】鬼ノ身城を遠望する。
夕部山城側からも見えなくもないが、鬼ノ身城を遠望するには、この東方の頂部からのほうがよりわかりやすい。
小早川隆景らが陣所としていたとき、物見台としてはこちらの方がより多く利用していたのかもしれない。
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