2016年8月14日日曜日

御幸寺山城(愛媛県松山市御幸)

御幸寺山城(みきじさんじょう)

●所在地 愛媛県松山市御幸1丁目
●別名 三木寺山城、御幸山城
●高さ 164.6m(比高130m)
●築城期 南北朝期か
●築城者 河野氏
●城主 河野通之
●遺構 郭等
●備考 伊予松山城築城前候補地の一つ
●登城日 2015年2月8日

◆解説(参考文献『日本城郭体系16巻』等)
 御幸寺山城は、伊予・松山城(愛媛県松山市丸の内)の北東1.4キロにある御幸寺山に所在した山城である。当城については、伊予・松山城で以下のように紹介している。
【写真左】御幸寺山城本丸
 本丸跡には、御幸寺山蔵王などが祀られている。







 すなわち、当城(松山城)の築城者・加藤嘉明が、城を築くにあたって、幕府に許可申請の手続きを行っているが、その内容は候補地を3か所申請し、その中から最終的に幕府が決めるというものだった。このとき候補地の一つがこの御幸寺山城で、第3候補として申請している。幕府による審査の結果、第2候補としていた勝山(後の松山城)が決まった。
【写真左】御幸寺
 登城口に当たる南麓には、真言宗豊山派 御幸寺が建立されている。

 なお、この写真の右側の道を進み、奥に見える右方向の山に御幸寺山城がある。


 因みに、もう一つの第1候補が天山という山で、松山城から南南東へ約3キロほど向かった標高50m余りの丘で、その規模から考えて居城を築くにはあまりにも小さく、嘉明自身もこの丘(天山)は申請はしているが、はなから居城としては相応しくないものだったと考えていたようである。
【写真左】登城開始
 登城道は整備されている。傾斜のある個所には階段が設置され、歩きやすい方だ。






河野通之と通久

 さて、御幸寺山城の名前が初見されるのは、室町時代の応永22年(1415)である。当時河野通之(鷺ノ森城(愛媛県西条市壬生川)参照)の居城であったとされ、この年(応永22年)の7月、家司、重見通勝と本城で戦うとある(『日本城郭体系第16巻』)。

 鷺ノ森城の稿でも少し述べているが、河野氏予州家・通之は、兄通義の子・通久に家督を譲った後、この御幸寺山城を居城としていた。その後、甥であった通久は御幸寺山城にあった通之を襲ったという。
【写真左】堂宇のようなもの
 登城道途中で反対方向に分岐する箇所があり、その先に見えたもので、近くまでは寄っていないが、堂宇のような建物が見える。




 この時の戦いで、通之を支援すべく向かったのが、御手洗信秀である。
 御手洗氏は元々鎌倉時代に関東御家人で平家追討に功があり、越智国ののち、御手洗島(現在の広島県呉市にある大崎下島)を領地とし、御手洗氏を名乗った。

 その後、河野氏麾下となって、通之の側近となっていた。通久による急襲によって、からくも脱出できた信秀はその後、豊後水道を渡り九州へ落ち延びた。
【写真左】登城途中から上を見上げる。
 中腹辺りから岩肌が露出した箇所が多くなり、険阻な様相を呈する。







山越城

 ところで、2,3年前だったと思うが、NHK・TV「ファミリーヒストリ―」という番組で、タレント・ギタリストであるモト冬樹さんが登場した。この番組では、冬樹さんの本名である武東家の過去帳に、初代は「伊予国 山越城主 吉村蔵人」と書かれて、その山越城というのがこの御幸寺山城ではなかったかと伝えている。

 番組では、地元の学芸員のような方が登場し、山越という地区内には「山越城」というのはないが、その南隣の御幸寺山城がおそらく山越城ではないか、とコメントしていた。
【写真左】郭段
 遺構の保存状態は良好とは言えないが、本丸近くの付近から3段程度の郭が連続してくる。

 なお、遺構の種類としては堀切や竪堀のようなものは確認できなかった。




 裏付けとなる史料などがないため、断定はできないが、管理人としては「山越城」が「御幸寺山城」であったというのは少し無理があるような気がする。

 何故なら、御幸寺山城は南北朝期に築かれたもので、途中から名称を隣地区の名を冠したものに替える動機も見当たらないからである。
 従って、「山越城」はやはり御幸寺山から北に伸びる嶺続きの山越東端部にある最高所(標高200m)辺りに別に所在したのではないだろうか。
【写真左】北方に山越方面を見る。
 御幸寺山城の尾根筋から一旦西に進み、北に向かうと山越方面の山並みが繋がる。
 手前の斜面にはミカン畑が広がる。

【写真左】本丸が見えてきた。
 上に登るに従い岩塊の多い箇所が増えてきたが、頂上部は大分手が加えられているようだ。
【写真左】本丸・その1
 長径(東西)20m×短径(南北)8m前後の規模を持つ削平地で、東端部に鳥居が祀られ、南側には下段で紹介する蔵王(権現)が建立されている。
【写真左】御幸寺山蔵王
 南側に建立されているもので、蔵王権現が奥に控える。

 麓に御幸寺があり、その奥山にこれが祀られていることを考えると、神仏混淆として古くからあったものだろう。また、当地には石鎚山があり、この山が四国では代表的な蔵王権現の崇拝地であったことから、御幸寺山にも分祀されたのかもしれない。
【写真左】「国威宣揚」の石碑
 明治17年(1884)、当地(伊予)では日本陸軍の歩兵部隊「歩兵第22連隊」がつくられ、日露戦争を始めとし、以後昭和20年(1945)まで、多くの戦役に出兵している。

 しばしば城山や古戦場跡を訪ねると、こうした忠魂・慰霊塔が建立されているが、当城跡も例外ではないようだ。

 この石碑とは別に、大正時代に建立されたものもあり、そこには「陸軍歩兵大尉 得能何某」と刻銘されたものもある。由並・本尊城(愛媛県伊予市双海町上灘)の得能氏の末裔か。
【写真左】本丸南端部
 南端部から下は切崖となっており、要害性は高い。
 眼下に松山市街地が広がる。
【写真左】伊予・松山城を遠望する。
 この日少し靄がかかっていたが、南に伊予・松山城が見えた。
【写真左】湯築城
 松山城から東に目を転ずると、湯築城(愛媛県松山市道後湯之町)が見える。






【写真左】種田山頭火終焉の地・一草庵
 御幸寺境内には、戦前の放浪俳人・種田山頭火の終焉地となった一草庵が残る。

 昭和15年10月11日早朝、脳溢血で死去。享年59歳。

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