2009年2月3日火曜日

周布城(すふじょう)(浜田市周布町)

◆登城日 2008年5月15日(晴れ)

遺跡名称 :鳶巣城跡 とびのすじょうあと
所在地 :浜田市 周布町口10 要害
時代: 中世 
遺跡の現状 :山林 
土地保有 :民有地 
指定: 市町村指定
標高: 82 m
備考 :興国山 聖徳寺

【写真】周布城遠景と手前:聖徳寺

解説①
周布氏の居城。周布兼定が築城。
鎌倉幕府が、蒙古襲来に備えてつくった、石見沿岸防禦十八城の一つである。
(以上島根県遺跡データより)

解説②

周布側の川沿いに進んでいくと、案内が設置されている。内容下記のとおり。
“鳶(とび)巣(のす)城跡と聖徳寺※(後段にこの寺の追記事項あり)
 前方の鳶巣山にある城跡は、鎌倉時代前期(1228年)浜田の豪族・益田兼定がこの地に砦を設け、以後周布氏累代の居城として、室町時代後期(1570)毛利氏に攻められ、落城するまでの約300年間、浜田西部を支配する拠点となっていた。
 また、山麓には周布氏の菩提所・曹洞宗聖徳寺があり、その本堂には江戸時代後期(1866)の長州軍との戦いの弾痕が残っている。“


【写真】周布城遠景(左右合成したもの)
◆写真に見える聖徳寺という寺の境内に看板があり、重複するがこれも転載しておく
“昭和44年11月3日指定 浜田市指定史跡
鳶巣城跡
 鳶巣山は、別名要害山ともいい、城砦は、尼子の月山城を思わせるものがあって、防備に自然の地形をよく利用し、工夫を凝らしている。この付近の平地に城下町ができていたことは、土地名等により想像できる。
 文永年間(鎌倉時代)浜田西部の豪族・益田兼定が地頭職となり、鳶巣山に築城し、以後周布氏の居城となり、元亀元年(1570)周布氏が毛利氏に攻められて落城するまで、約300年間、浜田西部の一帯を支配する拠点となっていた。また鎌倉時代、幕府が蒙古襲来に備えた石見沿岸の防御18城の一つである。
昭和51年3月25日建立
浜田市教育委員会“


【写真左】堀切
はっきりと認められる堀切りは2か所あって、写真はそのうちの一つ。
 登り口付近は現在墓地になっており、その奥の方から登るようになっている。




【写真左】本丸の側面

登城道は、城郭の西側にあり、何段かの郭を過ぎると、写真のような本丸の側面が見える。
 途中の遺構部分はほとんどこうした杉の植林がしてあり、山城の写真撮影としては少し邪魔になるが、かといって雑林・雑草のままでは、いよいよ荒廃した姿になるため、これも一つの山城保全対策かもしれない。
 下の郭からの高さはさほどなく、4m前後か。本丸の大きさは、はっきりと覚えていないが、20~30m四方だったと思う。



【写真左】本丸下の帯曲輪
 徒歩で探索できるのは、この本丸付近までで、それより奥(北方向)はご覧のとおり、藪こぎになるため、断念した。
 なお、この奥に、太鼓楼があるらしい。


◆この周布城は、前記したとおり、山城とはいうものの、鎌倉幕府が蒙古襲来に備えて造ったという背景があることから、「海城」としての役目が初期にはあったと思われる。現在は周布城の脇を流れる周布川からの堆積によってだいぶ内陸の位置に変わっているが、当時は北西部の津摩町付近は離島で、この周布城(鳶巣山)まで海岸部が迫っていた。

写真にある周布城下の寺院について
「島根の寺院 第2巻」によると次の通り。
興国山 聖徳寺
 縁起 当寺は、浜田市周布町にあり、国道9号線の周布大橋から、周布川上流に徒歩で約9分、田園の中に静かなたたずまいをみせている。
 寺伝によると、草創は推古16年(607)の頃、聖徳太子の作と伝えられる仏像が祀られ、安貞2年(1228)から正嘉2年(1258)のころ、地頭として益田氏兼定が当地に鳶巣城を築き、周布氏初代となり、当寺を菩提寺に定めた。
 正中元年(1324)、四代・兼信が一禅僧を講じて、禅寺として寺領70余貫を寄進したと伝える。
 応永年間(1394~1428)大徹門下の洞雲胡泉和尚が来(らい)錫(しゃく)し、曹洞宗として開山。盛んに禅風をひろめ当地方屈指の禅道場として栄えた。元盛はこれに深く帰依して、寺領120貫を寄進した。
 天正、文禄(1573~1595)に至り、戦乱の世となり慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦から、周布氏は落城、長州へ退去した。その混乱の一時期寺運が衰えていた。
 幸いにも、慶長年間に大和国より、大源門下補厳寺の泰屋全雄和尚が、この地に来錫して、古刹の退廃を惜しみ、補厳寺末として再興、禅道布教に20年。その努力が報われて、往時の如くに壇信徒420軒を数えるにいたった。(中略)
 境内には、周布家代々の墓碑があり、鮮苔古色を帯びて、一層清閑なたたずまいを見せている。(中略)
 因みに、当山の開基・益田兼定が周布郷を譲与されたのは、安貞2年(1228)2月6日付の北条泰時、時房連署の領地の安堵状でわかる。
 それによると、周布郷、鳥居郷、安富名、福光村を譲与され、その他の地頭識となり、鳶巣山に砦を構え、周布と称するにおよんで、この地が鎌倉時代前期(1228)から室町時代後期(1570)、毛利氏に攻められ落城するまでの約300年間、浜田西部を支配する有力な拠点となっていた。
 そして、その山麓に周布氏の菩提所・興国山 聖徳寺があり、その本堂には、江戸時代後期(1866)の長州軍との戦いの弾痕が今なお残っている。以上。


◆資料によっては、益田兼季(1264~75)が築城したというのもあるが、山城(海城)の初期の施工はおそらく兼定のころと思われる。

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