2009年2月9日月曜日

神西城(島根県出雲市東神西)(その1)

神西城跡(じんざいじょうあと)

◆登城日 2009年2月7日(土曜日) 曇り
【写真左】神西城遠望
 2012年12月12日撮影
 西側の方から見たもの










●所在地 出雲市 東神西町
●時代 中世  ●遺跡種別 城館跡 
●遺跡の現状 山林  ●標高 101 m
●備考 高倉城跡、竹生城跡、龍王山竹生城跡。
室町時代、神西氏が築城。
●遺構郭  土塁 堀切 尾根道郭 帯郭 腰郭 虎口
(参考:島根県遺跡データベースより)


【写真上】神西城遠望
南側を走る通称「出雲ロマン街道」の東側から見る

解説①(参考:山陰の城跡トップページより)


●ACCESS
JR出雲神西から登山口まで徒歩で約30分。登山口から山頂まで徒歩で約15分。


尼子氏石見への橋頭堡
 中世の神門水海(現在の神西湖)に面する交通の要衝の地に築かれた神西氏の居城で、「尼子十旗」の1つ。最高所からは、神西湖・北山山脈などが一望できる良所です。


 城は那賣佐神社裏山の最高所周辺に築かれた郭と東の九
景川方向に派生する尾根上の郭から構成され、広い範囲で普請が行われています。
【写真】北側の十楽寺側に設置された案内図
解説②(十楽寺前の説明板より)

 「神西城址」案内図 この城は龍(りゅう)王山(おうざん)竹生(たけのお)城(じょう)ともいい、神西氏12代350年の居城と伝えられています。

 石見国への境目の城として「出雲尼子十旗」で、本丸の一の平、二の平、三の平からなり、標高は101m、登山口は三か所あります。
【写真上】十楽寺側からの登城口付近
左側の道を登っていく。すぐに左(南)に曲がると、しばらく尾根伝いに歩く。

【写真左】途中でもうひとつの登り道(光成登山口)からの道と合流する部分。
写真は、向こう側(十楽寺方面)から登ってきて、振り返って撮ったもの。このあたりから、別の山の尾根などと合流するため、平坦地が多くなり、遺構らしきものが見えてくる。

【写真左】城郭の遺構名としては珍しい名前の「尾根道郭」というものが記録されているが、おそらくこのあたりではないかと思われる。

 
【写真左】北側登り口ルートから見た本丸直近部分
 登城道の要所には階段が設置されているので、登りやすく、時間にして、ここまで15分程度しかかからない。
 南側の那賣佐神社側からは、距離は短いが、急勾配の階段があるため、意外と苦戦する。

【写真左】本丸その1
北側突端部から見たものだが、現地にはごらんのような休憩場と石碑、説明板などが設置してある。
 冬であったため、下草はほとんど枯れていて、本丸遺構の形がよくわかる。

【写真左】本丸その2
西側から東の方を見たもの。大きさは測ったわけではないが、本丸部分としての形状は変形の多角形(五角形?)で、およそ20m四方程度に思えた。ただし、この本丸からさらに南に細く伸びた郭が連続しているので、南北間の最長は80m程度はあるかもしれない。

【写真左】南側郭の端から北の方向を撮ったもの










 この城は、3年ぐらい前に南側登城口から訪れているが、このときもこの写真に見える仮設の照明器具が備えてあった。夏にでも点灯するものだろう。方向は北東部の出雲市街地を向いているが、夜中にこの神西城付近から明かりが灯っているのを当方は未だ見たことがない。

◆さてこの神西城についての大まかな概要は上段の通りだが、築城期が、島根県の遺跡データでは、室町期となっているものの、神西氏が鎌倉から新補地頭としてやってきたのが、貞応2年(1223)であるから、少なくとも南北朝期には築城しているのではないかと思える。

◆「尼子盛衰人物記」(妹尾豊三郎編著)によれば、最初にやってきたのは、小野高通で、その後、元道、景道、時道、貞道、?道、惟道、為道、速道、久道、広道、国道、と計12代343年相続となっている。ところが戦国尼子時代に活躍した元通の名が出ていない。「出雲私史」には、元通は小野高通12世の孫となっている。

◆この元通の代が特に波乱にとんだ時代で、一時は毛利方に与したりするが、最後はよく知られるように山中鹿之助らと尼子再興を図るも、播磨上月城にて最期を遂げる。(それまでの経過は、他の資料に書かれているので省略する)

◆尼子家臣団の中でも特に教養のあった人物で、鹿之助は上月城で捕らわれ備中高梁の河原で殺害されるが、元通はこの上月城の本丸先端部(城の尾崎という)で、あえて毛利軍に見えるように、辞世の句を詠いながら、腹を十文字に掻き切って60余年の生涯を終えている。

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