2009年2月2日月曜日

石見(いわみ)城(島根県大田市)

◆このブログでは、同じ島根県でも初めて、石見部の山城を取り上げることになる。

石見城

所在地 大田市 仁摩町 大国 宮村

◆登城日 2009年2月1日(日)曇り
時代 :中世 
遺跡種別 :城館跡 
遺跡の現状 :山林 
指定: 世界遺産登録・国指定
標高 :153 m
遺構概要: 郭 帯郭 土塁 堀切
備考 :  銀山柵内から北西5㎞にある16世紀の山城。 仁摩方面を守備するための重要拠点。 1565年頃に、温泉(ゆ)氏が軍事的拠点にしていた。
(参考:島根県遺跡データベース)

◆この城の築城期について明確な記録はないようだが、基本的にこの城を含め、石見銀山の防衛のための城で、銀山の流れと軌を同一にしていると思われる。
 2007年7月、世界遺産登録され、一躍有名になった石見銀山だが、銀山中心部は言うまでもなく、その区域はかなり広い。山城関係では、この石見城を含め、中心部の山吹城、矢滝城、矢筈城などがある。
 世界遺産登録なった後、特に昨年2008年からは観光客が急増し、大森銀山地区へは直接車で入ることができなくなった。いずれ投稿することになると思うが、当方は前述した「山吹城」は世界遺産登録になる前に登城しているので、山城ファンの一人としてはラッキーだった。
◆さて、この石見城だが、場所的には石見銀山の東北部に位置していることから、当然出雲部や日本海側からの来襲に備えて築城されたものと思われる。銀山が発見されたのは、よく言われる「博多の豪商・神谷寿貞らが日本海の船から見たら、石見銀山方面の山が銀色に光っていたので発見し、堀始めた。その時が大永6年(1526)である」という説は、かなり粉飾された話で、実際には14世紀ごろから銀が発見されている。
 銀山の関係する山城として、山吹城はこのころ(延慶年間:1310年ごろ)には既に築城していた。
 そして、具体的に銀の生産に動き出したのは、おそらく永正14年(1517)に幕府が山口の大内義興を石見国守護職に任命したころだと思われる。
◆それに合わせて、義興は同年(1517年)、この石見城のある龍巖山北側山麓に「石見神社(八幡社)」を建立している。


【写真左】石見八幡神社とその後ろにある龍厳山(石見城)遠景

◆このころから大内氏と尼子経久が、たびたび石見銀山をめぐって争奪戦を繰り返す。したがって、銀山を守るべく大内氏が東側に築城した石見城は、かなり早い段階(石見神社建立と同じ永正14年ごろか)でできたものと思われる。ちなみに矢滝城は、それより遅い11年後の享禄元年(1528)である。




◆石見城の登城だが、ある程度登城口は「城郭放浪記」氏の写真でつかめてはいたものの、登り口に何にも標識がないため、念のため付近の地元の方に確認して登った。


【写真左】登城口付近
この写真の左側から細い登り道があり、そこから約2,30分程度で上れる。








【写真左】登城してしばらくすると、いつの時代か分からないが、石垣の遺構があり、陶器製のものやトタン板などがあったので、近世のものかもしれない。

【写真左】龍巖山と東の山(名称不明)との合流点
尾根伝いの部分で、この付近の幅も広くなり、石見城本丸はこの写真では左側になる。登りの傾斜もここからは緩やかな勾配となる。



【写真左】最初に見えた堀切り
だいぶ埋まってしまった堀切だが、遺構としては十分確認できる。









【写真左】なぞの穴
こうした穴がもう一か所あり、左右(南北)に並んで見えた。直径は1m弱なので、井戸としては小さい。どういう目的で作られたのか不明。

【写真下左右】本丸跡付近


本丸そのものは大きくはないものの、それまでの何段かの郭や、北側に見えた帯曲輪などの規模を含めると、中規模といええる。また、遺構もさほど破損しておらず、十分堪能できた。






【写真左】本丸跡から南方向を見る
この方向(やや南西の方向)に石見銀山がある。なお、本丸の西側突端部は岩が突き出ていて、この場所からの眺めはさらに良く見ええる。






【写真左】本丸跡から西の方向を見る
写真の山は高山というキャンプ地のあるところで、その中腹には上野という集落も見える。






【写真左】本丸跡から北の方向を見る
眼下には、邇摩の街並みと日本海が見える。戦略上特にこの方向はより重要な視界で、大内氏、尼子氏、毛利氏などもこの城の重要性は相当高いものと思っていただろう。




【写真左】追加写真として、石見城の西先端部を掲載する
真正面からはじっくりと見ていないが、奇岩の大岩である。

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