2009年2月10日火曜日

神西城(その3)・神西八幡宮

神西八幡宮(じんざいはちまんぐう)

所在地 島根県出雲市東神西

◆十楽寺より少し東に行き、途中から南のロマン街道に向かう途中に、神西・小野高通が鎌倉より勧請したといわれる「神西八幡宮」がある。

 参道の北端に江戸時代、船で大阪から運んだという総石造りの鳥居があり、設置角度から見ると、そのまま南の方に本殿があるかと勘違いしそうだが、実際はその鳥居の西の方に建立されている。

当時の旧道は相当曲がりくねったものだったらしく、途中からは当時のルートとほぼ同じ狭い道になるため、場合によっては対向車が来ると困るような場所である。ただ、当社の鳥居東に2,3台停める駐車場がある。
◆解説
現地の説明板より


神在八幡宮由緒記


 御当社は、鎌倉時代の初期に、相模鶴ヶ岡八幡宮を勧請したのに始まった。 即ち、鎌倉幕府は、全国に守護・地頭を配する中で、出雲国には36領主を置いた。

神西三郎左衛門小野高通公は、神門郡の西半郡の簱大将として、鎌倉庄内郡よりこの地に赴任された。



 居城は、高倉山の頂上に「龍王山竹之尾城」通称・神西城を築き、庄内12ヵ村(神在本郷、神在沖、差海、坂津、大池、久村、多伎、小田、口田儀、奥田儀、毛津、畑)を五個荘と称し、この区域を知行所と定められた。
 当時の武士は、一天泰平、武運長久、諸民安全の守護神として、特に八幡宮を尊崇するのを常としていた。


 神西公は、源氏系であったから、鎌倉から八幡宮を勧請しようと高倉明神の神主・武田筑後守と、家老職・小村彌兵衛の両名を相模国へ派遣、御分霊を受けて帰雲、現在地に祀ったのが起源である。時に、後堀河天皇の御代、貞応3年甲甲(1224年)であった。

爾来、神西家は12代にわたり崇敬せられたが、やがて戦国時代となり尼子氏滅亡後は、毛利家の支配下となった。



 毛利公も御当社に対し、神領2町7反の安堵状を発せられ、慶長年間、堀尾吉晴公の代には、社領高12石を毎年寄進され、その後、京極若狭守忠高公、松平出羽守直政公の代にも、これを踏襲された記録がある。


 江戸時代に入ると平和が続き、御社頭も益々繁栄を極め、社殿の規模も広壮になり、祭事も盛んに行われた。


 元禄3年(1690)には、現在大水門にある御影の大鳥居が大阪で造られ、海路を船輸送して建立された。この間の御造営御遷宮の御棟札は、現存するものでも10数枚に及んでいる。

しかるに、明治維新後、神社が国家管理となり国の指導により神社の統廃合が行われ、甚だ遺憾ながら御当社は、一旦氏神の那賣佐神社に合併されたが、昭和初期氏子崇敬者の熱願により再びこの地に復元した。
社務所“


【写真左】八幡宮の境内の東端部にある稲荷神社

◆神西氏の所領範囲は、出雲部でも西部になる。上記の説明板にもあるように、口田儀、奥田儀などは石見部と接する地域であるが、居城とした神西城が反対の東側にあるため、地頭職としてかなりハンディがあったかもしれない。

また、北には特殊な寺社領である杵築大社・出雲国造や、鰐淵寺などがあり、下向した当時は相当苦労をしたかもしれない。

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