2011年3月22日火曜日

丹波・篠山城(兵庫県篠山市北新町2-3)

丹波・篠山城(たんば・ささやまじょう)

●所在地 兵庫県篠山市北新町2-3
●別名 桐ヶ城
●築城期 慶長14年(1609)
●形態 平山城
●縄張 梯郭式・輪郭式
●面積 約5万坪(160,000㎡)
●構成 天守台・本丸・二の丸・三の丸・内堀・外堀・馬出
●築城者 天下普請(徳川家康)・縄張:藤堂高虎、普請総奉行:池田輝政
●城主 松平氏・青山氏
●指定 国指定史跡
●登城日 2010年10月8日

◆解説
 丹波篠山市の盆地中心部に築かれた平山城で、築城期が慶長14年(1609)であるから近世城郭である。つまり、この当時は豊臣秀頼や淀君が大阪城で踏みとどまっていた頃である。
【写真左】入口付近の石垣













 家康はその前年の慶長13年3月、駿河の駿府城殿舎が完成し、ここに移った。このころから家康は、天下普請と称して、特に西国大名を中心に主だった城の築造を命じている。

 姫路城もこの年(慶長13年)の暮れ、天守閣が完成し、慶長15年になると、尾張名古屋城の築城を命じている。

 篠山城も西国15カ国・20諸侯の助役を命じて築城された。以前にも記したが、このころ全国の諸大名は家康の命に逆らうことを嫌い、やむなく他国の城普請や内裏の賦役に駆り出され、そのために多大な財政負担を負うことになる。特に西国大名に対してはより徹底したものがあった。
【写真左】築城当時の篠山城絵図
 外堀をはじめ幾何学的に整然とした配置である。






 慶長14年(1609)9月、幕府はそれまで西国諸大名が所有していた500石積以上の大船の保有を禁じ、重要な収入源であった外国との海外貿易ができなくなった。

 幕府(家康)のこうした行動の目的は明らかに、大阪城に居る豊臣方に対する作戦の一つで、豊臣方に与する可能性のある西国大名の力を削ぎ落す狙いがあった。

 篠山城はこうした経緯を経て築城されたため、当然当城で戦火を交えたことはない。特徴的なのは、規模が大きく堅牢な造りであった割には、天守が造られなかったということである。城主は、その後松平三家が8代、青山家6代が務めた。
【写真左】大書院付近
 篠山城の中ではもっとも大きな建屋で、中を見学するには入場料がいる。








 篠山城は2回目の登城で、前回は2006年1月である。このときも整備工事が行われており、周囲は雑然としていたが、2回目の2010年10月のときも未だ竣工していなかった。
 ただ本丸跡中心部はほとんど完成していたようで、今後は外周部を中心として進められていくようだ。

 明治維新後、城郭の主だった遺構がほとんど破棄され、唯一残っていた大書院も戦前に火災にあって一旦焼失している。
 現在その大書院は復元され一般公開されている。2回目の登城の時は大書院には入らず、専ら周囲の石垣群を見て回った。
【写真左】二ノ丸跡
 現在は御覧の通りの平地となっているが、当時の状況を示したものが、下の写真である。
【写真左】当時の二ノ丸配置図
 これを見ると、非常に多くの部屋が造られている。
【写真左】井戸跡から二ノ丸跡・大書院を見る
【写真左】天守台跡
 築城当初は天守閣を建てる計画があったところで、南東部の隅に残っている。

 規模は石垣高さ17m(下の濠から)、東西18m、南北20mの大きさを持つ。
【写真上】天守台から右に八上城を遠望する
 右に見える形のいい山が、高城山で、別名丹波富士とも呼ばれ、今月紹介した丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)である。
【写真左】石垣に残る「三左之内(さんざのうち)」の刻印
 篠山城の埋門周辺にある石垣には、こうした刻印や符合が残るものがある。

 この写真のものは、築城期普請総奉行を務めた池田三左衛門輝政の名を冠したものといわれている。
【写真左】本丸跡に建つ青山神社
 明治15年に建立されたもので、篠山城主であった青山家ゆかりの社である。

 祭神の一人は、青山忠俊で、竹千代(徳川家光)を厳しく育てたことにより、家光が大成したといわれている。寛永20年(1643)4月15日逝去(享年66歳)。

 もう一人の祭神は、青山忠裕(ただやす)で、特に教育に熱心であり、篠山藩校「振徳堂」の学舎を増やし、善政をしいた城主として崇められている。天保7年(1836)3月20日逝去(享年69歳)

 この外にも青山家ゆかりの石碑も数基残っている。

2011年3月21日月曜日

沢田城(兵庫県篠山市沢田)

沢田城(さわだじょう)

●所在地 兵庫県篠山市沢田
●築城期 永正年間か
●築城者 小林近江守長任
●城主 沢田左衛門尉長治・小林修理之進時道・小林平左衛門重乾
●標高 30m程度
●遺構 土塁、郭等
●登城日 2010年10月8日

◆解説
 前稿丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)の支城といわれた城砦で、八上城主・波多野氏の家臣小林近江守長任が築いたといわれている。
【写真左】沢田城遠望
 南側からみたもので、山城としては比高も低く、一見すると要害性はあまり感じられない。



 所在地は、八上城の稿で紹介した図にもあるように、八上城から北西4キロの位置に築かれている。
 山城というより平山城といった方がいいくらいの低丘陵地に築かれ、小規模な城砦である。

 現地の説明板より

澤田城
 沢田城は戦国の昔、八上城主波多野秀治の命令で、小林氏がこの地池滝山に築城したものである。
 小林氏は、沢田・黒岡郡家の千百石余を領していた。

   歴代城主         事項
  • 小林近江守長任    初代城主 天文年間(1540年・頃)沢田城を造営、小林寺殿勅岩祐元大居士
  • 沢田平左衛門尉長治     晩年入道して雑林を号し、一宇を建つ。小林寺の創である。
  • 小林修理之進時道
  • 小林平左衛門重乾     天正7年(1579)柏原八幡山で戦死。沢田城落城”
【写真下】沢田城縄張図
 図中の中央部が本丸で、左に「出羽丸」という郭が築かれ、本丸右上に二ノ丸が伸びる。
 また、右下(南)に毘沙門堂が描かれているが、これも「出羽丸」という郭跡である。
 小林寺は後に建てられたもので、本丸を背に南麓に建立されている。
 搦手は北に置いている。
















 沢田城が落城したのは、説明板にもあるように天正7年(1579)のことである。丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)主・波多野秀治・秀尚が明智光秀に攻められたのは、この年の前年(天正6年)である。

 その後約1年にわたって八上城での籠城が続いた(丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)参照)。
【写真左】本丸跡に建つ石碑
 現地はほとんど竹林状態だが、この場所だけ少し整備され石碑が建っている。

 昭和48年春に建立され、城主小林近江守の四百回忌に当たって設置されたと記されている。



 同時に八上城の支城であった沢田城主小林平左衛門重乾は、沢田城より北西10数キロ隔てた柏原・八幡山城(兵庫県丹波市柏原町柏原)で奮戦していた。

 八上城主波多野秀治・秀尚が光秀によって捕らわれ、安土に送られ信長の命によって磔刑されたのが、天正7年6月4日となっている。
【写真左】土塁跡か
 東方に見えた個所で、土塁跡にもみえる。なお、東端部や北端部はかなり要害性を持たせた切崖が残る。




 このことから、八上城と併せ沢田城の落城もおそらくこの年(天正7年)の6月1日前後と思われる。ちなみに、信長の居城・安土城が完成したのがこの年の5月11日であるので、竣工間もない城下で、彼らの処刑が執行されたことになる。

【写真左】出羽丸
 南西部に設置された郭跡で、現在は墓地となっている。









 さて、沢田城の麓には沢田城主の菩提寺「沢田山小林寺」が建立されている。

 沢田山小林寺(曹洞宗)の縁起

“ 沢田山小林寺
 元沢田城主並びに先祖の菩提寺であります。天正年間(1573~91)に、小林平左衛門長治が、父近江守長任を開基として、雑林庵を創立。のち、沢田城跡に移築し、小林寺と改称されました。
【写真左】沢田山小林寺

 下って、享保14年(1729)、寺の位階を改め法地とし、曹洞宗宗洞光寺の24世春国万世栄大和尚を迎えて開山としました。
 本尊は、十一面観音菩薩。また、68cmの毘沙門天立像(町文)が安置されています。
 なお、背後の小山全体が沢田城跡で、容易に登れます。
  篠山市”

2011年3月19日土曜日

丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)

丹波・八上城(たんば・やがみじょう)

●所在地 兵庫県篠山市八上内字高城山
●築城期 室町朝後期(永正12年:1515年)
●築城者 波多野秀長・稙通(たねみち)
●城主 波多野清秀・元清・秀忠・元秀・秀治等
●遺構 本丸・二ノ丸・三ノ丸・大堀切・曲輪等
●標高 460m
●廃城年 慶長13年(1608)
●指定 国指定史跡
●登城日 2009年5月5日

◆解説
 前稿「亀山城」でも少し触れた波多野氏の居城である。所在地は亀山城のある亀岡市から西方約40キロほど向かった国道372号線の南方に聳える高城山に築かれている。
【写真左】八上城遠望・その1
 丹波・篠山城から見たもの。
【写真左】八上城遠望・その2
 篠山ホロンピアホテルから遠望。
撮影 2015年6月8日、午後8時
【写真左】八上城絵図
 国道372号線、通称「デカンショ街道」の南を並行して走る旧道「丹波篠山五十三次(篠山街道)」脇に設置されているもので、これを見ると4カ所から登るコースが描かれている。

 当日は、絵図が設置されている春日神社付近から登った。


 現地の説明板より

国史跡八上城跡  指定年月日 平成17年3月2日

 八上城跡は、戦国時代に多紀郡(現笹山市)を支配した波多野氏の5代にわたる居城である。初代清秀は、応仁の乱(1467~77)の戦功によって、室町幕府管領細川政元から多紀郡を与えられ、八上へ入る。

 その後、波多野氏累代は、戦国時代を通して勢力を蓄え、大永7年(1527)に管領細川高国を放逐、天文7年(1538)に丹波守護代内藤氏を攻略、永禄年間(1558~69)には、三好長慶松永秀久と戦いを繰り広げる。
【写真左】春日神社
 登城口脇に建立された社で、高城市松稲荷神社が祀られている。

 石垣土塀を残し、傷んではいるが非常に雰囲気のある社である。登城道はこの社を左手に見ながら登って行く。


 波多野氏は、先ず奥谷城(蕪丸)を、続いて本城の八上城、さらに殿町にあった城下町を守るため、支城の法光寺城を築き、一帯を一大要塞化し、大規模な戦乱に対応した城造りを進める。

 天下布武を目指す織田信長が上洛すると、5代の秀治はそれに従わず、信長が派遣した明智光秀の攻勢を受ける。光秀は、八上城の周囲に付城を巡らし、八上城を徹底包囲する。
 天正7年(1579)6月、1年にわたる籠城戦の末、八上城は落城し、秀治ら兄弟3人は安土城下に移され落命する。

 落城後の八上城は、前田茂勝ら豊臣氏に縁する大名の城として使われる。しかし、関ヶ原の戦い(1600)によって、徳川家康が天下を押さえると、豊臣秀頼の拠る大阪城を包囲するため、慶長13年(1608)に、江戸幕府から篠山城築城の命令が出され、八上城は100年余りにわたる歴史を終える。
 篠山市教育委員会”
【写真左】主膳屋敷跡
 八上城主であった前田主膳が構えていた屋敷跡で、付近には供養塔が建立されている。
 規模は長径50m、短径30m程度はあったと記憶している。

 前田主膳(茂勝)は前稿「丹波・亀山城」の城主だった前田玄以(豊臣氏の五奉行の一人)の次男(又は三男)で、玄以が亡くなると、相続したものの、この八上城に転封された。

 しかし、キリシタンに信仰していたことや、八上藩主として施政に熱心でなく、しかも家臣を殺害するなど尋常でない所業から改易となった。
【写真左】登城途中からみた八上城遠望
 この日の登城ルートは西側の稜線から東に向かって進むコースだったが、この位置に来るまでには、「鷹の巣」という砦や、「下の茶屋丸」「上の茶屋丸」といった陣跡が残っている。



波多野氏

 波多野氏の出自については、平安時代末期から相模国波多野荘(現在の神奈川県秦野市)を本領とした豪族で、後に河村郷、松田郷、大友郷などにその支流を配したといわれている。

 松田郷から出た一族としては松田氏がおり、備前・松田氏や、出雲国を支配した尼子氏が入国する前の出雲・松田氏十神山城(島根県安来市安来町)参照)などがその分流となった。
【写真左】「中の壇」
 西側から向かう稜線にはこうした平坦な場所が数カ所あるが、段差を設けない郭の機能として活用されたのだろう。



 丹後・波多野氏が当地に土着した経緯については、諸説があり、はっきりしないが、説明板にもあるように、細川勝元に属した秀長(波多野)がその祖といわれている。

 ちなみに、以前紹介した石見国の黒谷横山城(島根県益田市柏原)の城主であった、波多野彦次郎・彦三郎・彦六郎、及び菖蒲五郎真盛なども、元は石見吉見氏の一族とされ、細川勝元に仕えたとき、一時母方の波多野姓を名乗ったりしているので、系譜的には相模波多野荘の波多野氏に繋がると思われる。

 築城者は丹後国に入国した秀長が基礎を造り、その嫡男稙通が本格的な城砦を完成させたといわれている。稙通から家督を受け継いだ晴通の代になると、三好氏の攻勢が強まり、一旦衰退する。
【写真左】堀切
 登城後半付近からこうした遺構が点在してくる。







三好長慶の下剋上

 説明板にもあるように、大永7年(1527)、管領細川高国が権力を失うと、細川晴元がそれに代わった。ところが天文元年(1532)、今度は晴元の重臣三好元長が、三好政長らによって謀殺された。その後元長の子・長慶が晴元政権時代から頭角を現し、次第に晴元と対立していく。

 そして天文18年(1549)6月24日、三好政長は、摂津国江口で三好長慶と戦い討死。4日後の28日、細川春元は、足利義晴・義藤とともに東坂本に奔った。
 これがいわゆる三好長慶の下剋上による京都制圧の顛末で、足利義輝を傀儡政権とし、しばらく三好長慶の政権が続くことになる。
【写真左】右衛門丸
 本丸手前にある郭で、説明板によると、波多野秀治在城のときの屋敷跡という。
 幅は10m程度で、奥行きは30m弱だったと記憶している。



 丹後・波多野氏はこうした三好長慶の下剋上の動きの中で、摂津・京都に隣接した丹後国にあって概ね自立性の高い一族であったようだ。

 信長時代以降の流れについては、説明板の通り。

【写真左】三の丸跡
 「石垣を持った広場に建物があり、南方谷間に対する重要防備陣地かと思われる」と記されている。
 この辺りから郭の規模が大きくなり、帯郭が付随してくる。
【写真左】二ノ丸跡
 三の丸から5,6mの段差を設け、幅が広くなってくる。

【写真左】本丸跡その1
 二ノ丸を過ぎるとすぐに本丸区域に入るが、郭構成が最も広大な場所である。
【写真左】八上城縄張図
 この日の登城では向かっていないが、本丸から南東部に降りると、二つの尾根にそれぞれ数段の郭と最下段には大堀切が構築されている。
 縄張図に描かれている城砦の規模は、東西約400~500m、南北400m前後になる。

【写真左】八上城跡周辺の中世城郭
 この図では分かりずらいが、左端には丹波・篠山城があり、その北東に沢田城がある。また八上城の北方には勝山城、般若城、大上西ノ山城などがあり、南方から東方にかけては法光寺城、奥谷城、曽地城などが配置されている。

 周辺部のものは、当城の支城もしくは向城だったと思われる。
【写真左】本丸跡その2
【写真左】本丸跡その3
【写真左】岡田丸跡
 「重臣岡田某の館跡とされ、眺望よく、東・北方に対する防備に当たったところと伝えられる」と記されている。

【写真左】本丸跡付近から北西方向を見る
 八上城本丸からは現在のところ全周囲を眺望することはできない。

 特に南方は全く見えず、北方の一部である。


◎関連投稿

2011年3月18日金曜日

丹波・亀山城(京都府亀岡市荒塚町)

丹波・亀山城(たんば・かめやまじょう)

●所在地 京都府亀岡市荒塚町
●形式 平山城
●築城期 天正6年(1578)
●築城者 明智光秀
●城主 明智氏、石田氏、羽柴秀勝(信長の子)・豊臣秀勝(秀吉甥)・豊臣秀俊(小早川秀秋)等
●別名 亀宝城、亀岡城
●遺構 石垣、堀
●備考 天恩鄕(大本教)
●登城日 2009年5月5日

◆解説
 丹後・亀山城は、明智光秀が天正6年(1578)に築城したといわれている。
 明治11年(1878)の廃城令によっていったん解体され、その後大正8年(1919)、朽ち果てた当城を宗教法人・大本教団が買い取り、修復と併せ同教団の施設としたもので、大分当時の面影は薄れているが、石垣や濠などには見るべきものがある。
【写真左】現地にある案内図
 城跡に関係した遺構を表記したものはほとんどないが、この図にある中央部「大銀杏」辺りが当時の本丸付近だったと思われる。
 この場所に行くには、「万祥殿」というところでお祓いを受けないと入ることはできない。当日は時間もあまりなかったため向かっていない。

 なお、「大銀杏」は明智光秀が植えたと伝承されている。

現地の説明板より

丹波亀山城跡
 (宗)大本・天恩鄕

 亀山城は、天正5~7年(1577~79)明智光秀による築城に始まり、大きく3期に分け完成した近世平城です。

 第1期は、光秀の丹波攻略の拠点で、近世城郭の先駆的なものとして築かれました。3層の天守を備えていたと伝えられていますが、詳細は不明です。
 第2期は、豊臣秀吉の支配下にあった時期で、城下町整備を中心とした小早川秀秋による築城整備です。
 第3期は、最も大規模なもので、岡部長盛が亀山藩主の時、大阪城の包囲網として、西国大名の賦役による天下普請で完成し、明治11年(1878)の廃城令で解体されるまでその雄姿を誇りました。
【写真左】本丸跡付近に建つ教団の施設

 大正8年(1919)、荒廃していた城跡を、教団「大本」が買取り、石垣を積み直し、「天恩鄕(てんおんきょう)」として神苑整備されました。

 昭和10年(1935)の大本弾圧事件で廃墟と化しましたが、戦後同教団によって復興され、城跡のたたずまいとして残る石垣と清閑な森は、往時の姿を偲ばせてくれます。”



 従って現在は同教団の施設となっていることから、見学する際は、教団の受付の手続きが必要だ。

明智光秀

 明智光秀についてはこれまでもいろいろな史料で紹介されているが、光秀が完全に信長に属したのは、足利義昭が信長と対立したときからである。同じ行動をとったのが、元々義昭の家臣だった細川幽斎(「丹後・田辺城」2011年3月5日投稿参照)である。
【写真左】石垣
 施設内の石垣は綺麗に修復されている。










 光秀は元亀2年(1571)に近江坂本城を本拠として領地を与えられると、信長の命によって畿内各地を転戦、天正3年(1575)には、日向守の官位を与えられ、「惟任(これとう)」の姓も授かる。

 彼が戦った主な相手は、紀伊の雑賀衆、丹波の波多野秀治赤井氏、大和の松永久秀(弾正)、摂津の荒木村重などである。

【写真左】石垣に残る家紋
 亀山城の天下普請の際、西国の大名が賦役として動員されているが、この写真にある石には家紋らしい刻印が見える。
 ちなみに、亀山城の石垣には、55か所(17種類)残っているという。


 丹波・亀山城はこうした相手の勢力配置のほぼ中心地点になる。つまり光秀にとっては戦況が変われば、挟み打ちにされる位置にいたわけである。

 それでも短期のうちに敵方を打ち破ったことから、丹波一国を与えられた上に、丹後を預けられた細川幽斎や、大和を領地した筒井順慶を与力大名としてつけられている。
 おそらくこの段階で、信長の他の重臣すなわち、柴田勝家や羽柴秀吉らと同格の扱いを受けていたものと思われる。

 小早川秀秋は、秀吉の正室・高台院の兄・木下家定の5男で、元服後秀吉の養子となり、その後天正17年(1589)、信長の四男で秀吉の養子となった羽柴秀勝の領地であったこの亀山城10万石を与えられ、文禄3年(1594)には、小早川隆景の養子となって、小早川秀秋と改称した。
【写真左】犬の散歩を禁止した立て札。
 「神域につき犬の散歩を御遠慮ください。 大本本部」とある。
 管理人の山城探訪はほとんど犬同伴だが、今回だけは車中で我慢させた。


 亀山城をさらに本格的な近世城郭としたのが岡部長盛とされているが、彼が当城の城主となったのは、慶長14年(1609)で、その後大坂夏の陣で論功を挙げ、慶長20年(1615)には隣の福知山藩へ加増移封された。


◆感想
 城跡がこうした宗教法人によって買取られ、整備されているところはおそらく全国ではここだけかもしれない。

 大正8年(1918)教祖・出口王仁三郎が荒れ果てた古城を買取り、今日まで受け継がれてきていると思うと、これもまた近世史の一コマといえるだろう。
 当日敷地内で多くの学生(中学生か高校生)が清掃作業をしていたが、すれ違うたびに挨拶をしてくれる。

 城跡としての遺構は大分消滅しているが、その分対応していただいた受付の人や、学生たちの態度に好感が持て、心地よい探訪だった。

◎関連投稿

2011年3月17日木曜日

吉原山城(京都府京丹後市峰山町赤坂)

吉原山城(よしわらやまじょう)

●所在地 京都府京丹後市峰山町赤坂
●築城期 嘉慶2年(1388)
●築城者 一色詮範(あきのり)
●城主 一色氏、細川氏、京極氏
●別名 権現山城・峰山城・一色城
●標高 180m(比高140m)
●遺構 本丸、二ノ丸、三ノ丸
●登城日 2008年6月16日

◆解説
 京都府の北端丹後半島の付け根にある山城で、旧峰山町にあった山城である。峰山町は、現在市町村合併により、京丹後市となった。

 吉原山城の別名は、一つには旧町名であった峰山の名をとって、峰山城とも呼ばれ、また一色氏が築城したことから一色城、さらには、後段に示すように権現山城とも呼ばれている。

 戦国期になると、前稿丹後・田辺城跡(京都府舞鶴市南田辺)でも紹介した細川幽斎が、天正7年(1579)に当城を攻め、細川氏の城ともなった。
【写真左】吉原山城案内図
 麓には金峰神社があり、そこから2,3の登城コースが設定されている。当日は、一番南側に当たる林道側から徒歩で向かった。

 この林道は車で向かうこともできるが、その場合は地元峰山町農林課に連絡し、鎖を開放してもらわないとできないようだ。


現地の説明板より

吉原山城の由来
 吉原山城は、一色・細川・京極三氏の城地として約500年の間、丹後の政治・軍略の中心であった。しかし、城といっても天険を利用した山城であり、切崖や掘割の上に平坦地を造り、柵をめぐらし木戸を構えて、敵襲の場合は逆茂木を埋め、陣屋を立てて寄せ手を防ぐという極めて原始的なものであった。
【写真左】京極家陣屋跡
 登城口の右側に小高い丘があり、約100m四方の削平地が残っている。現在は畑地となっているが、江戸時代藩主であった京極氏の陣屋跡だったという。

 なお、現地にあったもうひとつの配置図には、この辺りを「峰山城」とし、山頂側を「一色城」と表記したものがあった。



 嘉慶2年(1388)、守護一色詮範は、吉原山祇山(かみやま)に初めて山城を築いて立てこもったが、その後山頂の人呼びの嶺を本丸と定め、西丸や、三段の砦を設けるなど、本格的な築城にとりかかり、守りを固めた。

 織田信長の天下統一と共に、城主は細川氏に代わり細川興元は、天正10年(1582)、本丸に御陣屋を建て、二ノ丸・三ノ丸を置き、寺谷の東(今の上町)市街地を開いて、嶺山(みねやま)と名付けた。
【写真左】登城途中に落ちていた案内板
 登城し始めてしばらくしたら、道端に落ちていたもので、「丹後ちりめん始祖 森田治郎兵衛、峰山城主京極家 墓に至る」と書いてある。

 元々標柱のようなものに設置してあったものが、外れて道端に落ちたものなので、当該墓地の方向が分からず、現地までは向かっていない。



 徳川時代になってから、藩主は京極氏に代わり、初代高通(たかみち)は、元和10年(1624)、お国入りをして、城下町をつくり、峯山町と改称した。このころになると、城砦の必要が無くなったので、山城を廃して藩主の居館(御陣屋)・御蔵・表門・侍屋敷・御粗長屋等を造った。

 吉原山は、京極氏が山頂に蔵王権現を祀っていたことから、権現山と呼ばれるようになり、現在に至っている。
 
 昭和57年10月
  峰山町教育委員会”
【写真左】 二ノ丸と本丸の分岐点
 左に向かうと本丸、右に向かうと二ノ丸。
 なお、当城を含めた地域は、「権現山京都府歴史的自然環境保全地域」に指定されている。






 築城期の嘉慶2年は、北朝年号で、南朝年号でいえば元中5年(1388)である。
 この年から4年後の明徳3年・元中9年(1392)、南朝の後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に神器を譲り、南北朝合体となり、名実ともに室町幕府が確立されることになる。時の将軍は、三代足利義満である。

 築城者とされる一色詮範は、南北朝動乱期から頭角を現してきた一色範光の子で、室町幕府四職侍所頭人を務め、若狭・三河守護を務めている。
【写真左】二ノ丸付近
 登城したのが6月という山城探訪としてはあまりいい時期でなかったため、雑草がかなり繁茂しており、遺構の詳細は写真では分かりずらい。





 詮範の父範光は、足利氏に属し北朝側の拠点として西舞鶴の建部山に居城・建部山城(H315m)を築いている。

 範光は父範氏(「三隅大平桜」2010年9月7日投稿参照)や兄直氏らと九州探題の任務に就き、当時は幕府から九州肥前国の守護職としても活躍している。しかし、長引いた南北朝の中で、西国の南朝方に苦戦を強いられ、京に戻され、改めて三河国・若狭国の守護を拝命される。
【写真左】本丸跡に立つ社
 写真のように本丸跡に社が建っている。現地の説明板には次のように記されている。


“権現山は、古くは山祇山と呼ばれ、和泉式部が参詣し、歌を詠んだと伝えられています。

 14世紀末頃の一色氏の吉原山城築城にあたって、蔵王権現社のある頂上付近に本丸が置かれました。吉原山城は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の後、京極氏の領有となりましたが、城は再建されませんでした。また、本丸に祀られていた蔵王権現社は、明治2年に金峰神社と改称されましたが、今もこの山は権現山と呼ばれ、親しまれています。
緑と文化の基金
京都府”

 当城に説明板にもあるように、和泉式部がここで歌を詠んだことから、本丸や二ノ丸付近にかけて多くの歌碑が建立されている。


 三河国には直接下向したか不明だが、若狭国の守護職として赴いた後、地元豪族など一色支配に抵抗する勢力を押さえ、当地に覇を唱えた。
 建部山城は、旧丹後国の東端部に当たり、おそらく若狭国支配の後、次第に西に勢力を伸ばした結果と思われる。そして、子の詮範に至って、丹後国の中央部に当たる峰山にも城を築いたと思われる。
【写真左】本丸下の帯郭付近
 周辺には植樹がされ、特に桜の木が多い。植樹を最初にしたのが、大正13年とあり、それまで荒れていたのをこの年地元の人が「開墾」したと記録した石碑が残っている。




 その後の経緯については上掲の説明板の通りである。

 なお、吉原山城の南東麓には、峰山高校があるが、この学校は元楽天イーグルス監督だった野村克也氏の母校でもある。登城途中からも同校野球部員の元気のいい声が聞こえてきた。

2011年3月5日土曜日

丹後・田辺城跡(京都府舞鶴市南田辺)

丹後・田辺城跡(たんご・たなべじょうあと)

●所在地 京都府舞鶴市南田辺●別名 舞鶴城(ぶがくじょう)
●築城期 天正8年(1580)
●築城者 細川藤孝(幽斎)
●城主 細川氏、京極氏、牧野氏
●遺構 石垣、濠、庭園等
●登城日 2008年3月20日

◆解説
 前稿「小浜城」を探訪した後、舞鶴市まで行き、その夜は同市のホテルに泊まり、明くる朝田辺城を訪れた。
 この日もかなりの雨が降っており、登城するにはいい天候ではなかったが、平城であったともあり、傘をさしながら主だったところを見て回った。
【写真左】田辺城の城門
 概要
 高さ 12.07m
 間口 21.67m
 奥行 6.09m






 現地の説明板より

“市指定 史跡 田辺(舞鶴)城址
    指定年月日 昭和40年5月31日
    指定面積 19,800㎡(舞鶴公園)

 田辺城は舞鶴城とも称され、その築城は戦国群雄のなかで智将であり歌聖といわれた細川藤孝(幽斎)が、天正8年(1580)8月、織田信長より丹後国をあてがわれ、子忠興ともに縄張したことに始まり、天正10年代に完成したといわれている。

 慶長5年(1600)7月、石田三成方1万5千騎の大軍に攻められた幽斎は、わずか500人の兵で田辺城に籠城して50日余を戦った。古今和歌集の秘伝の継承者であった幽斎が、八条宮智仁親王の使者に古今相伝の箱に和歌一首を添えて献上した、世に言う古今伝授は、籠城のさなかのことである。
【写真左】城郭復元図
 左側が北方向になるので、南北に長い構成となっている。










 その後、忠興は、関ヶ原合戦の功により、豊前中津に加封され、代わって京極高知が入国、元和8年(1622)、高知の遺命により丹後国を三分し、庶子の高三が城主となって3万5千石を領し、田辺藩が成立した。

 寛文8年(1668)、京極氏が但馬豊岡に移封のあと、牧野親成がこれに代わり、以後牧野氏が明治2年(1869)の版籍奉還まで代々田辺藩主として在城した。

 城は、細川氏の築城後、京極氏、牧野氏が拡張・改修を行い、ほぼ現在の舞鶴公園地にあたる本丸を、二ノ丸・三ノ丸・外曲輪とそれぞれの堀が囲む輪郭形式の平城として整備され、さらに東の伊佐津川、西の高野川、南の低湿田、北の湾海は総堀としての役割をはたした。

 なお、舞鶴の地名は、明治2年に藩名が城号をとって舞鶴藩と改称されたことに由来しており、この公園内には築城当時の天守台石垣をはじめ、本丸、二ノ丸、石垣や幽斎ゆかりの心種園などの遺構が今にのこり往時をしのばせている。
  平成4年3月  舞鶴市”
【写真左】城門を内側から見る。
 登城したのが、午前8時半ごろだったこともあり、資料展示室もあいておらず、公園内を散策しただけに終わった。






 丹後・舞鶴城の築城者である細川幽斎は、戦国期の中でも特に教養の高い文化人でもある。
 彼の父は室町幕府の奉公衆三淵氏で、母は国学者清原宣賢の娘ということから、幼年期より教養を積み、特に和歌については当代一の碩学でもあった。

 生まれたのが天文3年(1534)で、亡くなったのは慶長15年(1610)であるから、77歳という当時としては長寿を全うしたといえるだろう。

 幽斎については他の史料でかなり紹介されているようなので、詳細は省くが、天正15年(1587)の秀吉による九州・島津氏討伐の際、日本海を船で向かったときの様子が「九州道の記」という史料に残されている。
 これによると、

 「同年4月26日、伯耆国御来屋より美保関に上陸する。佐陀神社・杵築社・石見国大浦・仁万港・石見銀山・温泉津宝塔院をめぐる。
 5月5日に温泉津を発ち、7日に浜田より長門国へと向かう。」

 とある。

【写真左】城門














 この記録を見ると、舞鶴から船で山陰海岸を回遊して向かっていることになる。

 御来屋というのは、現在の鳥取県西伯郡大山町御来屋のことで、ここから船で島根県の島根半島の東端・美保関まで向い、おそらくそこから中海を使って、松江市鹿島町にある佐陀神社を参拝し、さらに宍道湖に出て、西に向かい杵築社、すなわち現在の出雲大社に向かったものと思われる。

 その後、再び船で日本海を西下し、石見国大浦(現大田市五十猛)に寄り、仁万港(邇摩)で上陸し、石見銀山街道を使って石見銀山へ赴く。

 銀山を探訪後、銀山街道温泉津沖泊道を使って温泉津に出て、一旦浜田港まで行き、そこからはやや大きめの船に乗り換え長門に向かったものと思われる。
【写真左】公園内
 田辺城は天守閣の存在が確認されていないようだが、大手門、中門・南門といった5城門が明らかにされている。

 天守閣がなかったとしても、それに類似した中規模な櫓はあったと思われる。






 天正15年(1587)の九州島津討伐の際、秀吉自身は同年3月1日に大阪を出発し、最終的に5月8日に島津義久が秀吉に降伏している。

 秀吉から命を受けた幽斎は、秀吉自身より1ヶ月以上も遅れて出立し、しかも出雲・石見国で物見遊山のような足取りである。

 島津義久が降伏する前日にやっと長門国にたどり着くありさまで、最初から幽斎は、島津討伐には積極的に参画しようという気がなかったのではないかと思われる。

 しかも、こうした幽斎の対応に対し、秀吉がなんらかの処分をしたという記録は見えない。よほど秀吉が幽斎に一目置いていたのだろう。特に彼が千利休の高弟であったこともその理由かもしれない。