2011年3月17日木曜日

吉原山城(京都府京丹後市峰山町赤坂)

吉原山城(よしわらやまじょう)

●所在地 京都府京丹後市峰山町赤坂
●築城期 嘉慶2年(1388)
●築城者 一色詮範(あきのり)
●城主 一色氏、細川氏、京極氏
●別名 権現山城・峰山城・一色城
●標高 180m(比高140m)
●遺構 本丸、二ノ丸、三ノ丸
●登城日 2008年6月16日

◆解説
 京都府の北端丹後半島の付け根にある山城で、旧峰山町にあった山城である。峰山町は、現在市町村合併により、京丹後市となった。

 吉原山城の別名は、一つには旧町名であった峰山の名をとって、峰山城とも呼ばれ、また一色氏が築城したことから一色城、さらには、後段に示すように権現山城とも呼ばれている。

 戦国期になると、前稿丹後・田辺城跡(京都府舞鶴市南田辺)でも紹介した細川幽斎が、天正7年(1579)に当城を攻め、細川氏の城ともなった。
【写真左】吉原山城案内図
 麓には金峰神社があり、そこから2,3の登城コースが設定されている。当日は、一番南側に当たる林道側から徒歩で向かった。

 この林道は車で向かうこともできるが、その場合は地元峰山町農林課に連絡し、鎖を開放してもらわないとできないようだ。


現地の説明板より

吉原山城の由来
 吉原山城は、一色・細川・京極三氏の城地として約500年の間、丹後の政治・軍略の中心であった。しかし、城といっても天険を利用した山城であり、切崖や掘割の上に平坦地を造り、柵をめぐらし木戸を構えて、敵襲の場合は逆茂木を埋め、陣屋を立てて寄せ手を防ぐという極めて原始的なものであった。
【写真左】京極家陣屋跡
 登城口の右側に小高い丘があり、約100m四方の削平地が残っている。現在は畑地となっているが、江戸時代藩主であった京極氏の陣屋跡だったという。

 なお、現地にあったもうひとつの配置図には、この辺りを「峰山城」とし、山頂側を「一色城」と表記したものがあった。



 嘉慶2年(1388)、守護一色詮範は、吉原山祇山(かみやま)に初めて山城を築いて立てこもったが、その後山頂の人呼びの嶺を本丸と定め、西丸や、三段の砦を設けるなど、本格的な築城にとりかかり、守りを固めた。

 織田信長の天下統一と共に、城主は細川氏に代わり細川興元は、天正10年(1582)、本丸に御陣屋を建て、二ノ丸・三ノ丸を置き、寺谷の東(今の上町)市街地を開いて、嶺山(みねやま)と名付けた。
【写真左】登城途中に落ちていた案内板
 登城し始めてしばらくしたら、道端に落ちていたもので、「丹後ちりめん始祖 森田治郎兵衛、峰山城主京極家 墓に至る」と書いてある。

 元々標柱のようなものに設置してあったものが、外れて道端に落ちたものなので、当該墓地の方向が分からず、現地までは向かっていない。



 徳川時代になってから、藩主は京極氏に代わり、初代高通(たかみち)は、元和10年(1624)、お国入りをして、城下町をつくり、峯山町と改称した。このころになると、城砦の必要が無くなったので、山城を廃して藩主の居館(御陣屋)・御蔵・表門・侍屋敷・御粗長屋等を造った。

 吉原山は、京極氏が山頂に蔵王権現を祀っていたことから、権現山と呼ばれるようになり、現在に至っている。
 
 昭和57年10月
  峰山町教育委員会”
【写真左】 二ノ丸と本丸の分岐点
 左に向かうと本丸、右に向かうと二ノ丸。
 なお、当城を含めた地域は、「権現山京都府歴史的自然環境保全地域」に指定されている。






 築城期の嘉慶2年は、北朝年号で、南朝年号でいえば元中5年(1388)である。
 この年から4年後の明徳3年・元中9年(1392)、南朝の後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に神器を譲り、南北朝合体となり、名実ともに室町幕府が確立されることになる。時の将軍は、三代足利義満である。

 築城者とされる一色詮範は、南北朝動乱期から頭角を現してきた一色範光の子で、室町幕府四職侍所頭人を務め、若狭・三河守護を務めている。
【写真左】二ノ丸付近
 登城したのが6月という山城探訪としてはあまりいい時期でなかったため、雑草がかなり繁茂しており、遺構の詳細は写真では分かりずらい。





 詮範の父範光は、足利氏に属し北朝側の拠点として西舞鶴の建部山に居城・建部山城(H315m)を築いている。

 範光は父範氏(「三隅大平桜」2010年9月7日投稿参照)や兄直氏らと九州探題の任務に就き、当時は幕府から九州肥前国の守護職としても活躍している。しかし、長引いた南北朝の中で、西国の南朝方に苦戦を強いられ、京に戻され、改めて三河国・若狭国の守護を拝命される。
【写真左】本丸跡に立つ社
 写真のように本丸跡に社が建っている。現地の説明板には次のように記されている。


“権現山は、古くは山祇山と呼ばれ、和泉式部が参詣し、歌を詠んだと伝えられています。

 14世紀末頃の一色氏の吉原山城築城にあたって、蔵王権現社のある頂上付近に本丸が置かれました。吉原山城は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の後、京極氏の領有となりましたが、城は再建されませんでした。また、本丸に祀られていた蔵王権現社は、明治2年に金峰神社と改称されましたが、今もこの山は権現山と呼ばれ、親しまれています。
緑と文化の基金
京都府”

 当城に説明板にもあるように、和泉式部がここで歌を詠んだことから、本丸や二ノ丸付近にかけて多くの歌碑が建立されている。


 三河国には直接下向したか不明だが、若狭国の守護職として赴いた後、地元豪族など一色支配に抵抗する勢力を押さえ、当地に覇を唱えた。
 建部山城は、旧丹後国の東端部に当たり、おそらく若狭国支配の後、次第に西に勢力を伸ばした結果と思われる。そして、子の詮範に至って、丹後国の中央部に当たる峰山にも城を築いたと思われる。
【写真左】本丸下の帯郭付近
 周辺には植樹がされ、特に桜の木が多い。植樹を最初にしたのが、大正13年とあり、それまで荒れていたのをこの年地元の人が「開墾」したと記録した石碑が残っている。




 その後の経緯については上掲の説明板の通りである。

 なお、吉原山城の南東麓には、峰山高校があるが、この学校は元楽天イーグルス監督だった野村克也氏の母校でもある。登城途中からも同校野球部員の元気のいい声が聞こえてきた。

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