2014年10月10日金曜日

近江・小谷城・その3(滋賀県長浜市湖北町伊部・郡山)

近江・小谷城(おだにじょう)・その3

●所在地 滋賀県長浜市湖北町伊部・郡山
●築城期 永正13年(1516)ごろ
●築城者 浅井氏
●城主 浅井亮政・長政、羽柴秀吉
●指定 国指定史跡
●備考 日本五大山城
●高さ 495m(比高450m)
●遺構 郭・土塁・石垣・堀切・石垣その他
●登城日 2014年9月10日(前回2008年3月19日)

◆解説
 今稿は小谷城・その3として、黒金門を入口とする大広間から順次紹介していきたい。
【写真左】大広間・ぞの1
【写真左】本丸及び大広間 絵図
“本丸 大広間
 本丸は、古絵図では鐘丸とも天守とも記される。南北40m、東西25mを測り、南北2段の構造で、北側の上段に櫓を附属する中心建物が建っていたと考えられる。東西の石垣下には土塁が築かれ、敵が側面を回れない構造をもっていた。

 北側の大堀切で、小谷城主要部は二つに分断される。南側には石垣が積まれ、その下の大広間は南北85m、東西35mを測り、山上の小谷城内で最大の曲輪となっている。大広間には御殿が建ち、井戸や土塁が存在したことが分かっている。大広間南側には黒金門があった。”
【写真左】大広間・ぞの2
 南側から見たもので、他の曲輪群とは一線を画すほど長大なものである。
 奥には本丸の石垣が見える。
【写真左】大広間・ぞの3 井戸跡
 大広間の北東端にあるもので、内側には石積が残る。形状は四角形に見える。
【写真左】大広間・ぞの4
 北側上段の本丸側から見下ろしたもの。
【写真左】本丸側の石垣
 大広間を過ぎると本丸が控えている。大広間の天端から約5m弱高くなっている。
【写真左】本丸・その1
 上下2段で構成され、特に上の段には天守のような建物があったと想定されている。


 天正元年(1573)9月1日、浅井長政は前月の27日自刃した父・久政に続いて、本丸東の赤尾屋敷(近江・小谷城・その2参照)で自刃したといわれている。


【写真左】本丸・その2
 本丸は2段で構成されている。上の段とは約1.5m程度の高低差がある。
 このまま本丸先端部に向かう。
【写真左】本丸から大堀切を見下ろす。
 先端部まで来ると、ほぼ垂直に切り取られた大堀切が見える。
 この堀切は小谷城を意識的に2か所に区分したもので、敵方をこれ以上侵入させないという思惑がみてとれる。

 無理すれば降りれるが、ここは一旦戻り大広間側から向かう。
【写真左】至 御局屋敷
 本丸から再び大広間に戻り、左側の犬走りを進むと、その左下には前稿で紹介した御茶屋側から来ている帯曲輪が伸びているが、その末端部の幅の狭い郭は、「御局屋敷」といわれている。

 かなり急坂で崩れていたため、降りていないが、本丸を守備するためのものといわれている。
【写真左】大堀切・その1
 文字通り当城最大の堀切で、底部は大分フラットになっているため、郭状にも見えるが、当時はもっとV字状に深く抉られていたものだろう。
 長さ(尾根幅)40m弱×幅20m前後の規模。
【写真左】大堀切・その2
 右側が本丸で、左側が次に向かう中丸側。
【写真左】大堀切側から中丸を見上げる。
 次第に上部郭段との高低差が高くなってくる。
【写真左】中丸・絵図
“中丸(なかのまる)
 南北3段から成り、最上段に刀洗池がある。この池の縁を通って、上段の京極丸につながる。

 3段目と2段目の間や、1段目の南側正面には小規模な石垣が存在し、この曲輪も基本的には石垣で固められていたとみられる。

 虎口を中央に設置しているのは、中丸より上部の郭だけで、ここより下の郭は、敵がまっすぐ突き抜けられないよう側面から入る構造になっている。

 本丸との間に大土木工事によって造られた大堀切がある。清水谷側には御局屋敷と通称される腰曲輪が付属する。”
【写真左】中丸の虎口と1段目
【写真左】中丸・1段目から2段目に向かう。
 1段目と2段目の高低差は1m余りで、規模は大きさの順でいえば、1段目・3段目・2段目となっている。
 なお、このあたりから左側に付随していた帯曲輪が無くなり、両側の切崖は険しくなっている。
【写真左】刀洗池
 最上段の3段目の郭にあるもので、右奥に設けられている。

 現在水は無く、窪みが残るだけだが、戦いの激しさを物語る。

 このあと、さらに進んで京極丸に向かう。
【写真左】京極丸・入口付近
 ここは虎口ではなく、右側の箇所のもの。
【写真左】京極丸と小丸の絵図

“京極丸(きょうごくまる)
 浅井氏が守護京極氏の居所として用意した曲輪といわれる。南北4段の構造を持ち、清水谷(西側)に枡形虎口がある大きな曲輪を附属する。

 この虎口は清水谷から登る「水の手」に繋がるが、小谷落城の際に秀吉が攻め上がった道である。

須賀谷側(東側)に造られた高さ3mほどの土塁は小谷城最大の規模を誇る。

小丸(こまる)
 山王丸と京極丸の間にあり、東西2段の構造を持つ。東側が高いが、小谷落城の際に久政が籠り自刃した場所はここであろう。”

小谷城における京極氏

 浅井久政・長政が最期となったこの小谷城攻めの際、京極丸には誰がいたのか詳細な記録はない。説明板にもあるように、近江の守護職であった京極氏を招いて、この場所を提供し住まいとさせているが、小谷城落城の天正元年にはすでに同氏はいなかったのではないだろうか。

 伝聞では、京極高清(京極氏館跡(滋賀県米原市弥高・藤川・上平寺)参照)の次男・高吉が家督を巡って兄・高延と争い、一時高延を支援していた浅井亮政が高延と対立すると、高吉は父・高清(別説では材宗)と共に北近江の浅井に迎えられたという。しかし、実態は傀儡であったため、京極父子は浅井氏のもとから離れることになる。

 ただ、史料によって京極高延の方はその後、天文19年(1550)、浅井亮政・久政父子と和睦をしているというのもあるので、このあたりがはっきりしない。

尼子義久の妻

 ところで、以前出雲の尼子氏最後の当主となった尼子義久の妻は、京極修理大夫の子息・五郎という人物の姫(尼子義久の墓(山口県阿武郡阿武町大字奈古 大覚寺)参照)といわれている。

 京極氏累代の当主の中で、修理大夫の官位を受けているのは、丹波国宮津藩主・京極高知である。ただ、彼は元亀3年(1572)生まれであるから、時期が合わない。

 そこで考えられるのが、高知の父、すなわち、兄・高延と争った弟・高吉である。
 高吉には、長門守・中務少輔の官位があるものの、修理太夫記録がなく、さらに息子としては高次・高知しかいないようだが、状況を考えると、高吉に極めて近い縁者(材宗など)と思える。

 一時浅井氏に迎えられ京極丸に居を構えたものの、実権は浅井氏に掌握されていた。高吉としては孫娘の将来を考え、出雲尼子氏(義久)に嫁がせたのではないだろうか。
【写真左】京極丸・その1
【写真左】京極丸・その2
 絵図に描かれている東西の段差は、現状では大分薄らいでいるが、右側の土塁は明瞭に残っている(下の写真参照)。
【写真左】京極丸・その3
 土塁
 よほど東側の防備が重要と見えたのか、施工も良好に残っている。土塁天端を歩いてみたが、高低差を感じる。
【写真左】京極丸・その4
 左側(西側)先端部で、こちらには土塁はない。
 このあとすぐ上段の「小丸」に向かう。
【写真左】小丸・その1
“小丸跡
 二代城主・久政が引退した後に居住した所と考えられている。
 天正元年(1573)8月27日に京極丸より羽柴秀吉に攻められ、鶴松太夫の介錯により49歳を一期として自刃した。”

 久政は30代後半にして、長政はじめ家中から強制的に引退させられているが、織田信長との盟約については当初から反対の態度を示し、凋落の見えていた朝倉氏との同盟を強く主張したという。

 信長の妹・お市を妻とする長政にとって、義兄信長との戦いを当初から望んではいなかったのだろう。しかし、結果として長政は父・久政の意見に従ったことになる。
【写真左】小丸・その2

 このあと、詰めの丸といわれている「山王丸」に向かう。
【写真左】山王丸に向かう・その1
 小丸から山王丸に向かうには、ご覧のような比高10m前後の切崖を登り、最初の郭段につくと、再び同じような険しい切崖が待っている。
【写真左】山王丸・絵図

“山王丸(さんのうまる)
 標高約400mに位置する小谷城の詰の丸。南面に馬出しを配し、鎌刃(かまのはじょう)と同形態の石垣で固められた虎口を二重に備える。
【写真左】山王丸に向かう・その2
 崩れている石垣
手前が馬出し付近となる。


 南口の虎口は、破城の痕跡が現在も明瞭に残り、石垣が散乱して登山の障害となっている。中央の曲輪には山王社を祀っていた。
 南側正面石垣の石は、小谷城でも最大の大きさを誇り、この図の裏に当たる東斜面には、今も大石垣が残っている。”
【写真左】山王丸・その1
 下の段
【写真左】山王丸・その2
 山王丸中心部
 下には不揃いな石が見えるが、山王社が祀られていたときの礎石だろう。
 小谷城絵図には、この山王丸から清水谷に向けて搦手道が描かれているという。

 さらにこの奥に進む。
【写真左】山王丸・その3
 山王丸の一部と思われるが、東西に土塁が壁のように伸びている。
【写真左】山王丸・その4
 裏に回ると、ここから尾根は下っていくので、前方に見えた土塁は当城の最高所ということか。
 土塁というより土檀と言った方がいいかもしれない。
【写真左】六坊-清水谷-嶽城の案内標識
 山王丸から更に北に向かうと、上記にたどり着くが、ここからかなり深い谷に向かうことになるので、今回はここまでとした。

 このあと再び元に戻るが、途中で見過ごした大石垣に向かう。
【写真左】大石垣
 上掲した京極丸の東斜面にあるもの。
“大石垣
 小谷城でもっとも壮大な石垣である。比較的大きな石を用いた石垣で高さ約5mを測り、その規模は本丸を上回る。
 現在は崩壊しているが、東面に残る石垣に往時に姿を偲ぶことができる”

2014年10月9日木曜日

近江・小谷城・その2(滋賀県長浜市湖北町伊部・郡山)

近江・小谷城(おだにじょう)・その2

●所在地 滋賀県長浜市湖北町伊部・郡山
●築城期 永正13年(1516)ごろ
●築城者 浅井氏
●城主 浅井亮政・長政、羽柴秀吉
●指定 国指定史跡
●備考 日本五大山城
●高さ 495m(比高450m)
●遺構 郭・土塁・石垣・堀切・石垣その他
●登城日 2014年9月10日(前回2008年3月19日)

◆解説
 近江・小谷城については既に小谷城・その1(滋賀県長浜市湖北町伊部)で紹介しているが、実はこのときかなりの雨が降っていたため、先端部の出丸までしか登城していなかった。今回、6年ぶりに再び当地を訪れ登城したので改めて紹介したい。
 なお、当城の由来などについては、前回の投稿で概略は述べているので、遺構の紹介を重点としたい。
【写真左】小谷城遠望
 小谷城西麓から見たもの。
【写真左】小谷城絵図
 登城者が少ない場合は車で、番所と金吾丸の手前まで向かうことができる。

 本丸を含む尾根伝いには、主だったものとして、下から金吾丸・番所・御茶屋・御馬屋・馬洗池・首据石・桜馬場・黒金門・大広間・赤尾屋敷・本丸・帯曲輪・中丸・御局屋敷・京極丸・小丸・山王丸と続き、そこから尾根を下ると、六坊・月所丸となって、再び登ると大嶽に繋がる。


【写真左】小谷城戦国歴史資料館
 朝早かったため、未だ開館していなかった。
【写真左】前記した絵図の「現在地」付近
 金吾丸と番所の間になる。
【写真左】番所・絵図
“番所(番所)
 小谷城の主要部への入口に位置する。通常、番所があった所といわれる。登城道に面して南北に細長く石垣を組み、周辺には腰曲輪が点在する。
 北側の石垣上に一段高い平地がある。現在、北谷から登る林道(自家用車なら通交可)は、この番所跡まで通じている。”


【写真左】番所
 ここから本丸までは400mの距離。
【写真左】御茶屋・絵図
“小谷城主郭部最先端の曲輪である。中央にあるL型の土塁が特徴であるが、その内部には小規模な御殿があったと思われる。
 西側の隅には庭が存在したと考えられる。”
【写真左】御茶屋
【写真左】御馬屋(おう・まや)絵図
“高い土塁が三方を囲んだ特徴的な構造を持つ曲輪である。名称通り馬小屋があったかどうかは意見の分かれるところである。

 北東にある馬洗池は、文字通り馬を洗った池と解するよりは、桜馬場下の石垣に取り付くことを防ぐための水堀と考えた方がよい。中央に井戸があったことが確認されている。”
【写真左】馬洗池
 現在でも水が溜っている。
【写真左】御馬屋跡
“…ここから清水谷側の斜面に本丸跡後方まで帯曲輪が設けられている。”
【写真左】首据石
“黒金門跡の手前にあり、天文2年(1533)1月、初代亮政は六角氏の合戦の際、家臣の今井秀信が敵方に内通していたことを知り、神照寺に誘殺し、首をここにさらしたと伝えられる。”

 神照寺というのは、小谷城から南に7キロほど下った長浜市新庄寺町にある寺院で、平城形式の城郭寺院で、別名「新庄寺城」とも呼ばれている。
【写真左】赤尾屋敷入口
“赤尾屋敷
 浅井氏の重臣赤尾氏の屋敷跡と伝えられている。家臣の屋敷では最も本丸に近く、また浅井長政最期の地となったことから、赤尾氏の浅井家における重臣としての地位がうかがわれる。”

 ここから160mと書かれた標柱があったが、かなり下っていく道だったこともあり、今回は現地まで向かっていない。
 このまま右側の登城道を進むと、左手に長い郭段が見えてくる。桜馬場である。
【写真左】桜馬場(さくらのばば)・絵図
“桜馬場
 大広間黒金門の南に存在した曲輪。南北に長い曲輪で、東西2段で構成される。西側の細長い曲輪は特徴的で、その南西端は、信長の本陣があった虎御前山を見張る最適の地であった。

 また、馬洗池周辺は石垣が突出しており、横矢懸けの構造を持っていた。東側の登城道からは、赤尾屋敷方面に向かう道が分岐し、その手前には今井秀信の首を据えたという首据石が存在する。”
【写真左】桜馬場・その1
 先端部に向かう。
【写真左】桜馬場から西方を俯瞰する。
 奥に琵琶湖が霞んで見えるが、その手前には信長・秀吉らが小谷城を攻めた時の向城などが見える。

 信長が本陣を構えた虎御前山城については、左側に少し見えているが、全景は下の写真参照。
【写真左】虎御前山城遠望
 標高219m(比高110m)の山城。この日は時間がなく、遠望しただけだったが、当城には信長をはじめ、秀吉・柴田勝家・堀秀政・滝川一益・佐久間信盛などが陣を構えたという。

 なお、この写真は桜馬場から見たものでなく、下の御茶屋側から撮ったもの。
【写真左】桜馬場・その2
 北側から見たもの。なお、この写真の下には細長い帯曲輪が伸びている(下段写真参照)
【写真左】帯曲輪
 冒頭で紹介した絵図には次の郭段・大広間から伸びたように描かれているが、実際にはその手前の桜馬場から伸びており、最終的には中丸下の御局屋敷へと連続している。
【写真左】黒金門
 桜馬場の上段にある大広間(千畳敷)の入口となる虎口で、黒金門といわれている。

“黒金門跡
 大広間に設けられた重要な門である。「黒金門」と呼ばれているところから、鉄を打ち付けた扉であったと考えられる。”


※次稿へ続く
 小谷城は日本五大山城の一つともいわれている巨大山城である。2回の投稿では主だった遺構写真を全て紹介できないので、このあとの本丸を含めた遺構については、次稿に譲りたい。

2014年10月8日水曜日

伊甚神社(島根県松江市宍道町伊志見)

伊甚神社(いじむじんじゃ)

●所在地 島根県松江市宍道町伊志見
●創建 天平5年(733)以前
●主祭神 大歳神(おおとしかみ)
      稲倉魂命(うがのみたまのみこと)
      武御名方命(たけみなかたのみこと)

●境内合祀 美濃神社
●通称 三社大明神

◆解説(参考文献「宍道町史「通史編上巻」」等)
 このところ尼子氏及び京極氏関係の投稿を続けてきているが、今稿ではいささか唐突ながら、以前取り上げた出雲国の伊志見郷(島根県松江市宍道町伊志見)に祀られている伊甚神社をアップしておきたい。
 というのも、地元伊志見地区(郷)の氏子の皆さんによって、先般(2014年10月4日、5日)、55年ぶりに遷宮(奉賛事業)が行われたからである。
【写真左】新しくなった伊甚神社本殿
 本殿をはじめ、幣殿・拝殿・玉垣がリニューアルされ、参道・石段・スロープなど外構工事も併せて行われた。




伊甚神社

 前回、遷宮が行われたのは、昭和34年4月だといわれている。当時から氏子は40名前後と少なく、郷社・村社としてもその規模は小さく、当然ながら、昨年行われた式年遷宮の出雲杵築大社のようなものとは比較にならない。

 しかし、伊志見郷の稿でも述べたように、当社氏子でないものの隣接地に住む管理人にとって、伊志見郷は身近な土地であり、それゆえ当地の歴史には年を取るにつれて、より親しみも感じるようになった。
【写真左】拝殿・その1
 西側から見たもの。











 さて、当社そのものについては、前回紹介していなかったが、地元出雲に残された第一級の史料『出雲風土記』に、伊自美社、『延喜式』神名帳では伊甚神社と記録されている。

 『出雲風土記』が編纂されたのは、天平5年(奈良時代・733年)であるから、伊甚神社が創建されたのはこれよりさかのぼった時期と考えられる。推測だが、元明天皇の和銅年間、すなわち第一回目の平城京遷都(710)ごろではないだろうか。創建・造営の主体者は、伊志見(伊甚)国造(くにのみやつこ)とされている。
【写真左】拝殿・その2
 正面から見たもの。











 その後、鎌倉時代になると、当然ながら出雲国においても、幕府御家人関係の諸族が当地に下向し、いわゆる地頭職として主だった地域を支配下に治めることになる。
 具体的には伊志見郷に隣接する佐々布郷は、佐々布左衛門入道子(佐々布氏・佐々布要害山城(島根県松江市宍道町佐々布)その1参照)、来待荘は別府左衛門妻、宍道郷は成田四郎某(『千家文書』)などとなっている。このうち、別府氏や成田氏はともに武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県東部)を本拠とするいわゆる東国御家人である。
【写真左】伊甚神社元宮付近を遠望する。
 当社が現在地に移転されたのははっきりしないが、近世(江戸時代)になってからといわれている。

 それ以前に所在していたというのが、元宮といわれたところで、現在地よりさらに南へ約700m程登ったところといわれている。丁度この付近に南北に伸びた平坦地が認められ、入り組んだ郡境(現在の松江市と出雲市)直下になる。

 奈良・平安期にはおそらく、西隣になる学頭地区(管理人の所在地)は名称から考えて、鰐淵寺を本山とする修験道場の場所(寺領)だったと推測され、それに隣接するのが、杵築大社領の伊志見郷ではなかったかと考えられる。
【写真左】神代神楽
 二日目には奉祝祭として、隣町である雲南市大東町の海潮山王寺神楽が奉納された。






 これに対し、伊志見郷は杵築大社領(国造・出雲氏)とされ、所領支配者が大幅に変わった承久の乱(1221年)後も、以下のように記録されている。

 康元元年(1256)、国造・出雲義孝と惣検注使・証恵、杵築大社領(下記)を注進する
  • 遙堪郷・高浜郷・稲岡郷・鳥屋郷・武志郷(新田郷・別名村)
  • 出西本郷・求院村・北島村・富郷
  • 伊志見村・千家村・石墓村
                        (『出雲大社文書』)(管理人校訂)
【写真左】伊志見の棚田から伊甚神社を遠望する。
 伊志見谷は東側に流れる伊志見川を中心とする谷と、西側に小さな谷が並列し、その中間部に距離の短い舌陵丘陵が突出している。
 現在の伊甚神社はこの丘陵上に祀られている。
【写真左】伊志見郷から東方に佐々布郷方面を見る。
 伊志見谷の東に伸びる丘陵地を過ぎると、中世に支配した佐々布氏の佐々布郷に入る。



阿須伎(あすき)神社との関わり

 おそらくこの段階で、全12郷(村)に祀られた社が、改めて杵築大社の摂社とされたのだろう。その後、南北朝期から室町期にかけては、社領の支配者が定まらぬ状況も見えてくる(伊志見郷参照)が、嘉吉3年(1443)8月付の「安食(阿須伎)神社御神田公事免除状」によれば、当時安来を本拠としていた松田氏(十神山城(島根県安来市安来町)参照)がこの杵築大社領の一つ、阿須伎神社を中心とした遙堪郷を支配していたことが分かる。
【写真左】阿須伎神社
所在地 島根県出雲市大社町遙堪1473
式内社 出雲國出雲郡阿須伎神社
祭神 阿遅鋤高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)
別名 阿受伎社、阿式社
参拝日 2014年10月7日



 遙堪郷は杵築大社の足元である。広義的にいえば杵築大社本殿の境内は、東隣である遙堪の区域も含まれ、阿須伎神社も境内社のような存在だったかもしれない。

 また、阿須伎神社は、古来より杵築大社の遷宮時の際、古宮を移転して社殿とする権限・格式を持っており、他の11社を取りまとめるという役割や窓口的立場であった。そして阿須伎神社は、このころから伊志見郷(伊甚神社)と深くかかわることになる。
【写真左】阿須伎神社参道と鳥居
 南側を走る国道431号線から北に向かった谷沿いにほぼ真っ直ぐな参道が設けられている。






 この流れは戦国期に至っても基本的に変わらず、秀吉が天下統一を果たした翌年の天正19年(1591)、太閤検地にともなって多くの寺社領が削減・消滅された中で、出雲国を領することになった毛利氏(吉川広家)の文書の中で、次のようなものが残されている。

 これはこの年(天正19年)、阿式社(阿須伎社)の神官・寿讃が当社領の承認を得るために毛利氏に提出した文書であるが、これを見ると、
 
 「阿須伎社は、伊志見郷内に、27石5斗1升4合、同じく公文領として、37表1斗2升の知行地を所有…」

 とされている。こののち、江戸時代及び明治初頭まで伊志見郷(伊甚神社)と、阿須伎神社との極めて緊密な関係が保たれ、特に伊甚神社遷宮の際は、その材料となる建材などは杵築大社や阿須伎神社で使われたものが多く再利用されてきたという。
【写真左】阿須伎神社本殿
 杵築大社の摂社としての風格を感じさせる。

2014年10月3日金曜日

京極氏館跡(滋賀県米原市弥高・藤川・上平寺)

京極氏館跡(きょうごくしやかたあと)

●所在地 滋賀県米原市弥高・藤川・上平寺
●築城期 室町期(応仁の乱頃 1467~77か)
●築城者 京極氏
●城主 京極氏・京極高清
●廃城 大永3年(1523)
●指定 上平寺城及び、京極氏館跡(国史跡)
●遺構 館跡(屋敷地・庭園・墓等)
●登城日 2014年9月10日

◆参考文献(「近江の山城 ベスト50を歩く」中井均編 サンライズ出版等)
 京極氏館跡などがある弥高地区は、下記説明板にもあるように、東国と北陸(越前)を結ぶ街道筋にあって、以前紹介した清瀧寺徳源院・柏原城(滋賀県米原市清滝)の麓を走る中山道側からは、北北西に約7キロ余り進んだ伊吹山南麓部に当たる。
【写真左】京極氏城館跡
 写真の道を登っていくと、左右にそれぞれ屋敷跡などが見えてくる。








現地の説明板より

“国指定史跡
 京極氏遺跡 ― 京極氏城館跡・弥高寺跡 ―

 京極氏は、仁治2年(1241)に近江守護佐々木信綱の四男氏信が、愛知川以北六郡を与えられたのが始まりです。当初、近江における拠点は柏原館(米原市清滝)でしたが、戦国時代の幕開けとなった応仁文明の乱(1467~77)以降、北近江の戦国大名として歩み始め、これに伴って館と家臣屋敷を整備したのがここ「京極氏館」です。

 永正2年(1505)、永く続いていた一族の内紛を日光寺(米原市日光寺)の講和で収めた京極高清は、山岳寺院上平寺(じょうへいじ)があったこの地を利用して居館を築きます。
【写真左】近江国上平寺 国史跡 京極氏遺跡 イラストマップ
 下段の区域が上平寺城下町で、中央の伊吹神社鳥居を潜り上(北)へ進むと、薬師堂・隠岐屋敷・弾正屋敷・蔵屋敷などがあり、伊吹神社下に京極氏館跡がある。伊吹神社の横には京極氏一族の墓が祀られている。

 なお、伊吹神社の階段下の左側の山道を登っていくと「上平寺城(標高669m)」があり、そこからさらに谷を隔て西の尾根伝いを進むと、弥高寺跡(標高715m)があるが、この日は時間もなく、またこの辺りは時節柄、熊、ヒル、スズメバチなどが多いという注意書きがあったため、登城してない。



 伊吹神社境内全域が京極氏館跡で、庭園を伴った京極氏の住まいや蔵屋敷、隠岐屋敷や弾正屋敷といった家臣団の屋敷が建ち並んでいたようです。

 『上平寺城絵図』(市指定文化財)からは、内堀をはさんで館の南、現在の上平寺集落に武家屋敷や町屋敷が、さらに外堀があって市や民家がならぶ城下町が広がり、その南端に東国と北陸を結ぶ主要道「越前街道(北国脇往還)」を取り込んでいることがわかります。

 このように、16世紀初頭には北近江の政治拠点として栄えた上平寺ですが、大永3年(1523)、高清を補佐する上坂信光の専横に対し、浅見・浅井・三田村・堀氏などが上平寺城を攻め落とし、京極氏館は廃絶したと考えられています。

 平成16年2月27日、わが国における戦国大名のあり方がわかる遺跡群として、京極氏館と南西尾根上の家臣屋敷、山頂の上平寺城、山岳寺院弥高寺跡が国の史跡に指定されました。”
【写真左】登城口付近
 4台程度の駐車ができる場所がこの下に確保されている。そこに車を置き、ここから歩いて向かう。

 なお、この入口の左右にある溝は当時の内堀跡とされている。



京極高清

 京極高清については、これまで小谷城(滋賀県長浜市湖北町伊部)、太尾山城(滋賀県米原市米原)その1、美作・高田城(岡山県真庭市勝山)その1、勝瑞城(徳島県板野郡藍住町勝瑞)などで少し紹介しているが、ここで改めて、前稿で紹介した佐々木(京極)道誉から続く京極氏宗家の系譜を整理しておきたい。
【写真左】弾正屋敷跡
 入口付近にある薬師堂を過ぎると、すぐに右手に見えてくる。








《京極家宗家の流れ》 ※一部省略

佐々木(京極)道誉(1296~1373)
(鎌倉幕府御家人・室町幕府引付頭人、若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護)
   ⇓
京極 高秀(1328~1391)
     (道誉三男)
     (室町幕府評定衆、出雲・飛騨・隠岐守護)
   ⇓
京極 高詮(1352~1401)
     (室町幕府侍所頭人、近江・飛騨・出雲・隠岐・石見・山城守護)
              (兄弟:尼子高久 1363~91 など)
   ⇓
京極 高光(1375~1413)
     (室町幕府侍所頭人、飛騨・出雲・隠岐・石見・山城守護) 
   ⇓ 
(京極 持高)
   ⇓
(京極 高数)
   ⇓
京極 持清(1407~70)
    (室町幕府侍所頭人、近江・飛騨・出雲・隠岐・山城守護)
    ※実父は高光
   
    持清 長男  勝秀(1432頃~68)   ⇒ 勝英長男・高清

        次男   政光(1449~72)

        三男   政経(政高)(1453~1502又は1508)    
【写真左】蔵屋敷跡
 少しカーブしたところを進むと右手に見えてくる。
 進むにつれて奥行が深くなる。






京極争乱 

 上掲の説明板にある「永く続いた一族の内紛」とは、京極家の家督を巡る争いである。上記の《京極家宗家の流れ》で同家の系譜を綴っているが、10代高数あたりから畿内を中心として大きなうねりが現れてくる。
【写真左】隠岐氏屋敷跡
 道路を挟んで反対側には蔵屋敷跡がある。雑草が繁茂しているため分かりずらいが、土塁跡が鮮明に残る。

 名前から考えて、京極氏が隠岐国の守護職であったことから、佐々木道誉の孫高詮の代に守護代となった秀重の系譜を汲むものかもしれない。
 地位は同屋敷跡の上段に京極氏の屋敷跡があることから京極高清の家老職であったと考えられる。



 高数の代に嘉吉の変が勃発、そして世に名高い「応仁の乱」が次の持清の代から始まるが、これに期を合わせるかのように、京極家内部では家督相続をめぐる戦いが始まることになる。持清の長男勝英が父より先に亡くなり、その2年後持清が亡くなると、その跡を巡って下記の二派に対立が生じた。


孫童子丸(勝英嫡子)派 ←争い→ 乙童子丸(勝英庶子)派
  政経                    政光      
多賀高忠(近江守護代)          多賀清直(飛騨守護代)  
             
  
 この対立は概ね文明2年(1470)から永正2年(1505)までの約35年という長い抗争であった。そして最終的には乙童子丸、すなわち後の高清が京極家の争いを収束させた形となったが、この間代々受け継がれてきた出雲・隠岐・飛騨国の守護領国を事実上失うことになり、その代償はあまりにも大きかった。
【写真左】京極氏屋形跡
 伊吹神社直下が京極氏の館跡である。
 ここから、さらに奥に進む。







京極政経(政高)の出雲国下向

 ところで、この争乱の間、孫童子丸派であった政経(政高)は、一時期乙童子丸(高清)派に押しやられた際、尼子氏を頼り守護国であった出雲へ下向している。
  • 文明4年(1472)11月16日、出雲国守護・京極政高、小野政継の日御碕検校職を安堵する(「小野文書」)
  • 文明5年(1473)2月11日、京極政高、松田三河守に出雲国法吉郷を安堵する(「小野文書」)
  • 文明6年(1474)11月17日、京極政高、尼子経久に美保関の公用一万疋を納めさせる(「佐々木文書」)
  • 同年11月29日、京極政高、尼子経久に対し生馬郷・利弘保・阿陀加江(現:出雲郷)内青木分並びに多弥分を安堵する(「佐々木文書」)。足利義政、尼子経久に出雲国利弘保を安堵す(「佐々木文書」)。
【写真左】京極氏庭園跡・その1
 屋形跡に入り、奥に進むと同氏庭園跡がある。
【写真左】京極氏庭園跡・その2
 高清が作庭したとされ、手前と奥に二つの池を配し、中に小さな石をおいた中島がある。

 この庭園に隣接した建物(礎石跡)があり、川戸谷の四季を借景にしながら、客人をもてなし、さまざまな儀礼・宴が行われていたという。



 以上の史料は、おそらく政経自身が出雲国に在住しているときに安堵したものと思われる。
 明くる文明7年(1475)年9月初旬、政経と息子高忠は出雲の国人衆らを率い上洛、政経は幕府(義政)から近江守護に改めて補任され、西軍方に抑えられていた近江国奪還の命を受けた。

 なお、このとき出雲国から随従していた中には、当時16歳で、又四郎と名乗っていた尼子経久がいた。従って上掲した経久宛ての安堵状などは、事実上経久の父・清貞に対するものだろう。
【写真左】上平寺城(桐ヶ城)へ向かう道
 京極氏屋形跡と反対側には、上平寺城へ向かう道がある。

 当城は上平寺尾根にあり、伊吹山五合目方面に向かうルートでもある。このため、こちらに向かう際は、一般の登山と同じく、登山届をするようになっている。


 そして、政経上洛に併せて随従した経久の立場は、名目上「人質」であった。混迷し大義を失った応仁の乱である。政経にとって、出雲国から引連れてきた国人衆が、この乱が長引くことによって他の一族がそうであったように、離反(西軍へ)する可能性も想定していたのだろう。経久はそれを食い止める意味もあった「人質」である。

 経久が主君・京極政経の居館(京屋敷)で滞在したのはそれから5年間である。この間、元服しそれまで名乗っていた「又四郎」から、政経の偏諱を賜り「経久」と名乗った。人質とはいえ、経久が過ごした京都における5年間は、のちに彼自身にとって大きな経験となったことだろう。
【写真左】伊吹神社
 京極氏屋形跡の上段に祀られている。
 本殿の左側には京極氏の墓がある(下の写真参照)
【写真左】伊吹神社・本殿
 小規模だが見事な彫刻で飾られている。「伊吹おろし」や雪が多いのだろう、太刀と同じ「鞘がけ」形式でさらにこの外を保護している。これを見た瞬間、以前参拝した因幡(鳥取県)鹿野城の城山神社を思い出した。
【写真左】京極氏一族の墓
 もともとこの場所に高清の墓があったが、清瀧寺徳源院・柏原城(滋賀県米原市清滝)でも述べたように、江戸時代、丸亀藩主・京極高豊が、歴代藩主の墓を整備した際、高清の墓石は移された。

 ここに残る墓石の一つに、「浄光院殿芳室宗口大禅尼 永承3年(1506)4月7日」の文字があり、京極氏ゆかりの女人の墓と伝えられている。


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