2011年11月22日火曜日

岩倉城(徳島県美馬市脇町田上)

岩倉城(いわくらじょう)

●所在地 徳島県美馬市脇町田上
●築城期 鎌倉期
●築城者 小笠原長房
●城主 三好徳太郎康俊、長宗我部親吉
●高さ 標高110m(比高50m)
●遺構 郭・堀切
●登城日 2011年6月25日

◆解説(参考文献『サイト:城郭放浪記』等)
  吉野川市の川島城(徳島県吉野川市川島町川島)でも少し触れているが、川島城から吉野川をさかのぼり、「うだつの町並み」で有名な脇町(美馬市)の吉野川北岸に築かれた山城である。
【写真左】岩倉城遠望
 北東部からみたもので、ご覧の通り遠望する限りではこの小丘が山城とは思えない。


 写真手前に車1台分の駐車スペースがあるが、この位置の頭上(北側)は徳島自動車道が走っており、当城に向かうには、この自動車道下のトンネルを潜る。



現地の説明板より

“岩倉城跡
      所在地 徳島県美馬市脇町田上

岩倉城は、中世に築城された阿波国西部地区を代表する城の一つです。阿波国西部の戦略的要衝である脇・岩倉点在する城館群の中核的機能を果たす城であり、最盛期には六坊を備えた広大な城域を持っていたといわれます。

代表的な城主として、三好長慶の叔父の三好康長(笑岩)が挙げられます。


正確な築城年代は不明ですが、一説によると、阿波国守護の小笠原長房が、文永4年(1267)に居城していたとされていることから、古くから阿波西部の防衛拠点としての重要な役割を果たしていた城郭といえます。

東の脇城とは密接な関係にあり、岩倉城と東の脇城の二城は、地理的に近く相互連携することで、防衛拠点機能を果たしていましたが、次第に主たる機能は、脇城へと移行していきます。

現在までの地形改変により、本来の岩倉城の姿は大きく失われており、現在その痕跡が確認できるのは、本丸跡と思われるこの位置のみである。
美馬市教育委員会”
【写真左】堀切
 現在の遺構として明瞭なものは、この堀切と郭程度で、全体に整備されていないようだ。


 東側に走る道路(帯郭跡か)を進むと最初に西側に見える。



阿波・小笠原氏

 中世阿波国を最初に支配したのは、説明板にもあるように守護として下向してきた小笠原長房とされている。承久の乱による論功行賞によるものと思われるが、当初長房の兄・長忠が阿波国守護として任ぜられたものの、長忠は生まれ故郷の信濃国へ戻り、代わりに弟の長房が当地に入った。
 説明板には、長房が文永4年(1267)には居城していた、となっているので、下向してきたのはこれよりだいぶ前のことと思われる。
【写真左】登城道
 本丸は右側にあるため、この写真の道も当時は帯郭もしくは、犬走りのようなものだったかもしれない。






戦国期

戦国期に至って当城の代表的な城主として、三好氏の名が挙げられている。

ところで、この阿波三好氏は先述した小笠原氏の末裔といわれている。小笠原氏から三好氏に改称した時期は、南北朝後期の義長のころといわれ、三好郡に住んで三好氏の祖となった。したがって、小笠原長房が阿波国守護となって以来、小笠原・三好一族は、およそ300年近く同氏が当地を支配していたことになる。
【写真左】説明板
 この説明板にもあるように、遺構としては本丸跡付近のみが残っている。
南側先端部に設置されている。






 戦国期の三好氏といえば、三好長慶がもっとも有名であるが、岩倉城主として名が残るのは、三好康長とされている。

説明板にもあるように、かれは長慶の叔父にあたり、長慶の父は元長である。従って、元長と康長は兄弟で、元長が長子である。

 三好氏が阿波国に勢威を張り出したのは、この元長の代からである。彼は、特に吉野川流域の支配拡大を行い、戦国期阿波三好氏の基礎を築いたともいえる。
【写真左】石碑
 南側に設置されたもので、小規模な五輪塔形式の墓石が2,3基祀ってある。








 室町期における三好氏は、細川家の家臣として仕え、之長の子長秀は、細川政元に重用された。

 この政元は室町幕府の重鎮で事実上幕府を牛耳っていた。しかし、晩年にいたると後継者問題に嫌気がさしたのか、厭世観が次第に強くなり、都を離れ修験者になりたいと言い出した。これに対し、之長・長秀がその都度諌めることがあったというが、最期は行水をしていたところを襲われ、殺された。享年42歳。

 このあたりから細川家における後継者問題が拡大していき、三好長慶の時代になると、同氏は畿内を長慶が、阿波国を弟の実休が治めるようになる。
畿内における長慶や、のちに出てくる松永久秀の活躍については他の史料で度々取り上げられているので割愛させていただく。
【写真左】郭跡
 現在の岩倉城跡は南と北にそれぞれ郭が残り、その間に前掲した堀切が介在している。
この写真は南側の郭だが、墓石のようなものが倒れたままになっている。


 この郭の規模はおよそ15m四方程度か。
 東側には土塁のような高まりを残していた。



 さて、岩倉城に関する資料はほとんど持ち合わせていないが、前記した三好康長の子・康俊が城主となった天正年間、東方の脇城(城主武田信顕)とともに、南方から侵攻してきた長宗我部氏に降り、同族の三好氏をおびき寄せ勝利したという。おそらくこのときと思われるのが、天正7年(1579)12月の岩倉合戦といわれるものだろう。

 敗死した側の阿波の諸将の中には、上述した川島城(徳島県吉野川市川島町川島)川島兵衛之進がいた。
【写真左】西側の郭
 西方に少し伸びた郭だが、この写真では単なる藪に見えるかもしれない。








 一旦長宗我部氏に降った康俊らだったが、再び三好氏に復帰するも、長宗我部氏に攻められ、康俊らは降伏し討死したともいわれている。
【写真左】南側から南東麓を見る。
 南端部には現在朽ち果てた小屋があるが、農業用の施設跡のようだ。
 この位置から吉野川が見える。
【写真左】岩倉城から東方を見る
 写真に見える川は吉野川で、遠くに見える橋は国道193号線にかかる穴吹橋。
【写真左】岩倉城から東方に「脇城」方面を見る
 脇城は岩倉城から1キロ程度離れているが、この写真では左側になる。






◎関連投稿
飯山城(鳥取県米子市久米町)
池田・大西城(徳島県三好市池田町上野)
白地・大西城・その1(徳島県三好市池田町白地)

2011年11月18日金曜日

脇屋義助の墓(鳥取県倉吉市新町 大蓮寺)

脇屋義助の墓(わきやよしすけのはか)

●所在地 鳥取県倉吉市新町1-2411 大蓮寺
●探訪日 2011年10月15日

◆解説
 今稿では、前稿「田尾城」で紹介した脇屋義助の墓所を取り上げたい。
【写真左】脇屋義助の墓がある大蓮寺の本堂
 打吹山城の北麓、倉吉白壁土蔵群で有名な同市中心部に建立されている寺院だが、ご覧のとおり大変カラフルな近代的建物となっている。


 観光名所としての土蔵群のエリアから少し外れた場所であるが、この寺院にも観光客が訪れているようだ。



脇屋義助


 脇屋義助については、これまで前稿田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)や、川之江城(愛媛県四国中央市川之江町大門字城山)備中・福山城(岡山県総社市清音三因)世田山城(愛媛県今治市朝倉~西条市楠)などで断片的に紹介しているが、南北朝期、新田義貞の弟として、南朝方に与し各地で転戦、康永元年・興国3年(1342)、四国の伊予国において病死した。
【写真左】脇屋義助の墓
 大蓮寺境内はさほど広くないが、規模の割に墓地の占める割合が高い。


 写真中央のものが脇屋義助の墓で、左右の墓については特に説明板のようなものがないためわからない。
 五輪塔形式のもので、高さは2mを超える大きなものだ。


二つの墓所

さて、彼の墓所については、今のところ次の2か所が挙げられている。
  1. 脇屋義助廟堂(愛媛県今治市国分4丁目)
  2. 鳥取県倉吉市新町1-2411 大蓮寺
このほかに、兄新田義貞が亡くなった越前国(福井県坂井市丸岡町長崎 称念寺)にも所在するという史料もあるが、義助は当地で亡くなっていないので、供養塔と思われる。

1、の今治市に墓所があるのは当然だが、2、の鳥取県倉吉市になぜ建立されているのか、少し気になっていたので、関係資料はほとんどないものの、検証してみたい。
【写真左】山名寺
 倉吉市を横断する小鴨川北岸の磐城に建立されている。山名寺の前身は三明寺という寺院だったという。
【写真左】山名時氏の墓
 山名寺の西方に「三明寺古墳」と並んで建立されている。






 鳥取県倉吉市、すなわち伯耆国であるが、ここには以前取り上げた田内城(巖城)・山名氏(倉吉市)、および打吹山城(鳥取県倉吉市)が所在する。

そして田内城の築城者であった山名時氏が約20年間居城としたところである。

山名時氏との関わり

 山名時氏は、山名政氏を父とし、母は上杉重房の娘である。父政氏は元々新田氏の一族である御家人の出(上野国新田郡新田荘)である。したがって、本来ならば、そのまま山名氏は新田氏に従ってもよいはずである。しかし、時氏は母方の上杉氏、すなわち足利氏に属した。

 山名時氏が生まれたのは、嘉元元年(1303年:別説では1298年)であるから、脇屋義助の生誕年(嘉元3年:1305年)とほぼ同時期である。そして、生誕地も義助と同じ上野国で、多胡郡山名(現在の群馬県高崎市山名町)である。

 ちなみに、脇屋義助や新田義貞兄弟の生誕地である太田市と、山名時氏が生まれた高崎市とは約25キロ前後離れている。また、足利氏の本貫地である足利市に近いのは、脇屋氏のあった太田市が近く、山名氏の高崎市のほうが遠い。
【写真左】大蓮寺境内に建立されているもう一つの五輪塔群
 脇屋義助の墓は山門から入ってすぐ左側にあるが、この写真のものは西方の奥に並んでいるもので、5基を数える。義助のものよりは規模が小さいが、それでも五輪塔としては大きな部類に入る。
 残念ながらこれらの五輪塔群については詳細は不明。



 金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)の稿でも述べたように、新田義貞は延元3年・建武5年(1338)、越前国の藤島城(福井市藤島町)攻めにおいて、北朝方によって攻められ、討死した。そして、あくる延元4年・暦応2年(1339)、8月15日後醍醐天皇は譲位、義良親王(後村上天皇)受禅し、16日に後醍醐天皇は没した。

 兄の死、および後醍醐天皇の死去によって、ますます南朝方は弱体化し、康永元年・興国3年(1342)、義助は勢力を保持している伊予国に渡った(もっとも、「田尾城」でも述べたように、これ以前かもしれない)。
【写真左】大蓮寺山門から南方に打吹山城を見る。
 脇屋義助の墓はこの写真の右下に見える。







 このときの動きがはっきりしないが、義助は伊予国を含めた四国のみならず、中国方面も南朝方の取りまとめ役として総大将に任命されている。

 任命したのは当然ながら後村上天皇であるが、即位間もない天皇は、このころ矢継ぎ早に綸旨や、軍勢催促・所領安堵を行っている。南朝方の弱体化に焦りを感じていたのだろう。

 後村上天皇のこうした命に対し、南朝方総大将となった脇屋義助の献身的な姿が彷彿されるが、中国・四国において南朝方をまとめるという任務は義助にとって、大変な負担であったと思われる。

 さて、倉吉市の大蓮寺にある脇屋義助の墓の経緯だが、この墓については、結論から言って、限りなく山名時氏が関わっていると思われる。

 山名寺・山名時氏墓(鳥取県倉吉市巌城)でも紹介したように、時氏自身の墓は同じ倉吉市巌城にある「山名寺」に建立されているが、生前時氏は、新田氏の出身地である上野国から臨済宗の名僧・南海宝州を招き、禅院(光孝寺)を建てた(おそらく山名寺周辺と思われる)。

 時氏は南北朝初期には確かに、新田義貞らと袂を分かち尊氏に与したが、その後直義・直冬らと結び幕府に翻し、帰参後は管領細川氏と対抗していく。

 脇屋義助が病死した康永元年(1342)から、24年後の貞治5年(1366)、時氏は出家し道静を号した。おそらく、南海宝州を伯耆に招き、光孝寺を建てたのはこのころだろう。
 そして、併せて、時氏は同じ新田一族であった義助を追悼すべく、光孝寺から少し離れたこの大蓮寺付近に五輪塔形式の供養塔を祀ったのではないだろうか。
【写真左】大蓮寺に向かう参道
 手前の東西の通りから狭い脇道があるが、これが通称・弁天参道といわれ、大蓮寺に向かう参道となっている。

 大蓮寺の山門脇には、大弁天という弁天様が祀られている。


大蓮寺沿革

参考までに当院の沿革を記す。

“沿革
 打吹城址に東接する華到(げとう)(巷称は外道)山麓は、“法界門”の小字、“寺山”“寺屋敷”と名残るあたりに草創。養老年間に創建の厳城は見日千軒の興教院と南北に対峙した古刹である。


 小鴨の奔流は洪水の度に北遷し見日千軒を潰滅した反面、南部に沖積地を造成したので、武将山名は田内から打吹に居城を移し、山裾に陣屋を構え、外部に町屋を並べ居住区を用水路玉川で区切った。その頃の郊外で北に拡がる入江の面影を残し、“濱の松”の林立するところ、城山に正面し向山を借景に移建。時に永禄か。


 移築開山の文翁の西化を天正19年7月4日と墓に刻しているが、“延享の大火”で倉吉は全滅、当山も祝融を受け、寛保以前は定かでない。
【写真左】大阪の豪商「淀屋」の墓
 脇屋義助の墓に隣接して建立されているのが、倉吉を本拠として大阪で江戸時代繁栄した「淀屋」の墓である。

 大坂の陣(冬・夏)で徳川方につき、戦の跡残った武具などを集めそれを売って儲けたといわれる。今でいえば、リサイクル商売の先駆けだろう。
 なお、淀屋の出身については八幡市(京都府)との関わりも深い。



“エエモンがほしい”とおやつをねだる童に親は“エエモンは大蓮寺にある”と応えたという。その山門は地名にも現存。京都○○博士が“この門で偉容を偲べる”といった倉吉最初の葺瓦本堂は、昭和17年解体したが、昭和30年に倉吉最初の鉄筋混凝土建築・近畿以西最初鉄筋コンクリート造営の“赤蓮華僧伽藍”再建。


 草生期の成徳小学校や倉吉西高等学校が当寺を教場とし、旧制倉吉中学校(倉東高)創立の期成事務もここで執るなど文教に関与した寺歴があり、歴住に風騒の人も少なくない。…(以下略)”

2011年11月12日土曜日

田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)

田尾城(たおじょう)

●所在地 徳島県三好市山城町岩戸●別名 多尾城、白地山城
●築城期 久安6年(1150)ごろ、または南北朝期(興国元年ごろ)
●高さ 標高500m(比高300m)
●指定 三好市市指定史跡
●築城者 脇屋義助・小笠原頼清
●城主 近藤(大西)京帝、大西覚用・頼信等
●遺構 郭・堀・土塁等
●登城日 2011年11月9日

◆解説(参考文献『城郭放浪記』等)
 前稿川之江城(愛媛県四国中央市川之江町大門字城山)で少し触れたように、南北朝期南朝方新田義貞の弟・脇屋義助が関わった山城である。
【写真左】田尾城遠望
 西側からみたもので、左(北)に向かうと吉野川の支流・銅山川につながる。







 川之江城から当城に向かうルートとして考えられるのは、国道11号線から国道192号線(阿波街道)にいったん入り、県道5号線(川之江大豊線)に向かい、「堀切トンネル」をくぐって、銅山川水系の新宮ダム付近に出て、そこから同川と並行して走る国道319号線を下り、三好市の山城町黒川まで来ると当城の麓にたどり着く。

 おそらくこのルートは南北朝期の河野氏細川氏の争い、また戦国期には、長宗我部氏の四国制覇の際度々利用された経路と考えられ、阿波国と伊予国の境目でもあったことから、時の支配者にとっては最も重要な経路だったと考えられる。
【写真左】田尾城配置図
 現地(山城町)の黒川谷川付近に設置された「グリーンツーリズム体感マップ」という地図に示されている。
 この図では左側が北を示す。
 管理人が登城したこの日は、引地というところから登り、登城後反対側の「現在地(黒川)」へ降りた。


 ただ、引地というところからは向かうコースは、とんでもなく急坂・急カーブ、そして道が狭く、運転に未熟な人にはお勧めできない。ほとんどガードレールがない道で、一つ間違うと谷底へ車ごと落ちてしまうスリル満点?のコースである。



 ちなみに、前述した愛媛県側の「堀切トンネル」が開通する前は、江戸時代初期、土佐藩が参勤交代の際、西方にある「堀切峠」を使っていたといわれている。

 現在では、徳島自動車道を使って、井川池田ICから国道32号線を南下し、そこから319号線に入れば短時間でたどり着ける。
【写真左】長宗我部元親の指揮所跡
 田尾城登城口と反対側に建立された場所で、写真中央に石碑が祀られている。


この場所は田尾城の現在の登城口と近接しており、違和感を感じるが、当時の田尾城の大手門登城口は別のところにあったようだ。



現地の説明版より

“山城町指定 田尾城址


 田尾城は中世の山城で、南城と北城がある。南北朝時代の山城の特色は、石垣のない空堀で、城の配置にも特色がある。
 当時は北城が正面・戦国時代南城が改修され正面に変わる。


戦史
1、南北朝時代
 平地より侵攻してきた北朝方の細川頼春に対し、池田城小笠原義盛は、南朝方に味方して西暦1337年、挙兵し戦ったが戦い利あらず和を結んだ。長男頼清は、節を曲げず、讃岐に侵攻してきた南朝方の山岳武士集団の脇屋義助と呼応して、田尾城を築き、八石城と連携した阿波山岳武士の拠点である。
【写真左】田尾城登城口付近
 駐車場は、この手前3,40m付近に確保されていて、そこから歩いていく。

 写真右側に設置されているものが、転載している説明版で、平成15年に整備されたようだ。




2、戦国時代
 土佐の長宗我部元親は、四国制覇の野望を抱き、約三千の兵を従え、天正5年春1578年侵攻してきた。白地城大西覚用は、砦の田尾城を改修し、弟頼信13歳を城主とし、守将の寺野源左衛門武次に兵300を与え、猛反撃を繰り返したので、力攻めでは落とせないと見た元親は、夜陰に乗じ山に火を放った。火攻めにあい落城したので、白米伝説がある。


備考  
 1150年 近藤京帝 白地城を築く 大西と改姓
 1221年 小笠原長清 池田大西城築く
      勝瑞城に移り三好と改姓


   平成15年8月31日
     山城町教育委員会”
【写真左】登城道
 全体に傾斜のある直進の坂道だが、簡易舗装など大変に整備が行き届いており、歩きやすい。
 ただ、この箇所の道は当時のものでなく、近年新たに作られた道のようだ。





脇屋義助

 説明板にある池田城の小笠原義盛が、北朝方の細川頼春と和議を結んだ西暦1337年とは、延元2年(建武4年)のことである。

 金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)でも紹介したように、この年正月、高師泰が越前国金ケ崎城を攻撃し、3月6日、当城は陥落し、恒良親王は捉えられ、新田義貞の長男・義顕は自害する。

 脇屋義助は兄・新田義貞とともに、越前国でその後も戦うが、翌延元3年(1338)に義貞が戦死すると、兄に代わって同国の宮方総大将として戦うことになる。しかし、戦況は次第に不利となり、越前国から退いた。
【写真左】虎落(もがり)のサンプル
 登城途中にはこうした戦の際使用されたサンプルを設置している箇所がある。





 義助が中四国の南朝方の総大将として西国にやってきたのは、病死する康永元年(興国3年:1342)とされている。したがって、田尾城を築いたのはこの年ということになるが、この年以前にはすでに当地に赴いていた可能性が高い。

 というのも、脇屋義助が関わった城砦としては、この田尾城の他に、説明版にもあるように三好市の東方井川町井内にある「八石城(H780m)」や、東みよし町東山の「東山城(H401m)」は、脇屋義助が山岳武士の拠点としたところで、これら複数の城砦を短期間に築城することは、現実的には無理があるからである。

◎関連投稿
 脇屋義助廟堂(愛媛県今治市国分4丁目)
【写真左】堀切
 堀切の箇所で、両側に石積を行い橋をかけているが、これは田尾城の歴史から考えると、ありえない。


 また、この箇所からさらに上に行くと、途中に近世城郭の「狭間」などが設置されているが、これもあり得ない。



戦国期

 戦国期においては説明版にもあるように、長宗我部元親の侵攻が記録されている。当時、この地域一帯は大西氏が支配していたが、阿波細川氏から実権を奪取した三好氏に服属していった。こうした中、土佐の長宗我部氏が四国支配の最重要拠点として、伊予街道と徳島街道の合流点にあたる位置に築かれた白地城(白地・大西城・その1(徳島県三好市池田町白地)参照)を攻略した。天正4年(1576)のことである。

 そして、翌天正5年、白地城の支城であった田尾城を攻め落とすことになる。

 なお、説明版に天正5年春1578年とあるが、天正5年は1577年である。
【写真左】本丸跡・その1
 登城道を直進していくと本丸にたどり着く。
ほぼ円形の形を成している。規模は下記の通り。
南北21m、東西18m。
土塁 高さ 1~1.6m、幅 3~4m
本丸北側には、毛抜堀、片薬研堀、畝堀、竪堀があり、搦め手となっていた。



大西覚用

 大西覚養、または角養とも記す。
 大西氏は、説明板には書かれていないが、鎌倉時代京都から荘官として派遣されていた近藤氏が当地に土着し、大西氏と改姓したことに始まる。そして小笠原氏とは緊密な関係を保ち、南北朝時代には南朝方として戦った。(白地・大西城・その1(徳島県三好市池田町白地)参照)

 しかし、小笠原氏と一旦、袂を分かつきっかけとなったのが、説明板にもあるように、小笠原義盛が細川方と和議を結んだことからである。しかし、のちに小笠原氏はこの場所から東方に移住し、三好氏と改姓していく。戦国期に至ると、覚用の父・頼武は三好長慶の妹を娶り、息子の覚用自身も三好家の女を娶っている。

 三好氏は長慶の時代になって、本国阿波から畿内に上り一時は畿内を制圧するほどの勢力を誇った。ただ、阿波国西部における三好氏の支配が弱くなり、大西氏に限定されたことが、のちには長宗我部氏の台頭を誘引したともいえる。
【写真左】本丸跡・その2
 本丸から北側に進もうとしたが、整備されておらず、写真に撮っていないが、毛抜堀は確認できた。
【写真左】天神社殿
 本丸奥の中央部に祀られている。


 なお、この場所では時々地元の方々によっていろいろなイベントが行われているようだ。
【写真左】土塁
 全周囲にわたって土塁が張り巡らされている。
 保存状態は良好である。
【写真左】田尾城付近から北麓を見下ろす。
 改めてこの位置から眺めると、田尾城の険峻さに驚く。
【写真左】田尾城遠望・その2
 下山途中から田尾城を遠望する。


【写真左】下山した黒川谷川付近から上流部を見上げる。
 写真右下の道(黒川林道)を登っていくと、愛媛県との県境にある「塩塚高原」につながる。

2011年11月11日金曜日

川之江城(愛媛県四国中央市川之江町大門字城山)

川之江城(かわのえじょう)

●所在地 愛媛県四国中央市川之江町大門字城山
●高さ 標高62m
●別名 仏殿城・河江城・土肥城
●築城期 暦応元年(延元3年:1338)
●築城者 河野通政・土居義昌
●城主 妻鳥采女・光家、河上安勝
●形態 平山城
●遺構 郭・石垣等
●指定 四国中央市指定史跡
●登城日 2008年3月8日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第16巻』)
 川之江城は、愛媛県の東方四国中央市東端部にある城砦である。川之江城は別名仏殿(ぶつでん)城といわれている。

現地の説明板より

“川之江城史

 南北朝動乱の頃(約650年前)南朝方河野氏の砦として、土肥義昌が延元2年(1337)鷲尾山(城山)に川之江城を築いた。 興国3年(1342)北朝方細川頼春が讃岐より7千の兵を率いて攻めてきた。 義昌は出城の畠山城主由良吉里と共に防戦したが破れ、城を落ち延びて各地を転戦した末、武蔵国矢口の湊で戦死している。

 細川氏の領有後、河野氏に返され城主は妻鳥友春になった。元亀3年(1572)阿波の三好長治が攻めに入ったが撃退している。 

 土佐の長宗我部氏の四国平定の力に抗しきれなかった友春は、河野氏に背いて長宗我部氏に通じた。怒った河野氏は河上但馬守安勝に命じて城を攻めとらせた。天正7年(1579)前後のことと思われる。河上但馬守は轟城の大西備中守と戦い、討たれたという話も残っているが、天正10年(1582)長宗我部氏の再度の攻撃に破れ、戦死落城している。そのとき、姫ヶ嶽より年姫が飛込んで自殺したという悲話伝説も残っている。

 天正13年(1585)豊臣秀吉の四国平定に破れ、小早川、福島、池田、小川と目まぐるしく領主が替わり、加藤嘉明のとき最終的に廃城になった。数々の攻防は川之江城が地理的に重要な位置にあったための悲劇ともいえる。

 戦国の世も終わった寛永13年(1636)一柳直家が川之江藩28,600石の領主になり、城山に城を築こうとしたが、寛永19年(1642)病没、領地は没収されて幕領となり明治に至ったため、わずか6年の「うたかたの川之江藩」で終わった。”
【写真左】川之江城模擬天守・その1
 1984年ごろから川之江市制施行30周年記念事業の一環として城山公園整備事業が開始され、本丸跡に天守・涼櫓・櫓門・隅櫓などが設置された。

 鉄筋コンクリート製の建物で模擬天守であるが、眺望はまずまずである。



 形態としては平山城としているが、築城期とされる南北朝初期は、恐らく現在の東麓部(川之江駅周辺)も遠浅の海であり、当城は海城の形態をもったものだったと思われる。

 また、川之江城から南に金生川まで伸びた低丘陵部も、当時川之江城の出城のような役割をしていたものと思われる。
【写真左】模擬天守・その2













土肥義昌

 川之江は伊予国東部に当たるが、この地も鎌倉期にあって河野氏の領地とされている。ただ東・南方の讃岐・土佐と接する境目でもあったことから、特に讃岐国を治めていた細川氏からの侵略を防ぐため、暦応元年(延元3年:1338)、河野通政が家臣であった土肥義昌に鷲尾山といわれたこの山に仏殿城(川之江城)を築くよう命じた。

 築城して間もない康永元年(1342)7月、脇屋義助脇屋義助廟堂(愛媛県今治市国分4丁目)参照)、すなわち新田義貞の弟は、朝廷側(南朝方)の調整役として当地に赴任してきたが、突然死去した。
【写真左】本丸跡北端部から瀬戸内方面を見る。
 写真にあるように城下北西部の麓には工場などが建っているが、当時は海(燧灘)だったことから、この周囲に多くの軍船が係留されていたと思われる。



 これを知った足利方(北朝方)の細川頼春は、その機に乗じて伊予・讃岐・阿波・淡路から7千余騎を率いて攻撃を開始した。

 最初の攻撃目標とされたのが、この仏殿城(川之江城)であった。城主・土肥義昌の軍勢はわずか数百のため、金谷経氏らの水軍の援助があったものの、10日余りの末落城したという。

 その後、細川氏が伊予を引き上げたため、再び河野氏の支配になった。以後、当城は河野氏と細川氏によって度々争奪戦を繰り返して戦国期に至る。
【写真左】城山公園観光案内図
 斜めから撮ったため見難いが、東から三の丸、二の丸、本丸と続く。









戦国期

 戦国期の城主としては、妻鳥采女うねめ)が記録されている。城主になった経緯は不明であるが、現在同市寒川町に妻鳥という地名が残っていることから、おそらく采女は当地の出身と思われる。

 元亀3年(1572)、宇摩の細野城主薦田大和守が攻撃したが、これを防いだ。このころ、城主・妻鳥采女は、西方の新居郡の金子山城(愛媛県新居浜市滝の宮町)の城主・金子備後守元宅(もといえ)とともに、それまで河野氏に属していたが、長宗我部元親の懐柔策によって河野氏を離れ、長宗我部に与した。

 その後、阿波国の三好長治による攻撃を受け、天正2年(1574)には、当時の城主妻鳥光家が、河野通直の命によった河上安勝に攻められたが、容易に落城しなかった。このため新居・宇摩郡からの加勢を得て落城させた。そして、当城は河上安勝が城主となった。

 しかし、四国の情勢は土佐の長宗我部元親による勢いが日増しに高まり、天正10年(1582)当城は大軍を率いた長宗我部氏の前に防戦むなしく落城、河上安勝は当城に火を放ち、自害した。

 なお、河上安勝の死については、下記に示すように謀殺された説も残されてる。
【写真左】「姫ヶ嶽」の説明版
 河上安勝の娘であった「年姫」の悲話が、掲げてあり、後段には与謝野晶子の句が添えられている。





“姫ヶ嶽


 天正10年(1582)6月10日、川之江城主河上但馬守が三島宮に詣でての帰途、村松字崩の松原において、謀臣秋山嘉兵衛のために誘殺され、城は秋山の内通により轟城主大西備中守の急襲をうけて、落城するに至った。


 このとき、但馬守の息女・年姫は横死の父のあとを追って、この断崖より燧灘に身を躍らして、はかなくも花の生涯を閉じたといわれている。


 春風秋雨三百八十余年、落城の悲話として、今に伝えて、ここを姫が嶽と呼ぶ。


 姫ヶ嶽 海に身投ぐる いや果とも
         うまして入りぬ 大名の娘は


 与謝野晶子


 その3年後の天正13年になると、豊臣秀吉による四国討伐が始まり、小早川隆景によって落城、しばらくは秀吉の部将が入れ替わりながら城主となったが、加藤嘉明の代になって廃城となった。

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2011年11月1日火曜日

河後森城(愛媛県北宇和郡松野町松丸)

河後森城(かごもりじょう)

●所在地 愛媛県北宇和郡松野町松丸
●別名 皮籠森城・向後森城
●築城期 建久7年(1196)
●築城者 渡辺連
●城主 渡辺有高・時忠・政忠・教忠等
●指定 国指定史跡(H9年9月11日)
●形態 山城
●遺構 城門・郭・空堀
●高さ 標高171m(比高70m)
●登城日 2010年3月18日

◆解説(参考文献『松野町HP』『日本城郭体系第16巻』等)
 前稿宇和島城(愛媛県宇和島市丸之内)から土佐街道(320号線)を東進し、鬼北町を超えて四万十川の支流広見川と並行して走る381号線に入ると、やがて松野町役場が見えてくる。
河後森城は、この役場の西南に築かれた山城である。
【写真左】河後森城遠望
南麓からみたもの。
 南側に駐車場があり、そこから数分で城内に入ることができる。




宇和西園寺氏

 宇和島城の稿でも述べたように、松野町も含めた南予地方は鎌倉時代、藤原一門で九摂関家の一つであった西園寺氏が当地に下向した。

同氏は土着したのち南予のほとんどを支配し、戦国末期まで続くことになる。この結果、宇和西園寺氏の名が四国全土に知られることとなる。

 さて、河後森城の戦国時代の城主としては、宇和西園寺氏の麾下であった渡辺教忠がいる。彼は、宇和西園寺氏15将の一人として、別名河原淵殿と呼ばれ、豊後の大友氏、土佐の一条氏・長宗我部氏らと戦っている。
【写真左】河後森城概要図
 当城は「河後森城跡生活環境保全林」(えひめ森林浴88か所)の指定も受けている。


 左図はその関係案内図で、城跡遺構を示すものではないが、中央に風呂ヶ谷があり、北東部は古城、そのまま西進すると本郭(主郭)群にむかう。
 風呂ヶ谷の東方には新城があり、やや独立した丘陵部に築かれている。



 ただ、この15将は、もともと西園寺氏から恩給を受けて領地を支配したものでなく、むしろ各自が独力で築き上げてきた国人領主であって、西園寺氏と絶対的な主従関係を持つものではなく、場合によっては、西園寺氏と袂を分かつことも厭わない諸将であった。このことは、西園寺氏が戦国期に盤石の支配体制を築くことができなかった最大の原因となる。
【写真左】風呂ヶ谷
 右側には新城、まっすぐ向かうと本郭・古城を含めた郭群の切崖が立ちはだかる。


 おそらくこの谷に入ったら、三方から攻撃を受けることになるだろう。



築城期

築城期については、記録がないためはっきりしないが、鎌倉時代の建久7年(1196)、渡辺綱から6代目となる源七郎兵部少輔源連という武将が当城に入城したという記録があるが、後世に記されたもので断定できない。
【写真左】風呂ヶ谷から新城・古城方面を目指す。
 登城道も整備され歩きやすいが、勾配はかなりあるので、比高の低さの割に要害性が高いと思われる。




渡辺氏

 『清良記』『渡辺教忠掟書』『大洲旧記』などの史料によると、渡辺氏の系譜で、室町時代に左近将監有高、明応年間(1492~1501)に肥前守時忠、天文年間(1532~55)に越後守政忠、永禄から天正年間(1558~92)に、先述した教忠(式部少輔)の名が残る。
【写真左】新城
 最初に南東部の新城に向かった。
 『日本城郭体系第16巻』には記載されていない箇所で、北側の古城との間には鞍部を介し、その東麓部には意識的に広げたような深い谷が伸びている。


 新城にも多数の郭群が配され、主郭と思われる位置は南端部にある。


渡辺教忠は、敵方でもあった土佐一条氏(房家)の三男・東小路法行の子である。先代の越後守政忠に嫡男がいなかったため、苦渋の選択の末、教忠を養子として迎え入れた。このことが後に、一条家による南予攻略の際、彼は城を出ず、不戦の態度を示したため、西園寺氏をはじめ同氏14将からも非難を受けた。

そして永禄10年(1567)、西園寺公広を先頭に河後森城の攻略が開始された。このため、教忠は養子を人質に出しどうにか許しを得た。
【写真左】新城の修復工事個所
 比高が低いこともあって、険しい切崖構造箇所が多数みられる。このため、写真のような崩落個所が発生したのだろう。




土佐一条氏

ところで、土佐一条氏は、応仁の乱を避けて所領の一つであった土佐幡多荘(現、四万十市)に応仁2年(1468)、一条兼良の子・教房が下向したのに始まる(土佐・中村城・その1(高知県四万十市中村丸之内)参照)。

土佐一条氏は、その地理的条件を生かした対外貿易や海上交通を盛んに取り入れた。特に豊後水道や伊予灘を介して大友氏や大内氏とも強い関係を保ち、勢力を誇った。しかし、その後暗愚の継嗣が続き、兼定の代でほぼ途絶えた。
【写真左】新城から風呂ヶ谷を挟んで西北に本郭および西第10郭を望む。
 現在は杉などの植林があってはっきりしないが、当時はこれら連続する郭群が壮大に見えたことだろう。



 ちなみに、以前出雲国の大内神社(島根県東出雲町 西揖屋)を取り上げたが、尼子氏の月山冨田城攻めによる大敗で、溺死した大内晴持は、この土佐一条氏・房冬の子で、母は大内義隆の姉である。

 大内義隆が家督を継いだ享禄元年(1528)ごろ(晴持3,4歳ごろ)、義隆、すなわち叔父のところへ養嗣子として山口に移った。
【写真左】古城の郭群
 古城は東方に細長く伸びた郭群で構成されている。郭間の高低差は余りないが、両端部の切崖はここでも険峻である。






家臣による追放

さて、その後の教忠は、城主としての地位を失い家臣に追い出されてしまう。そして新たに河後森城主となったのは、鳥屋ヶ森城(とやがもりじょう)(北宇和郡鬼北町大字生田)の城主であった芝美作守政輔である。

 彼は教忠に見いだされ後に鳥屋ヶ森城主となった。実際に追放したのは彼の四男・源三郎である。
 時期ははっきりしないが、天正8年から9年(1580~81)のころと推定される。その後、長宗我部氏と西園寺氏の両者に巧みに仕え一族安泰を図ったが、秀吉の四国征伐の際、当城を手放すことになった。
【写真左】古城付近から北麓を見る。
 中央左に見える川は広見川で、四万十川に合流する。手前が上流部。橋の手前の建物は松野町役場。写真には見えないが、広見川と並行して予土線が走っている。


 なお、この河後森城付近には支城と思われる城砦(山城)が約10か所ほど確認されている。



遺構の概要

 河後森城の発掘調査が始まったのは、平成3年度からだという。そして平成9年には国指定史跡の指定を受け、地元松野町において平成11年度から環境整備事業が実施されているようだ。

 昭和55年発行の『日本城郭体系第16巻』(㈱新人物往来社編)で、当城の要図が示されているが、この段階では未だ本格的な調査がされていないこともあって、「新城」などを含め、その全容は示されていない。
【写真左】古城側から本郭を見る。
 古城を過ぎると、途端に高低差のある郭群が連続する。





 現在でも地道な調査や整備が継続されているが、主だった遺構を示すと次のようになる。

 河後森城は三本の川に取り囲まれ、独立した丘陵に築かれているが、中央の南北を走る谷(風呂ヶ谷)を取り囲むように馬蹄形を構成する郭群が配置されている。

 主郭とされる中央部から西に向かって9か所の郭群を置き、東に向かっては第2、第4とあり、その東には古城があり、ここに7か所の郭がある。さらに南方には新城の郭群が残る。標高はだいぶ違うが、美作の岩屋城(岡山県津山市中北上)の縄張り図に似ている。
【写真左】本郭側から古城方面を振り返る。
 古城側からは3,4段の郭を超えて本郭につながる。
【写真左】本郭
 河後森城の中心部で、本郭と称された場所。いわゆる本丸にあたる個所だが、この位置が最高所の171mにあたる(比高88m)。


 写真に見える四角いものは当時建てられていた建物跡を示す。調査した結果、建物10棟、門跡1基、土塀1基があったという。建物形式は掘立柱を用い、屋根は板を葺いたものが使用されたという。

 建物の種類は、城主が居住した主殿舎(連合いと犬がいるところ)、料理の台所、見張りの番小屋など。出土品は15世紀から16世紀にかけて使用されたもの。


 なお、このほかに明らかに時期が違う遺構があり、これが河後森城の最終段階である戦国末期から慶長年間ごろに存在したといわれる天守跡ではないかといわれている。具体的なものとしては、瓦・礎石・石垣などだが、これらが前稿「宇和島城」築城の際、再利用されたのだろう。
【写真左】本郭から東南に新城を見る。
 先ほどの新城とは反対に、本郭から新城をみたもので、築城年代を無視すれば、「一城別郭」形式ともいえる。
【写真左】本郭入口
 南側からみたもので、崩落しやすいため土嚢で保持されている。
【写真左】本郭から西出郭に向かう。
 本郭を過ぎて西へ向かうと、約9段の連続する郭群が伸び、次第に下がっていく。
【写真左】西出郭・その1
 どの郭も整備が行き届いている。
 
【写真左】西第10郭にある復元建物
 西出郭群最南端である第10郭跡に建てられた建物で、掘立柱形式のもの。
 この郭には、この他もう一つの建物と、南側には土塁に沿うように多聞櫓跡があったという。
【写真左】土塁跡
 復元された土塁で、幅約2.2m弱、高さ50cm~90cm前後の規模。南側から東側にかけて復元されている。
【写真左】西第10郭から本郭に繋がる西出郭群を振り返る。
 中央左には垣根のようなものがあって見難いが、右下につながる風呂ヶ谷から上ってきたコースに「門」が建っている。
【写真左】西第10郭から風呂ヶ谷を挟んで、新城を遠望する。
 この位置からみると、新城の主郭高さと西第10郭はほぼ同じぐらいに見える。




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