2016年9月24日土曜日

竹迫城(熊本県合志市上庄字城山)

竹迫城(たかばじょう)

●所在地 熊本県合志市上庄字城山
●別名 合志城、上庄城、穴の城、蛇の尾城
●指定 市指定史跡
●形態 平山城
●高さ 標高93m(比高30m)
●築城期 建久年中頃(1190~99)
●築城者 竹迫輝種
●城主 竹迫氏、合志氏
●遺構 郭、土塁、濠
●登城日 2015年2月24日

◆解説(参考資料 合志市HP等)
 竹迫城は、菊池城(菊池神社)から南に凡そ12キロ余り向かった合志市上庄に所在する城館である。

 当城が所在している地域は、古代「火の道の尻の邦」に属し、「加波志」と呼ばれていたという。そして応神天皇の時代に郷邑(ごうゆう)の地名改称が行われ、「皮石」と改め、さらに元明天皇の頃(700年代)に「好字好音」の詔が発せられたのに伴い、現在の「合志」と改称されたといわれる。
【写真左】竹迫城
 当城の北東部付近で、ご覧の通り大変綺麗に整備されている。

 ただ、残念ながら遺構の保存より公園化を優先したような整備状況なので、散策するには気持ちいいが、山城踏査の観点からいえば、少し物足りない気分になる。


現地説明板・その1

“竹迫城

 竹迫城は、別名合志城、穴の城、蛇の尾城ともいわれ、建久年中頃(1190~99)竹迫輝種により築城され、天正13年(1585)に、薩摩の島津家久に城を明け渡すまでの約400年間、竹迫氏、合志氏による旧合志郡統治の拠城であった。

 最高所は、海抜90m、深田や濠や土塁に囲まれた天然の要害をなし、城の規模は高さ135間、東西1,030間、南北3,180間余であったといわれている。

 天正15年(1587)4月7日、竹迫城を守っていた新納忠元、伊集院忠棟が、八代に去るとき城を焼き払って、今はただ土塁と濠を残すのみであるが、この竹迫城は、中世時代の城跡として、熊本県内でも有数の貴重な文化遺跡である。”
【写真左】竹迫城跡公園案内図
 この図では遺構名として、本丸跡、土塁、井戸跡程度しか表示されていないので、下段の「竹迫城古絵図」と見比べながら見るしかない。
【写真左】竹迫城古絵図
 文政年間に書かれたもので、精緻なものではないが、凡その配置が想像できる。

 『合志家記』という史料によれば、当城の城域規模は東西1.8km、南北1.4kmで、惣構えとして外掘りが約5.9kmあり、このエリアを含めると、東西2.3km、南北1.4kmとなり、当城のあるこの丘陵地のほとんどがその対象となる。



竹迫氏と合志氏

 竹迫城の城主は、下段にも示すように、前期に竹迫氏が約320年、後期になると合志氏が約80年と続いている。

 初代は竹迫輝種といわれ、元の名は中原師員(もろかず)とされている。師員は鎌倉時代の御家人で、鎌倉にあった時、主君は最初藤原頼経に仕え、その後頼嗣となった。源実朝が落命し、源氏(河内源氏)による統治が途絶えたあと、京都から頼経が摂関将軍として鎌倉に下向した際、随伴してきている。
【写真左】本丸入口南面
 公園化されため、当時の詳細な遺構を想像するのは難があるが、左側にある段が本丸を示し、その間にある通路を介して、右に現在芝生広場という名称の段が残る。

 おそらく隣接した郭だった思われるので、二の丸のような場所だったかもしれない。


“竹迫城歴代城主

《竹迫家》
 (初代)中原師員(改 竹迫輝種)(中原親能斉院次官)
  ↓
 2代 師能 → 3代 師常 → 4代 師實 → 5代 師光 → 6代 師種 
  → 7代 師次(以降は下段へ) ↓

【写真左】竹迫家の家紋
 説明板より

“竹迫家紋
 「蘘蓉の紋」と言い茗荷の図案である。戦に敗れて山中をさまよえる折に幻の翁あらわれ茗荷漬を給いて武運ひらけりの由来である。”




  ↓
 8代 定種 ― 信次 ― 友次
  ↓
 9代 秀種 ― 實種
  ↓
 10代 行種 ― 秀行
  ↓ 
 11代 信種 ― 重成 ― 景雄
  ↓ 
 12代 重種 ― 信吉
  ↓
 13代 正種 ― 重岑
  ↓
 14代 忠種 ― 朝員 ― 正廣
  ↓
 15代 公種

 現地には竹迫城の築城者がその中原師員(竹迫輝種)で、その時期が建久年間(1190~99)とされているため、これでいくと、彼が頼経・頼嗣に仕える前に肥後にあったということになるが、聊か不自然である。

  そもそも彼の生誕年が元暦元年すなわち、1184年なので、竹迫城を築いた時は未だ10代の若さになる。従って、築城者は師員でなく、中原師平(流)の一族ではないかと考えられる。
【写真左】本丸付近
 凡そ30m四方の大きさで、フラットになっている。
【写真左】「合志城址」と刻銘された石碑
 本丸の隅に設置されたもので、この石碑には竹迫城ではなく、「合志城址」と刻銘されている。




 《合志家》
 (初代)佐々木長綱(合志と改める)
  ↓
 (中略)
 12代 隆岑(たかみね)
  (竹迫家15代公種が豊後国の大友義鑑に仕えるために移住し、竹迫城は「合志隆岑」に譲遷する)
  ↓
 13代 隆房 ― 隆成
  ↓
 14代 高久 ― 高實
  ↓
 15代 親為(赤星重隆の次男・養子) ― 重遠 ― 親重 ― 隆賢
  ↓
 16代 高重(最後の城主) ― 重賢
【写真左】合志家紋
 初代が佐々木長綱の名でも分かるように、お馴染みの家紋「四ツ目結紋」であり、宇多源氏(近江源氏)で、出雲尼子氏と同じである。

 因みに、合志家の出自は近江国蒲生郡神前郡の大領であったとされる。





竹迫氏から合志氏へ

 竹迫氏15代の公種の代に、大友氏に仕えるため豊後国に移住し、その後を任されたのが合志氏とされている。その時期については書かれていないが、大友義鑑(よしあき)が、肥後国に侵攻を始めたのは大永から享禄年間のころとされているので、1520~30年代と思われる。

 そして、新城主となった合志氏は、元々菊池氏家臣であったとされる。おそらく城主交替の命を出したのは大友義鑑と思われる。
【写真左】五輪塔
 本丸近くには二基の五輪塔が建立されている。特に明記されたものはないが、おそらく合志氏ゆかりの者だろう。






竹迫城肥後国衆一揆

 当城もまた、前稿の和仁・田中城(熊本県玉名郡和水町和仁字古城)と同じく、肥後国衆一揆が勃発した城砦である。

 この頃の城主は、合志氏15代の親為といわれている。実際に城を守備していたのが、おそらく説明板にある新納忠元、伊集院忠棟らと思われ、攻め手は秀吉の命を受けた鍋島勢と龍造寺晴信を将とした軍である。
 因みに、その後龍造寺氏は秀吉の機嫌を損ねないように、途中から政家、すなわち隆信の嫡男が当地に参陣し指揮をしている。
【写真左】土塁と空堀
 本丸の北端部まで進むと、ご覧の通り綺麗に管理された土塁が見える。手前の窪みはおそらく空堀だったのだろう。





 そして、政家は最初合志氏へ降伏を勧めたが、これを合志氏は受け入れず、戦いとなった。
 この戦いでは特に龍造氏の家臣武藤丹後守が大砲の威力をまざまざと見せつけ、ほどなく竹迫城は落城、合志氏は四散逃亡したといわれている。
【写真左】東端部から西方を見る。
 中央のやや左側高い位置が本丸になり、そこから右へ堀を介して土塁があり、さらに下がって削平地が残る。
 手前の段も郭状のもので、館などが建っていたのかもしれない。
【写真左】北東部から見る
 先ほどの位置からさらに北に回り、南側をみたもので、中央の木立がみえるところが本丸になる。
【写真左】井戸跡
 先ほどの位置からさらに降りたところで、中央の四角いものが井戸跡で、中を覗き込んだがかなり深いようだ。
【写真左】説明板
 竹迫城公園内の一角には、竹迫城をはじめ地元合志(町)の歴史などを紹介した説明板が設置されている。

 この中には、竹迫城の「外城」も列記してある。これによると、合併前の合志町には、当城以外に、原口城、千束城があり、西合志町に1か所、泗水町に4ヵ所、大津町に10か所、旭志村に2か所、菊陽町に3か所と竹迫城を含め、23か所の城砦が紹介されている。
【写真左】東側から振り返って見る
 右奥に本丸が位置している。なお、奥に竹林のようなものが見えるが、城域付近では一番高い場所だったように見えたので、物見台のようなものがあったのかもしれない。
【写真左】上庄堤
 北西端に当たる個所から北側を見たもので、奥に橋がみえるが、これが寛永堀橋といわれているもの。
 その下には池が見え、上庄堤といわれるものだが、上掲した絵図から考えて、竹迫・合志氏時代の中世にはかなり大規模な濠だったと思われる。

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