2016年4月5日火曜日

備中・丸山城(岡山県高梁市宇治町穴田)

備中・丸山城(びっちゅう・まるやまじょう)

●所在地 岡山県高梁市宇治町穴田
●高さ 373m(比高50m)
●築城期 天正年中
●築城者 赤木忠房・忠直
●城主 赤木忠直
●遺構 郭(本丸・二の丸・三の丸)、土壇等
●登城日 2016年3月15日

◆解説
 前稿滝谷城・しらげか城(岡山県高梁市宇治町本郷・宇治)から南に約2キロほど向かうと、次第に宇治の平坦な盆地は幅を狭め登り坂となる。その坂の始点から南を見ると、丸い小丘が見える。この小丘の東側には島木川がながれているが、川の浸食作用によって、こちらの面は西側のなだらかな面とは反対に険峻な様相を呈している。

 これが承久の乱(1221年)において、新補地頭として信濃から下向してきた赤木氏最後の当主・忠直の居城・丸山城である。
【写真左】丸山城遠望
 北側から見たもので、主郭の北側は少し開けているが、これは後段で紹介するように、地元のH氏が少しずつ竹などを伐採しているためである。


現地の説明板

“丸山城 彩りの山里の城跡
 宇治盆地の最南端にあって、羽山谷を押さえるいっぽう長屋・黒鳥・田原への道を制する要地である。標高差は約50mの平山城である。小規模ながら本丸・二の丸・三の丸と出丸も備えている。近くに屋敷(これは後に造られたものであろう)があり、その下に「根小屋」という屋号の家もある。
【写真左】丸山城の略図
 長軸は凡そ170mの長さを東西にとり、幅は平均して30m前後の規模だが、東側の島木川がかなり深い谷を形成しているので、図面以上にこのエリアの要害性は極めて高いといえるだろう。


 天正年中に赤木忠直が築城したと伝えられている。忠直は滝谷城のところでふれた忠房の嫡男で、天正10年の高松城攻めの際、小早川隆景の求めに応じ、父の忠房が忠直に兵を付け、急ぎ高松城の救援に駆けつけたので、5月5日陣中で輝元から感状を添えて100貫の領地を与えられた。

 高松落城の際の講和条約でも、高梁川以西の領有権は依然として毛利氏にあったから、その所領は安泰であった。しかし、忠房は近い将来、必ず豊臣方の西進があることを予期して丸山城を築いた。
【写真左】出丸へ向かう
 南側には東端部にある出丸につなぐ長い郭を進む。奥に見える建物は、本丸の西隅に祀られていた宮を移築したもの。



 関ヶ原の戦い後、毛利氏は周防・長門に押し込まれ、辛うじて家名を保つことができたが、赤木一族ではこのときも毛利氏に従って周防・長門に移るもの、土地に留まるものそれぞれの思いのまま行動した。

 こうして勢力を失ったものの、主だった家系の赤木家は残り、家宝の赤韋威(あかがわおどし)の大鎧と兜は今日まで伝えられ、今は国宝に指定され、輝かしい家系を語っている。

・宇治地域まちづくり推進委員会”
【写真左】出丸
 東端部にある出丸だが、この下にも2段の腰郭が付随している。








高松落城後講和条約

 美作・荒神山城(岡山県津山市荒神山)の稿でも述べているが、天正10年(1582)5月の秀吉による備中高松城攻めのあと、秀吉方と毛利氏が互いの領有地について協議を行い、一定の講和条約を結んでいる。

 その内容の基本となったのが、高梁川を境として西側を毛利氏、東側を秀吉方としたものである。 しかしその協議の実態は、毛利方に属していた美作や備中の国人領主にとって、不利な点が多く、彼らは毛利氏や秀吉方に対して度々異議申し立てを行い、是正をするよう要求している。

 この交渉に当たったのは、秀吉方では黒田官兵衛(黒田城(兵庫県西脇市黒田庄黒田字城山)参照)・蜂須賀正勝、毛利方では安国寺恵瓊(新日山安国寺 不動院(広島市東区牛田新町)参照)である。
【写真左】出丸東端部
 竹が繁茂していて明瞭でない写真だが、出丸の北~東~南斜面は険峻な斜面となって、島木川に至る。





 今稿まで紹介してきた赤川氏の所領は、境界とする高梁川の支流成羽川水系に当たり、説明板にもあるように、従前どおり毛利氏領に入っているため、一見すると問題ないように思えるが、同じ高梁川支流の小田川沿い(高梁川本流の西側)にあった備中・猿掛城などは、秀吉方とするよう要求されている。

 因みに、当時の猿掛城主は元就四男の穂井田(毛利)元清であったが、この要求に対し、毛利方担当の恵瓊は、なかば捨て鉢気味に「城(猿掛城)を獲られるのなら、城主である元清も秀吉の家臣にしてほしい」とまで言っている。
【写真左】堀切か
 出丸(右)と三の丸(左)の連絡部にあたり、冒頭の略図には示されていないが、尾根を断ち切ったような鞍部が認められる。
 おそらく堀切がこの場所に構築されていたものと思われる。

【写真左】石積
 本丸の西端部に祀られていた宮(土壇)に向かう道の始点で、一部モルタルなどで補修されているが、石そのものは当時のものだろう。




 いわずもがな、こうした高梁川境界を基本合意としながら、個々の領地境界がそれと整合しない内容で進められたのは、秀吉による命が交渉中の官兵衛らに対して指示されていたわけだが、その間秀吉は信長亡き後、賤ヶ岳に柴田勝家を破り(賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦)参照)、名実ともに信長の後継者として名乗りを挙げ、より毛利氏に対し強硬な態度へ変わっていったこともその背景にあったと思われる。

 そうした日々変わっていく状況は、丸山城主・赤木氏にも伝わっていたのだろう。父・忠房が秀吉による西進があると恐れたのも無理はない。
【写真左】社殿跡の土壇
 冒頭で紹介している宮があった場所で、本丸の西端部にあたり、5m前後の長さの方形で、高さは約4m近くある。

 現在倒木や枯葉などで覆われているが、瓦片などが残っている。

 手前にには、大正10年に「大願主◇◇」によって遷宮されたと記された石碑が残る。
 このあと本丸に向かう。


 
 結局双方(毛利方・秀吉方)で最終的に講和が結ばれたのは、高松城攻めが終わってから3年もの歳月が過ぎた天正13年(1585)であった。

 ところで、丸山城が宇治盆地の南方に築かれたのは、おそらく秀吉軍が攻める場合、成羽川から入って、島木川を遡上してくると予想したことからこの地に普請したものと考えられる。
【写真左】本丸
 長径67m×短径30の規模を持つ当城最大の郭。

 この日登城した際、ご案内頂いたH氏が最近から少しずつ竹などの伐採作業を行い、見晴らしのいいこの本丸北側から始めたという。
 ただ、余りに広いため、一人ではなかなかはかどらないと、自嘲気味に話しておられた。
【写真左】土塁
 本丸及び、二の丸、さらに先ほどの出丸の北側には土塁が設けられている。
 写真はそのうち本丸のものだが、高さは約2m近い。

 この先も少し向かってみたが、藪コギ状態なので写真は撮っていない。

【写真左】丸山城に隣接する屋敷
 案内していただいたH氏の邸宅で、石積を基礎とした白壁の塀が屋敷を囲む。

 おそらく江戸期に建物の基礎が出来ていたのではないだろうか。



庄屋・屋敷

 高松城攻めの際、城主赤木忠直(忠道)が毛利氏を支援すべく駆けつけ、その褒賞として当地(穴田)を賜り、その末孫が庄屋を世襲したとされるが、おそらくこの庄屋がH氏の屋敷ではないかと思われる。

 ところで、丸山城を案内していただいた後、お礼を云い帰ろうとしたら、H氏から屋敷の方でお茶を差し上げたいので母屋に上がって下さいと案内された。
 
 表門の脇にあるもう一つ別の勝手口のような門をくぐると、苔むした庭がある。その奥に2階建ての母屋があり、左側には納屋が建っている。玄関のタタキをあがると4畳ほどの間があり、東(右)が客間となっている。天井を見ると、太い梁が何本も横に並び、如何にも庄屋らしき佇まいだ。

 「実は私、北海道からIターンしてきたんですよ」という。この屋敷は以前住んでおられた方が年をとられ、施設に入られたため住む人がいなくなり、宇治町の方で屋敷の維持管理も兼ねた入居人の募集をしていたのを知り、何度かこちらを訪れたのち、気に入って定年を機にこちらに移住したという。

 そして、丸山城の方もこちらの屋敷所有の土地で、暇をみつけては本丸の北側が眺望がよいので少しずつこの間から伐採している、という。また、夏になると、岡山市のほうから子供たちなどの体験学習として我が家に泊めて、田舎での農作業なども開催しているという。客間にはそうした行事を行った時の写真が沢山飾ってあり、外国人も時々訪れているようだ。

蓮華寺の五輪塔

 丸山城から北へ約1キロほど向かった本郷地区には、前稿で紹介した滝谷城の初代城主赤木太郎忠長の墓とされる五輪塔が祀られている。
【写真左】五輪塔群・その1
 説明板にもあるように、中央の2基がひときわ大きい。









現地の説明板

“備中宇治彩りの山里の史跡巡り①
  宇治町本郷
 蓮華寺の五輪塔(高梁市指定重要文化財)

石造美術
 滝谷城主赤木氏のゆかりの者の墓塔と思われる五輪塔で、蓮華寺境内に白色五輪塔、宝篋印塔に混じりひときわ大きさも群を抜いている。
 向かって高さ162cm、高さ153cmでどちらも墓壇を比較的幅広く取り、水輪は、球型、火輪の軒先は真反りを示すが、左塔は鎌倉期、右塔は室町期の様式を示している。
 これについては、組み替えの説もある。
 両墓塔とも花崗岩であることで、当地方を代表する鎌倉期、室町期を代表する五輪塔であるといえる。”
【写真左】五輪塔群・その2
 まわりにも中小の墓石が集められている。
【写真左】蓮華寺
 蓮華寺の開創期ははっきりしないものの、赤木氏が承久年間(1221頃)に当地に下向したときには既に存在していたようで、往時相当の伽藍を有していたとされる。

 正保元年(1644)、成羽町源樹寺第三世学州玄碩和尚を開山とし曹洞宗となった。

 手前の石碑には

「平成6年3月 28代当主 赤木慶雄 建立」
 と刻銘されている。

右側に見える道は、吹屋街道の旧道。

蓮福寺の五輪塔

 蓮華寺から少し丸山城側に戻ったところには、蓮福寺という別の寺院があるが、この墓所の一画にも五輪塔群が祀られている。ただ、特に指定を受けたものではないが、一基だけは大きなものがある。
 なお、当院は慶長5年(1600)、萩原氏の菩提所として草創されている。
【写真左】蓮福寺の五輪塔群
 中央のものがひときわ大きい。


 このほか、丸山城の西方には極楽寺跡があり、そこにはさらに多くの石塔群があるということだが、管理人は訪れていない。

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