2014年4月16日水曜日

阿賀城(広島県安芸高田市八千代町下根)

阿賀城(あがじょう)

●所在地 広島県安芸高田市八千代町下根
●別名 赤城
●指定 安芸高田市指定史跡
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 阿賀氏、井上越前守光貞・佐馬え助就任(毛利氏家臣)
●高さ 485m(比高220m)
●遺構 郭・古井戸等
●登城日 2013年9月20日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 安芸・備後国(広島県)と出雲国(島根県)を結ぶ現在の国道54号線沿いには多くの城砦があるが、中でも毛利元就の居城・吉田郡山城などはもっとも有名である。
【写真左】阿賀城遠望
 北西麓から見たもの。
 写真右側を国道54号線が走る。









 阿賀城は、この吉田郡山城から54号線を広島方面に約16キロほど南下した安芸高田市八千代町に所在する山城である。

 現地の説明板より

“安芸高田市 史跡指定
   阿賀城跡

 中世、阿賀氏の居城があり、後代、毛利元就の家臣・井上越前守光貞、佐馬え助就任親子二代の居城であったと伝えられている。
 現存する殿前という地名は、城主が平時に居住していた館の跡である。
 頂上には古井戸跡・本丸跡等があり、中世山城研究のための貴重な遺跡である。
    下根振興会”
【写真左】案内図
 登城口は2か所(南と北)ある。この日は北側から入った。駐車場の案内はなかったので、近くの民家の方に許可を得て、空き地(グランドゴルフ場?)に停めた。







毛利元就の家督相続と安芸・井上氏

 阿賀城の築城期・築城者などは不明だが、戦国期に至り、毛利元就の家臣・井上越前守が城主とされている。

 この阿賀城主・井上氏は、安芸・天神山城の井上氏と同族と思われる。安芸・天神山城については管理人は未登城だが、吉田郡山城から南西へ約6キロほど向かった同町竹原に所在する山城である。
【写真左】東麓の登城道
 この日のコースは北口から入ったが、暫く谷間をまっすぐに進み、途中で西側の谷間に移動していく。

 この位置から城域までは約1キロある。なお、標識のそばには「マムシ注意」の看板があった。夏などマムシが出る季節は注意が必要だ。


 井上氏の出自は、源頼信の子頼季を祖とし、信濃国高井郡井上庄の出で、清和源氏井上氏の一族である。文明18年(1486)、井上光兼の子・元兼が安芸天神山城で生まれているが、すでにこの頃、毛利元就の父・弘元の家臣団に組み込まれている。

 阿賀城主であった井上越前守光貞も、元兼の父・光兼の名称から考えて同族であったと思われる。ちなみに、阿賀城周辺で井上氏の支城と思われるものとしては、
  1. 狐ヶ城                  八千代町佐々井
  2. 源城   源氏ゆかりの武将居城      同町上根
  3. 末石城  井上越前居城           同町上根
  4. 御子丸城  井上善右衛門居城       同町佐々井
などがある。
【写真左】ケルン
 登城道は次第に阿賀城の南側の谷に向かって進むが、途中でこうしたケルンが見えた。

 阿賀城は割と登る人が多いのかもしれない。
【写真左】下から見上げる。
 方向としてはこの上に本丸があるが、実際はさらに尾根伝いを北に進んだ位置にある。

 ここから南面に取付き、一気に高度を稼ぐ。

 
 さて、毛利元就が安芸吉田郡山城に入って家督を継いだのは、大永3年(1523)8月10日のことである。知られているように、この直前までは兄興元の嫡男・幸松丸が家督を継ぐ予定となっていた。しかし、この年の鏡山城攻めの帰還後、幸松丸は突如として亡くなった。このため、この跡を誰が継ぐか一族・宿老の間で協議が交わされた。
【写真左】最初のピーク
 本丸から西に伸びる尾根ピークにたどり着く。

 ここから東に向かって約400m進むが、この道はあまり使われていないせいか、倒木が目立つ。

 その結果、一つはその頃誼を通じていた出雲・尼子氏から養子を迎えるという案と、もう一つは、元就に家督を継がせる案の二つが挙がった。

 協議後の処置として元就が家督を継ぐことになるが、その際元就を推薦した宿老15名の内、一族以外のものとしては、井上就在(なりあり)・井上元盛・井上元貞・井上元吉・井上元兼ら井上一族5名が入っていた。言いかえれば、これら井上一族が毛利家中の中でもかなりの発言権・影響力を誇示していたことなる。

 そのため、井上一族は次第に専横が顕著となり、元就にとって頭を悩ます存在となっていた。
【写真左】城域に入る。
【写真左】阿賀城略測図
 上部が北を示す。
この図では右側の郭群から登っていき、南側の方から進むようになっている。
 現地説明板より

“阿賀城跡

   標高485m 比高220m
  安芸高田市史跡(1971年4月20日指定) 

1郭は約50m×20mの長方形で、南半は土塁に囲まれその一角に井戸が残る。この1郭を中心に2~4郭が120mにわたって直線状に並ぶ。
 東に派生する尾根を加工した5郭は、登城路のある南縁に削り出しの土塁を25mにわたって設けている。
 南麓からの登城路は、1郭南西の鞍部で土塁囲みの小郭に入り、さらに山腹の坂道を100m進んで山頂郭群に至る。
 城主は阿賀氏で、戦後期(ママ)以降は毛利家臣の井上氏の居城となる。
    下根振興会”

井上一族の誅伐

 元就が家督を継いだ当初は、家臣のほとんどが井上一族の命に従っていたという。極端に言えば、元就はいわゆる井上氏による傀儡政権のような立場であった。

 天文16年(1547)8月、元就は家督を長男隆元に譲った。しかしこれは表面上のもので、依然として元就が事実上のリーダーであった。隆元に家督を譲った形をとったものの、井上一族による「上意を軽んじる」態度は日に日に甚だしくなり、このままでは毛利氏の惣領隆元が安定した支配体制を敷くことができないと元就は感じていた。
【写真左】主郭(1の郭付近)
 当城最大の郭で、奥行50m×幅20mの規模を持つ。

 左側は切崖となり、国道54号線を俯瞰できる。




 実際、元就が毛利氏の惣領となってから約35年もの間、井上一族はほとんど元就の命に従わず、毛利氏家中との争いは絶えず、元就の統制はほとんど効かなくなっていたという。

 専横の甚だしい井上一族がこのように長く続いたのは、やはり元就が家督を継ぐとき、同氏による推薦があったからで、この恩を楯に井上氏が元就に対し、尊大な態度をとってきたからだといわれている。
【写真左】井戸跡
 1の郭の南東隅に残るものだが、大分埋まっている。










 元就がこうした井上一族を誅伐しようと考えたのは当然であるが、それにしても35年もの間、よくぞ元就は堪えていたものである。

 晩年、元就は三男・小早川隆景に、井上一族に対する憤懣をぶちまけた手紙を残している。

 天文19年(1550)7月12日から13日にかけて、遂に元就は井上一族誅伐を決行した。内容は次の通り。

  1. 井上元有(元兼叔父)  竹原(小早川隆景)にて殺害
  2. 同就兼(元有嫡男)   郡山城にて殺害
  3. 元兼・就澄(嫡男)    元兼館を急襲、元兼父子自害
  4. 井上元盛一族      殺害
  5. その他
以上の者併せて30余人に及んだ。
【写真左】北側から見る。
 1の郭中央部の西側から見たもので、右側の斜面は天険の要害となっている。







 なお、この計画は前以て、大内義隆に通告・了承を得ていたとされる。その一方で、その前年元就は元春・隆景を伴なって山口に赴いた際、陶晴賢が大内義隆に対し、叛逆の意志を固めていたことを確認している。

 井上一族誅伐の背景には、当初陶晴賢と元就が合力して、大内義隆を討ち亡ぼす計画があったためだともいわれている。つまり、大内氏攻略のためには、前もって身内である毛利氏一族内の統制が完全に確立していなければならなかったからである。

【写真左】主郭付近から南西麓を見る。
 写真の谷間中央部に国道54号線が走っている。この道を南下し峠を越えていくと、可部方面すなわち、旧三入庄の熊谷氏居城・伊勢ヶ坪城などに至る。


 今稿の阿賀城主・井上越前守光貞、佐馬え助就任父子も、おそらくこの井上氏誅伐の際、滅ぼされたものと思われる。

 この日、駐車場を提供していただいた地元の老夫婦に少し話を聞いたが、自分たちが子供の頃は、この山が城山だということはまったく知らなかったという。
【写真左】2の郭
 1の郭から北に繋がる郭で、2~3m程度下がる比高差を持たせている。
 奥行は15m程度の規模のもの。
 この先にさらに「3の郭」(下の写真参照)が控える。



 近年になってこの山が城砦(山城)であることが判明したということは、冒頭の説明板にもあるように、阿賀氏の後(のち)の城主が父子2代で終えたことからも想像できる。

 言いかえれば、井上一族が毛利家中の中で、勢威を誇ったのが40年足らずの短期であったことと符合し、一族誅滅後、阿賀城は歴史の中に埋没し、暫く忘れ去られていったということなのだろう。
【写真左】3の郭
 阿賀城北端部の郭で、2の郭との比高差は5m前後ある。
 この先は切崖状となっており、要害性が認められる。
 写真は北側から見たもので、2の郭の切崖が見える。
【写真左】北方を見る。
 この位置からさらに北に登ると、毛利氏居城・吉田郡山城に至る。

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