2013年12月8日日曜日

芝生城(徳島県三好市三野町芝生)

芝生城(しぼうじょう)

●所在地 徳島県三好市三野町芝生
●築城年 室町期
●築城者 小笠原義長
●形態 平山城(城館)
●遺構 ほとんど消滅
●登城日 2013年11月16日

◆解説
 芝生城は、平成の大合併で三好市となった旧三野町に所在する城館である。

 ところで、山城探訪をする際、できるだけ最新の地図を見ながら場所の確認をしておくが、この三野町だけは、西方の区域にある三好市から離れた飛び地となっており、珍しい配置となっている。因みに間に介在する自治体は、東みよし町で、どちらも「みよし」という地名を持つ。

 当地に限らず今般の自治体の合併についてはいろいろ紆余曲折があったが、管理人にとってもっとも杞憂するのは、新市町名によって旧地名(自治体名)などが消滅してほしくないことだ。地名は歴史を物語るキーワードであり、それ自体が長い地元の歴史を伝えているからである。
【写真左】芝生城跡
 中央の看板が芝生城の説明板である。
 










現地の説明板より

“芝生城址

    戦国大名「三好長慶一族」の本拠地

 寛正年間(1465年ごろ)小笠原家11代義長は、池田の大西城を廃し芝生城を築き、姓を三好と改めここを居城とし、三好氏の家祖となったという。以後、2代長之、3代之長、4代長秀、5代元長、6代長慶(ながよし)まで、芝生城は三好氏の本拠ととなった。

 三好長慶は、大永2年(1522)2月13日、芝生城において産声を挙げた。長慶を身籠った母は、吉野川の清流で水ごりをとり、「天晴れ、英雄英傑を生ませ給え」と念じたという。
【写真左】説明板
 かなり大きなもので、道路脇に設置されている。










 天文元年(1532)堺から帰国していた長慶は、父の戦死後奮起し、翌年12歳を以て芝生城を出陣、勝瑞城(藍住町)を経て、再び畿内に進出した。折しも抗争中の管領細川晴元と、一向宗本願寺光教の和議を調停するなど、軍功を挙げながら一進一退を重ねたが、天文19年(1550)ついに京の都を制覇し、最高実力者の座を手中に収めるに至った。

 一方、乱世の教養人としての長慶は、茶道や連歌の分野にも長じ、凡そ権謀術数には縁遠い側面も持ち合わせていたのである。
 京畿一円と、中・四国の9か国を支配する天下人にまで出世した長慶だが、永禄7年(1564)7月4日、不運にも河内国飯盛山城で病死、享年43歳だった。
【写真左】イメージ図
 ご覧のように、屋敷跡だったようだが、防御的なものは、西側の谷を濠とし、周辺部にも空堀を巡らしていたと思われる。









 その後、天正年間(1575ごろ)に勝瑞城主三好長治滞城の伝承もあり、正確な芝生城廃城の時期は不詳だが、少なくとも長慶病没までの凡そ100年間芝生城は三好一族の拠城であったとおもわれる。

 城下は芝生上の河岸段丘全域に広がる約100町歩(ヘクタール)に及び、周辺を断崖と空堀に囲まれた城跡のここ殿屋敷は、凡そ2町歩を擁する要害、景観の地でもある。

 城址は、江戸時代後期の文化文政(1802~27)に至って開削導水された「三村用水」の恩恵に浴して以来、農民が待ち望んだ黄金の稲穂が波打つ田園地帯に変貌した。いまは「兵ものどもが夢のあと」往時のよすがさえ伺い知ることは出来ないが、三好一族の繁栄と活躍の一時期に思いをはせ、壮大な歴史ロマンの夢を描いてみましょう。

    平成11年(1999年)10月吉日
    三野町・三野町文化財保護審議会”
【写真左】芝生城周辺部・その1
 周囲は現在田圃や団地などが点在し、のどかな風景を創りだしている。










三好長慶

 長慶については、勝瑞館(徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地)ですでに述べているので、割愛させていただく。

 なお、上掲の説明板には、
 「小笠原家11代義長は、池田の大西城を廃し芝生城を築き、姓を三好と改め…」
 と記されているが、これまでも述べたように、三好姓とした時期は明確でないと思われる。
【写真左】芝生城周辺部・その2
 芝生城跡は北側の讃岐山脈から南に延びる舌状丘陵の先端部に当たり、その東端部や、西側の奥にそれぞれ溜池がある。

 当時はこれらも要害のための壕の役目をしていたものと考えられる。

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