2013年6月15日土曜日

経山城(岡山県総社市黒尾)

経山城(きょうやまじょう)

●所在地 岡山県総社市黒尾
●別名 京山城
●築城期 天文年間(1532~55)
●築城者 大内義隆
●城主 二階堂近江守氏行・中島大炊介元行
●高さ 372m
●遺構 郭・堀切・虎口・石垣等
●登城日 2013年5月11日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』『「備前物語・宇喜多秀家」津本陽著、サイト『城郭放浪記』等)
【写真左】経山城遠望
 北東部にある鬼城山ビジターセンター側に駐車し、そこから来た道を下っていくと、当城が見える。





 経山城は総社市の東方にある吉備史跡県立自然公園に向かう道の途中にあって、同公園の近くには古代朝鮮式山城とされる鬼ノ城(岡山県総社市奥坂鬼城山)がある。

 さて、経山城は元亀年間出雲の尼子氏と宇喜多勢が連合して、攻めたてた城砦である。
【写真左】宝篋印塔と五輪塔
 駐車場から登城口まで凡そ600mほどあるが、その途中の左側の高台に見える。二階堂氏または中嶋氏一族のものだろうか。






 現地の説明板より

“市指定史跡 経山城跡

 経山城は、守護大名の大内氏が天文年間に築いたといわれる山城です。天文12年(1543)に赤松春政、元亀2年(1571)に尼子晴久の城攻めがあり、天正10年(1582)の高松の役後に廃城となったと考えられます。
 城は、山頂の主郭を囲むように壇や郭、曲輪を配し、さらに石垣や石塁、堀切を備えるなど、城の形状がよく残されている山城です。

平成11年4月28日指定  総社市教育委員会”
【写真左】登城口
 道路脇にしっかりした案内板が設置されている。なお、この右に見える道路が鬼城山ビジターセンターに向かう道だが、坂道でしかも狭いため、駐車はできない。



元亀年間の尼子氏の備中攻め
 
 ところで、この経山城とは別に、以前投稿した同市内にある幸山城・その2(岡山県総社市清音三因)で、元亀年間に尼子氏が当城を攻めたことを紹介している。この頃の尼子再興軍に動きについては、当稿でも述べたように、地元である出雲国においては、再興軍の勝久・鹿助をはじめとする主だった者の動きについては単発的な記録が多い。

 言いかえれば、彼らは出雲国に常駐せず、備中をはじめとして山陽側での転戦がむしろ多かったのではないかと考えられる。
【写真左】最初のピーク
 登城道はさほど険しいものでないが、一部渓流沿いを歩くので、夏場などは藪蚊などにやられるかもしれない。
 このピークから左側に回り込みしばらく尾根を進む。


 従って、今稿の経山城も幸山城と同じく、この頃再興軍が備中に転戦していたという説は信憑性が高いと思われる。その中でも元亀2年2月が最も具体的な事例で、尼子再興軍が出雲国と備中国の二手に分かれていたと考えられる。

 では、備中国における尼子再興軍はどのようなの動きをしていたのだろうか。断片的な記録しかないが、少し追ってみたい。
【写真左】城域入口付近
 この位置に至るまでも小郭らしき段が認められるが、明瞭な遺構が残るのはこの付近からである。




 永禄9年(1566)11月21日、尼子氏の居城月山富田城が落城、城主尼子義久・秀久・倫久ら三兄弟は、毛利元就に降服した。そして三兄弟は捕らわれの身となり、杵築(出雲大社)の港で、家臣山中鹿助らと最後の別れをした。その後鹿助らは畿内方面に潜伏、尼子再興のための企てを進めている。

 鹿助らが直家との接触を持ち始めたのは、翌10年の頃と思われ、そのころ京都にあった鹿助は、吉川某という使者を介し、当時備前・亀山城(岡山県岡山市東区沼)にあった直家に尼子再興の協力を要請している。
 これに対し、直家はのちに尼子再興の中心人物勝久が挙兵のとき、一気に毛利氏に背き、さらには次第に距離を置き始めていた直家の主君浦上宗景ともこの段階で、敵対する意志を固めている。
【写真左】北東方向に鬼ノ城を見る。
 城域に入ると、次第に視界が広がり、北東方面には古代朝鮮式山城である「鬼ノ城(鬼城山)」が見える。



 尼子再興軍と直家との密約は、この段階(永禄10年頃)では露見していなかったが、翌11年の初旬、宗景は両者の密約を知ることになる。

 直家に対する脅威と憎悪を次第に持ち始めていた宗景は、毛利氏に対し、「表裏ただならぬ直家を誅滅されるなら、自ら御先手つかまつる」と恭順の意を示した。
【写真左】北ノ郭~東ノ郭付近
 経山城はおよそ南北100m×最大幅60mとさほど大きなものではないが、特徴的な遺構が残っているとされる。

 残念ながら登城した時期がわるいため、いい写真が撮れていないが、北側から「北ノ郭」を置き、その南隣には、東西50mの間に、「東ノ郭」「中ノ郭」、そして西端部に一辺20mの正方形の主郭を置いている。
 そして、そこから南麓に向かって、「二ノ壇」「三ノ壇」を置き、東側には細長い帯郭を付帯させている。



 その後の動きについては詳細は省くが、直家が直接尼子再興軍と連携をとって動き出すのは、元亀元年(1570)である。この年の正月、再興軍の一人秋上綱平が2,000余騎を率いて、備中に入った(出典は不明だが、このとき鹿助の名は見当たらない)。秋上綱平は、神魂神社(島根県松江市大庭町)でも紹介したように、当社大宮司である。
【写真左】二ノ壇付近
 現地では南側付近がもっとも整備され、眺望も楽しめる。









 直家は事前に、尼子勝久から秋上綱平を介して、協力の要請をうけている。直家は、自ら3,000余騎を引き従い、秋上軍(尼子再興軍)と合流し、備中・幸山城を攻囲した。幸山城主・石川久貞は宇喜多・尼子再興軍の強力な攻勢に戦意を喪失し、軍門に降った。

 その後宇喜多勢は、秋上らと新見市石蟹の石蟹城に立て籠もる石賀氏や、同市唐松の甲籠城の安達氏をも攻め落とした。このころの宇喜多勢の勢いはすさまじく、さらに呰部(北房町)、上房郡の佐井田城(岡山県真庭市下中津井)の植木氏をも落とし、植木氏は宇喜多氏の麾下となった。
 佐井田城主であった植木秀資らはこの後、主として尼子方の配下となって、津々加賀守らと3,500余騎をもって、鴨方の杉山城を含め2,3か所の諸城を攻め落としていった。
【写真左】石碑
 「龍王権現」と刻銘された石碑があるが、おそらくこの箇所は「三ノ壇」の南西端にあったといわれる「虎口」付近とおもわれる。



 こうした宇喜多・尼子の動きを知った毛利元清(備中・猿掛城(岡山県小田郡矢掛町横谷)参照)は、8,000の大軍を率い、三村元親を先手として反撃を起こしたため、植木らは一旦出雲に逃れたという。

 元亀2年2月、宇喜多直家は尼子式部及び大賀駿河守と協力し、約6,000余騎を引き従え、再び浅口郡鴨方の杉山城を攻めた。

 杉山城については次稿で紹介する予定だが、当城の城主は当時細川下野守すなわち、鴨山城(岡山県浅口市鴨方町鴨方)主でもあった細川道董(みちただ)である。
【写真左】土塁
 南側にある三ノ壇付近には虎口跡があるが、その西側には高さ1mほどの土塁跡がある。
 






宇喜多・尼子勢による経山城攻め

 そして、この年の4月、宇喜多・尼子勢はさらに刑部郷(おしかべごう)の経山城を攻めたてた。当時の城主は、中島大炊介元行である。大炊介の始祖は二階堂為憲といわれ、毛利に与するまでは尼子の幕下にあった。このため、戦う前に尼子式部が大炊介に対し、誘降を促している。
【写真左】主郭北側
 主郭の北側には石塁のような形状を持った土塁が部分的に残っている。








 これに対し、大炊介は一応尼子氏に帰順する旨であると回答した。しかし、これは毛利氏の支援がくるまでの時間稼ぎするための方便であった。尼子式部らはこの言を信じ、一旦兵を引いた。その直後、大炊介は当時九州で大友宗麟と抗戦していた小早川隆景らに急使を送り、援軍を求めた。
【写真左】主郭
 ご覧のように余り整備されていないが、平坦部となっており、手前には二ノ壇が続く。







 その間、大炊介は経山城の防備を補強するため、突貫工事を行った。経山城の西方にある小寺村には南北三町、東西四町に渡って二重の壕を掘り、水濠を設置、二の郭には空堀、三方の矢倉門道には、落とし穴を数か所造り、城内に入る橋をすべて破壊し、一族の老若男女を城内に入れ、さらには地元の百姓らも中に入れた。文字通り長期戦覚悟の籠城戦を敷いたわけである。
【写真左】本丸跡から、南方に幸山城・備中福山城を遠望する。
 少し靄がかかっており、鮮明ではないが、両城を見ることができる。





 大炊介に騙された尼子式部は激昂し、直ちに宇喜多勢と1万の軍勢で南門から攻めたてた。しかし、大炊介の巧みな戦術によって、逆に寄せ手側に多くの負傷者を出してしまった。

 この時、特に尼子式部の率いる軍は強引な戦術がアダとなり、当初120余人が討取られ、それを見た宇喜多勢は途中から尼子勢の先手に積極的に加勢しなくなった。しかも、戦意を失っていた尼子勢に対し、大炊介は逆に敵陣に攻め込み、その結果、合計376の首級を討取った。尼子氏の完全な敗北である。
【写真左】本丸跡から、備中高松城及び、長良山城を見る。
 上記の位置から東に目を転ずると、両城が見える。
 





 因みに、この戦いでは経山城主・中島大炊介の計画的な戦術が功を奏したが、大炊介の母の働きも見事なもので、鎖帷子(くさりかたびら)に身を固め、太刀・薙刀を両手に持ちながら、女中らと昼夜問わず城中を見回った。そして城兵には飯や酒を配り、士気を高めたという。
【写真左】本丸跡から夕部山城を見る。
 今度は西に目を向けると、高梁川や夕部山城が見える。
 夕部山城は未投稿だが、備中兵乱のとき、毛利方の小早川隆景が陣を布いたといわれる。




尼子式部

 ところで、経山城や杉山城攻めを行った尼子式部という武将だが、実は主だった尼子氏一族の中にこの人物は記録されていない。

 上掲したように、月山富田城が落城した永禄9年(1566)、城主であった尼子義久・秀久・倫久は毛利氏に降服し、出雲における尼子氏はこの段階で途絶えることになる。また以前にも述べたように、三兄弟の父である晴久は、永禄3年(1560)12月24日に急逝している。

 天正6年(1578)、播磨の上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)・その3にて自害する勝久は、尼子再興を図る山中鹿助らに永禄11年(1568)、京都で出家していたとき、還俗させられている。情況を考えると、尼子氏を名乗る武将は、この段階で勝久しかおらず、おそらく尼子式部とは、勝久を示していると思われる。

 従って、幸山城の稿でも述べたが、現地の説明板にある「元亀2年(1571)に尼子晴久の城攻めがあり…という内容は、当然ながら錯誤であり、幸山城のものと併せて、管理主体と思われる総社市教育委員会において訂正されることを希望したい。

大賀駿河守

 彼については、以前取り上げた石見の針藻城(島根県浜田市三隅町古市場 古湊)の城主で、当城第5代の大賀道豊駿河守従大位下の事と思われる。

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