2012年8月24日金曜日

宇陀松山城・その1(奈良県宇陀市大字宇陀区春日・拾生・岩清水)

宇陀松山城(うだ まつやまじょう)・その1

●所在地 奈良県宇陀市大字宇陀区春日・拾生・岩清水
●別名 宇陀秋山城・神楽岡城
●築城期 南北朝期ごろ
●築城者 秋山氏か
●指定 国指定史跡
●高さ 473m(比高120m)
●城主 秋山氏・伊藤掃部頭義之・加藤光泰・羽田正親・多賀秀種・福島孝治
●廃城年 元和元年(1615)
●遺構 本丸(天守郭)・二の丸・郭群・虎口・横堀その他
●登城日 2012年4月17日

◆解説(参考文献「集英社版日本の歴史⑩戦国の群像」池上裕子著、『戦国の山城』全国山城サミット連絡協議会編等)

 前稿までこの4月に探訪した伊勢国北畠氏関係の史跡を紹介してきたが、実は伊勢国を訪れる前に西方の大和宇陀地方を先に探訪している。
【写真左】宇陀松山城遠望
 東方の「又兵衛桜」(大宇陀本郷)から見たもの。
 なお、「又兵衛桜」については、別稿で取り上げる予定である。



 ところで、初めて宇陀を訪れたのは昭和46年ごろだったと記憶している。当時名古屋に住んでいたが、近鉄名古屋線から大阪線に乗り換え、室生口大野の駅だった思う、そこから延々と渓流沿いに続く道をハイキングして、たどり着いたのが室生寺だった。

 随分と時間がかかった行程だったが、渓流沿いには、グラデーション鮮やかな紅葉が四方を覆い、最終地点では、木立に囲まれ独特の色彩を放つ五重塔や、金堂・潅頂堂など、室生寺の伽藍と境内が醸し出す雰囲気には各別のものがあった。それ以来、宇陀は管理人にとって、豊後・南予(愛媛)と同じく、お気に入りの土地として脳裏に刻まれていた。今回の探訪は従って実に40余年ぶりのことになる。

 さて、大和国の山城としては、随分前に高市郡高取町にある日本三大山城の一つ「高取城(奈良県高取町)を紹介しているが、今稿で紹介するのは、北東部に位置する宇陀市の「宇陀松山城」である。
【写真左】春日神社参道
 宇陀の町並みは現在重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
 当地を探訪する観光客は、ほとんどこの町並み散策が主で、松山城へ登城する人は少ないようだ。

 春日神社参道は、宇陀の城下町の出入口である西口関門から続いている大手筋正面に位置する。このまま進むと、春日神社に向かい、その手前から登城口の案内がある。

宇陀の三将

 伊勢北畠氏は戦国期、この宇陀にも支配体制を敷いた。北畠氏を支えたのは、「宇陀の三将」といわれた沢・秋山・芳野の三氏である。特に沢氏については、平安時代末期から江戸時代までにかけて約500点の文書が所収された「沢氏古文書」が残る。
【写真左】春日神社
 現地の説明板より

“春日神社由緒

一、祭神 天之児屋根命(あめのこやねのみこと)・武甕槌命(かけみかずちのみこと)・比売神(ひめかみ)

 当社の創建について詳しくは分からない。しかし、宇陀郡内には興福寺大乗院門跡管領の春日大社領が多く存在し、当社地も中世の春日庄(応永13年(1406)作とされる「宇陀郡田地帳案」(春日大社文書)に位置することから、奈良春日大社を勧進したものと考えられる。

 宇陀松山城と城下町の縄張りを示した「阿紀山城図」(文禄3年写・1594)という絵図には「春日社」として社地が表されている。
 また、絵図に示された宇陀松山城へ向かう大手道は、西口関門から春日門を経て、いったん春日神社へ入る。そして、神社から再び城へ向かう構造をとる。つまり、この時代の春日神社は城郭の郭としての機能も併せ持っていたのである。”

【写真左】春日門跡
 春日神社手前の付近で、周囲には石垣などが残る。







 同文書によれば、沢氏はもちろん、秋山氏ら宇陀郡内においておこった土民一揆や、それらを担保する一揆盟約(掟)などが記録され、彼らの国人領主同士による、地域自治的組織化が図られていたことが知られている。ただ、現実には種々の問題が発生し、収拾がつかない場合には、度々北畠氏の裁断に仰いでいたようだ。

 ところで、沢・秋山両氏は元々同国宇陀郡内の国人領主とされ、当地荘園の下司(げし)又は荘官クラスの出自といわれている。
 北畠氏と関係を持ち始めたのは、おそらく南朝方として活躍したときと思われる。もともと宇陀は興福寺や春日社などが所有する荘園が多く、後に沢・秋山氏は北畠氏を後ろ盾として、これらの領地を次第に奪取していった。
【写真左】登城口
 春日神社脇に案内標識が建っており、この道を進む。










 北畠氏の家臣であったとはいうものの、三氏とも独立性の強い国人領主であったため、領地境界や、荘・郷の支配については互いに抗争をつづけた。文明16年(1484)、沢氏領有地の東方にあった諸木野(現在の榛原高井付近)をめぐって、秋山氏と抗争が始まった。

 この合戦には、のちに西方近隣の高取城主・越智氏や、筒井順慶を輩出した筒井氏などが絡み、複雑な様相を呈していく。統治者北畠氏も当然この抗争の調停に赴くことになり、4年後の長享元年(1487)、やっと和議が成立した。

 このとき、秋山氏は自害を命ぜられ、その後沢氏は源左衛門が北畠氏の面前で切腹させられたという。
【写真左】登城道
 登り坂となった位置からは杉林の中を進む。道の周囲は崩落防止用の土嚢が左右に積んである。








戦国期

 宇陀松山城は、別名秋山城ともいわれている。築城者秋山氏は上掲したように南北朝期北畠氏の家臣として活躍するが、その後戦国期の天正13年(1585)、豊臣秀長が大和郡山へ入ると退去することになる。

 そのあとに入ったのが、秀吉の家臣であった伊藤掃部頭義之が入封し居城とした。その後、加藤光泰・羽田正親・多賀秀種といった豊臣家臣らが引き継いだが、関ヶ原合戦後、福島孝治が入った。しかしわずか15年後の元和元年(1615)、孝治は改易され当城は廃城となった。

 現在残る遺構の大半は、前記した豊臣家臣時代のもので、大規模な改修を行っている。併せて城下町の整備もこの頃行われたという。
【写真左】北側に延びる空堀
 宇陀松山城の調査は平成7~11年度、及び16年度に行われ、平成20年度から保存整備を進めているという。

 訪れたこの日も所々に調査跡のブルーシートや、周辺の伐採した跡が残り、整備は完了していないようだ。
 これまでのところ、礎石建物群・桐紋・菊紋などが入った瓦・陶磁器類などが発掘されている。
【写真左】御加番郭
 北側から回り込んだ登城ルートを進むと最初に見える郭で、本丸の西側に設置されている。
 この付近には虎口郭などが残る。
【写真左】本丸と天守郭・その1
 御加番郭を過ぎて東に少し上ると、すぐに広大な本丸が見え、その先には3,4m程度高くなった天守郭が控える。
【写真左】【写真左】本丸と天守郭・その2
 北端部を見たものだが、本丸から下に向かう法面はかなり高く、15m前後はあるだろう。切崖状である。

 なお、写真中央に見える郭は、西側にある御加番郭で北東部を扼する。
【写真左】天守郭・その1
 2層構造となっており、手前の階段から上る。
 出土したものや、遺構の内容等から織豊時代の城郭の特徴を明瞭に残した城郭とされている。


【写真左】天守郭・その2
【写真左】天守郭から北東に大御殿・御加番郭を見る。
 先ほど紹介した箇所で、天守郭の東端部からそのまま東に降りると、大御殿があり、その北東部には一段下がった御加番郭が控える。
【写真左】西の御加番郭から天守郭を見上げる。
 この位置から天守郭を見上げると、かなりの比高差があることが分かる。


【写真左】天守郭より二の丸を見る。
 東側の大御殿の南側には「大門」があったらしく、その南東部には二の丸が伸びている。

 二の丸は写真にもあるように、一部杉の伐採が施されているが、大半は杉林のままになっている。
【写真左】二の丸
 奥まで入っていないが、奥行は優に50mを超える。上段の本丸の規模とさほど変わらないようだ。

 おそらくこの場所にも礎石建物があったものと思われる。


【写真左】本丸の南側
 この箇所はご覧のように東方の大御殿・二の丸に向かって帯郭が走り、途中には南虎口があった。

 なお、手前の帯郭は幅が広く、西帯郭とされ、その先の細い帯郭は東帯郭と命名されている。



感想

 さすがに国指定史跡をうけるだけの堂々たる城砦である。
 ただ、調査・整備中であるとはいえ、できれば現地に縄張図や、城の概要などを示す説明板のようなものがあるとうれしいのだが…。

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