2012年6月16日土曜日

風呂の嶧砦(島根県浜田市三隅町西河内 八曽)

風呂の嶧砦(ふろのえきとりで)

●所在地 島根県浜田市三隅町西河内 八曽
●別名 風呂ノ木砦(ふろのきとりで)
●築城期 不明(南北朝期か)
●築城者 不明
●城主 当木四郎左衛門
●形態 丘城
●高さ 47m
●遺構 郭・空堀
●登城日 2012年2月28日

◆解説(参考文献『三隅町誌』等)
 風呂の嶧砦は、以前取り上げた石見三隅城(島根県浜田市三隅町三隅)の数ある支城・砦の一つで、同じく支城の一つとしてすでに紹介した日本海側に築かれた針藻城(島根県浜田市三隅町古市場 古湊)に近く、三隅川下流の北岸に築かれている。
【写真左】風呂の嶧砦本丸
 手前の台地が本丸付近で、奥に見える川が三隅川となり、さらに奥に見えるのが三隅氏本拠の三隅高城



現地の説明板より

“風呂の嶧(木)砦(ふろのえき(き)とりで)
 風呂の嶧(木)砦は三隅氏の居城であった高城山の北側に位置し、数ある支城・砦のひとつとして築かれ三隅川に沿う街道の守りを固める役割を持っていたものと考えられる。

 元亀元年9月(1570)毛利氏の進攻による三隅城の落城のおり、眼下の細田河原、納田郷(なったごう)の一帯は合戦場となり三隅氏の家老であった砦の城主当木(あてのき)四郎左衛門並びに八の木八郎右衛門とその配下は毛利軍に討たれ、この地に戦死したと伝えられている。
【写真左】三隅城(高城)本丸から北方に「風呂の嶧砦」及び「八の木砦」を見る。
 手前の三隅川河口には針藻城がある。



 今なお、砦の南側の濠の跡には、戦いに使用したとみられる石の堆積が残され、往時の合戦の様子が偲ばれる。

 風呂の嶧には、砦に松の樹を植えて塚松として守り、三隅氏の菩提寺である正法寺に両勇士の供養を行ってきた。

 砦の跡には、近年まで昔日を語るばかりに聳えたつ老松の姿を遠くから見ることもできた。
 三隅の郷を守るために命を賭して勇敢に戦い、戦死した主従の功を後世に伝え、公園とする。

  八曽自治会
   平成17年3月”
【写真左】三隅高城の支城・砦群配置図
 当城の本丸に設置された説明板に付図されているもので、詳細は下段に転載している。








三隅高城の支城・砦群

 三隅城(高城)の稿の際にも少し触れているが、三隅氏の本拠城の守りを固めるため、四周に多くの支城・砦が配置されている。風呂の嶧砦のある現地には、それを図示したものがあり、添付写真を参照していただきたいが、この図によると、
  1. 周辺囲繞城
  2. 境界囲繞城
の2種類に分類され、このうち風呂の嶧城は境界囲繞城の一つとして図示されている。
 写真では文字が小さいため、改めてそれぞれの支城名(砦名)を列記しておく。

(1)境界囲繞城
  1. 風呂ノ嶧砦      (今稿)
  2. 八の木砦
  3. 水来城
  4. 芦谷城(茶臼城)
  5. 井村城(井野城)   (2010年9月2日投稿)
  6. 陣場ヶ嶽砦
  7. 草井城
  8. 河内城         (2010年8月30日投稿)
  9. 茶臼山城       (2010年9月5日投稿)
  10. 普現田砦
  11. 針藻山鐘尾城     (2010年8月31日投稿)
【写真左】登城口付近
 高さが40m余と低いことや、砦形式のものであることから規模は小さい。


 しかし、現在整備されている箇所からさらに西に延びる丘陵上にも遺構が残ることから、東西総延長は300m前後あるものと思われる。



(2)周辺囲繞城
  1. 折居城
  2. 鳥屋尾城
  3. 猪股城
  4. 鷹の泊城
  5. 木束城
  6. 板井川端城
  7. 宇津川要害
  8. 古和城・その1
  9. 古和城・その2
  10. 屋原城
  11. 碇石城
  12. 大多和外城
【写真左】途中の郭段
 現地には植林された樹木があり、運搬用の道路が敷設されたこともあり、遺構の残存度は不明だが、主郭付近はあまり改変されていないようだ。


戦国期の三隅氏

 三隅氏については、三隅城でも紹介しているが、周防の陶晴賢が大内義隆に反旗を翻したとき、石見石西の主だった一族・益田氏及び三隅氏は、他の同国石見国人が毛利氏に従ったのに対し、両氏は陶氏に与同していた。

 というのも、吉見氏と長年対立していた益田氏は、毛利氏と与同していた吉見氏が居る限り、毛利氏に服属することはできなかった。
【写真左】本丸付近
 下の登城口からは歩いて5分程度ですぐにたどり着ける。


 本丸付近は緩やかな傾斜はあるものの、約20m四方の平坦地となっている。
 写真にみえる看板が冒頭で記した案内板。


 さらに三隅氏自身は、以前にも述べたように惣領家益田氏とも長らく敵対していたことから、本来は益田氏に与することも不本意なことでもあった。しかし、すでにころのころから三隅氏第14代・隆兼の力は衰え、益田藤兼が事実上三隅本城を支配し、毛利氏の攻撃を藤兼が七尾城と併せて受けることになった。ただ、この時点で三隅氏一族が完全に藤兼に降ったわけではない。

 ところで、益田藤兼が頑なに毛利氏に与しなかったもう一つの理由は、大内氏に対する恩義・忠節があったからである。しかし、弘治3年(1557)4月3日、養子とはいえ大内氏の後継者・義長が自害したことにより、大内氏に対する義理はなくなった。藤兼は三隅城を責めていた福屋隆兼を通じ、毛利氏への降伏を伝えた。

 さて、その後の三隅氏の動きだが、前述したように同氏14代隆兼は、このころ老齢となっており、事実上同氏一族の棟梁としての力はなく、同氏の家臣であった各支城の城主が、毛利氏及びその後同氏に与した益田氏との抗戦を続けていくようになったようである。

 今稿でも取り上げた「風呂の嶧砦」など三隅本城(高城)を囲繞していた支城・砦群は、三隅町誌によれば27か所以上を数えたという。当然、各城砦の城主がいたわけで、彼らが徹底して益田氏や毛利氏との抗戦を続けていくことなった。
【写真左】本丸から三隅本城を見る。
 冒頭で紹介した写真とほぼ同じだが、手前の焚火跡のようなものは、狼煙の跡だと思われる。
 
 近年、三隅本城を中心に当城も含め、主だった支城と一斉に「狼煙」を挙げる行事が行われ、近接の学校の子供たちが参加しているという。
 戦国期の地元の歴史を学ぶには、こうした実際の場に足を運び、実践することが一番いい思い出となるだろう。

 なお、この写真の三隅川の岸辺から少し上がった所に、この砦で討死した当木四郎左衛門らの墓があったらしいが、昭和58年の山陰豪雨災害によって跡形もなく流出してしまい無くなったとこのこと。

 たまたま当砦の麓にお住まいのO氏に逢い、三隅氏及びこの砦について貴重な情報を御教示いただいた。さらに三隅氏については自らまとめられた資料まで頂いた。この場を借りてお礼申し上げたい。


 天文21年(1552)、三隅隆兼は益田氏の軍門に降り、城下の誓いをしたという。しかし、実際には籠城していた家臣はそのまま城内に踏みとどまり、執拗な抗戦を続けている。

 以後の戦いについては、かならずしも史実に基づいていたかはっきりしない軍記物なども出て、混乱しているきらいがあるが、元亀元年(1570)に勃発した「三隅之役攻防」(三隅地方史研究会)の中に、当時の状況が記されている。
【写真左】空堀か
 本丸から北西に向かったところに見えたもので、この付近は整備されず竹などが生えているが、本丸の北側を囲むように東西に長く見えた。


 南側は三隅川という天然の濠を利用できるが、比高がさほどないため北側にはかなりの防御を施していたと思われる。


 これによると、攻囲した毛利軍は、児玉水軍を中心とした水軍15艘と、益田勢などが加わり、対する三隅方守備軍については、それぞれの支城において、陣が整えられた。
主だった三隅方の支城・砦は次の通り。
  1. 湊口城(針藻砦)
  2. 古市城
  3. 大多和外城
  4. 普源田城
  5. 鉢ノ木砦(八ノ木砦)
  6. 石田城
  7. 西山城(芦谷城)
  8. 三本松砦
  9. 今城鐘尾砦
  10. 宇山砦
  11. 龍門城(河内城)
  12. 茶臼山城
  13. その他
この中には今稿で取り上げている「風呂の嶧砦」は記録されていないが、当然含まれていたものと思われる。
【写真左】本丸から三隅本城(高城)を遠望する。
 当城が三隅川沿いに築かれたことを考えると、毛利方の戦力のうち、児玉水軍など船戦に長けた兵力が来ることをだいぶ前から察知していたのではないかと思われる。


 最初の防御は三隅川河口の「針藻城」で、ここが堕ちたら、第2弾としてこの「風呂の嶧砦」が防戦するという計画だったと考えられる。


 そして、結果としてこれら支城が悉く堕ち、児玉水軍などは三隅本城の麓まで船団を率いて攻略していったと思われる。そして、併せてさらに上流部の「河内城」まで舟で上って行ったと考えられる。


 なお、毛利軍の中に、元就はじめ吉川元春・小早川隆景などの名が見えないが、元就はすでにこのころ病が重くなり、戦場に赴くことが困難になっていた(途中から出雲を離れ安芸に帰っている)。元春・隆景は出雲において、山中鹿助らの尼子再興軍と激戦を交わしていたため、当地には赴いていない。
【写真左】本丸から東方に「八の木砦」を遠望する。
 八の木砦は登城していないが、風呂の嶧砦から東方へ約500m弱の距離にある。




 また、この攻防戦の大勢がいつごろ決したかを知る手がかりとしては、児玉水軍の動きがある。

 出雲国における尼子再興軍との戦いは、既述したように「三隅之役攻防」とほぼ同じ時期に繰り広げられ、同年(元亀元年)10月6日になると、「元就の名」によって、児玉就英に対し、「船を準備し早々に神西湊(出雲市湖陵町)へ赴くよう命じた」(「萩閥100」)とある。
 このことから、三隅表における戦いが概ねこの時期に雌雄が決していたことが想像される。

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