2011年7月16日土曜日

三原城(広島県三原市館町・城町・本町)

三原城(みはらじょう)

●所在地 広島県三原市館町・城町・本町
●築城期 天文~永禄年間(1532~70)
●築城者 小早川隆景
●形態 平城(海城・浮城)
●遺構 天守台・濠・本丸・中門跡・船入り櫓跡・船入り跡等
●規模 1,000m×400m
●指定 国指定史跡(昭和32年12月11日)
●登城日 2011年2月16日

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
 三原城は現在のJR三原駅を中心とした位置に築城されている。このため、明治に入ってからは、山陽本線や新幹線が城域を南北に分断し、さらに駅前の商店街などができたため、本丸・二の丸・三の丸の大部分が消滅している。
【写真左】三原城
 北東からみたもので、写真にみえる石垣は本丸側のもの。









 JR三原駅ができたのは、明治25年(1892)の尾道―三原駅間の延伸開業のときである。明治6年(1873)、廃城令が発布されているので、三原城も当然その対象となっている。

 西洋文明の開花は、戦国・江戸期の構造物の価値を片隅に追いやり、殖産産業の基幹インフラを優先させた。三原城の存在は無用のものとして、むしろ駅舎を建てる際の基礎としての役割を担うことになったわけである。
【写真左】鍛冶曲輪跡
 駅の北側の東部分にあったもので、現在は写真にあるように駐車場や建物が建っている。

 写真の説明板より

“鍛冶曲輪跡(館町)
 三原刀を鍛えていたとされる曲輪。中に井戸二つ、鍛冶屋敷、武具役所のあった場所。
 三原刀は、鎌倉時代より有名で、古三原といわれ、大振り豪壮にして、切れ味抜群。正家正広(共に一代限りでない)正信と重美級の物多く、刀剣市場高い評価を得ている。
 作風は鎬高く反あり、地は柾目多く白くる風あり。刀文は直刀もフグの目に逆足の交わりたるものあり。忠は棟角に横鑢ある。

 室町中期より末期の間に三原刀工は、左記のように備後一円に分布し、三原鍛冶と呼ばれ刀工数は備前長船に匹敵すると推定される。
 最末期には対明貿易用の数打ち物も造る。

 尾道 … 其阿弥派。  木梨三原。
 福山 … 鞆三原。 草戸法華一乗。
 備後 … 貝三原。 安芸国へも分布。

 今に残る名作は
 二字銘 初代正家 … 宮内庁 蔵(御物)
 名物大三原 … 正弘 … 秀吉遺品、天下五剣の一。
                  浅野幸長拝領(重文)
 大太刀 … 行吉 … 厳島神社 蔵(重文)
 毛抜型 … 五阿弥 … 新市 吉備津神社蔵(重文)
 太刀 … 長行 … 吉備津神社蔵(重文)”
【写真左】駅構内に残る石垣
 この写真の上を新幹線や山陽本線が走っている。
 この辺りはおそらく三の丸付近だったのだろう。写真に見える石垣は、冷房用のクーリングタワーの架台として再利用?されている。


 城跡の中心部をこれだけ改変したあと、昭和32年、国の指定史跡としているが、城郭史跡としての価値を認定するには、あまりにも時宜を逸してしまったといわざるを得ない。

現地の説明板より

“国史跡
 小早川氏城跡三原城跡
   昭和32年12月11日指定
   所在 三原市 館町・本町・城町

 三原城は、瀬戸内海の水軍を掌握していた小早川隆景が、永禄10年(1567)沼田川河口の三原湾に浮かぶ大島・小島をつないで、天正10年(1582)前後と、慶長元年(1596)のころ偉容を整えたといわれる。
 城は、海に向かって船入りを開き、城郭兼軍港としての機能を備えた名城で、満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えるところから浮城(うきじろ)とも呼ばれた。

 小早川氏のあと、福島氏、浅野氏の支城となり、明治維新後、一時海軍鎮守府用地となったが、沼田川の堆積作用などを理由に変更され、建物・樹木などが競売に付された。
 その後、鉄道が本丸を貫き、明治27年(1894)6月には、三原駅が開業した。

 今では、市街化がすすみ、天守台とそれをめぐる濠、船入り跡・船入り櫓及び本丸・中門跡を残すのみである。
  三原市教育委員会”

【写真左】駅構内にある天守台案内
 三原城の天守台に向かうには、一旦駅構内南側から入り、北に向かって進むと、御覧の案内板が見える。ここから階段を上ると天守台に向かう。
 当然ながら乗車券は不要で、入場券も要らないが、こうした場所から城郭に向かうのは初めてで、なんとも奇妙な違和感を覚える。

小早川隆景

 築城者である小早川隆景については、これまでも度々取り上げてきている(米山寺・小早川隆景墓(広島県三原市沼田東町納所)参照)。

 三原城はおそらく、隆景が三原本郷に新高山城を築城した天文21年(1552)ごろとほぼ同時期に、三原浦の砦として整備し始めたようだ。記録によれば、翌22年3月、八幡六郎右衛門尉が「三原要害」の在番を申付けられている(『萩藩閥閲録』)。

 永禄11年(1568)9月、織田信長が京都へ上り、天下統一を図ろうとしたころ、すでに西国に対する準備が進められていた。これを察知した毛利方として、特に瀬戸内を担当する小早川隆景は、居城であった本郷の新高山城よりも、すぐに動きのとれる三原浦の三原要害を重視し、整備を急いだ。
【写真左】船入櫓跡
 天守台側に出るとすぐ右にみえる三角の平坦地がある。
 この場所には「船入櫓」があったといわれ、おそらく山陽新幹線や山陽本線の軌道部は、多くの軍船などが停泊していたのだろう。


石山本願寺籠城戦

 ところで、戦国期の浄土真宗本願寺派の総本山は、大阪の石山本願寺であったが、元亀元年(1570)ごろから天正8年(1580)ごろまでの約11年間、織田信長との長い抗争が繰り広げられた。

 特に「第1次木津川口の戦い」(1576)では、傭兵集団雑賀衆と、救援に駆け付た毛利水軍の活躍で、大阪湾を包囲した織田軍を壊滅させた。

 このときの毛利水軍とは、村上水軍など舟戦にたけた軍団をまとめた小早川隆景が中心となっている。特に三原湾で多くの船団を集結させ、淡路島の岩屋に前線基地を設け、統率のとれた体勢をとりながら、準備していったという。

 このとき、毛利輝元が本陣として三原城に拠り、隆景は笠岡に配して指揮を執ったとされる。笠岡とは、おそらく笠岡山城(岡山県笠岡市笠岡西本町)のことだろう。
【写真左】本丸・天守台
 本丸は北に向かって少し幅が狭くなっていく。

 慶長年間の記録では、本丸は15.8m×168.3mとあり、二の丸は153.8m×162.9m、三の丸は本丸の東北に位置するものの、門尺(大きさ)は測りがたし、とある。



三原城の修築

 その後、説明板にもあるように、天正10年になると、隆景は三原城の本格的築城に着手した。天正10年とは、備中・高松城(岡山県岡山市北区高松)攻めのあった年で、同年6月4日、秀吉との講和後すぐに三原に戻り、当城の周辺を大々的に修築していく。

 もともと海に浮かぶ二つの島であったため、濠普請については施工が容易で、しかも「海城」を意識した設計を基本に、「城郭」と「軍港」を併せ持った城砦として進めて行った。

 隆景晩年の文禄4年(1596)11月、領地となった筑前を養子秀秋に譲って、三原に戻った。そして、さらに三原城の修築を再開し、同氏の氏寺であった仏通寺(下段の写真参照)再建にも力を注いだ。

 しかし、三原に戻って隠居して間もない慶長2(1597)年6月12日、急逝した。享年65歳。
 墓地は、三原市沼田東町納所の米山寺にある。
【写真左】本丸から西を見る
 上に見えるのが新幹線側だが、二の丸はこの新幹線が走っている位置、もしくは小さく見えるバスの停まっている地点にあったようだ。
【写真左】本丸から北東を見る 
 先述したように、三の丸がこの辺りにあったものと思われる。
【写真左】再び本丸
 御覧の通り庭園風の仕上げとなっており、当時の遺構はほとんど残っていないが、若干北側が高くなっているので、その位置に天守台があったものと思われる。
【写真左】仏通寺
 三原市高坂町許山にある。創建は応永4年(1397)小早川春平によって開基された。中国三十三観音霊場第十二番札所。
 秋になると紅葉が見事で、多くの参拝者でにぎわう古刹である。 

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