2011年1月4日火曜日

小石見城(島根県浜田市原井町)その1

小石見城(こいわみじょう)・その1

●所在地 島根県浜田市原井町
●築城期 南北朝時代
●築城者 井村兼雄
●標高 153m
●備考 大陣平
●遺構 郭、帯郭、石垣
●登城日 2010年12月20日

◆解説(参考文献「石見町誌・上巻」「益田市誌・上巻」等)
 これまで、当城については、特に井野城(島根県浜田市三隅町井野 殿河内)や、三隅城・その3(島根県浜田市三隅町三隅)で少し触れてきているように、石見南北朝期に重要な城として登場している。
 また、戦国期になると、備考欄にも示す「大陣平」という名称でも出てくる山城である。
ただ、その割には当城そのものの内容を紹介した史料が少なく、大分前から気になる山城だった。
【写真左】登城口付近の案内板
 小石見城を示すものは現地ではこれだけで、登城路を示すものはない。

 浜田市街地は山間部に入ると、途端に道が狭くなり、カーブが多いが、駐車スペースはこの案内板のあるカーブの端にできるだけ寄せて停めた。

 なお、当日はこの案内板の右側にある畑にむかう道を進んだが、このコースが正式なものかは分からない。


 所在地は浜田市にあるが、現在この付近は当時の地形が大幅に改変されている。国道9号線の浜田バイパス(山陰道)が開設されて以来、浜田の街並みはずいぶんと変わってきたようだ。

 当然、南北朝期の姿とは想像もつかないようなものになっているが、日本海に入り組んだ海岸を巧みに利用した浜田の港側からみるとと、壁のような岩が乱立し、中小の河川の谷は深く、中世山城を築城するには、天然の要害を最大限利用できたものと思われる。
【写真左】南麓部
 登城口から100m程度東方に向かうと、畑や梅の木などが植えられた場所で道は無くなる。そのあとブッシュを少しかき分け、本丸の南麓部に入った場所がこの写真である。

 「日本城郭大系第14巻」では、城域は畑地となっていると記されているが、すでにこのあたりから植林された杉と、自然林の混在した状況になっている。
 当然道らしきものはないため、勘を頼りに北へ伸びる稜線を進む。


 小石見城の築城期については、上段に示したように南北朝期とされ、築城者は井野城の城主でもあった井村兼雄とされている。

 ところで、これに先立つ元暦2年(1185)6月、御神本(益田)兼栄・兼高父子のとき、源頼朝から恩賞として小石見城も含まれる土地を安堵されている。この中の明細を見ると、当該地は、石見国伊甘郷及び小石見とある。もちろん、この時に築城されたという記録はないが、益田氏が益田の七尾城に移住する前の所領範囲が、
  • 美濃郡  匹見・丸茂別府・益田庄など
  • 那賀郡  木束郷・永安別府・吉高・伊甘郷・良万・小石見など
  • 邇摩郡  温泉郷・宅野別府など
  • 邑智郡  市木別府・長田別府など
  • 安濃郡  鳥居別府・吉光など
となっており、すでに広大な領地を所有していたことを考えると、そのころから例えば伊甘山安国寺(島根県浜田市上府町イ65)の稿でも述べたように、「笹山城」のような城砦施設もしくは館が、上記所領地ごとに置かれていたとしても不思議でない。
【写真左】郭その1
 おそらく当初は郭だったと思われるが、前記したように近代になって段々畑となった個所と思われる。

 南麓部にはこうした不揃いの壇跡が見える。


雲月作戦

 さて、小石見城が登場するのは、南北朝期の石見・安芸における「雲月作戦」と呼ばれる戦いの流れで出てくる。

 雲月というのは、現在の広島県北広島町と、島根県浜田市旭町の県境にある雲月山(標高911m)を中心とした峠の周辺で、「今福芸北線」(114号線)のルートに当たる。地形的には、安芸側は緩やかな方だが、峠を越えた石見に入ると、現在でも険しく深い谷や屈曲した山道の連続で、当時この峠を越えることは相当な困難が伴ったと思われる。
【写真左】郭その2
 南側の不定形な郭段を登ると、写真に見える本丸西側に伸びた平坦地にたどり着く。

 形状は本丸西に約50m程度伸び、そのあと北に向かって30m程度L字型に伸びた郭が続く。


 最初に宮方が勢威を失ったのは、興国元年(暦応3年:1340)の8月ごろで、日野邦光は石見を去り、高津長幸は九州に奔った。興国2年6月、足利直義は安芸守護であった武田信武に石見派兵を命じた。

 同年7月、安芸の武家方は山県郡大朝に終結し、雲月峠を目指して中国山脈の南麓沿いに陣を配置。さらに石見から上野頼兼は、南を迂回し(おそらく匹見側から入ったとおもわれる)、安芸の八幡原(やわたはら)を通って、安芸の武家方と合流した。

 このころ、国境を越えた安芸の中野地区内奥原(現在の北広島町奥原)には、宮方の福屋氏大多和(大峠)城(場所は不明)に拠って、安芸武家方軍を迎え撃つ態勢をとっていた。
6月26日、この大多和城を中心にして、石見宮方軍と安芸・石見武家方連合軍との合戦が始まった。

 武家方の大軍の前に、宮方福屋氏は敗れ、都野保通神主城(島根県江津市二宮町神主)参照)・邑智宗連・河上孫三郎(石見・河内城(島根県浜田市三隅町河内)参照)、らが降参した。

 また、さらに宮方の第2陣を配していた、領家玉光や、三隅・福屋氏なども、雲月峠において続いて敗れ、領家氏の居城であった東屋城(H309m:島根県邑南町日貫)も陥落し、領家氏は滅亡する。
【写真左】本丸その1
 西側郭から再び東方に向かって本丸を目指すと、写真のような本丸の姿が見えてくる。






 ところで、ここで出てきた都野保通については、「石見町誌・上巻」では、その後戦死した公算が強い、としているが、以前取り上げた「都野城」において、その後、同年8月22日、「都野保通、大和田城で北朝党・武田氏俊に降伏する(吉川文書)、とあり、6月の安芸での降参後、再び宮方軍として戦っている。 

 また、邑智宗連については、初めて出てきた武将だが、元弘2年(1332)、備後の品治郡(ほむじぐん:後の芦名郡)宮内で自刃した桜山玆俊桜山城(広島県福山市新市町大字宮内)参照)の遺児といわれ、逃れて安芸の山県郡より邑智郡矢上に来住し、矢上氏を称し、矢上城に拠った(山県郡史)といわれ、別説では田所綾木の鳥懸城(鞍掛城)に拠ったともいわれている(石見誌)。
【写真左】本丸その2
 本丸頂部の規模は5m四方程度で小規模だ。現地に祠のようなものを探したが、なにもない。

 本丸の北東端は、南麓と正反対に深い切崖になっている。


 武家方軍はその勝利の勢いを保持したまま、次に向かったのは、福屋氏の本城である本明城(もとあけじょう)(島根県江津市有福温泉)である。
 本明城については、以前にも紹介したように、石見の山城の中でも屈指の城砦である。

 石見・安芸両守護が率いる連合軍の先陣は、益田兼見・土屋平三らが名を連ねた。8月8日、本明城に迫ったものの、予想通り当城が要害堅固であることや、福屋氏の守備は堅かったため、その後7カ月という長期戦に陥った。

 しかし、興国3年(康永元年:1342)2月1日、北党(武家方)の益田兼見は、地元の地理に詳しい有福五分一地頭・越生(おごせ)光氏を案内人として、強行突破を図り、石見本明城を落とした。

 そして、いよいよ12日になると、井村兼雄の拠る小石見城に迫った。17日、宮方軍の総大将であった新田義氏は降伏、周布城主・周布兼氏も降り、このため、孤軍奮闘していた井村兼雄は夜半に武家方の囲いを破って、井野村(井野城)に奔った。
【写真左】本丸跡より北方に浜田港を見る。
 眺望はほとんど望めないが、唯一木々の間から北に浜田港を望むことができる。

 ただ、それが可能なのは当日のような冬季でないと無理だろう。

 この写真も余りはっきりとは映っていないが…。

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