2010年4月23日金曜日

私部城(鳥取県八頭郡八頭町市場)

私部城跡(きさいちじょうあと)

●所在地 鳥取県八頭郡八頭町市場
●登城日 2008年7月5日
●築城年 不明(室町時代前期か)
●築城者 因幡毛利氏
●城主 毛利貞元、毛利豊元、山名宗詮、牛尾大蔵、大坪一之等
●別名 市場城、私都城、紀佐市城
●標高/比高 260m/120m

◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻」等)

 前稿「妙見山城」の西麓を走る若桜街道を南下し、八頭町に入り、若桜街道から東に枝分かれした麻生国府線(県道282号線)を南東方向に向かうと、市場という地区にぶつかる。
 同線は私都川と並行して流れているが、この川の南に突き出した山に私部城がある。当地である私部(きさいち)は、私都とも書く。
【写真左】私部城遠望
 北西方向から見たもので、右側の山を越えると若桜街道に出る。左の谷を進みさらに途中で北に分岐した道を登っていくと、兵庫県境にある扇ノ山(1309m)に繋がる。

 またそのまままっすぐ向かうと、やはり若桜の方に出る。 後段で示すように、山中鹿助らが度々若桜鬼ヶ城と往来する際に使用したコースは、おそらくこの左側の谷から、山志谷(やましだに)を越えて若桜に繋がる岩美八東線(37号線)だったと思われる。


 この地域は室町期から度々、但馬守護であった山名氏と抗争を続けてきた所である。当地の国人領主だった因幡毛利氏は、八東郡に本拠を置いた矢部氏らと組み、山名氏の介入を阻止し続けている。
 その後、永禄年間になると、因幡毛利氏は山名氏と和睦をしているが、それもつかの間で、出雲の尼子氏や、安芸の毛利氏などが入ってくると、めまぐるしく状況が変化していった。
【写真左】登城口付近に設置してある私部城の説明図
 詳細な図である。図の脇に書かれている内容を読むと、昭和56年4月から58年4月まで、10数回現地を踏査し、作図したとある。

 当城の規模は、南北600m、東西400mとあり、伝承では、遺構名として、本丸、馬場が平、玄蕃が平があったという。


 「陰徳太平記」では、矢倉、一の城戸、甲の丸、三の曲輪、門前、という名称が記されていたという。
 それにしても、この図を見たとたん、あまりの郭の数の多さに驚いた。確かに、10数回も踏査しなければ、これだけの遺構を確認はできないだろう。


山中鹿助の動き

 山中鹿助が一旦因幡を離れ、再び当地に入ってきたのは、天正元年(1573)の暮れである。この当時、因幡では吉川元春が在陣し、因幡の主要な領地を押さえていた。元春は因幡の平穏を見届けると、同年10月初旬、一旦陣を引き上げ富田城へ帰還した。
【写真左】同図右下に図示された私部城附近の他の城跡配置図
 中央部に私部城があり、右側に大坪城が示されている。私部城の上部(西側麓)に、殿屋敷というところがあるので、当時はこの場所に住まいをしていたということだろう。


 すると、この機を見ていた鹿助らは、明くる天正2年正月、最初に鳥取城を攻めた。しかし、失敗し、次に狙いを定めたのがこの私部城だった。

 記録によると、私部城を攻めたのは正月5日となっているので、鹿助の変わり身の早さには驚く。基本的に彼の戦法は、大軍を率いて攻めるというより、ゲリラ的な手法が多いようだ。
【写真左】登城口付近
 上記説明図板の前の道路(道は狭い)を挟んで、反対側に登城口がある。
 なお、駐車場は説明板の左側に普通車2台程度確保できるスペースがある。ただ、1台はすでに地元の人の車が駐車してあるので、実質1台である。


 ところで、私部城のある市場地区より手前に、大坪という地区がある。今では全く標識もなく、単なる小山にみえるが、当時この場所に私部城の前城として大坪城が構築されていた。別名「鷲が城」ともいう。

 おそらく、鹿助が私部城を陥れる際には、当城でも前哨戦が行われたと思われる。

 さて、私部城での戦いでは、当時牛尾大蔵姫路玄蕃が立てこもっていた。三の丸を守備していた姫路玄蕃は、鹿助らの軍に追いやられ、本丸まで後退したものの、勝敗はつかず、鹿助は一旦兵を引き揚げたとある。おそらく別の場所へ向かう必要が出てきたものと思われる。
【写真左】登城路
 上記集落を過ぎてすぐに写真にある角に突き当たる。ここから左に折れて行くと、次第に登り坂になっていく。




 その後、3月になると、私部城には大坪一之が入ってくる。 その後の経緯については、諸説がいろいろあり、詳細ははっきりしないが、大坪一之は途中から私部城を出てしまっている。

 天正3年(1575)春になると、鹿助や尼子勝久らは若桜鬼ヶ城に入城、また亀井新十郎(玆矩)を大将として、山名藤四郎、横道源介、森脇市之正らは、この私部城に入り、二城とも尼子方の手中になった。

【写真左】かえる岩
 この写真の位置に来るまでに、数カ所の郭段が構成されている。
 このユーモラスな岩を見た時、思わず笑ってしまった。自然が作り上げたものだが、山中鹿助らが当城にいた戦国期、武将や将兵らもこの岩を見て、おそらく、同じように笑いが出たかもしれない。



 当然、毛利方としてもそれらを奪取しなければならない。当初、毛利方として山名豊国と牛尾大蔵にその任務が下った。
 しかしなかなか落ちず、時間がかかったものの、森脇、横道らが降参し、再び私部城は毛利方の手におちた。
 若桜鬼ヶ城にあった尼子勝久らは、私部城の落城を知り、しかも毛利方が次第に因幡国を包囲し始めたことから、尼子方は短期の内に因幡から一旦引き揚げた。

 どちらにしても、このころの因幡の情勢は日々刻々と変化した動きであったことや、鹿助の神出鬼没な行動について、記録も断片的なものしかなく、実際はこれ以上の多様な動きがあったものと思われる。
【写真左】途中の郭
 上記したように、当城の郭の数は極めて多く、ある程度の写真を撮っていくと、どのあたりのものだったかわからなくなる。
 記憶に間違いがなければ、「玄蕃ガ平」といわれる当城最大の郭だと思われる。

【写真左】本丸下の郭から、本丸側の石垣跡を見る。
 石積み遺構は全体に崩れた個所が多く、原形を留めている部分は少ない。

 なお、本丸跡の写真も撮っているが、現地はほとんど整理されておらず、雑木笹竹の繁茂した風景のため、割愛させていただく。
【写真左】堀切
 下山途中にみえた堀切。堀切などもこの個所以外に多数あると思われるが、時間がないため確認していない。

【写真左】登城途中から国府町方面を見る。
 本丸からは眺望は全く望めないが、途中の郭付近から北西方向に眺望が確保されている。
 この写真の中央部奥が、国府町や、鳥取市街方面にあたる。

2 件のコメント:

  1. 私部城に登りました。
    この記事参考になりましたので拙ブログにて紹介させていただきました。悪しからずご了解願います。
    https://ameblo.jp/baseballnovel/entry-12370205098.html

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    1. 拝復 こちらこそありがとうございました。
      トミー  拝

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