2009年3月30日月曜日

本宮山城(ほんぐうざんじょう)・大野氏(島根県松江市上大野町)

本宮山城跡 (ほんぐうざんじょうあと)

●所在地 松江市 上大野町
●時代 中世 
●遺跡種別 城館跡 
●遺跡の現状 山林 
●指定 未指定
●標高 279 m
●備考 鎌倉時代初期、大野氏が築城。 削平等により遺構一部損壊
●登城日 2009年3月28日(土曜日)晴れ

解説(参考:大野郷土誌等)
 地元出雲地方の戦国期といえば、尼子氏が最も有名だが、中世史の時系列でみると、尼子氏は後半期の100年前後の位置づけになる。武者の時代が始まる鎌倉初期からみれば、同氏は出雲地方では全くの新参者・新興勢力になる。

 さて、鎌倉時代、頼朝が全国(主として西日本)に向けて行った守護・地頭職と、その後承久の乱において論功行賞として北条執権が行った新補地頭などにより、この出雲・石見でも多くの一族が東国からやってきている。
【写真左】本宮山城遠景
国道431号線(通称・湖北線)にある松江フォーゲルパークから北に入ったところから撮ったもの。頂上部(本丸跡)にアンテナ塔が見える。




 今回取り上げる本宮山城主だった大野氏もその一人である。大野氏は系図によると、武内宿禰から出た紀姓で、平安末期に季(紀)康が鳥羽上皇の武者所となって、院の御所の警護に当たる。

 建久元年(1190)10月28日、源頼朝は、季清(季康の孫)に対し、出雲国秋鹿郡大野庄の地頭職を補する。季清は、大野庄に在住し、姓を紀(季)から、大野氏と名乗り、本宮山に城を築き、館を本宮山西山麓の土居(土居城)に置く。

 因みに、この時期(建久元年10月)は頼朝が鎌倉から京都へ上洛し、権大納言に任ぜられ、同年12月初旬には再び、鎌倉に向けて帰途に着いたときであるので、季清(大野氏)が頼朝在京中に地頭職を補されたとおもわれる。
【写真左】登城途中の道分岐点に設置された案内標識
 登城道は2か所あり、ひとつは広域農道から北に入る道・東側(多太神社側)から北に進み、途中から西に登る道。

 もう一つは、同じく広域農道沿いに写真のような標識があるところから直接登る道である。なお、この標識は前回訪れた時(2008年12月末)には設置されていなかったので、今年(2009年)設置されたばかりの新しい標識のようだ。


 その後、南北朝時代には、北朝に味方し足利尊氏から知行安堵状や感状を受けている。
 ところで、大野氏の治めた大野郷(庄)地域は、現在松江市に含まれているが、地元の呼称では「湖北地方」と呼ばれているところである。前にも記したが、鎌倉期を含め、中世の出雲部の地形は現在のものとはだいぶ様子が違っている。

 島根半島の中央部にあたるこの大野郷は、宍道湖に面した他の郷と同じく、当時の一般的な交通手段は同湖を使った水運である。

 産業の発達に伴い、物資の量も増える。効率的にものを運ぶ手段として、当然この宍道湖が大きな役割を果たし、あるものはさらに東隣の中海に出、美保の関所を通って、京や場合によっては遠く朝鮮、中国へも向かったという。

【写真左】本丸跡に建つ「大野氏城跡」の石碑
 写真のように、本丸跡にはテレビ塔のようなものが建ち、本丸郭跡の約半分を占めている。残念ながら、こうした建築物の工事のためか、遺構はほとんど確認できない。残りの平坦地には車が3,4台駐車できるスペースがある。


 さて、大野氏はその後、室町時代になると、地理的な条件もあったためか、貞義、義成、義高、高継、高直の途中まで、その間約200年ほど平穏な時代を過ごす。

 しかし、他の国人領主と同じく、戦国時代になって尼子氏と毛利氏の戦いが始まると、大野次郎左衛門高直は、当初尼子氏に従っていたが、永禄13年(元亀元年・1570)5月10日、毛利氏と誓紙を取り交わして味方した。

 記録によれば、尼子氏滅亡後、宍道氏との不和から天正10年10月15日、鳶ヶ巣城において、大野氏一族は宍道氏のために滅亡された(もっとも、この話は現在では史実ではないとの説もある)。

【写真左】本丸跡から東下方に見える壇
 本丸跡まで道が整備されたことはありがたいが、逆に、はっきりとわかる遺構が少ない。

 この壇も当時の郭跡なのか、それとも道をつけたり、塔を建設した際に土木工事としてされたのか、なんとも判断がつかない。



【写真左】本丸下北側から見たもの

多少は、本丸跡として残っている壇の姿ではないかと思われるが、なんともいえない。



【写真左】本丸跡から西を見る
 写真左は宍道湖の北西部で、右側に突き出た丘陵部の奥に「鳶ヶ巣城」がある

 中央に薄く見える川は、斐伊川。当時はこの宍道湖面の西側も相当奥まで湖になっており、現在の1.5倍の流域面積を持っていたと思われる。
 中世の宍道湖面には多くの水運用の船影が見えたことだろう。



【写真左】本丸跡から西方に「十膳山城」を見る
 写真手前の台形状の形をした山が、十膳山城で、同じ大野氏一族で戦国期、宮倉右衛門兵衛八郎二良が拠った。

 なお、この麓にも宮倉氏関係を祀ったと思われる神社があり、またそのすぐ下には当時の武家屋敷、馬場跡、馬洗い場、土塁などが残っている。




【写真左】本丸跡から見た西側の大野郷
 大野氏が治めた区域は、この大野地区と、のちに分家となった東方にある大垣氏の所領・大垣村がある。

 大垣氏の城址とされている地区は、この日登った道の途中にある本宮山南腹の亀畑山付近といわれている。

2 件のコメント:

  1. 本宮山城遠景 を拝見しました。

    私は電気通信に関連する郵便切手・郵便消印などを集めています。島根県秋鹿郵便局の風景入り郵便消印には本宮山が描かれ、山頂に塔が見えます。無線塔です。
    私はA4サイズの専用紙に郵便消印を貼り、説明を書いてコレクションとして整理しています。この本宮山遠景の写真をコピペで、私のコレクションの整理に利用させていただ来たのですが。 よろしいでしょうか?
    「電気と切手」で検索すると私の電気と切手の世界のサイトが見つかるはずです。

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    1. tominn様へ

      メールありがとうございました。
      「電気と切手」のサイト拝見させていただきました。切手収集の方はよく見かけますが、「電気・通信」と関わるものを特化しておられるのは初めて見ました。

      さて、拙ブログ「西国の山城」でとりあげた、本宮山城がそうしたものにも使われているとは知りませんでした。

      お役にたてれば幸いです。どうぞご利用くださいませ。

      トミー拝

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