2013年1月16日水曜日

備前・亀山城(岡山県岡山市東区沼)

備前・亀山城(びぜん・かめやまじょう)

●所在地 岡山県岡山市東区沼
●別名 沼城
●築城期 天文年間(1532~頃)
●築城者 中山信正
●城主 中山信正・宇喜多直家・浮田春家
●高さ 30m(比高30m)
●遺構 郭・土塁・櫓台・堀切等
●形態 平山城
●登城日 2011年8月26日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 備前・亀山城については、前稿明禅寺城(岡山県岡山市中区沢田)でも紹介したように、宇喜多直家が戦国大名として成長する足掛けとなった居城とされている。
 所在地は、明禅寺城から北東へ8キロほど向かった沼地区にある。
【写真左】亀山城遠望・その1
 南側から見たもので、手前の建物は市立浮田幼稚園。

 この後背に本丸があり、その東側少し低くなったところが二の丸跡とされる。
【写真左】亀山城遠望・その2
 後段で示すように、東方の本城とは別に、現在の道路を挟んで西側の丘陵部にも城域を設けている。おそらく前城のような役割があったものだろう。

現在は、市立浮田小学校の施設が建ち、遺構の半分以上が消滅しているようだ。


 現地の説明板より・その1

“亀山城跡

 亀山城は、城の本丸、二の丸のあった弁天山の形が亀に似ているところから名づけられた。沼城ともいう。小学校の所在地に西の丸、楢部に出丸があり、これらを総称して亀山城と呼んだ。
【写真左】登城口付近
 本丸跡には社が祀られているため、麓の階段には鳥居が建つ。
 この階段を上っていくが、傾斜はかなりある。
【写真左】亀山城(沼城)古図
 現地に掲示されているもので、この図の右側が本城部分となっている。

 周囲の青い部分は「深田」と記され、湿田であったことが分かる。


 戦国時代中山備中守信正によって築城され、宇喜多直家が永禄2年(1559)浦上宗景よりこの城を賜り、新庄山城より移った。以来、直家の壮年時代活躍の拠点となった城跡である。
天正元年(1573)岡山城に移るまで14年間在城した。

 慶長6年(1600)春、宇喜多氏にかわって岡山城主となった小早川秀秋によって廃城となり、亀山城の中心櫓(天王)は、岡山城表書院の段の大納戸櫓に、城門は秀秋の家老稲葉内匠頭本邸の表門に移築された。”
【写真左】本丸・その1
 本丸跡はほとんど社の境内といった趣をなし、遺構の状況は不明だが、概ね2段の高低差をもった平坦地となっている。規模は30m四方程度か。

「兒」という文字が二つ記された幟が建っている。幼児とか、童といった意味があるが、この社の祭神と関係があるのだろう。


中山備中守信正

 亀山城の築城者は中山備中信正といわれている。詳細な史料はないが、天文初年(1532年ごろ)地元の国人領主であった中山信正が居城を構えていたという。信正は当初沼城の西方を流れる旭川を遡った御津の金川城(岡山県岡山市北区御津金川)の城主・松田氏に属していた。
【写真左】本丸・その2
 北側が少し高くなっており、南側が広い。
写真にみえる建物はよく分からないが、社務所のようなものか。休憩所も設置してある。



 しかし、松田氏の勢威が衰えていくと、信正は今度は東方の吉井川を遡った和気の天神山城(岡山県和気郡和気町田土)その1の浦上宗景に属した。

 そして、後段の説明板(その2)でも記されているように、当時浦上氏の中で頭角を現してきた宇喜多直家は、信正の娘・奈美を娶ることになる。しかし、その後信正は婿であった直家によって謀殺されることなる。このあたりのくだりは、「説明板その2」に詳しく述べられている。
【写真左】本丸・その3
 祠と注連縄
 管理人の出雲地方ではあまり見かけない注連縄だが、瀬戸内や太平洋側ではこうした「茅の輪」をよく見かける。



現地の説明板より・その2

“亀山城《沼城》物語

 永禄2年(1559)正月、年賀に参上した宇喜多直家は、主君浦上宗景から亀山城主中山備中守に謀叛の風聞があるので、誅罰せよとの命令を受けて愕然とする。
 中山備中守は、妻奈美の実の父である。自分が舅を成敗せねばならぬとは、世はまさに戦国時代、直家は断腸の思いで引き受ける。

 直家は、民情視察と称して農耕地を巡り、さらに馬を駈けらせて山野に入り、鹿や猪を追う狩猟の日々が多くなった。亀山城近くの茶園畑に小さな茶亭も造作して、狩猟の獲物で舅を接待する回数も多くなった。
【写真左】本丸・その4
 本殿
 弁財天だろうか。


 永禄2年の晩秋、直家は、亀山城中で酒宴を開くので泊りがけで遊びに来られたいと、中山備中守より招待を受けた。
 酒宴もようやく終わりに近づき中山備中守が酔って寝所へ入ろうとした時、やにわに抜刀して斬り伏せ、城外に待たせた家臣と共に鬨の声を挙げて城中に乱入し亀山城を制した。

 実父が殺害されたことを新庄山城で聞いた妻奈美は、直家の所業を恨み、戦国の女らしく二人の女児を残して自害した。
 戦国時代は弱肉強食の時代である。直家は、主君浦上宗景より亀山城を賜り新庄山城から移って以後14年間、直家壮年時代の居城とした。
【写真左】本丸跡に立つ石碑
 左側には「直家飛躍の地」とあり、中央下の球体には「秀家生誕地」と記され、右の石碑には「亀山城跡」と刻銘されている。

 このあと、本丸の東側には「二の丸」の案内板があり、東側に降りていく。



 永禄9年(1566)備前の国津高郡下土井村にいた絶世の美女お福は、宇喜多家から差し向けられた玉の輿に乗って亀山城へ嫁いで来た。ときに直家38歳の早春である。歳月は7年を経て、天正元年正月14日、城中で玉のような男の子が生まれた。

 直家はその子に自分の幼名「八郎」を与え、宇喜多の家が八の字のように末広がりに繁栄することを神に祈った。
 後の備前・美作57万4千石の大、大名そして豊臣家の五大老と破格の出世をし関ヶ原の戦いでは衆寡敵せず、徳川方に敗れ、八丈島へ流刑になった悲運の武将宇喜多中納言秀家の誕生である。
【写真左】二の丸・その1
 本丸から約5,6mほど下った東側の丘陵部にになるが、ご覧の通り現在は畑地となっている。





 そしてこの年の秋、直家父子は岡山城へ移るのである。
 天正10年(1582)6月4日、備中高松城攻略に成功した羽柴秀吉は、一刻も早く2万の大軍を京へかえさなければならないと、心ははやっていた。
 梅雨は前線を伴って激しく吹き荒れ、吉井川は氾濫し大軍の足を止めた。秀吉は天を恨みながら亀山城に旅装を解いた。そこにはかいがいしく世話をするお福の姿があった。秀吉はお福の世話で鋭気を養いながらも、逆臣明智光秀を討つ軍議を怠らない。東の空に朝日が輝いたのは8日だった。

 秀吉の突進が始まる。亀山城から姫路まで22里、わずか一昼夜で駆け抜けた鬼神のような進撃である。
 天正10年6月13日、亡君織田信長の弔い合戦で勝利した秀吉の中国大返し外伝である。
     平成8年3月”
【写真左】二の丸・その2
 畑地となっているが、おそらく当時もこのような平坦地だったと思われる。

 なお、本丸も二の丸いずれもこれらの郭の下に帯郭を設けているが、現在はその箇所に民家が大分建っているようだ。



亀山城

 登城したのが2年近く前の2011年だったこともあり、大分記憶が薄らいでいるが、沼地区に入った途端、あきらかに低湿地帯の場所であったことは印象に残っている。そして、田圃の周辺部を流れる中小の川も殆ど流れがなく、淀んだものとなっていた。土地名が「沼」といわれるのも頷ける。
【写真左】亀山城遠望
 東方から見たもので、左側手前の藪が二の丸にあたり、その右奥が本丸になる。

 なお、写真の右端には山陽新幹線及び山陽線の高架が見える。


 こうした湿地帯の中に、東西二か所に頂部をもった丘陵上にあるのが亀山城である。おそらく戦国期、築城者中山信正は、この周辺部の湿地帯をいわば水濠としての役割を持たせるため、地取りしたのではないだろうか。この点では、周防の須々万沼城(山口県周南市須々万本郷字要害)にも似ている。

 縄張としては、東側を本城とし、西側の頂部に本丸を置いた。本丸の周囲に腰郭を輪郭状に配し、東の尾根に2か所の出郭を設けている。凡その配置は写真(古図)の通りである。

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2013年1月15日火曜日

明禅寺城(岡山県岡山市中区沢田)

明禅寺城(みょうぜんじじょう)

●所在地 岡山県岡山市中区沢田
●築城期 永禄9年(1566)
●築城者 宇喜多直家
●高さ 標高110m(比高100m)
●遺構 郭・堀その他
●形態 海城か
●登城日 2012年9月8日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
  明禅寺城は、岡山市の岡山城東方約1.5キロの操山公園内に築かれた丘陵地にあって、西麓を旭川が流れ、北から東にかけては、その支流百間川が流れている。
【写真左】明禅寺城遠望
 北東部の百閒川堤防付近より見る。









 現地の説明板より

“岡山市・岡山森林管理署

知っている? 明禅寺城跡

 この城跡から東に約8km離れた地に所在していた亀山城(岡山市 沼)を居城にして、戦国大名への成長期にあった宇喜多直家が、永禄9(1566)年に岡山平野と西隣りの備中国への備えに築いた前衛基地の出城である。
【写真左】操山案内板・その1
 この図は現地に設置されているもので、下方が北を示す。

 明禅寺城は、この図の中央やや右下の赤い印付近に図示されている。詳細は下図参照。

 なお、現在この山全体が「操山公園里山センター」を中心に公園となっており、森林浴、ハイキング、バードウォッチングなど市民憩いの場として活用されている。
【写真左】操山案内板・その2
 文字が小さいためわかりずらいが、赤下地の白抜きで「里山センター」と書かれた文字の下に明禅寺城が図示されている。
 この図でも分かるように、当山の北端部に配されている。


 翌年に備前国への侵攻を図った備中国の三村勢に占領されたが、宇喜多直家は奪還を果たすと共に三村軍を迎え撃って完勝し、その大勝振りが明禅寺崩しと呼ばれた。

 城構えは、操山山頂から北に延びた尾根の頂部に一段の腰曲輪を伴う中心郭(本丸)を構え、尾根筋に沿って北側に二段の腰曲輪と、西側に三段の腰曲輪を伴う準中心部(二の丸)を配置した小型の連郭式縄張りの山城となっている。

 城郭の構築は、各郭とも土壇築成で、現状では郭の段どりと背後を遮断する堀切が遺構として確認できる程度であり、上部の建築物は柵や掘立柱建物を主体とした臨戦用城砦の構造であったと考えられる。”
【写真左】「里山センター」の建物と明禅寺山城
 ご覧の通り公園として整備され、駐車場も広くとってあり、気持ちのいい場所である。

 登城ルートはいろいろあるが、今回はセンター東の道を南に進んだコースから向かう。
 明禅寺城の主郭はこの写真の右側にある。



操山付近の地勢

 明禅寺城を含む操山(みさおやま)及び、それらに連なって東峰に笠井山を戴くこの山塊は、今はその周囲は陸地となっているが、おそらく当時はこの山麓部は現在の児島湾の一部として、入海であったと思われ、独立した島ではなかったと考えられる。

 ただ、これは満潮時のときで、干潮時になると周辺部はおおきな砂浜(河原)が広がり、陸続きの状況も見られたのかもしれない。
 このため、当城の形態をあえて「海城」として記した。
【写真左】6叉路分岐点
 なだらかな道を進むと、「ふれあいの辻」箇所になるが、6叉路という多叉路に出る。ここから明禅寺城方向の道標に従って、北に向きを変える。

 ここから明禅寺城までは約600m余りの距離になる。



明禅寺城の戦い

 説明板にもあるように、戦国大名として徐々にその力を蓄えつつあった宇喜多直家が永禄9年(1566)に築城している。しかし、その翌年備中から三村勢が侵攻し、当城を一旦落としている。
 このとき、明禅寺城には宇喜多直家は在城しておらず、家臣(城代不明)に守らせていた。永禄10年(1567)7月、三村氏による明禅寺城攻めは不意打ちの夜襲だったといわれている。
【写真左】分岐点の鞍部
 しばらく歩いていくと、一旦下り鞍部が現れる。この箇所は4叉路で、まっすぐ進むと、原尾島側に出るが、ここで右に進む。

 写真は振り返ってみたもので、ここから再度登るコースとなる。



 その後、直家は明禅寺城奪還のため、三村氏に属していた岡山城主・金光宗高や、中島城主・中島元行らに対し、寝返りを企て、この謀計によって明禅寺城内は、一気に三村氏の孤立となった。こうした謀を成立させた後、城下において宇喜多・三村の合戦が行われ、宇喜多氏が大勝したとされる。
【写真左】土橋か
 先ほどの分岐点から進み、2,3回アップダウンを繰り返していくと、ご覧の箇所にたどり着く。

 一瞬土橋と思えたが、左側は元採石跡ということで、このように抉られた結果、土橋のようになっている。
 採石された時期は戦国期ではないだろう。


 この戦いは、後に「明禅寺崩れ」と呼ばれ、宇喜多氏が後に浦上氏の被官でありながら、戦国大名としてその名をあげ、大きく飛躍していくきっかけとなった。

 ところで、この戦いの後は殆ど使用されることなく、自然に廃城となったことから、いわゆる戦のための一時的城砦、すなわち「陣城」であったことが推測される。このため、遺構としては精度の高いものはあまりなく、また規模も比較的小規模なものである。
【写真左】本丸に向かう
 採石付近からすでに城域に入っていると思われるが、ここから階段を登って本丸区域に入る。

 なお、この階段下に細長い郭が認められる。
【写真左】本丸・その1
 南北約30m×幅平均10m程度の平坦地で、この写真ではわからないが、西側には3段の小郭を設け、後ほど紹介する北側には2段の郭を設けている。
【写真左】本丸・その2
 本丸北東部には巨石でかこまれた深さ3,4mほどの壕が残る。
 この壕はそのまま北東部に下がり、途中で段が切れる。

 自然地形で残っていたものか、築城時に加工されたものか不明だが、防御的にはかなり効果があったものと思われる。
【写真左】本丸・その3
 同上のもので、堀の反対側(東側)に回り込んで撮ったもの。
【写真左】本丸・その4
  上記の東側で囲繞された箇所で、この左側はそのまま急峻な崖となっている。

 巨石だが、やはり意識的に配置されたものと思えるが、どうだろう。
【写真左】本丸から北西に岡山市街地を見る
 眺望はあまり期待できないが、北西方向には岡山の町並みや、岡山城が俯瞰できる。
【写真左】本丸その5
 本丸北端部にはご覧の展望休憩所が設けられている。
【写真左】北側の郭
 帰りは本丸の北端部を降りていくコースをとったが、本丸との比高10~15m下がった位置からしばらく長い平坦地が続く。

 長さは100m前後はあったと思われ、北方の守備としては十分な規模を持つものだろう。
【写真左】下山途中から見上げる
 帰りは、東斜面を九十九折しながら降って行ったが、この箇所は相当な急傾斜となっている。

 外から見る以上に要害性がある。
【写真左】沢田山 恩徳寺
 東麓に建立されている寺院で、山門の前には鳥居があり、寺院の向背には竪巌稲荷権現が祀られている。

 高野山真言宗、中国49薬師霊場第8番・備前薬師霊場第8番・備前最上稲荷霊場
 縁起によれば、天平勝宝2年、行基菩薩みずから等身大の薬師如来をきざみて以て創立す、とある。

 従って、明禅寺合戦のころすでにあったということだが、おそらくその時は戦火にあい一時焼失したのだろう。

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2013年1月11日金曜日

土居構(愛媛県西条市中野日明)

土居構(どいかまえ)

●所在地 愛媛県西条市中野日明
●別名 東之館
●築城期 南北朝時代
●築城者 河野通直
●形態 居館
●遺構 土塁・石垣・堀
●規模 60m×70m
●高さ 標高17m
●指定 県指定史跡
●登城日 2012年7月31日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
 今稿は山城ではなく、居館跡の史跡として残る「土居構跡」を紹介したい。所在地は、伊予(愛媛県)西条市にあって、河野氏一族のものといわれている。
【写真左】土居構・その1
 全体にこの辺りの道は狭い。

 手前に見える道は、後段で示すように、土佐方面に向かう旧街道であったと思われ、左側(北)へ進むと、河野氏の後に入った石川氏の墓がある保国寺に向かう。



 現地の説明板より

“(県指定)史跡
 土居構跡

 土居構とは古い城郭の形式である。此処は約600余年の昔、新居宇摩二郡を支配した河野通直が築造したと伝えられる。主峰高峠を中心に麓に加茂川の急流を繞(めぐ)らした城塞の拠点として偉容を誇った高外木城主の平生の居館の跡である。

 時代は移って石川氏がこれに拠ったが、天正13年(1585)の兵乱に建物等一切焼亡して僅かに石垣芝生の犬走等のみ残存している。

 寛永19年(1642)久門政武が中野村庄屋として入居し、子孫継承して今日に至っている。
 寛文のはじめ建築した家屋は、その後改造を累(かさ)ねながら猶旧態を保っている。書院の庭園は江戸初期民家の代表的のものとして推奨されている。

 本邸を囲む巨木老樹を含む植物群は、旧時よりの居住者の生活様式を類推し得る意義深いものがある。

  昭和56年3月18日
    西条市教育委員会”
【写真左】その2














河野通直と高外木城

 当館を築造したのは河野通直といわれている。実はこの人物、同じ名前で南北朝時代から安土桃山時代にかけて、4人も存在している。いずれも伊予の河野氏である。このため、官位が分かる者については、それを附記して区別している。

 今稿の通直は、このうち南北朝時代に活躍した河野通堯(みちたか)の後の改名である。
 この通堯(通直)の父は、道朝(通朝)であるが、この頃の伊予河野氏はいち早く南朝に与し、延元元年・建武元年(1336)9月、後醍醐天皇の皇子・懐良親王が征夷大将軍として讃岐に赴き、その後九州へ下るときも支援続けた。父道朝が北朝方細川氏に敗れた際、子の通堯は九州の懐良親王を頼っている。
【写真左】その3 漆喰土塀
 寛文年間に改築されたとあるが、おそらくこの塀の意匠は当時のものとさほど変わらないものだろう。
 現在の家主久門氏の本宅も残っている。建坪は当時とさほど変わらないものだったと思われる。


 この間の動きについては、以前世田山城(愛媛県今治市朝倉~西条市楠)でも紹介しているように、室町幕府2代将軍・義詮から3代義満に至る間、幕府内で急激に実力を高めた執事・細川頼之と、伊予河野氏との戦いが発端となってしばらく続くことになる。

 通直の生誕年は不明だが、天授5年・康暦元年(1379)に亡くなっている。この年は、執事細川頼之の専横がついに幕府内諸将の反駁を引き起こし、頼之は出家して讃岐国に奔った(康暦の政変)。この政変後、西国を中心として大幅な守護領国支配の変更が行われ、伊予国では、名目上頼之から通堯となった。
【写真左】塞神と刻銘された祠
 土居構の入口付近にあるもので、道祖神の一種と思われるが、当時この狭い道が南方の寒風山越えして土佐国に至る街道筋だったのかもしれない。

 そして、足利義満は通堯に頼之追討の命を出したものの、逆に通堯は頼之の返討(かえりうち)にあって討死した。その場所は、現在の西条市上市佐々久山(佐々久神社)といわれている。

 ところで、説明板にある高外木城だが、別名高峠城といい、土居構の南西1キロの高峠(H:233m)に築かれている。管理人は未登城だが、『城郭放浪記』氏が登城報告されているので、ご覧いただきたい。

石川氏

 さて、通直が細川氏によって返討にあったあと、当地に入ったのが細川氏の代官といわれた石川氏である。

 同氏の出自については詳細は不明だが、細川氏一門は、当時備中国守護でもあり、庄氏とともに有力被官(守護代)であった石川氏が実力を備えていた。従ってこの石川氏一族の中から(庶流か)伊予に渡ってきたものと思われる。
【写真左】八堂山城遠望
 土居構の東方1キロに聳える八堂山に築かれた城砦で、石川越前守の居城といわれている。
 越前守は後段の備中守の兄弟、もしくは前代の城主だったかもしれない。


 石川氏はその後天正13年(1585)の秀吉による四国攻めに至るまで、当地を支配した。

 前稿天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原)でも述べたように、四国伊予攻めを担ったのは、毛利輝元を中心にした毛利軍である。

 なお、四国攻めの前年、当時の高峠城(高外木城)主であった石川備中守通清は病没している。墓所は土居構から700mほど南に登った保国寺に祀られている。


保国寺(ほうこくじ)

 保国寺境内には、室町時代の様式をとどめた国指定名勝「保国寺庭園」があり、古刹である。
【写真左】保國禅寺・その1 仁王門












現地の説明板より

“萬年山金光院 保國禅寺 平成大改修事業

 保國禅寺は、萬年山金光院と号し、本尊は阿弥陀如来である。寺伝によると、神亀4年(727)、聖武天皇の勅願寺として建立され、当初は天台宗であったが、建治年中(1275~78)に仏通禅師により臨済宗東福寺派寺院として開山され七百有余年の法灯をかかげる由緒深い禅刹であります。
【写真左】保國禅寺・その2 本堂
 近年では珍しくなった見事な茅葺の屋根に仕上がっている。

 特に、保國時所蔵の仏通禅師坐像は室町初期の作と見られ、国の重要文化財に指定されています。黒光りする姿から「黒仏さん」と呼ばれ、日本の肖像彫刻の代表として昭和45年(1970)ボストン美術館に出展されました。

 本堂裏にある池泉観賞式の庭園は、永享年間(1429~41)の築造とみられ、石庭では四国最古の名園といわれています。
 往時は13の殿堂伽藍と24の塔院が建立されいたが、天正13年の戦乱により灰燼となるが、以後時代の人々が求める信を担って修復・再建等々により今日まで維持されています。
【写真左】保國禅寺・その3 庭園

 星霜を重ねた本堂や諸閣には、老朽・腐食化が著しく部分補修では到底維持できないものもあり、檀信徒の格別なるご理解と絶大なるご支援・ご協力を賜り、ここに檀信徒の夢である平成大改修事業が成就致しました。
 私たちの菩提寺である保國禅寺が安らぎや憩いの場として後世に引き継がれていくことを願っています。    合掌
   寄付金総額    三億二百萬円
     平成18年3月吉日
  萬年山金光院保國禅寺   住職 角田 智道
                   総代表 久門 忠夫
            総代・建設委員・世話人一同”
【写真左】石川備中守通清の墓・その1
【写真左】石川備中守通清の墓・その2
 五輪塔形式のものだが、大分欠損している。








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2013年1月9日水曜日

天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原)

天霧城(あまぎりじょう)

●所在地 香川県仲多度郡多度津町吉原
●築城期 貞治年間(1362~68)
●築城者 香川氏
●高さ 382m
●別名 雨霧城
●遺構 郭・堀切・石垣その他
●指定 国指定史跡
●登城日 2012年11月3日
●備考 弥谷寺(四国第71番札所)

◆解説
 天霧城は、香川県の四国88か所霊場の第71番札所である弥谷寺の北東1キロ余りにある天霧山に築かれた山城である。
【写真左】天霧城遠望
 北西部予讃線付近から見たもの。

天霧城の遠望写真としては、南側から見たものが多いが、現在この付近は採石場があり、上部の郭直近まで鋭角に切り取られ無残な姿と化している。


現地の説明板より

“国指定史跡
  天霧城跡   ― 四国を代表する中世山城跡 ― (平成2年5月16日指定)

 天霧城は、山の地形などを利用した天然の要害(砦)を造りだした山城です。
 古代から鎌倉時代にかけて造られた城は、そのほとんどが山城で、柵をめぐらし、要所に門や櫓を設ける程度の簡単なものでした。室町時代に入り戦乱が長期化するようになり、戦闘の規模が大きくなると城郭の規模も次第に大きくなっていきました。
【写真上】天霧城案内図
 麓に設置されているもので、この日の登城ルートは、左下の石塁側から入って、右端の方形郭まで往き、帰りは中央部の空堀から降った。


 中世の城郭は、有事に対しての備えを持った在地の武将の居館跡等も含めると、その数は香川県下だけでも400か所近くが確認されています。
 その中で天霧城跡は、その自然地形を巧みに利用した規模の雄大さといい、実戦的な確かな縄張り(構造形式)といい、いかにも要害堅固であり、陸海どの方向の動向にも十分に対応ができるという、地理的な好条件も備えた四国屈指の山城といえます。
【写真左】水場
 弥谷寺と天霧城の関わりはどの程度あったものかわからないが、境内に「水場」という箇所がある。

 天霧城の水の手といわれている。


 香川氏は、相模国香川荘出身の鎌倉権五郎の末裔といわれており、14世紀後半に讃岐の守護細川氏に従って入部しました。そして、西讃岐の要衝である多度津・本台山(現在の桃陵公園付近)に常の居館を構えました。

 その後、西讃岐守護代の地位を得た香川氏が、有事に備えた詰めの城が天霧城です。本台山から天霧城までは直線で3km程、また、中世山城の基本的構造である『守るに易く攻めるに難い』という理想的な山城でした。
【写真左】巨大な五輪塔
 境内一角にはご覧の巨大な五輪塔をはじめ、数体の五輪塔が建立されている。

 なお、これらの五輪塔とは別に、下段に天霧城主香川氏が戦国期落城した際のものと思われる五輪塔郡が別に祀られている。


 香川氏が天霧城を築城した天霧山は、善通寺市・三豊市・多度津町と境を接し、瀬戸内海に臨む弥谷山系の北東部に一段高まる山塊です。弥谷山(標高382m)から天霧山(381m)にかけての山頂部には、数か所に高まりがあります。また、山の周囲は急崖急坂の斜面で、全山が自然の要害地形を形成しています。

 天霧城跡の縄張り造作の形式は、戦国時代末期頃(16世紀後半頃)に該当しますが、東方尾根の調査では、出土遺物等から15~16世紀に築造されていたことが判明しています。これは短期(一時期)の築造ではなく、必要に応じて徐々に拡張・増強されたことを示しています。

    平成24年7月
    二市一町天霧城跡保存会
      事務局(善通寺市・三豊市・多度津町 各教育委員会)”
【写真左】弥谷寺本堂
 先ず本堂へ参拝し、その後天霧城へ向かうことにする。
 天霧城へはこの弥谷寺本堂から少し右(北東)へ降りていくと、道標が建ててあり、そこから向かう(後段参照)。





讃岐香川氏

 讃岐香川氏については、以前多度津城跡(香川県仲多度郡多度津町桃山)でも紹介している。
【写真左】多度津城・本丸跡付近
 香川氏が平時の住まいとしていたところで、居館跡はこの多度津城(現:桃陵公園)の東麓部にあったといわれている。

 おそらく、多度津の居館から天霧城へ往来する交通手段は、舟が利用されていたものと思われる。


現地の説明板にもあるように、相模国香川荘出身の鎌倉権五郎(景政)の末裔といわれており、14世紀後半に讃岐の守護細川氏に従って入部した。
 香川氏については、鎌倉期に安芸国八木城(未登城)を本拠とした安芸香川氏も鎌倉権五郎景政を祖としている。(出雲・生山城(島根県雲南市大東町上久野生山)参照)

 さて、讃岐香川氏だが、入部のきっかけとなったのが、正平17年・貞治元年(1362)に起こった「白峰合戦」(白峰合戦古戦場(香川県坂出市林田町)参照)の功によって当地に封ぜられ、居館として多度津城を置き、詰城を天霧城とした。
 白峰というのは、以前取り上げた崇徳天皇 白峯陵(香川県坂出市青海町)の白峯寺より少し西に向かった雄山の西麓付近といわれている。

 細川勝元率いる東軍と、山名宗全率いる西軍が激突して始まった応仁の乱において、のちに細川四天王と呼ばれた一人が香川氏である。ちなみに、他の三人は、
である。
【写真左】天霧城主「香川家」代々の墓
 弥谷寺境内に祀られている。









墓の脇に設置された説明板より

“天霧城主「香川家」代々の墓

 天正13年8月、秀吉の四国攻めにより香川氏滅亡して400年詣でる人とてなく、半ば土砂に埋もれ雑草に覆われて密かに眠っていた。場所はこれより上方100m本堂西「西院(さいいん)」の旧跡にあった。
 昭和59年住職建林良凞が回向のため、現在地に移したものである。

 昭和61年1月23日
    三野町教育委員会
    三野町文化財保護委員会
    三野町文化財保護協会”
【写真左】天霧城登城口案内道標
 登城口としては、これより東方側と、反対の北側から登るものがあるようだが、いずれも途中で合流していく。





戦国期

 上記墓の説明板にもあるように、香川氏が滅亡するのは天正13年(1585)6月から始まった豊臣秀吉の四国攻めによる。ところで、秀吉自身はこの四国攻めに実際に参加していない。秀吉はこのころ体調が悪く、総大将となって指揮を任されたのは弟の秀長である。

 四国攻めは三方向から行われた。東方の淡路・阿波から進攻した秀長・秀次を始め、西方の伊予から入った毛利勢(小早川隆景・吉川元春)、そして天霧城を含む讃岐方面を北から攻めたのは、宇喜多秀家・蜂須賀正勝・黒田官兵衛(如水)らであった。
【写真左】登城途中の白方側からの合流点
 北西麓になる白方側からの道と合流する。
 なお、ここから本丸に向かわず白方へ向かう道は「へんろみち」でもあるようだ。


 このころ四国統一を果たして間もない長宗我部元親であったが、羽柴軍率いる総勢11万の大軍に対し、元親は約4万であった。諸戦から元親方の諸城が次々と落ち、開戦からわずか2か月で秀長に降服することになる。

 天霧城はその諸戦の戦いであったが、衆寡敵せず香川氏は滅亡した。戦後、秀吉は讃岐国を仙石秀久と十河存保(十河城(香川県高松市十川東町)参照)に分け与えた。
【写真左】隠し砦跡
 先ほどの合流点から上り勾配の道を進むと、小高いピークに至る。この頂部には「隠し砦」といわれる郭が残る。

 西側の高まりを残し、東側を削平している。
 このことから、白方方面から攻め入ってくる敵を意識したものと思われる。
幅7,8m×奥行10m前後。
【写真左】石塁
 上記の隠し砦を過ぎると、再び小さなピークがあり、そこにも郭跡らしき平坦地がある。それを越えいったん下がると、いよいよ本丸に向かう急傾斜の道が現れる。

 冒頭の遠望写真・案内図でも分かるように、登城ルートとしてもう少し楽なコースは、本丸の北西側に回り込んだところからあるらしいが、この日、たまたま地元の方と登城が一緒になり、ご案内を戴いたため、この急傾斜面のコースを選んだ。

 この石塁の下の方には、「犬返しの険」という箇所があるように、要所にはロープが設置してあり、結構足元が滑る。
【写真左】本丸・その1 南端部
 この位置が本丸側南端部で、冒頭案内図でも分かるように、南方に向かって細く突き出した形状をしている。
【写真左】本丸・その2
 途中で少し幅が広くなるが、全体に幅は狭く、10m未満の箇所が多い。

 手前には中央に大きな石があり、その周りを小さな石が配列してある。
【写真左】本丸・その3 
 東側は巨石が南北にあり、物見台も兼ねていたかもしれない。
【写真左】二の丸
 本丸を過ぎると少し右に尾根が曲がり東方に伸びていく。

 二の丸から三の丸にかけては3,4段の小さな腰郭が介在している。
【写真左】三の丸
 当城の中でもっとも幅が広くなった箇所で、北側には石塁が残り、案内図では北側に登城道が記されているが、判然としていなかった。
 
【写真左】三の丸東方の段
 三の丸を過ぎさらに東方に向かうと、さらに三の丸を囲むような帯郭が見える。
 このあとさらに東方の空堀に向かう。
【写真左】南麓の採石場が見える。
 高松自動車道からよく見える採石場で、手前に安全のためのロープが渡してあるが、この真下はほぼ垂直の崖となっている。
【写真左】堀切
 三の丸東方の帯郭を過ぎると、中規模の腰郭を2段過ぎ、最後の郭の南端部から堀切に降りる。

 当城の中でも最大のもので、深さ5~8m前後、幅(奥行)10mの規模を持つ堀切。帰りはこの写真の奥を進む下山道コースを歩いた。

 先ず、この堀切を通過して、東側の方形郭に向かう。
【写真左】外郭部
 空堀を過ぎると、しばらく平坦地を進むが、その先には4m前後の土壇形状の方形郭がある。

 この方形郭と相対するように下段の方形郭が北東端に設置されている。


【写真左】北東端の方形郭
 上記外郭からさらに東方に進むと、途中で2,3段の郭を登っていくと、最後にこの北東端の方形郭が現れる。

 方形郭群の中で最高所となり、標高は360m。したがって、本丸頂部382mより約20m低い。
【写真左】方形郭から南方を俯瞰する。
 本丸側では眺望はほとんど期待できないが、方形郭群からは、ごらんの景色が見える。

 手前左は筆ノ山(296m)、右は我拝師山(481m)、そのすぐ右に中山(439m)があり、奥の尖った山は大麻山(616m)。

 手前の麓には、四国72番札所曼茶羅寺、73番札所出釈迦寺がある。
【写真左】古井戸
 堀切箇所から帰るコースの途中にあるもので、現在でも水が残っているが、たまり水のようだ。






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