2012年5月13日日曜日

桜山城(広島県福山市新市町大字宮内)

桜山城(さくらやまじょう)

●所在地 広島県福山市新市町大字宮内
●別名 一宮城
●築城期 応長元年(1311)
●築城者 桜山茲俊
●形態 丘城
●高さ 90m(比高40m)
●遺構 郭・空堀等
●備考 桜山神社・吉備津神社
●登城日 2011年9月9日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 桜山城は旧芦品郡新市町といわれたところにあって、当城の周りには南方の芦田川を挟んで「相方(さかたじょう)」(2010年6月8日投稿)や、次稿に予定している「亀寿山城」などがある。また、当城の北方には下段に示すように、備後一宮吉備津神社及び築城者であった桜山茲俊を祀った桜山神社など、中世史跡が点在している。
【写真左】桜山城遠望
 北側の吉備津一宮神社側から見たもの。











 そして西隣は府中市になるが、この付近を訪れるたびに芦田川流域には往古から中世にかけての雰囲気が色濃く残り、独特の雰囲気を醸し出している。

【写真左】中興寺
 桜山城の南麓にある禅宗寺院で、桜山茲俊の菩提寺とされ、位牌と木像が安置されているという。





桜山茲俊

 桜山城の築城者とされる桜山茲俊については、大富山城(広島県庄原市西城町入江字的場)でもとりあげたように、室町初期には惣領久代宮氏を筆頭に、西城・小奴可など多くの庶流を輩出した宮氏の一族とされている。

 桜山茲俊、別名桜山四郎入道は、元弘元年(1331)9月、河内国赤坂城において楠木正成が倒幕の狼煙を挙げたとき、当地・備後一宮にて呼応し挙兵した。

 しかし、翌2年笠置山における宮方敗戦の報を聞いた桜山軍は一挙に弱体化、当地で妻子を殺害、一族郎党と共に自刃したといわれている。
【写真左】宝篋印塔の一部か
 当院から桜山城に向かう途中にご覧のような無縁墓を集めた箇所がある。

 その中にご覧のように「隅飾り」「伏鉢」だけを残した宝篋印塔の欠損部位が残っていた。


 また、このほかに反対側の隅には、五輪塔の「笠」「受け花」のみが残るものも散見された。


 以前にも紹介したように、茲俊らが自刃した際、唯一遺児として残ったのが、後に石見国邑智郡矢上で、矢上氏を称した邑智宗連(おうちむねつら)といわれている。

 邑智宗連も父と同じく、石見にあって宮方として活躍したが、興国元年・暦応3年(1340)の「雲月作戦」(小石見城(島根県浜田市原井町)その1参照))において、武家方に降参した。
【写真左】堀切・登城道
 中興寺の東側から登城道が続いているが、この道をそのまままっすぐに進むと、吉備津一宮神社・桜山神社に繋がる。


 非常に硬い岩盤を掘削したような跡が両側の壁に見える。堀切としての役割があったと思われる。
【写真左】桜山城・主郭
 登城した時期が9月の初旬であるから覚悟はしていたものの、ご覧の通りの雑草の繁茂である。


 奥に2m程度高くなったところがあり、この位置が主郭と思われる。
【写真左】主郭から下の郭を見る。
 放射状の連郭式丘城で、規模そのものは大きなものではないが、主郭を中心に東・西・北の三方の尾根伝いに郭を配置している。


 なお、今回は踏査できなかったが、西方の郭の先端部にはかなり大きな堀切が配置されている。
【写真左】桜山神社・その1
 桜山城の北方に鎮座する社で、この西側には吉備津一宮が隣接する。

 「桜山茲俊挙兵伝説地」といわれたところである。
【写真左】桜山神社・その2
 奥に向かうと本殿が控える。
【写真左】吉備津一宮神社・その1
 桜山神社の入口付近から西に向かうと、吉備津一宮神社の境内に入る。








現地の縁起より


“備後国一宮 吉備津神社


御祭神 主祭神 大吉備津彦命
     相殿神  大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)細比売命、稚武吉備津彦命


例祭 11月23日及びそれに近い日曜日を含む3~5日間


創建 大同元年(806)
    「一宮(いっきゅう)さん」の名で親しまれ、備後国一宮(古くから備後の国を代表するもっとも崇敬された神社)として、現在も多くの方々がお参りされます。
旧国幣小社、現在、別表神社


御本殿(国指定重要文化財)
 現在のご本殿は慶安元年(1648年)、当時の福山城主であった水野勝成公により御造営されました。
 入母屋造平入・檜皮葺で、桁行(横)7間(18.5m)、梁間(縦)4間(9.7m)あり、全国でもまれにみる大規模な社殿です。
 また、向拝3間で正面には千鳥破風・軒唐破風を持った江戸時代初期の建築でありながら、室町時代の風格と桃山彫刻を兼ね備えています。”

【写真左】吉備津一宮神社・その2
 吉備津神社裏山遺跡


 本殿の背後、すなわち吉備津神社裏山には鎌倉時代、多宝塔があった(「一遍上人絵伝」)とされ、たまたま1985年6月26日、当地を襲った大雨で土砂が崩れ、そこから多量の土師質土器、瓦などが出てきた。

 その後本格的な発掘調査をした結果、中国宋の時代の陶磁器や、鉄釘、漆喰壁土などが出てきたという。

 これらはそれら多宝塔などがあったときの遺物ではないかといわれている。

2012年5月10日木曜日

狐城と千人塚(広島県三次市布野町下布野)

狐城(きつねじょう)と千人塚(せんにんづか)

●所在地 広島県三次市布野町下布野
●高さ 240m(比高40m)
●遺構 郭・井戸等
●築城期 不明(戦国期か)
●築城者 不明
●城主 槇原藤五左衛門
●備考 大城山城・姫ヶ嶽城
●登城日 2012年3月10日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』『サイト「城郭放浪記」』等)
 管理人が安芸・備後の山城探訪する際、常に利用している国道の一つが、出雲と広島を結ぶ国道54号線である。

 狐城はこの国道54号線沿いに築かれた山城で、後背に控える姫ヶ嶽城と同じく、さらに後ろに控える大城山城の出城として築かれたとされる。
【写真左】狐城遠望
 東方から見たもので、ご覧のとおり小丘の城砦である。
 この写真には見えないが、左側に布野川の支流・姫ヶ滝川を挟んで姫ヶ嶽城・大城山城が控える。

布野合戦

 天文10年(1541)11月、山陰の謀聖・尼子経久は80有余の人生を終えた。経久夭逝を知った山口の大内義隆は、翌天文11年正月早々、石見の諸将を従え、出雲国攻略にゆっくりと向かった。

 経久亡き後、家督を継いだ孫の晴久は、経久の菩提供養も早々に領国の防備・維持に奔走しなければならなかった。大内義隆自身が月山富田城に迫ったのは、それから1年もたった天文12年1月のことである。そして、その年3月に至ると、あとから義隆につき従ってきた毛利元就が合流、月山富田城菅谷口にて激しい戦いが始まった。
【写真左】1段目の郭
 登城口は、西側から南にぐるっと蛇行する姫ヶ滝川と並行して走る道の南西麓にあり、階段が設置されているのですぐわかる。


狐城は細い尾根小丘に築かれた城砦で、小規模ではあるが、3段からなる郭段などの施工精度は高い。
 写真は、最初の段に設置された社。


 5月、義隆に属していた吉川興経・三刀屋久扶らが寝返り、戦況は一気に尼子方優勢となり、ついには大内軍は大敗退を余儀なくされた。

 晴久は大内氏の敗戦を契機に、逆に備後に打って出た。その年(天文12年)6月には備後木梨(尾道市)の鷲尾山城(広島県尾道市木ノ庄町木梨)を落とし、7月に至ると石見に侵攻、石見銀山を攻略し、翌天文13年3月には再び備後田総で、元就・隆元と激突した。

それから4か月後の7月、晴久は約7千の兵を率いて備後の比叡尾山城(広島県三次市畠敷町)の三吉広隆攻略に向かった。その報を知った毛利元就は、すぐさま福原貞俊と児玉就忠に一千余騎をつけ、救援に向かわせた。
【写真左】1段目から2段目の郭にかけられた階段部
 木製の階段で、大分古くなってはいるが、頑丈そうな造りとなっている。
 この写真の右側は断崖絶壁で、麓には「急傾斜崩落危険区域」とかかれた看板もあった。


 福原・児玉両将は尼子方に先んじ、布野の下布野で阻止せんと陣を構えた。折悪く戦いの日は深い霧が立ち込め、毛利方にとって苦戦を強いられ二度にわたって敗戦した。

「吉田物語」という史料では、このことを「布野(府野)くずれ」と記している。

しかし、尼子方はこの先勝に油断し、そこを三吉広隆はわずか500の兵で奇襲をかけ、尼子方を打ち破った。これが後に「布野合戦」と呼ばれた。
【写真左】2段目の郭
 奥に見える郭が最高所のもので、高低差は3~4m程度ある。
【写真左】最高所の郭
 主郭に相当する箇所で、南側から北の方向を撮ったもの。
 長径15m、短径10m程度の規模。


 向に見える山との間には現在国道54号線から西に向かう(姫ヶ滝方面)道が走っている。
【写真左】北東端から東麓を見る。
 最高所から北東に向かって細く尾根が伸びている。写真の中央部横断している道が国道54号線で、右に行くと三次市に繋がり、左側に行くと飯南町(島根県)に向かう。


左側手前の道は、先ほど記した姫ヶ滝方面へつながる道だが、おそらくこの道は近年造られたものと思われ、戦国期狐城は左側の尾根と繋がっていたものと思われる。
【写真左】狐城から後背の「姫ヶ嶽城」「大城山城」方面を見る。
 狐城と二城の間には姫ヶ滝川が流れ、狐城が独立した配置となっている。
【写真左】2段目の郭から南麓を見る。
 南麓部は切り立った崖となり、その下に民家が並んでいる。
 中央に見える川が姫ヶ滝川で、左側に向かうと布野川に合流する。


 対岸に民家があり、その上に段々畑がみえるが、この尾根筋を西に進むと姫ヶ嶽城に繋がる。





千人塚(毛利尼子古戦場)

 布野合戦の主戦場となったのは、布野町下布野付近で、現在布野川と並行して走る東方の旧出雲街道沿いの市立布野中学校から南方200mの地点(保健福祉センター西隣)に、「千人塚(毛利尼子古戦場)」が残る。

冒頭で紹介した内容と重複するが、現地にある説明板も紹介しておく。

“毛利尼子古戦場


 天文13年(1544)7月、山陰の尼子勢7千余騎と山陽の毛利勢1千余騎がこの一帯で戦う。
 旧地名にちなみこの戦いを「山崎合戦」という。
 戦略にたけた毛利勢も、当地特有の深い霧に阻まれ二度に亘って敗退した。これを吉田物語には「府野くずれ」と書き残されている。


 しかし、翌日には尼子勢が勝ちにおごって油断しているところを、毛利勢比叡尾山城主三吉広隆の5百騎による奇襲攻撃に敗れ、赤名峠をこえて帰国した。この丘は合戦で討死した両軍の勇士を埋葬したところで千人塚という。
 また、川向う北西二粁の丘は、尼子晴久が本陣をかまえ、弓を松にかけたところから弓掛松の由来がある。
  三次市
  三次広域商工会青年部布野支部”

【写真左】千人塚
 写真左側には一般の墓地があり、その南側一帯の丘陵区域が当該地となっているが、上の方には「史跡の丘」という古い看板も設置してあったので、公園としての利用も考えられているようだ。


 合戦のあと、大城山城・姫ヶ嶽城は、毛利方の北方の守りとして重きをなし、先端部にあたるこの狐城などはおそらく物見台としての役割をになったものと思われる。

なお、姫ヶ嶽城及び大城山城も麓から見ることはできるが、登城口がはっきりしないため、現在のところ未登城である。
【写真左】千人塚遠望
 手前に見える道は、「旧出雲街道」で、現在の国道54号線より300m前後東方を走る。
【写真左】千人塚から南西方向に狐城等を遠望する。
 手前の樹木で少し視界が悪いが、この位置から狐城等も遠望できる。





◎関連投稿
高八山城(広島県三次市三和町上壱)

2012年5月7日月曜日

安芸・星ヶ城(広島県安芸高田市吉田町桂・高野)

安芸・星ヶ城(あき・ほしがじょう)

●所在地 広島県安芸高田市吉田町桂・高野
●築城期 不明
●別名 星ヶ崎城
●城主 星野市兵衛、長屋下野
●高さ 標高370m(比高160m)
●遺構 郭、堀切等
●登城日 2007年12月5日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』、サイト『城郭放浪記』等)
星ヶ城は、毛利氏の居城・吉田郡山城の麓を流れる江の川(可愛川)を約6キロほどさかのぼった高野・桂の北岸に聳える山に築かれている。
当城に登城したのが2007年なので、5年も前のことである。もう少し早めにアップすればよかったのだが、印象が薄かったのか保留していたようだ。
【写真左】星ヶ城
当城の登城口付近には模擬櫓や堂宇のようなものが設置されている。








現地の説明板より

“星ヶ城跡

[所在地] 高田郡吉田町桂、高野
[現状] 山林
[保存状況] 完存
[立地] 丘陵頂部 標高370m 比高160m
[概要] 
 単郭の城で、中央に「H」字形の高まりが見られる。土塁もしくは櫓台的な機能が考えられる。北に堀切を設けているが、その他に延びる尾根筋上には加工は見られなかった。
 城主ははじめ星野氏、後に長屋氏と伝えられる。

1995年(平成7年)8月 吉田町教育委員会”
【写真左】高田郡吉田町 郷野地区の史跡案内図
 合併前に設置されたもので、これによると、明治22年4月に、長屋村・桂村・高野村・上入江村の4村が合併し、郷野村とし、昭和4年に高原村の一部下入江が合併したという。


 そして、昭和28年に、吉田・丹比・可愛・郷野の4ヶ村が合併し吉田町となり、平成に至って安芸高田市となったとされる。


 このことから、当初は小規模な国人領主として、星野氏や長屋氏がおり、可愛川(江の川)を挟んで、東方には桂氏が独自の領地を保有していたと考えられる。

星ヶ城に関する史料はあまりない。
星ヶ城周りには当城の他に下記の城砦が点在する。
  1. 木野村城
  2. 亀山城
  3. 下峠城
  4. 槇ヶ城
  5. 桂城
  6. 雨乞城
  7. 柏城
  8. 清水城
  9. 鈴尾城(福原城)
上記のうち、5の桂城、9の鈴尾城は毛利氏の支城として有名だが、その他の城砦については詳細な記録は残っていない。
【写真左】星ヶ城略測図
 ご覧の通り大変シンプルなもので、本丸まで登城しているが、遺構などの記憶がほとんど残っていない。


城主は最初星野市兵衛だったとし、その後槇ヶ城主であった長屋氏が治めたという。この槇ヶ城は、星ヶ城の位置からすぐに南に延びた丘陵上に築かれた小規模な山城で、おそらく星野氏が滅亡したあと、長屋氏が治めたのだろう。

また、出典は不明ながら長屋氏も毛利氏の家臣であったという。こうしたことも含めて考えると、下段に示すように、桂城と指呼の間にあったことから、長屋氏及び桂氏が当地に深くかかわっていたことが想像される。
【写真左】本丸付近
 遺構を示すような写真でないため、物足りないが、おそらくほとんど遺構の確認ができなかったのだろう。
【写真左】桂城遠望
 星ヶ城の東麓を国道54号線が走り、その向かいには桂城がそびえる。


 当城の登城を何度か試みたが、駐車できる場所がなく、断念している。
【写真左】本丸から南麓を見る。
 中央の谷間から登ってきているが、この写真の中に、亀山城・槇ヶ城などが入っていると思われる。
【写真左】本丸から東方を見る。
 おそらくこの山系の中に、尼ヶ崎城・斧田館・竹樋館などが入っていると思われる。


 





中山神社

星ヶ城の麓には中山神社という社が建立されている。毛利元就が関わり、東方の桂城の城主であった桂氏が崇敬したとある。
【写真左】中山神社鳥居
 鳥居には「八幡社」とされているが、おそらく中山神社のことだろう。


現地の説明板より

“中山神社と大太鼓

 神社は天文16年(1547)毛利元就公が鶴岡八幡宮よりその分霊を勧請社殿を造営したもので、毛利家並びに中山城主桂能登守元澄の崇敬厚く、元澄の奉納せし神鏡が現存している。
なお、嘉永6年社殿炎上し、安政2年(1855)再建されたものである。
【写真左】中山神社本殿
 規模はさほど大きなものではないが、説明板にもあるように、建築彫刻には見るべきものがある。

 社殿の彫刻は、島根県人(氏名不詳)の作で、近郷に類を見ない逸品である。


 大太鼓は、樅の大木で、万延元年川野屋伊三郎の寄進で、周り一丈二尺・直径三尺三寸の稀に見る大太鼓である。一番木は厳島神社に奉納し、二番木を当中山神社に奉納したもので、吉田町重要文化財に指定されている。
 平成8年11月23日”
【写真左】桂谷山 元浄寺の屋根
 中山神社の近くには、元浄寺という浄土真宗本願寺派の寺院が建っている。縁起などは不明だが、たまたま本堂の峰瓦を眺めていたら、素晴らしい龍の姿が見えた。

2012年5月4日金曜日

発喜城(広島県広島市安芸区矢野町)

発喜城(ほきじょう)

●所在地 広島県広島市安芸区矢野町
●形態 山城
●別名 保木城
●高さ 476m(比高380m)
●築城期 建武2年(1335)ごろ
●築城者 熊谷四郎三郎入道蓮覚か
●城主 熊谷野間氏
●備考 矢野城の詰城
●登城日 2010年11月29日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 発喜城は広島市安芸区の矢野町に聳える絵下山(593m)から北に延びる尾根筋の延長線上に聳える保喜山(476m)に築かれた山城で、これをさらに北に降ると矢野城(265m)に繋がる。
 発喜城は元々この矢野城の詰城として築かれたもので、史料によっては発喜城も矢野城に包含しているものもある。
【写真左】現地の案内図
 「二艘木・茶臼山ルート案内図」のタイトルとして周辺の位置が描かれている。


 この図では中央に△会下山、△明神山が図示され、その中央北に「保喜山」「矢野城跡」が明記されている。
 この周辺は登山・ハイキングコースとして整備されているようだ。


 本来は麓から登るべきだったが、地図などを見る限り、麓に確実な駐車場が見つからなかったため、この日(2010年11月29日)は東麓の寺屋敷集会所側から登る路を選択し、そのまま「絵下山公園」→「テレビ新広島保喜山送信所」脇を通って、「広島ホームテレビ会下山放送所」前の駐車場に車を停めた。

 ここからスタートすると、会下山側から北に降る稜線上を踏査することになり、登るのではなく、降るコースとなる。

 結局、発喜城頂部にたどり着くも、その下にある矢野城へは登城することはできなかった。
【写真左】広島ホームテレビ会下山放送所前
 ここに駐車し、写真奥のほうから向かう。








熊谷入道蓮覚

 南北朝期当地には三入荘熊谷氏の庶家・熊谷四郎三郎入道蓮覚(れんがく)が拠ったとある。

 三入荘熊谷氏については、熊谷氏土居屋敷跡(広島市安佐北区三入南1)ですでに紹介しているが、承久の変によって、熊谷直国(討死)の子・直時が武蔵国熊谷郷(現埼玉県熊谷市)から当地へ新補地頭として入ってくる。

 同氏は初期には伊勢ヶ坪城(広島市安佐北区大林町)を、その後室町初期に至ると、戦略的に優れた南方の高松山へ本拠(高松城)を移すことになる。
【写真左】広島湾・広島の町並み
 ホームテレビ会下山放送所前から眼下に広島湾などが見えるが、この場所は頗る眺望がよい。





 さて、南北朝期この蓮覚は建武2年(1335)、後醍醐天皇に与して、矢野城に立て籠もり、尊氏方だった安芸武田氏と交戦することになる。

 この年、尊氏が鎌倉において、北条時行を破り、後醍醐天皇の召還に従わず鎌倉にとどまったことから、新田義貞らが鎌倉に向けて西下し、12月伊豆箱根の竹下の戦いで尊氏・義貞が激突、尊氏はこの戦いで勝利している。

 このとき、安芸武田氏は尊氏挙兵に応じ、支援のため西下しようとするが、これを宮方であった蓮覚がそれを阻んだ。

 矢野・発喜両城での戦いは激しいものとなり、寄手であった武田軍には、毛利元春・吉川実経の代理須藤景成・吉川師平・周防親家・逸見有朝及び、熊谷有直後家の尼智阿代朝倉仏阿など当国の御家人大半が馳せ参じたため、蓮覚を始め両者に多数の死傷者が出たという。
【写真左】分岐点
 放送所から北に進むが、ほとんど下り坂となる。途中に写真にあるように案内標識が建てられている。


「矢野町史蹟顕彰 保喜会」と書かれている。
 発喜城はこの写真の左側のルートを下る。



室町期

 その後当城付近の支配者が誰であったか不明だが、おそらく、安芸国守護であった武田氏の支配下にあったものと思われる。

 文安2年(1445)、後の将軍となる足利義政より当地を与えられた野間重能が保木城(発喜城)に居を構えた。重能の後裔は不運が続き、継嗣がうまくいかなかったため、養子として尾張から興勝を迎えた。矢野を本拠とした野間氏はその後、周囲の国人領主であった毛利興元・吉川元経・平賀弘保・阿曽沼弘秀・天野興次らと盟約を結びながら一族の繁栄を図った。
【写真左】郭・その1
 発喜城は南北の尾根約200m前後に、郭が10か所程度点在している。
 もっとも明確な加工段としての郭はほとんどなく、漠然と歩けば分からないだろう。


 南端部と、北側にそれぞれ堀切が配置されているが、現地では判然としない。
 この写真にある郭もさほど人為的な施工跡は見受けられないが、規模としては大きい方だ。


 その後、安芸国は大内氏が侵攻してきたきたため、同氏の傘下に入るが、北境の阿曽沼氏や西進してきた竹原小早川氏らと争い、その都度大内義興の仲裁を受けている。

 この頃、野間氏は矢野城を本拠に、四周に支城を配置構築している。野間則澄の代には、弟・能胤を北方に別城を、同じく弟・末永常陸介景盛を呉の和庄の堀城、隆実の弟・則綱を妣摺(ひずり)城、家人佐伯通景を波多見城などと多く配置している。
【写真左】保喜山頂部
 最高所にはご覧のような看板が木にかけてある。
 この位置が最高所で保喜山(城)の本丸付近と思われるが、現地にはそれを示すものは一切ない。



戦国期

 戦国期山口の大内義隆が陶晴賢に滅ぼされると、毛利元就は次第に大内氏一族から距離を保つようになる。

 当初元就も晴賢に恭順の意思を示していたものの、吉田郡山を下った広島湾岸を支配下に収めようと画策し始める。これに対し、広島湾東方の矢野に本拠を持つ野間氏は、同じ広島湾にある仁保城(広島県広島市南区黄金山町)の城主・白井氏と組み、毛利氏に対抗した。
【写真左】仁保城
 広島南区にある黄金山で、現在公園となっており、遺構はほとんどないようだ。

【写真左】本丸・その1
 地表面に加工した跡もなく、拍子抜けした光景だが、発喜城は元々矢野城の詰城であったこともあり、基本的には自然地形を要害化した城砦と考えれば納得がいく。



 白井・野間両氏はこのころ、武田氏配下として活躍していたものと思われるが、同氏が滅亡したことにより、反毛利を鮮明にし、その結果陶晴賢支援に回ったものと思われる。

 弘治元年(1555)10月、毛利元就が陶晴賢を厳島で破ったが(宮尾城(広島県廿日市市宮島町)参照)、その前段でこの仁保城の戦いが行われた(仁保城(広島県広島市南区黄金山町)参照)。これは、仁保城に拠った毛利方の香川氏(八木)が、陶方の三浦房清の攻めを駆逐した戦いである。

 その後、野間氏は最終的に毛利氏に攻められ、矢野城を明け渡した。矢野城明け渡しの際はこの発喜城も同じく、毛利氏の手に落ちたと思われる。明け渡しの際、野間氏は毛利氏と講和を結ぶことを条件としていたが、毛利氏はそれを反故にし、野間氏の主だった面々を真光寺で殺害したとされる。
【写真左】本丸・その2
 同じような光景だが、前記したように南北約200mという長い尾根を利用した郭群があることから、陣所として多くの兵を置くことができたのだろう。


 また、発喜城を過ぎて、矢野城に向かうと、途端に急坂の降り坂となる。事実上の切崖と考えてよいと思われる。

2012年4月27日金曜日

北田城(広島県広島市安佐北区白木町井原)

北田城(きただじょう)

●所在地 広島県広島市安佐北区白木町井原
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 井原氏か
●形態 丘城
●高さ 標高195m(比高35m)
●登城日 2011年2月25日

◆解説
北田城は広島市安佐北区の北東部井原にあって、北隣の安芸高田市の向原町と接する位置に築かれた山城である。
当城に関する詳細な記録はあまりないが、説明板にもあるように当城南方にあった鍋谷城主・井原氏と関連する城と考えられている。
【写真左】北田城の東にある大堀切側から櫓台を見上げる。










現地の説明板より

“本城址は神之倉山山系から北西にのびる低丘陵の先端にあり、郭の構成は主郭から北西方面に大小8郭を並べるが、中途から2方向に分かれてY字型を呈している。


また、主郭の後方(現在、道が通っている場所)には大堀切を置いて尾根を分断している。
城主については不明であるが、鍋谷城主井原氏関連の城とも考えられている。
 参考文献「山城」”
【写真左】縄張図
 現地に設置された遺構配置を主体とした縄張り図で、小規模な山城ながら密度の高い遺構を持つ。
【写真左】大堀切
 冒頭で示した東麓部を走る林道となっている箇所で、左側が城砦だが、右の尾根にも竪堀跡が少し残っている。


 駐車は写真にあるように、奥に向かったところに少しスペースがあるので、1台は確保できる。
【写真左】西側の斜面
 登城するにはこの西側に道が設置されている。比高はあまり高くないものの、切崖としての要害性は十分あるだろう。
【写真左】本丸から東方に櫓台を見る。
 登るとすぐに本丸にたどり着くが、その奥(東方)には、櫓台がある。


 本丸の規模は幅15m前後で、奥行は25m前後か。平坦な仕上げとなっている。
【写真左】櫓台から本丸を見る。
 櫓台は3~4m四方の楕円型で、大きくはない。
 このあと、本丸から下の方に向かう。
【写真左】本丸から下の郭を見下ろす。
 本丸から下の郭を見ると予想以上に高いことが分かる。おそらく10m前後あるだろう。


 下の郭は説明板にもあるようにY字に分かれた配置をとり、中央部にはなだらかな窪みを持たせている。
【写真左】西側の郭の土塁
 下の郭のうち、西側部については保存度の良好な土塁が残る。


 幅・高さとも1m前後のもので、この左下の麓からの侵入を防いでいる。
【写真左】本丸直下の郭部の土塁
 本丸直下の郭の東西には土塁が連続し、さらにその間を3本程度の小土塁が区画している。


 この郭から簡単に本丸へ向かうことを防ぐ目的としているものだが、連続する堀をこれだけ細かく区画しているのも珍しい。
【写真左】Y字型の郭
 郭として定義はしているが、防御性を考えると、当時はもっと深く掘った空堀もしくは巨大な竪堀ではなかったかと思われる。


 竪堀に入った敵を左右の高い郭段から敵を攻撃する際、有利となるからだ。
【写真左】北田累代之墓
 Y字郭の東に延びた先端部に設置されたもので、大正12年5月建立とされ、「酒井某」と刻銘されている。


 写真にみえる散在した石は、おそらく五輪塔だったものだろう。酒井氏がそれらをまとめて新たに供養したと思われる。




神之倉山

ところで、北田城の周りにはこのほか、南方には鍋谷城・見張城及び井原氏居館跡などがあり、おそらくこれらも井原氏に関連したものだろう。

【写真左】神之倉山遠望
 写真中央部には、ハングライダーのテイクオフする場所がある。

このうち、今稿の北田城と鍋谷城・井原氏居館跡などは、いずれも神之倉山の西麓にあり、これら諸城の後陣として神之倉山が戦略的にも含まれていたと思われる。
当然情報連絡のルートとして当山が大きな役目を負っていたことは十分推察できる。
【写真左】神之倉山山頂部
標高561mの地点。