2020年3月30日月曜日

水生城(兵庫県豊岡市日高町上石字コズ)

水生城(みずのおじょう)

●所在地 兵庫県豊岡市日高町上石コズ
●別名 水生古城
●高さ 160m(比高140m)
●築城期 不明(南北朝時代か)
●築城者 不明(長左衛門尉道金か)
●城主 長道金、西村丹後守
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2016年12月12日、及び12月18日

◆解説(参考資料 HP 『城郭放浪記』等)
 水生城は前稿但馬・万場城(兵庫県豊岡市日高町万場字城山) と同じく、日高町に所在する山城で、円山川の支流八代川が南麓を流れ、現在の但馬空港側の尾根から東に延びる尾根の最高所(H:160m)を中心に築かれた山城である。
【写真左】水生城遠望
 東麓側から見たもので、手前のグランドと水生城の間には円山川が流れる。




 現地には水生城を紹介した説明板はないが、当城の中腹にある古刹「長楽寺」の縁起が掲示されているので、参考までに紹介しておきたい。


“水生山長楽寺縁起

 当山は、奈良朝の和銅年間、行基菩薩により開創された寺で、ついで平安朝時代真如法親王巡錫のみぎり当山を真言宗に改められた。
 当山の山号は水生山と称し、山麓に汲めども尽きぬ清泉ありこれに因んで名づけられたものである。
【写真左】長楽寺の入口
 長楽寺本殿は水生城の南側中腹に建立されている。このため、麓に駐車場があり、そこに停めて、ここから九十九折の階段を使って登って行くことになる。

   かっては寺は大いに栄え一時は、十二坊舎あり、然るに戦国時代、豊臣秀吉、水生城に来攻し城落寺亦荒廃す。よって暫く村裡に移る。

 正徳年間、原地にかえり後、徐々に諸堂を整備し寛政年間に本堂(薬師堂)を再建し今日に至る。本堂は江戸中期の絢爛たる文化の所産で精緻を極め、本尊薬師如来は行基自ら彫刻された秘仏で古来霊験あらたかなことで知られている。
【写真左】参道途中から見下ろす。
 当城の南麓部には円山川をはじめ、JR山陰線などが走っている。






 真言に曰く
 オンコロコロセンダリマトウギソワカ

尚、境内には五百年余を経た「長楽寺ちりツバキ」があり、3月から5月にかけて真紅の花瓣が地上に降り敷き壮観である。兵庫県の天然記念物に指定されている。

   十五世住職 大僧正 水生宥啓”
【写真左】山門
 参道を登って行くと、やがて山門が現れる。
 宝暦6年(1756)に再興されたもので、左右には二体の仁王像が祀られている。



南北朝期

 当城については宵田城(兵庫県豊岡市日高町岩中字城山) で少し触れたように、築城期は不明ながら南北朝期といわれている。
 このころ南朝方が但馬において拠点としたのがこの水生城(水尾山城)と、当城から円山川を9キロほど遡った進美寺山城である。進美寺山城については未だ登城していないが、名称からもわかるように寺院城郭の形式を持つ。
【写真左】本堂側から庫裡及び境内を見る。
 享保5年(1720)再建された庫裡が中央にあり、本堂といわれる薬師堂は東側の高くなったところに、寛政3年(1791)に再建されている。
 水生城はこの写真では、右側の位置に所在する。

 
 延文元年(正平11年)(1356)8月、水生城には山名時氏の家臣・長左衛門尉らが立てこもり、水上山(国分寺城)に布陣した北朝方の伊達真信らがこれを攻め立てたという。
 山名時氏は山名寺・山名時氏墓・その1(鳥取県倉吉市巌城) などで紹介したように、この時期時氏の動きはめまぐるしい。時氏は元々尊氏派に属していたが、その後佐々木導誉との対立もあり、足利直冬にも属するなど、その立場は微妙に変化していた。当城におけるこの頃の戦いも、南朝方としているが、実際にはまだ直冬の旗下にあった可能性が高い。
【写真左】屋敷跡
 水生城に向かう標識などは現地にはないが、当城の縄張図を持参していたので、これを頼りに向かった。
 最初に出てきたのは屋敷跡といわれる個所で、まとまった削平地が残る。


戦国期

 羽柴秀吉が但馬攻めを最初に開始したのは、天正5年(1577)の秋である。目的は西国の雄毛利氏討伐であるが、その前段で行わなければならないのが、播磨国の平定であり、併せて日本海側の但馬も抑えなければ、西進できない状況であった。
【写真左】尾根から東に向かう。
 屋敷跡を過ぎてさらに上に向かうと尾根にたどり着く。先ずここから東方面に向かうことにする。


 水生城が所在する但馬において、戦いの記録が残るのは天正8年(1580)だが、おそらくそれ以前にも小規模な戦いがあったものと思われる。
 この年(天正8年)長引いた播磨三木城での戦い(三木城(兵庫県三木市上の丸)参照) を制すると、播州のほとんどの国人領主は秀吉に属し、この段階でやっと本格的な但馬攻略の態勢が整った。因みにこのとき秀吉方で但馬攻めの主将を務めたのが秀吉の実弟秀長である。
【写真左】竪堀
 尾根筋を東に向かうと中央部の郭群が出てくるが、その手前には北側の斜面に竪堀が見える。




 水生城での戦いでは、城主西村丹後守をはじめとし、当城に立て籠ったのは垣屋氏、長氏、赤木氏、下津屋氏、大坪氏、篠部の諸氏である。ところが、このうち篠部氏は日ごろから西村丹後守に対し私怨があり、彼らが立てた作戦を密かに織田方(秀長)に密告したためこの作戦は失敗に終わり、緒戦の浅間城(浅間村)での戦いでは、城主佐々木義高は戦わずして城を明け渡した。
 これを契機に秀長は、出石を攻略したのち、水生城に攻め寄せほどなく当城は落城したといわれる。
【写真左】頂部
 中央郭群のもので、ここを中心に東西の尾根筋に小規模な郭段が続いている。
 思った以上に広い。




水生城の概要

 水生城は西側から延びる尾根筋にそれぞれ3か所の郭群を配置し、西側の尾根に主郭を置き、中央部には中規模なもの、そして東端部には物見櫓を中心としたものを置いている。
 城域は東西におよそ650mにわたって延びるが、尾根幅は狭いため、本丸側で最大幅30m前後しかない。
 本丸の西端には西側からの侵入を防ぐ堀切が竪堀と併せ配置され、本丸から中央部および東端部の物見櫓の間には明確な堀切は置かれていない。このことからこれら3か所の郭群は単一の城郭として同時期に築城された可能性が高い。
【写真左】左側の竪堀
 頂部のすぐ真下には左右に竪堀が見える。写真は左(北)のもの。
【写真左】右側の竪堀
【写真左】堀切
 この個所には3,4か所の堀切や竪堀があるが、写真はそのうちの2番目のもの。
【写真左】先端部
 先ほどの箇所から更に先端部まで向かう。
 当城の北東端に当たる箇所で、当時は円山川の周辺部まで見渡せたことだろう。
 このあと、Uターンして本丸側に向かう。
【写真左】本丸周辺部
 この個所に行くまでにも数か所の竪堀や郭段があるが、全体に雑木に覆われていい写真が撮れていなかったので省略している。
 この個所は本丸の西側にある長い郭で、北側の斜面から回り込んでこの位置にたどり着いた。右側に本丸が控える。
【写真左】本丸に向かう道
 脇には御覧のように歩きやすい道があり、分かりやすい。
【写真左】本丸・北の段
 本丸の北側の下段にあるもので、腰郭となる。
【写真左】本丸・その1
 長径(南北)30m×短径(東西)25m前後の規模。
【写真左】本丸・その2
 三角点
【写真左】土塁
 南から西にかけて本丸を囲繞しているもので、竹が繁茂しているため分かりずらいが、高さ1m前後のもの。
【写真左】再び西側の郭へ
 本丸から西に降り、再び長大な郭に向かう。
 長さは100m前後はあるだろう。
【写真左】但馬空港
 木立の間から北西方向に但馬空港が見える。
 因みに、この但馬空港の北西側にも「岩井城」というかなり広範囲に広がる城郭があったとわれ、その手前には後述する「竹貫城」という城郭もあり、本稿の水生城との関連もうかがわれる。
【写真左】堀切
 西端部に残るもので、奥には小規模な郭が配置されている。
 城域は縄張図によれば、西側はここまでとなっている。

 ここからさらに西の尾根伝いに向かうと、「竹貫城」に繋がる。当城については次稿で取り上げる予定である。

2020年2月9日日曜日

但馬・万場城(兵庫県豊岡市日高町万場字城山)

但馬・万場城(たじま・まんばじょう)

●所在地 兵庫県豊岡市日高町万場字城山
●形態 丘城
●高さ 360m(比高30m)
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 不明
●遺構 竪堀・堀切等
●登城日 2016年12月12日

◆解説(参考資料 HP『城郭放浪記』、HP『山城攻略記』等)

 兵庫県豊岡市の南西部日高町にある神鍋高原は、スキーやキャンプ、トレッキングといった一年中楽しめるリゾート地として多くの観光客が訪れる場所である。

 特にスキー場は昭和32年、関西初となる「第12回国民体育大会冬季大会スキー競技会」が開かれ、一流のスキー場として全国的にも知られるようになった。そして、この地区には最盛期になると、6ヶ所のスキー場が開設されたが、その後スキー人口の減少に伴い、現在では神鍋ファミリースキー場、北神鍋スキー場、及び万場スキー場などが営業をしている。

 今稿で取り上げる万場城は、その中の万場スキー場に隣接する丘陵地先端に築かれた小規模な山城である。
【写真左】万場城遠望
 下段で述べているように、城域の位置を間違えてしまい、手前の丘陵部を散策してしまった。
 奥には万場スキー場が見える。





踏査地点を間違えた?

 登城したこの日、いつものようにHP『城郭放浪記』氏の資料をコピーして向かったのだが、残念ながら、踏査地点が実際よりずれたところだったようで、アップした写真は城域とは別の場所だったことを最初にお断りしておきたい。

 管理人が踏査したのは、万場城の手前の丘陵地だったようで、万場城は写真にもあるようにこの場所から更にスキー場側へ上った位置に在った。
【写真左】天神社
 万場城に向かう途中に祀られている神社で、旧名は中古天満宮又は、的場大明神とも称した。
 創建年は未詳。

 祭神は菅原道真

 明治3年(1870)天神社と改称され、同6年に村社に列する。


縄張の状況

 当城については先述したHP『城郭放浪記』氏のものがすでに紹介されているが、これとは別にHP『山城攻略記』氏のものがある。当HPでは縄張図が添付されていて、当城の概要を知ることができる。

 これによると、西側から伸びてきた尾根筋に設けられ、東西200m×南北50~70mほどの規模で、中央部に東西に30mほど伸びた郭(主郭)を置き、東側には腰郭や畝状竪堀群が尾根先端部に配置されている。中央部主郭の西側の尾根には堀切が配置されている。
【写真左】天神社のトチノキ
 天神社の脇には兵庫県指定天然記念物の「天神社のトチノキ」が生えている。

 樹高30m、胸高周囲7.6mで県内随一の大きさという。
 平成17年3月18日指定


垣屋氏

 当城の築城者・築城期などについては史料がないため、はっきりした事は分からない。
そこで、推測の域を出ないが、中世但馬日高地方の領主として考えられるのは、宵田城(兵庫県豊岡市日高町岩中字城山)で紹介した垣屋氏である。

 当稿でも述べているように、垣屋氏が山名氏に従って最初に下向したのが神鍋高原付近といわれている。
 同氏はその後次第に稲葉川沿いを下って日高町中心部へと移ることになる。因みに、神鍋高原地域には当城のほか、近くに名色城(なしきじょう)、大田城、南山城といった中小の城郭が点在しているが、これらも垣屋氏又はその一族が関わったものと思われる。
【写真左】勘違いした丘の先端部
 万場城はこの場所からさらにスキー場に向かった位置だったが、この丘陵部が城域だと思い込んでしまった。
【写真左】この辺りから登ることにする。
 万場城の遺構がある箇所でないため、以下の写真は当然ながらほとんど関連性はないが、それでも城域とさほど離れていない場所なので参考までに掲載しておきたい。
【写真左】尾根にたどり着く。
 比高がさほどないため簡単に尾根にたどり着いた。
【写真左】尾根
 上の写真とほぼ変わらないが、自然地形とはいえ尾根幅が広く、しかもフラットな面が多い。
 まるで郭のような印象を持つ。
【写真左】東端部の谷
 尾根の東側へ向かうと、登った側の傾斜とはだいぶ違う険阻な谷が見える。
【写真左】万場城方面を見る。
 この位置から万場城の中心部まではおよそ300mほど離れている。
 この尾根を奥に進むと、途中で谷を介して南から延びてきた別の尾根先端部に万場城が所在する。

 従って、直接の関連性はないが、当時万場城の南麓部には万場スキー場を跨いで、西側の村岡方面に向かう街道があったことから、この付近も万場城を補完する施設があったのかもしれない。
【写真左】万場城側から流れる川
 上記した谷から流れてきているもので、おそらく濠の役目をしていたのだろう。

 
 

2020年2月7日金曜日

真浄庵土居屋敷(広島県三原市久井町羽倉)

真浄庵土居屋敷(しんじょうあん どいやしき)

●所在地 広島県三原市久井町羽倉
●築城期 不明
●築城者 不明(末近氏か)
●遺構・遺物 土塁
●備考 羽倉城、殿様墓
●登城日 2016年12月7日

◆解説
 真浄庵土居屋敷は広島県の旧御調郡久井町に所在した中世の館跡である。現在当地域は2005年に三原市に合併され、所在地は三原市久井町羽倉となる。
【写真左】真浄庵土居屋敷遠望
 南西側から見たもので、手前には末近信賀供養塔が見える。






久井

 真浄庵土居屋敷(以下「土居屋敷」とする。)の所在する久井(クイ)という地名は、もともと杭と呼ばれ、平安時代から牛馬の売買が盛んな市場となっていた。

 その繁盛ぶりは衰微することなく、江戸時代の延宝8年(1680)になると、広島藩の公認を受け、近畿・九州・北陸など遠方からも多くの牛馬商人(博労等)が集まり、豊後の「浜の牛馬市」、伯耆の大山(大仙)の牛馬市と並んで日本三大牛馬市の一つとして広く知られるようになった。
【写真左】久井稲荷神社
所在地:三原市久井町江木1-1

 古伝によれば、往古山城国(京都)伏見稲荷神社の神田(社領地)があり、天慶元年(938)に現在地に遷座。
 戦国時代になると毛利元就が弘治3年当社本殿を造営し、3年後の永禄3年小早川隆景が社殿を造営したとある。


 しかし、昭和に入り農業機械化の発達により、昭和39年に千年以上続いたこの牛馬市はその歴史の幕を閉じることになる。
 
 久井の地域がこうした牛馬を中心とした盛んな農耕地を有していたことから、おそらくその時代ごとに当地を支配していた領主もまたそれらを積極的に支援してきたものと思われる。
【写真左】久井町歴史民俗資料館前に建つ「杭の牛市跡」を紹介した説明板
 所在地:久井町下津1397





羽賀城

 ところで、この土居屋敷付近は、現在近年の圃場整備事業に伴い、整然と区画化された田んぼが広がっているが、土居屋敷から北西方向へおよそ200mほど向かうと、その圃場整備された田圃の中に「羽賀城」という平城があったことが知られる。
 伝承では当城は末近氏の居館といわれている。末近は地元では「セジカ」と呼称している。
【写真左】羽賀城のあった方向を見る。
 御覧の通り圃場された田園風景で、遺構は田圃の下に隠され、まったく見ることはできない。



 規模は54m×44m、周囲には幅8~11m、深さ2.5~3.0mの水濠を巡らし、北側には幅5.7mの土塁が設けられ、特徴的なのはその土塁上部に5m間隔で、ピットが確認されている。このピットが柱穴とすれば、土塁の上に柵を設けていた可能性もある。

 発掘調査後圃場整備がなされ、城址部分は遺構上部に約2mの盛土を行い、その後圃場(水田)となっているので、すでに現地はその面影を残していない。
【写真左】羽賀城付近
 上の写真とは別の箇所から見たもの。
 おそらく当時は不定形で小規模な田圃が棚田状になっていたのだろう。




殿様墓

 さて、土居屋敷の話に戻るが、この付近の南東部に数体の墓石(五輪塔・宝篋印塔)が祀られ、これらを「殿様墓」と呼んでいる。そして傍らには末近左衛門尉信賀の顕彰碑が建立されている。
 この奥には写真でも紹介しているように、土塁上の段や庵(屋敷)の時代に盛土されたような跡が残る。
【写真左】殿様墓
 写真の左から2番目にある石柱に「殿様墓」と刻銘されたものがあり、そのまわりに五輪塔や宝篋印塔などが並んでいる。




末近左衛門尉信賀

 天正10年(1582)6月4日、備中・高松城(岡山県岡山市北区高松) を攻めた秀吉は、毛利方と講和を結んだが、そのときの条件として高松城主・清水宗治に自刃を求めた。巷間伝えられているのは、自刃したのは宗治一人だったというイメージが強いが、実際には彼に殉死した武将が複数いたことが知られる。

 具体的には、宗治をはじめ、宗治の兄・月清入道、宗治の弟・難波宗忠、そして末近左衛門尉信賀と合わせて4名である。
【写真左】供養塔
 殿様墓と並んで右側には近年建立された供養塔が併設されている。

 供養塔には
「大圓鏡智為 備中高松城天正之陣 水攻め講和四百年年忌 羽倉城主末近信賀自刃追善供養塔」
 とあり、右面には
「奉斎 岡山市高松城址保興会 萩市郷土文化協会」
と筆耕されている。


 末近左衛門尉信賀(以下「末近信賀」とする。)は、セジカ(又はスエチカ)ノブヨシと呼称する。信賀の父は内蔵助で、このころから小早川家の家臣であったという(別説では、これ以前の沼田小早川氏、すなわち隆景が養子に入る前からの小早川氏の被官であったという)。(安芸・高山城(広島県三原市高坂町)・その1 参照)

 信賀はこの当時隆景の家臣となっていた。信賀が当地に羽倉城を築いたのは、元亀元年(1570)といわれている。領地経営に意を注ぎ、水路開削や水田開発を積極的に行ったという。

 信賀が自刃したのは、この年(天正10年)隆景から備中高松城の軍監として派遣されていたことから、その責を負ってのことだろうが、清水宗治一族のみの自刃では秀吉が納得しなかったのかもしれない。
 信賀が自刃したあとの同月18日付で、小早川隆景から信賀の子・光久宛てに感状が出されている。
【写真左】信賀辞世の句
 近くには信賀の辞世の句が刻まれた石碑が建つ。







”君がため
  名を高松にとめおきて
      心は帰る 故郷の方”


【写真左】五輪塔群
 手前の墓石とは別に奥にも小規模な五輪塔群が見える。
 このあと奥の方に向かってみる。
【写真左】段のある箇所。
 土居屋敷が真浄庵という名前を付記していることを考えると、末近氏に近い一族が当地に屋敷にを構え、その後出家した僧がこの場所で庵を営んだというような経緯が考えられるが、史料がないためはっきりしない。
【写真左】土塁
 上の段に上がり、少し奥に向かうと小規模だが土塁の痕跡が認められる。
【写真左】切岸
 周辺部が圃場整備されているため、土居屋敷との境目が当時どのような状態だったのか分からないが、この個所はかなり高低差を残しているので、切岸だったと思われる。
【写真左】遠望・その1
 土居屋敷は写真の右側に当たり、手前の墓は地元の民家のもの。
【写真左】遠望・その2
 上の写真から更に南西方向に移動した位置から見たもので、手前の田圃から見ると意外と高低差がある。

 この田圃の畔がカーブを描いていることから、当時はこの付近も土居屋敷(真浄庵)の関連した建物などがあったのかもしれない。

2020年2月3日月曜日

石見・稲積城(島根県益田市水分町)

石見・稲積城(いわみ・いなづみじょう)

●所在地 島根県益田市水分町
●高さ 78.9m(比高70m)
●築城期 暦応3年・興国元年(1340)
●築城者 日野邦光
●城主 日野氏、益田氏
●遺構 郭その他
●備考 稲積神社
●登城日 2016年12月2日

◆解説(参考資料 『益田市誌・上巻』、『日本城郭体系』等)
 石見・稲積城(以下「稲積城」とする。)は、益田市水分町の稲積山に築かれた小規模な山城で、当城から東に1キロ余り向かうと益田氏の居城七尾城が所在する。
【写真左】稲積山城遠望・その1
2010年9月12日登城した益田氏の居城・七尾城から見たもの。
【写真左】稲積山城遠望・その2
南麓の机崎神社側から見たもの。









石見の南北朝期

 南北朝時代における石見の動きについてはこれまでも高津城(島根県益田市高津町上市)の稿などでも再三触れてきたように、 当国でも南朝方と北朝方が激しく戦った。

 稲積山城に関わるものとしては、七尾城・その2(島根県益田市七尾) の稿で少し述べているが、興国年間(1340~)に日野邦光が稲積山城に拠って、南朝方の三隅城主・三隅兼連らと呼応し、北朝方の益田兼見の七尾城と対峙したといわれる。
【写真左】途中から直登
 登城口が分からず、たまたま南側に手摺のようなものが見えたので、そこから向かったが、結局墓地に向かう道で、その先はまったく道がなく、このあたりから直登することになった。


日野邦光

 日野邦光は藤原北家真夏流日野家の出で、日野資朝の子である。資朝は鎌倉幕府を倒そうとしたが、六波羅探題に察知され、同族の日野俊基らと共に捕縛され、佐渡島に流罪された公卿である。
 邦光は幼名を阿新丸(くまわかまる)といい、15歳のとき佐渡島に渡り、父の仇討ちを成し遂げた逸話を持つ。延元4年・暦応2年(1339)石見国司として新田義氏と共に同国へ下向した。
【写真左】畑地跡
 ひたすら尾根を目指してたどり着くと、割と解放された場所に出た。城域より大分西に来ているようだ。
 後述するように、先の大戦中食糧確保のため畑として開墾された跡だろう。


 このころ石見では南朝軍が劣勢に陥り、士気が停滞していたが、邦光は地元の南朝方高津長幸(高津城(島根県益田市高津町上市) 参照)・三隅兼連・内田致景(神主城(島根県江津市二宮町神主) 参照)らと相呼応し、稲積山に砦を築いて立て籠り、北朝方(益田兼見・虫追政国・乙吉十郎・領家公恒ら)と対峙し牽制しあった。

 稲積城の記録が現れるのは暦応4年(1341)正月28日で、三隅兼連(三隅城・その2(島根県浜田市三隅町三隅) 参照)が当城の食糧欠乏を知って、籐三(とうぞう)という家臣に命じてその護送に当たらせていたところ、益田三宅の袴田で益田方の軍勢に発見されて戦いを交えたというものである。そして、籐三は討死したが、食糧の一部を城内に搬入した。しかし、その年(暦応4年)2月18日、高津城と共に落城し、城主日野邦光は三隅城に落ち延びたといわれる。
【写真左】主郭方面を確認する。
 持参した地形図と磁石を頼りに方向を確認すると、この先から城域になるはず。登り勾配となっている。



 これに関連する記録としては、次のようなものが残る。
  • 前年(暦応3年・興国元年)8月27日、益田兼見が上野頼兼に従い、13日の豊田(内田)致員の城(豊田城か)での戦い、18日の日野邦光・高津長幸との戦いの軍忠状を提出する(『益田家文書』)。
  • さらに2月には、益田兼躬(おそらく兼見のことと思われる)、上野頼兼に従い、昨年8月19日以来須古山(須子山)に陣取り、18日に高津・稲積両城を攻め落としたとする軍忠状を提出する(『益田家文書』)。
【写真左】切岸
 西側から緩やかな登り勾配が続いてきたが、ここで切岸に遭遇。明らかな郭段の様相を呈してきた。
 密集していない樹木の間をかき分け、上に向かって這い上がる。











 しかし、邦光はその後も石見南朝方を鼓舞すべく、彼らを率いて都を恢復しようと遠大な計画を主張したが、石見在地の武士たちから賛同を得られず、国司の立場であった邦光と三隅氏らの間に次第に隙間が生じ、石見を立ち去った。

 邦光は一旦南朝方の本拠・吉野(大和)へ帰還したが、その後も菊池氏らが戦っていた阿蘇(肥後)(菊池城(熊本県菊池市隈府町城山) 参照)にも赴いたという。

 彼のこうした行動を見ると、いささか他人の意見を聞かず、猪突猛進のタイプにも思えるが、その神出鬼没なフットワークには驚かざるを得ない。

当城周辺部の変遷

 山頂に本丸を置き、北東部には二の丸、西側には三の丸を配置していたが、先の大戦中食糧難のため、本丸から二の丸付近は伐採・開墾がなされ、さらに西側の三の丸側は砕石場となったため、北側の道路から見ても景観が大きく変わった。
 近年では城域内に高圧電線の鉄塔なども建ったことから遺構の残存度はあまり期待できないが、それでも主だった郭の跡はなんとか残っている。

出土品・小札

 ところで、この稲積城跡から甲冑の部品の一つである小札(こざね)が3点発掘されている。土の中からボロボロにさびた鉄製品を発掘した際、以前は同定する術が確立していなかったが、近年はエックス線撮影という技術で解明できるようになった。
 件のものは鎌倉時代から南北朝時代のものであるという。しかもこの時代のものとしてはかなり高価な甲冑だったことから、南朝方の大将クラスのものだったかもしれない。
【写真左】切岸の上から下の畑地跡を見下ろす。
 戦時中の開墾箇所はおそらく切岸の下までだったのだろう。
 従って、当時(南北朝期)は畑地跡も郭段(三の丸か)があったのかもしれない。
【写真左】主郭・その1
 切岸を越えて振り返ると鉄塔が目に入った。当城の最高所(78.9m)の位置で、主郭のあった場所となる。
 こうした工作物が設置されているので、周辺は相当改変されたのか遺構らしきものが見当たらず、変化のない削平地となっている。
【写真左】主郭・その2
 鉄塔付近で三角点を探してみたが見つからなかった。
 鉄塔から北西の方向は藪になっているが、ほぼ同じ高さで少し伸びており、この部分は実際には長径70m×短径40m前後もあり、当時(南北朝期)の状況を考えると、北側(藪側)に主郭としての中心を置いていたのかもしれない。
【写真左】三角点?
 縁の方に見えたもので三角点のような杭が見えるが、→がついているので境杭かもしれない。
【写真左】主郭の南側
 少し盛り上がっているので土塁跡か。


【写真左】東側の段
 主郭から少し東の端に来たところで、郭段の形状が残る。


【写真左】二の丸・その1
 主郭の東側に階段が見えたので、そこから降りてみると御覧の郭段がしっかりと残っている。
 これが二の丸だろう。
【写真左】二の丸・その2
 二ノ丸の北側まで向かったが思った以上に奥行がある。
 また、その先は藪化しているが、上の主郭から帯郭の様相が読み取れたので、北側を囲繞する構図となっていると思われる。


【写真左】二の丸から主郭を見上げる。
 高低差は7m前後はあるだろう。

 このあと、部分的に残る階段を目安に下に向かう。
【写真左】緩やかな斜面
 先ほどのような郭の形状は認められないが、当時は小郭が階段状に設置されていたのかもしれない。
【写真左】七尾城が見えてきた。
 結局東側にあった階段を頼りに降りて行ったが、この階段はどうやら鉄塔の施設管理用に設置されたもののようだ。
 途中で東方に益田氏居城の七尾城(左側の奥の山)が見えてきた。
【写真左】下山口(登城口)
 結局、稲積山城の登城道として利用できるのは東麓部にある鉄塔管理用の道しかないようだ。
 ただ、電柱の右側にあり、冬でも草丈が伸びているので、よほど注意してみないと見過ごすかもしれない。


机崎神社稲積神社

 既述したように稲積山城が築かれたのは南北朝期である。それ以前には山頂部に稲積神社が祀られていた。当社が創建された時期は聖武天皇の天平年間(729~749)といわれ、最初は稲積山南麓にあった。

現地の説明板より

‟机崎神社説明板

《御祭神》宇迦魂命 大国主命 猿田彦命
《由緒・歴史》


 古伝によれば、この机崎神社は奈良時代、聖武天皇の天平年間(約1200年前)、背後の稲積山に五穀産業海運の祖神である宇迦魂命、大国主命、猿田彦命の三柱の神様を御祭神として奉斎したことに始まります。

 平安時代には稲積山に官柱を新たに造営し、稲積神社と称して、盛んな祭祀を営みました。鎌倉時代初期、益田兼高公が七尾城主となるや、神威は更に増し、南北朝時代初期、興国2年(1341)の争乱の時に山頂の神社を現在地に遷座し、机崎神社と称するようになりました。

【写真左】机崎神社遠望
 稲積山城の東~南を流れる多田川を挟んで南東におよそ100mほど向かった土井町に建立されている。



 その後、益田氏の居城七尾城が建久4年(1193)に築かれると、益田兼高が稲積山山頂を削平し、当社を移転した。それに併せ城下に町割りなどが敷設され、七尾城下と共にこの水分地域も人々が集うことなる。

 春耕・夏耕・秋収・冬蔵それぞれの節目に祭事が行われ、夜間神社境内に大篝を焚き、歌や踊りさらには仮面衣装の男女が出でて、牛馬をも持ち出し賑やかな祭事を行ったという。神事が終盤に差し掛かると、大篝火が燃えつくし、その柱が倒れる。その柱の倒れ方によってその年の豊作の吉兆を占った。
【写真左】机崎神社
 本殿後背には稲積山城が控える。










 稲積神社は南北朝期(興国年間)日野邦光が稲積山に城郭を築くようになって、山頂にあった社を南麓の机崎に遷座することになる。それが現在の机崎神社である。


長州軍陣地

 ところで、稲積山城及び、机崎神社は、時代が下った江戸末期の慶応2年(1866)、長州軍と幕府軍が戦った益田の戦いで長州軍が布陣した場所でもある。

現地の説明板より

《机崎神社 益田戦争長州軍陣地》

 幕府は慶応2年(1866)第二次長州戦争の軍を起こし、四境より戦端が開かれ石州口の戦場となったのが益田でした。幕府軍は浜田藩、福山藩の連合軍で、6月17日の朝、萬福寺と勝達寺(天石勝神社)、医光寺に布陣しました。
 村田蔵六(大村益次郎)率いる長州軍は、幕府軍の動きを読み、16日には扇原関門に迫りました。
【写真左】岸静江国治の墓
所在地:益田市多田町
 机崎神社の前を流れる多田川をおよそ2キロほど遡ったところに建立されている。
 
 岸静江国治は、圧倒的な数の長州軍の来襲を知り、部下や農民らを先に退去させ、一人で仁王立ちして死守したが、長州軍の敵弾を受け、敢え無く絶命した。
 藩命とはいえ、わずか31歳の若さだった。合掌。


 扇原関門の関守は浜田藩士岸静江国治、少数の士卒そして農民兵16名のみです。藩命を遵守した岸静江は開門を迫る長州軍を断固拒絶し、槍を構えた立ち姿のまま銃弾を浴び絶命したといいます。藩境の扇原関門を突破した長州軍は、机崎神社に集結し、指揮を執った村田蔵六が傍らの稲積山で敵情視察をし、幕府軍の動静を探り、作戦を立てたといわれています。

 平成27年2月吉日  益田市観光協会”
※赤字 管理人による。