2016年4月5日火曜日

備中・丸山城(岡山県高梁市宇治町穴田)

備中・丸山城(びっちゅう・まるやまじょう)

●所在地 岡山県高梁市宇治町穴田
●高さ 373m(比高50m)
●築城期 天正年中
●築城者 赤木忠房・忠直
●城主 赤木忠直
●遺構 郭(本丸・二の丸・三の丸)、土壇等
●登城日 2016年3月15日

◆解説
 前稿滝谷城・しらげか城(岡山県高梁市宇治町本郷・宇治)から南に約2キロほど向かうと、次第に宇治の平坦な盆地は幅を狭め登り坂となる。その坂の始点から南を見ると、丸い小丘が見える。この小丘の東側には島木川がながれているが、川の浸食作用によって、こちらの面は西側のなだらかな面とは反対に険峻な様相を呈している。

 これが承久の乱(1221年)において、新補地頭として信濃から下向してきた赤木氏最後の当主・忠直の居城・丸山城である。
【写真左】丸山城遠望
 北側から見たもので、主郭の北側は少し開けているが、これは後段で紹介するように、地元のH氏が少しずつ竹などを伐採しているためである。


現地の説明板

“丸山城 彩りの山里の城跡
 宇治盆地の最南端にあって、羽山谷を押さえるいっぽう長屋・黒鳥・田原への道を制する要地である。標高差は約50mの平山城である。小規模ながら本丸・二の丸・三の丸と出丸も備えている。近くに屋敷(これは後に造られたものであろう)があり、その下に「根小屋」という屋号の家もある。
【写真左】丸山城の略図
 長軸は凡そ170mの長さを東西にとり、幅は平均して30m前後の規模だが、東側の島木川がかなり深い谷を形成しているので、図面以上にこのエリアの要害性は極めて高いといえるだろう。


 天正年中に赤木忠直が築城したと伝えられている。忠直は滝谷城のところでふれた忠房の嫡男で、天正10年の高松城攻めの際、小早川隆景の求めに応じ、父の忠房が忠直に兵を付け、急ぎ高松城の救援に駆けつけたので、5月5日陣中で輝元から感状を添えて100貫の領地を与えられた。

 高松落城の際の講和条約でも、高梁川以西の領有権は依然として毛利氏にあったから、その所領は安泰であった。しかし、忠房は近い将来、必ず豊臣方の西進があることを予期して丸山城を築いた。
【写真左】出丸へ向かう
 南側には東端部にある出丸につなぐ長い郭を進む。奥に見える建物は、本丸の西隅に祀られていた宮を移築したもの。



 関ヶ原の戦い後、毛利氏は周防・長門に押し込まれ、辛うじて家名を保つことができたが、赤木一族ではこのときも毛利氏に従って周防・長門に移るもの、土地に留まるものそれぞれの思いのまま行動した。

 こうして勢力を失ったものの、主だった家系の赤木家は残り、家宝の赤韋威(あかがわおどし)の大鎧と兜は今日まで伝えられ、今は国宝に指定され、輝かしい家系を語っている。

・宇治地域まちづくり推進委員会”
【写真左】出丸
 東端部にある出丸だが、この下にも2段の腰郭が付随している。








高松落城後の講和条約

 美作・荒神山城(岡山県津山市荒神山)の稿でも述べているが、天正10年(1582)5月の秀吉による備中高松城攻めのあと、秀吉方と毛利氏が互いの領有地について協議を行い、一定の講和条約を結んでいる。

 その内容の基本となったのが、高梁川を境として西側を毛利氏、東側を秀吉方としたものである。 しかしその協議の実態は、毛利方に属していた美作や備中の国人領主にとって、不利な点が多く、彼らは毛利氏や秀吉方に対して度々異議申し立てを行い、是正をするよう要求している。

 この交渉に当たったのは、秀吉方では黒田官兵衛(黒田城(兵庫県西脇市黒田庄黒田字城山)参照)・蜂須賀正勝、毛利方では安国寺恵瓊(新日山安国寺 不動院(広島市東区牛田新町)参照)である。
【写真左】出丸東端部
 竹が繁茂していて明瞭でない写真だが、出丸の北~東~南斜面は険峻な斜面となって、島木川に至る。





 今稿まで紹介してきた赤川氏の所領は、境界とする高梁川の支流成羽川水系に当たり、説明板にもあるように、従前どおり毛利氏領に入っているため、一見すると問題ないように思えるが、同じ高梁川支流の小田川沿い(高梁川本流の西側)にあった備中・猿掛城などは、秀吉方とするよう要求されている。

 因みに、当時の猿掛城主は元就四男の穂井田(毛利)元清であったが、この要求に対し、毛利方担当の恵瓊は、なかば捨て鉢気味に「城(猿掛城)を獲られるのなら、城主である元清も秀吉の家臣にしてほしい」とまで言っている。
【写真左】堀切か
 出丸(右)と三の丸(左)の連絡部にあたり、冒頭の略図には示されていないが、尾根を断ち切ったような鞍部が認められる。
 おそらく堀切がこの場所に構築されていたものと思われる。

【写真左】石積
 本丸の西端部に祀られていた宮(土壇)に向かう道の始点で、一部モルタルなどで補修されているが、石そのものは当時のものだろう。




 いわずもがな、こうした高梁川境界を基本合意としながら、個々の領地境界がそれと整合しない内容で進められたのは、秀吉による命が交渉中の官兵衛らに対して指示されていたわけだが、その間秀吉は信長亡き後、賤ヶ岳に柴田勝家を破り(賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦)参照)、名実ともに信長の後継者として名乗りを挙げ、より毛利氏に対し強硬な態度へ変わっていったこともその背景にあったと思われる。

 そうした日々変わっていく状況は、丸山城主・赤木氏にも伝わっていたのだろう。父・忠房が秀吉による西進があると恐れたのも無理はない。
【写真左】社殿跡の土壇
 冒頭で紹介している宮があった場所で、本丸の西端部にあたり、5m前後の長さの方形で、高さは約4m近くある。

 現在倒木や枯葉などで覆われているが、瓦片などが残っている。

 手前にには、大正10年に「大願主◇◇」によって遷宮されたと記された石碑が残る。
 このあと本丸に向かう。


 
 結局双方(毛利方・秀吉方)で最終的に講和が結ばれたのは、高松城攻めが終わってから3年もの歳月が過ぎた天正13年(1585)であった。

 ところで、丸山城が宇治盆地の南方に築かれたのは、おそらく秀吉軍が攻める場合、成羽川から入って、島木川を遡上してくると予想したことからこの地に普請したものと考えられる。
【写真左】本丸
 長径67m×短径30の規模を持つ当城最大の郭。

 この日登城した際、ご案内頂いたH氏が最近から少しずつ竹などの伐採作業を行い、見晴らしのいいこの本丸北側から始めたという。
 ただ、余りに広いため、一人ではなかなかはかどらないと、自嘲気味に話しておられた。
【写真左】土塁
 本丸及び、二の丸、さらに先ほどの出丸の北側には土塁が設けられている。
 写真はそのうち本丸のものだが、高さは約2m近い。

 この先も少し向かってみたが、藪コギ状態なので写真は撮っていない。

【写真左】丸山城に隣接する屋敷
 案内していただいたH氏の邸宅で、石積を基礎とした白壁の塀が屋敷を囲む。

 おそらく江戸期に建物の基礎が出来ていたのではないだろうか。



庄屋・屋敷

 高松城攻めの際、城主赤木忠直(忠道)が毛利氏を支援すべく駆けつけ、その褒賞として当地(穴田)を賜り、その末孫が庄屋を世襲したとされるが、おそらくこの庄屋がH氏の屋敷ではないかと思われる。

 ところで、丸山城を案内していただいた後、お礼を云い帰ろうとしたら、H氏から屋敷の方でお茶を差し上げたいので母屋に上がって下さいと案内された。
 
 表門の脇にあるもう一つ別の勝手口のような門をくぐると、苔むした庭がある。その奥に2階建ての母屋があり、左側には納屋が建っている。玄関のタタキをあがると4畳ほどの間があり、東(右)が客間となっている。天井を見ると、太い梁が何本も横に並び、如何にも庄屋らしき佇まいだ。

 「実は私、北海道からIターンしてきたんですよ」という。この屋敷は以前住んでおられた方が年をとられ、施設に入られたため住む人がいなくなり、宇治町の方で屋敷の維持管理も兼ねた入居人の募集をしていたのを知り、何度かこちらを訪れたのち、気に入って定年を機にこちらに移住したという。

 そして、丸山城の方もこちらの屋敷所有の土地で、暇をみつけては本丸の北側が眺望がよいので少しずつこの間から伐採している、という。また、夏になると、岡山市のほうから子供たちなどの体験学習として我が家に泊めて、田舎での農作業なども開催しているという。客間にはそうした行事を行った時の写真が沢山飾ってあり、外国人も時々訪れているようだ。

蓮華寺の五輪塔

 丸山城から北へ約1キロほど向かった本郷地区には、前稿で紹介した滝谷城の初代城主赤木太郎忠長の墓とされる五輪塔が祀られている。
【写真左】五輪塔群・その1
 説明板にもあるように、中央の2基がひときわ大きい。









現地の説明板

“備中宇治彩りの山里の史跡巡り①
  宇治町本郷
 蓮華寺の五輪塔(高梁市指定重要文化財)

石造美術
 滝谷城主赤木氏のゆかりの者の墓塔と思われる五輪塔で、蓮華寺境内に白色五輪塔、宝篋印塔に混じりひときわ大きさも群を抜いている。
 向かって高さ162cm、高さ153cmでどちらも墓壇を比較的幅広く取り、水輪は、球型、火輪の軒先は真反りを示すが、左塔は鎌倉期、右塔は室町期の様式を示している。
 これについては、組み替えの説もある。
 両墓塔とも花崗岩であることで、当地方を代表する鎌倉期、室町期を代表する五輪塔であるといえる。”
【写真左】五輪塔群・その2
 まわりにも中小の墓石が集められている。
【写真左】蓮華寺
 蓮華寺の開創期ははっきりしないものの、赤木氏が承久年間(1221頃)に当地に下向したときには既に存在していたようで、往時相当の伽藍を有していたとされる。

 正保元年(1644)、成羽町源樹寺第三世学州玄碩和尚を開山とし曹洞宗となった。

 手前の石碑には

「平成6年3月 28代当主 赤木慶雄 建立」
 と刻銘されている。

右側に見える道は、吹屋街道の旧道。

蓮福寺の五輪塔

 蓮華寺から少し丸山城側に戻ったところには、蓮福寺という別の寺院があるが、この墓所の一画にも五輪塔群が祀られている。ただ、特に指定を受けたものではないが、一基だけは大きなものがある。
 なお、当院は慶長5年(1600)、萩原氏の菩提所として草創されている。
【写真左】蓮福寺の五輪塔群
 中央のものがひときわ大きい。


 このほか、丸山城の西方には極楽寺跡があり、そこにはさらに多くの石塔群があるということだが、管理人は訪れていない。

2016年3月31日木曜日

滝谷城・しらげか城(岡山県高梁市宇治町本郷・宇治)

滝谷城(たきたにじょう)・しらげか城

(1)滝谷城
●所在地 岡山県高梁市宇治町本郷
●築城期 承久又は貞応年間(1221~23)か
●築城者 滝谷城:赤木太郎忠長
●城主 赤木忠長~忠国
●高さ 480m(比高130m)
●遺構 郭

(2)しらげが城
●所在地 岡山県高梁市宇治町宇治
●備考 白毛ヶ城
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 宇治左衛門尉
●高さ 477m(比高120m)
●遺構 郭

◆解説
 滝谷城及びしらげか城は、前稿笹尾城(岡山県高梁市宇治町宇治)から南に凡そ800m程隔てた位置に所在している。両城の間を流れるのが島木川で、西側に滝谷城、東側にしらげが城がそれぞれ向い合うように配されている。
【写真左】滝谷城遠望・その1
 南麓を流れる島木川の支流対岸から見たもの。
 下段の説明板にもあるように、南側は溪谷の様相をなした絶壁で、遠望できる箇所はこの川を挟んだ道路のカーブする地点のみである。

 地元の御年輩の御婦人に伺ったところ、昔は東側から登る道もあったが、今はだれも登らず手入れもしていないので、登城は控えた方がいいといわれ、登城は断念した。


赤木氏・滝谷城

 赤木氏については、笹尾城や、秋庭氏累代の墓(岡山県高梁市有漢町有漢茶堂)でも述べているが、詳細は当城の麓に設置された説明板があり、次のように記されている。
【写真左】配置図
  北部にある黄金山城から滝谷城までは、4.5キロほど離れている。









“滝谷城 彩りの山里の城跡

 滝谷城は標高480mで、麓との標高差は約130m、島木川の西岸にあって、対岸の「しらげが城」との山がいに吹屋往来が通り、そののど首を押さえている位置にある。



【写真左】滝谷城略図
 図から判断すると、2,3段の郭で構成された単純な縄張りのようだ。








 西側は背後の中野村上長田からは、馬の背程の尾根で連なっているが、東西に長い楕円形でほぼ独立しており、頂上に残る城跡に立てば、南側にほとんど垂直の絶壁で滝谷川の急流が足元を洗って島木川に流れ込んでいる。北も急斜面で深い谷をなし、ただ東斜面のみがやや緩やかでここのみが頂上に登り得る唯一の場所である。

 滝谷城を築いたのは、赤木太郎忠長である。松山城主秋庭重信と同じく、承久の乱に鎌倉幕府につき、その功によって信濃国吉田郷田肆段(たしだん)の田肆小池郷の在家二宇(にう)の津から、ここ備中国川上郡穴田郷の地頭として赴任してきた。

【写真左】滝谷城遠望・その2
 手前の雑木や葛は南側道路の斜面に生えているもので見えにくいが、川を隔てた対岸に滝谷城の岸壁が見える。


 中野村本郷(現・宇治町本郷)に屋敷を構え、この滝谷城を築いて本拠としたのである。当時の支配地ははっきりしないが、およそ次の村々ではなかったであろうか。

 すなわち、中野本郷・宇治・丸山・中野大野呂・同小野呂・塩田の旧6カ村に、飯部村の遠原を加えた地域で、時代はずっと下がるが、文久3年(1863)の「備中村鑑」によれば、約3,320石の高になる地域である。
【写真左】滝谷城遠望・その3
【写真左】滝谷城の南麓を走る町道と県道の合流点
 中央の道が県道85号線で、この道を奥に向かうと笹尾城に繋がる。

 分岐点にある看板は映画「八つ墓村」のロケで使われた「広兼邸」や、「吹屋ふるさと村」への案内板で、左側の道。遠望できるのはこの道になる。


  その後忠長より忠国にいたる約300年間には赤木家にも幾度かの省長があったが、忠国の代になるとにわかに戦史に名が見えるようになった。

 忠国は初め尼子経久に属していたが、天文9年周防の守護職大内義隆の命を受け、元就の居城郡山城を包囲した尼子晴久の後方陣地を脅かし、その糧道を断って尼子勢を撤退に追い込んだ功労により義隆から感状と太刀を与えられている。
 以後、毛利氏の陣営に加わり、備中兵乱には、同じ宇治郷の笹尾城を攻めているし、その後も子忠房とともに輝元の幕下にあって、各地に転戦して武名をとどろかせている。

・宇治地域まちづくり推進委員会” (※赤字:管理人による)



しらげか城
 
 しらげか城は、白毛ヶ城ともいわれ、滝谷城の東方を流れる島木川を挟さんで対岸の位置に所在する標高477mの山に築かれた城砦である。
【写真左】しらげか城遠望
 西側(滝谷城側)から見たもので、説明板にもあるように遺構としては、めぼしいものはないようだ。



【写真左】しらげか城略図
 主郭とみられる段と、北側に延びた段の2個所が郭のようだが、ほとんど自然地形のもので、当城は臨時的な役割を持った城砦だったと考えられる。








説明板より

“しらげか城 彩りの山里の城跡 

 この城は敵の大軍に攻められたが、1年にわたって籠城を続けた。
 既に糧食も底を突き落城寸前に追い込まれた。このとき城主宇治左衛門尉は、敵の兵糧攻めに対する苦肉の策として、残っている食糧庫の米を全部出させ半分を谷川に流し、残る半分を握り飯にして城壁の上で城兵一同に食べさせた。

 これを見た寄せ手は兵糧攻めをあきらめ、囲みを解いて兵を引き上げた。それよりこの城を「しらげか城」と呼ぶようになったという伝説がある。つまり「しらげ」を精白した米という意味でこう名付けたのであろう。 
【写真左】説明板と後方のしらげか城








 築城年代は不詳で、籠城主の宇治左衛門尉についても異説があるが、宇治町赤木家文書によると、頼宣と名乗り、室は滝谷城主赤木忠国の娘とある。

 この忠国が活躍したのは、天文9年頃からで、当時山陰の戦国大名尼子経久は、出雲の月山富田城を本拠とし、山陰のほぼ全域を手中に治め、更に美作から備中に進攻し、松山城主庄為資、矢掛猿掛城主穂井田元祐らもその勢力下にあった。 
【写真左】しらげか城遠望
 南方の宇治町穴田付近からみたもの。
中央の建物は高梁市立宇治高校の校舎





 永正9年(1512)、これまで経久についていた毛利元就は、尼子氏を離れて大内義隆についた。これを怒った経久は、子の晴久を総帥として毛利氏の本拠安芸吉田郡山城を攻めた。このとき大内義隆の呼びかけで備中南部の豪族の石川・清水・上田・秋葉らの将兵が猿掛城を包囲し、中北部の三村家親・野山宮内少輔・赤木忠国らの軍は、元就救援のために備後と出雲境まで進撃し、尼子氏の糧道を断ってその撤退を余儀なくさせた。

 この戦いを口火にして尼子と毛利の死闘は25年間続き、永禄9年(1566)籠城1年半の末に月山富田城が落城し、尼子方の決定的な敗北に終わった。この間宇治地方も尼子氏につくか、毛利氏につくかで紛争が絶えることなく、隣接の吹屋村小金山城主吉田六郎兼久は、尼子方で勇気絶倫の勇将であった。


 一方忠国は毛利方であったから、この籠城話の内容はさておき、籠城があったのは事実であろうし、時代をこの頃と考えておかしくない。しかも城跡は標高差約120m、宇治盆地の北東寄りで、ほぼ円形の独立した形の険しい山上にあって、山麓を島木川が湾曲して流れ、対岸の滝谷城とともに、吹屋往来ののど首を押さえている絶好の位置にある。山上はそれほど広くなく、人工を加えたらしい跡も見当たらないが、臨時の籠城には地の利を得ているから、大兵を動かさない局地的な戦いには十分これで足りたのであろう。

・宇治地域まちづくり推進委員会”



広兼邸

 ところで、上述したように滝谷城から西へ2キロ余り向かったところに、吹屋ふるさと村保存建造物の一つである広兼邸(ひろかねてい)がある。建築されたのは江戸後期の文化10年(1813)で、小泉銅山とベンガラの原料となるローハを製造し、そこから生まれた莫大な富をもって城郭のような建物を残した。
【写真左】広兼邸遠望・その1
 住所:岡山県高梁市成羽町中野2710
 探訪日 2016年3月12日







 この建物を建てたのは大野呂の庄屋であった2代目広兼元治だが、広兼家の先祖も以前取り上げた備中・坂本城(岡山県高梁市成羽町坂本 西江邸)の西江家と同じく、地元の地侍であったかもしれない。

 昭和52年と、平成8年の二度にわたって、映画「八つ墓村」のロケでこの豪邸が使用された。
【写真左】桜門
 入口となる門だが、まるで城門のようだ。
【写真左】石垣
 石垣だけ見ると、近世城郭となんら遜色ない豪壮な姿を見せている。

2016年3月27日日曜日

笹尾城(岡山県高梁市宇治町宇治)

笹尾城(ささおじょう)

●所在地 岡山県高梁市宇治町宇治
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 近藤掃部介
●高さ 382m(比高15m)
●遺構 郭
●備考 五輪塔群
●登城日 2016年3月19日

◆解説
 前稿の黄金山城(岡山県高梁市成羽町吹屋下谷)から県道85号線を南に下っていくと、開けた谷間が見えてくる。高梁市宇治町という地区である。笹尾城はその宇治町の北方の入口にあたる箇所に築かれている。
【写真左】笹尾城遠望・その1
 南側から見たもので、矢印で示した箇所が主郭に当たる。








現地の説明板

“笹尾城 彩りの山里の城跡

 近藤掃部介の居城で、備中兵乱のとき三村方であったため、滝谷城主赤木忠直に攻められ、松山城に撤退したと「川上郡誌」にあるだけである。 

【写真左】笹尾城の説明板
 西側を走る県道85号線の脇に設置されている。









 居城といっても当時は、その屋敷が戦いになれば、若干の防備をして城と呼ばれていたから笹尾城もその跡から見れば、そんなに大きくもないから、平素の居館であったと思って間違いないだろう。なお、一遇に鎌倉中期から室町頃と思われる五輪塔や、宝篋印塔が20基ばかりあり、中には高さ1.5mくらいの比較的大きく美しいものもある。

宇治地域まちづくり推進委員会”

【写真左】笹尾城遠望・その2
 西側から見たもので、北側から伸びた低丘陵の先端部に設置されている。

 説明板にもあるように、居館(屋敷跡)であった可能性が高い。



近藤氏と赤木氏

 笹尾城の城主とされる近藤掃部介については資料がないため、その出自等は分からない。説明板に書かれているように備中兵乱の際、三村方についていたといわれる。

 備中兵乱についてはすでに、鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原)の稿で紹介しているので、そちらをご覧いただきたいが、笹尾城の麓を流れる支流は、島木川となって南下し、成羽川に合流した位置に鶴首城があったことから、同兵乱が笹尾城を含めたこの宇治地区でもかなり激しく、また複雑な状況を呈していたものと思われる。


【写真左】笹尾城と周辺の城配置図
 現地にある地図を元に、笹尾城の他、赤木氏の滝谷城・しらげか城などを図示したもの。
 北方の吹屋には前稿で紹介した黄金山城が所在する。

 このほか、この地図の枠外となる南方には丸山城も配置されている。


 特に、笹尾城の近藤氏を攻めたとされる滝谷城主赤木氏については、次稿で紹介する予定だが、赤木氏が領有した地区は、この笹尾地区の南隣の本郷地区周辺部に当たり、その支配規模は、笹尾氏のそれにくらべてかなり大きなものであったこと、また後段でも紹介するように、滝谷城と笹尾城の距離がわずか800m足らずであったことなどから、同兵乱前まで近藤氏は赤木氏の被官であったのではないかとも考えられる。
【写真左】笹尾橋
 説明板のある個所に駐車スペースがあり、そこに車を置いて、一旦北側に進むと、吹屋側から流れてきた川の橋がある。

 これが笹尾橋で、橋を渡り、写真に見える右側の農道を進むと笹尾城にたどり着く。
【写真左】登城口
 笹尾城の西麓から南側まで回り込んで行くと、2,3軒の民家があるが、その家と家の間に、笹尾城方面に向かう小道がある。

 写真の左角に小さな標識があり、そこに「吹屋往来」という案内板が建っている。往時はこの道が街道だったようだ。
【写真左】笹尾城方面と「吹屋往来」の分岐点
 左の道が旧道「吹屋往来」で、ここから右に分岐したのが笹尾城ルート。といってもすぐ目の前に既に笹尾城が見える。

【写真左】要図
 南北長径37m×東西幅22mの規模で、堀切などはないが、西側の川と、東側にも小川が流れているので、これらが濠の役目をしていたものと思われる。
【写真左】主郭へ向かう。
 周辺部は笹などが繁茂しているが、このルートだけは刈り取られている。

 なお、要図にもあるように周囲はなだらかな斜面で、南側の段は畑になっている。
【写真左】主郭の小堂
 主郭にたどり着くと、ご覧の小堂が建てられている。

 以前はもう少し北側にあったようだが、現在は南側に建てられている。
 棚には地蔵が祀られている。
【写真左】「城主 近藤掃部頭」と書かれた標柱
 小堂の中にはご覧のようなものが残っている。おそらく以前は郭段の一画に立ててあったものだろう。
【写真左】主郭の北側
 長軸37mの規模で、全体に平滑に仕上がった郭である。
【写真左】瓦片
 北側には瓦片が残る。周りをよく見ると石積段の痕跡があるので、最初に祀られていた小堂跡だろう。
【写真左】五輪塔群・その1
 南東隅に残るもので、20基余りの数に及ぶ。
【写真左】五輪塔群・その2
 殆ど五輪塔形式のものが多いが、一部宝篋印塔のものもある。
【写真左】笹尾城主・近藤氏を攻めた赤木氏の居城・滝谷城方面を見る。
 この写真のほぼ中央部に見える山の後に所在している。

 笹尾城から滝谷城までの距離は直線距離でわずか780mほどで、指呼の間である。


 なお、赤木氏については次稿で取り上げたい。

2016年3月25日金曜日

吉田兼久の墓(岡山県高梁市吹屋町)

吉田六郎兼久の墓
              (よしだろくろうかねひさのはか)

●所在地 岡山県高梁市吹屋町
●参拝日 2016年3月29日

◆解説
 本稿では、前稿黄金山城(岡山県高梁市成羽町吹屋下谷)の城主・吉田六郎兼久の墓を紹介したい。

 黄金山城を探訪した3月15日の当日も件の墓を訪ねようとしたが、この時は手がかりになる史料がなく、分からないまま帰宅した。その後、調べていくうちに、どうやら吹屋の街並みの一つ「中町」に在りそうだということが分かったので、この日(3月29日)地元の観光案内所に向かい、教えていただいた。

 場所は、北側にある「べんがら屋」の脇にある路地を入って少しのぼった墓地の一角にある。
この高くなったところ(尾根)を越え、降っていくと吹屋小学校跡側に出てくる。
【写真左】吉田兼久の墓・その1
【写真左】吉田兼久の墓位置図
 この地図は、明治28年8月ごろ、街並み復元図として作成されたもので、おそらく江戸時代にすでにこのような街並みが出来ていたものと思われる。

 吉田兼久の墓は、ご覧のように街の通りから外れたところにある(下段写真参照)。
 なお、この図は小さい文字で分かりづらいが、兼久の請負人となった大塚家が右下に記されている。


【写真左】吹屋の街並み
 通りの左右にはベンガラ色に染まった建物が往時を偲ばせてくれる。
【写真左】墓地に向かう。
 吹屋の街並み通りの北側に、現在「べんがら屋」という店があり、そこの隣に小さな脇道がある。

 これをまっすぐに進んで行くと、次第に登り坂となり、左側には杉林が続く。

【写真左】中嶋家の墓地
 しばらく行くと、右手にまとまった墓地が点在してくるが、その中に「中嶋家」の墓地がある。
 この中に、吉田兼久の墓が祀られている。

【写真左】吉田兼久の墓・その2
 墓石は3対の体をなしているが、分散したものを後に付き合わせたものだろう。中央が兼久で、残りは正室のもの、及び兼久の子のものもあったかもしれない。

 隣に石碑があるが、裏を見ると、「昭和55年 中嶋秋雄建立」とあるので、この墓地の所有者中嶋家の方が建立されたものだろう。

碑文は判読不明な箇所もあるが、次のように記されている。

《正面》
 “清源寺院殿壽澗兼久大居士  永禄六癸亥十一月二十九日
  黄金山城主吉田六郎権頭兼久
     室蓮華院殿◇室◇◇大姉

《側面》
祖近江源氏
 近江国神埼郡佐々木氏ノ分レ近江国愛智郡吉田郷拝領主ト為リ地名ニ因ミ吉田氏ヲ名乗ル出雲ノ太守尼子義久氏傘下ノ武将守護職トシテ毛利氏ト戦イ討死セリ 嗚呼”


兼久討死の時期
 
 前稿では兼久が戦死した時期がはっきりしなかったが、上記碑文を読むと、永禄6年11月としている。すなわち、1563年のことで、このころ、出雲においては毛利元就が、荒隅城(島根県松江市国屋町南平)を本陣として築き、尼子氏の重要な支城であった白鹿城(島根県松江市法吉町)を攻め、同年10月29日に、当城を攻略している。
 そして、その3年後の永禄9年(1566)11月21日、尼子氏の居城であった月山富田城が落城、義久・秀久・倫久3兄弟が降伏することになる。

 このことから、兼久の居城・黄金山城を攻めた毛利軍とは、おそらく備後東部や備中における国人領主らで、毛利氏に帰順した者たちによるものだろう。

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