2014年10月21日火曜日

佐和山城(滋賀県彦根市佐和山町)

佐和山城(さわやまじょう)

●所在地 滋賀県彦根市佐和山町・古沢町
●築城期 建久年間(鎌倉時代:城館)
●築城者 佐々木時綱
●城主 佐保氏、磯野氏、堀秀政、堀尾吉晴、丹羽氏、石田三成、井伊氏など
●高さ 233m
●遺構 郭・土塁・石垣・堀切・竪堀・堀等
●指定 なし
●登城日 2014年9月10日

◆解説(参考文献「近江城郭探訪」滋賀県教育委員会編、「近江の山城ベスト50を歩く」中井均編等)
 彦根市といえば、彦根城が有名だが、その築城者であった井伊直政・直継父子が当城に移る前に居城としていたのが、JR東海道本線をはさんで東方に聳える佐和山に築かれた佐和山城である。
【写真左】佐和山城遠望
 この日泊まった南側にあるホテルの部屋から撮ったもの。








現地の説明板・その1

“佐和山城跡
 佐和山のある湖東地方は、東山道・北国街道そして琵琶湖をひかえた交通の要衝であり、戦略上の拠点として、古来から幾度となく戦乱の舞台となりました。

 中世に入り、近江を治めた佐々木氏が、近江南部の六角氏と近江北部の京極氏に分かれると、両雄の勢力の境に佐和山にも要害の地として城が築かれ、武士化した在地の小領主を巻き込んだ攻防戦が繰り返されました。
【写真左】東麓から見上げたもの
 この日の登城口は、東麓の龍澤寺と清涼寺の間を通るハイキングコース入口からで、午後4時前ということで急ぎ足で向かった。


 そして戦国時代、京極氏の被官から勢力を伸ばした浅井氏と、尾張から天下をめざした織田信長との間で、佐和山城争奪戦が展開されます。その後、信長と豊臣秀吉の下でしばしの小康状態を迎え、石田三成が城主(1595~1600)となって城の規模も拡大されますが、関ヶ原の戦い後に落城し、やがて廃城と化しました。”
【写真左】西側からの登山ルート
 西側の東海道本線側からのルートを示したもので、現在地という箇所には広い駐車場やトイレなどが完備されていて、多くの人がハイキングコースとして楽しんでいるようだ。

  
現地の説明板・その2

“『佐和山城から彦根城へ』
  • 鎌倉時代初期 佐々木定綱の六男時綱、佐保と号し、佐和山付近に館を設ける。
  • 天文10年(1541) 京極高広、執権浅井氏の専横を怒り、これを除こうとする。浅井久政、六角定頼に援助を求める。定頼、家臣の進藤貞晴を佐和山に遣わし久政と互いに謀って、人質をとる。この時、坂田・犬上両郡の人質は佐和山に収容された。その後、高広と久政は和睦する。
  • 天文21年(1552) 京極高広、佐和山城を攻撃、六角義賢、荒神山に本陣を置いて高広軍に対峙するが敗れ、高広方は佐和山城を占領する。
  • 永禄2年(1559) 浅井長政、家臣百々(どど)内蔵介に佐和山城の城代を命じる。
  • 永禄4年(1561) 六角義賢、佐和山城を攻める。百々内蔵介戦死。浅井長政、佐和山城を奪い返し、磯野員昌を城代とする。
  • 元亀元年(1570) 浅井長政、同盟関係を破る。姉川の合戦。磯野員昌、佐和山城に籠城。
  • 元亀2年(1571) 磯野員昌ら籠城衆、信長に降伏して佐和山城を開城する。丹羽長秀、佐和山城に入る。
  • 天正10年(1582) 清洲会議により、秀吉の将堀秀政、佐和山城主となる。
  • 天正13年(1585) 堀尾吉晴、佐和山城主となる。
【写真左】石田三成像
 ハイキングコースに入ると、すぐに左手に石田三成の銅像が見える。

  • 天正19年(1591) 4月、石田三成、代官として佐和山城に入る。
  • 文禄4年(1595) 8月、石田三成、湖北四郡19万4000石を治める佐和山城主となる。
  • 慶長4年(1599) 石田三成、佐和山に引退。
  • 慶長5年(1600) 関ヶ原の合戦
  • 慶長5年(1600) 佐和山城落城。三成の父正継・兄正澄ら自刃して果てる。
  • 慶長6年(1601) 井伊直政、佐和山城主となる。
  • 慶長7年(1602) 井伊直政、関ヶ原合戦で受けた鉄砲疵が再発して佐和山城内で死去。
  • 慶長12年(1607) この頃、彦根城天守が完成し、直政の子直継、彦根城へ移る。佐和山城廃城となる。

【写真左】西ノ丸要図
【写真左】本丸要図

【写真左】大洞弁財天と西の丸・本丸方面の分岐点
 暫く進むと最初のピーク尾根にたどり着くが、鳥居側から龍潭寺に向かう旧道の「龍潭寺越え」といわれる堀切である。


築城期

 上掲の説明板・その2にもあるように、佐和山城が築かれたのは、佐々木定綱の子時綱(佐保)が当城の麓に館を築いたのに始まるとしている。

 定綱については、これまで直近では米原市にある清瀧寺徳源院・柏原城でも紹介しているが、定綱の子には後に六角・京極氏などを輩出した信綱がいる。従って、佐和山城(館)を築いた時綱は信綱・広綱などと兄弟に当たる。
【写真左】塩硝櫓跡の発掘調査
 龍潭寺越えを過ぎると、すぐに西の丸のエリアに入るが、その先端部には塩硝(煙硝)櫓跡がある。

 丁度この箇所の発掘調査が行われていて、トレンチなどが露出していた。当城の発掘調査の進捗状況はよく分からないが、どうやら未調査箇所が相当あるようだ。今後の発掘調査が期待できそうである。
【写真左】土塁
 同じく煙硝櫓の場所で、通路は土塁の上を歩くようになっている。
なお、この箇所(西の丸)には西側斜面に中小の竪堀が三条認められる。


 承久の乱において、兄・広綱は後鳥羽上皇側に、弟・信綱は武家方に与し、広綱は敗れ、この結果近江守護職であった広綱は殺害され、弟・信綱が佐々木氏の家督を受け継ぐことになった。

 六男・時綱がこの乱の際、どちらに与していたか分からないが、こののち、信綱の子の代になって、泰綱が六角氏を、氏信が京極氏をそれぞれ興し、愛知川をはさんで対立していくことなる。
【写真左】北西にのびる郭方面
 同じく西の丸の一角だが、3条の竪堀のうち、南端部の箇所から降りていくと、約30mほどの長さを持つ郭がある。残念ながら日没が近づいてきていたため、この箇所には向かっていない。



境目の城

 以前紹介した彦根市の北隣米原市にある太尾山城でも述べているように、北近江は東隣に美濃国があり、中山道や北国街道が交差し、陸の交通の要衝であった。
 さらに佐和山城の西麓と現在の彦根城北方とに挟まれた松原町は、中世には松原内湖と呼ばれる潟があり、当時は長浜・米原と並んで彦根三湊の一つといわれた松原湊があった。つまり、水運交通の要衝でもあった。
【写真左】佐和山城概要図
 ※左方向が北を示す。
 現地に設置された絵図で、色が大分薄くなっていたものを参考に、管理人によって追加作成したもの。
 
 戦国期の状況としては、西側(同図上段)を大手として、外堀が描かれているが、現在の小野川(本流・矢倉川)を通じて琵琶湖まで船で出入りしていた可能性が高い。


 このため、戦国期までは佐和山城の形態は山城を構成しつつ、水城(みずじろ)の機能も持ち合わせていた可能性が高い。
 そして、佐和山城の東麓、すなわち現在の鳥居本町側を大手として、三の丸と太鼓丸に囲まれた谷間に屋敷跡を構えていたのは、西麓である琵琶湖岸側から直接攻撃されるのを回避するためではなかったかと考えられる。
【写真左】堀切
 西の丸と本丸の間にあるもので、この先を降りて東の尾根伝いを進むと二の丸が配されている。
 ただ、現状は余り整備されていないため、その先には行かず、このまま本丸を目指す。


浅井長政と石田三成

 当地には佐和山城に関わった武将として、浅井長政と石田三成について次のように記された説明板がある。

現地の説明板・その3

“~佐和山城ゆかりの戦国武将~
■浅井長政(1545~73)
…戦国時代になり、京極氏に代わり近江北部の戦国大名として台頭した浅井氏は、近江南部の六角氏と勢力を争い、佐和山城は両勢力の境目の城として争奪戦が繰り広げられました。
 佐和山城を奪い返した長政は、織田信長からの同盟の提案を受け入れ、信長の上洛を援護することにより、六角氏を退けることに成功しました。
【写真左】本丸・その1
 長径約50m×短径25m前後の規模で、東西に長く楕円の形をなしている。






 同盟を機に、長政は信長の妹である市を妻として迎え、茶々、初、江の三姉妹をはじめ、子宝にも恵まれましたが、元亀元年(1570)、信長が浅井氏の盟友である朝倉氏を攻めたことをきっかけに、長政は同盟を破棄。朝倉軍とともに姉川の戦いで織田徳川連合軍と戦いました。

 佐和山に配された磯野員昌らは善戦しますが、戦いに敗れ、翌年には信長に佐和山城を開城しました。天正元年(1573)、本拠の小谷城を織田軍に囲まれた長政は自害し、29歳の生涯に幕を閉じました。残された市と三姉妹は信長の元に置かれ、その後の豊臣や徳川の時代まで波乱に満ちた運命を辿っています。”
【写真左】本丸・その2
 北側の一角には「佐和山城址」と刻まれた石碑が建つ。








■石田三成(1560~1600)
 …近江国坂田郡石田村(現在の長浜市)で生まれた三成は、羽柴秀吉が信長に仕えて長浜城主となった頃から、秀吉の側近として仕え、次第に能吏としての手腕を発揮しました。
 秀吉の天下となってからも、検地などで大きな役割を果たし、五奉行筆頭に数えられた三成は、佐和山城主に封ぜられました。
【写真左】本丸から西方に彦根城を俯瞰する。
 夕方だったため余り視界は良くなかったが、彦根城の天守が確認できた。
【写真左】本丸南端部から彦根市街地を俯瞰する。
 中世・戦国期のころはおそらくこの辺りは湖面もしくは深江の景色だったのだろう。




 三成の時代に、佐和山城は、城下とともに整備され、一説には、五層の天守を備え、松原内湖には松原まで百間橋を渡すなど、「三成に過ぎたるもの」とまで言われた城であったと伝わります。

 秀吉亡き後、三成は、天下を狙う徳川家康との対立を深め、上杉景勝・直江兼続らと密かに挙兵の計画を立てます。家康が諸大名を従えて上杉家に征伐に赴いたのを機に、三成は挙兵を決意し、慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原で家康ら東軍との戦いが始まりました。
【写真左】千貫井戸
 石田三成時代の井戸とされているもので、本丸から南に下がった2,3段の郭があるが、その西側にある。





 戦いは、東軍の勝利に終わり、佐和山城も東軍の攻撃を受けて落城し、三成の父・正継を始めとする石田一族の多くが討死しました。

 三成は湖北に逃れますが、ほどなく捕縛され、斬首されました。三成の死後も、佐和山の領民はその遺徳を偲んで地蔵などを築いてその霊を慰めたといいます。”
【写真左】隅石垣
 本丸の南端部斜面に残るもので、このラインは本丸外周部の石垣基底部とされ、この他7か所でも確認されているという。

2014年10月16日木曜日

賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦)

賤ヶ岳城(しずがたけじょう)

●所在地 滋賀県長浜市木本町大音・飯浦
●高さ 421,13m
●築城期 天正元年(1573)以前、又は天正11年(1583)
●築城者 浅井・朝倉氏
●城主 浅井・朝倉氏、羽柴秀吉
●遺構 南郭・主郭・横矢枡形・北郭・堀切・土塁等
●登城日 2014年9月9日

◆解説(参考文献「近江城郭探訪」滋賀県教育委員会編、「近江の山城ベスト50を歩く」中井均編等)

 いわずもがな秀吉と柴田勝家が信長亡き後争った合戦場・賤ヶ岳である。
 実は賤ヶ岳を探訪したのはこれが2回目である。前回は2005年の7月だったと記憶している。もっともこのときは帰途中に立ち寄った関係で、時間もあまりなく、リフトの麓を散策した程度だった。
【写真左】賤ヶ岳遠望
 南麓から見たもの。
賤ヶ岳は北麓に浮かぶ余呉湖を取り巻くようなU字形の丘陵地のピークの一つで、この写真の裏側にその余呉湖が控えている。
 また、写真の田園地帯左側(西)には琵琶湖が配置している。



 現地の説明板・その1

“賤ヶ岳砦
 『信長公記』によると、賤ヶ岳合戦以前の天正元年8月に、浅井朝倉方の賤ヶ岳布陣の記録が見える。また『領家文書』には、天正元年9月に「しつかたけの城」とあり、賤ヶ岳合戦以前の賤ヶ岳城が確認できる。
【写真左】登城口
 前回リフトに乗り損ねたので、今回はこれで向かうと計画していたが、何とリフト乗り場はこの日は「定休日」!
 山城登城する者は、そもそもリフトを当てにしてはいけないかもしれない。靴ひもを締めなおして徒歩で向かう。


 天正11年(1583)、羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を争った賤ヶ岳合戦を記した『余吾庄合戦覚書』によると、天正11年3月19日条には「賤ヶ嶽ノ城ハ、桑山修理亮、羽田長門守、浅野八兵衛三人ヲ籠メ置レ」とあり、標高421mに賤ヶ岳合戦の陣城として改築されたと推定される。

 戦前の兵員は2千と推定され、賤ヶ岳本戦で秀吉の指揮所となる。近年、中世城郭の特徴、切崖と多数の竪堀が、周囲に確認され、城域は、長辺約200m、短辺約50m、余呉湖方面に腰郭を設け、城の周囲を囲む、犬走りや、帯郭が取り巻いている。”
【写真左】主郭まで750mの地点
 全体に賤ヶ岳の南斜面は急傾斜となっているため、スパンの長い九十九折れの登城道となっている。
 定期的に植林された木などが伐採されている。


両軍の布陣態勢と戦いの概要

 絵図にも描かれているように、柴田勝家は北方から攻め、対する秀吉方は南から攻めている。現地にはこのときの主な動きについて次のように示されている。
【写真左】リフト到着地
 賤ヶ岳の最初のピークにたどり着く。登城してから30分足らずの時間がかかったが、リフトなら数分でたどりつく。

 この位置から尾根伝いに進むが、賤ヶ岳主郭までは300m余りの距離になる。


現地の説明板・その2

“賤ヶ岳合戦のあらまし
 春は来りぬ越路の雪も解初めたれば柴田勝家先ず佐久間盛政をして一萬5千の兵を率い近江の柳ケ瀬に討って出でしむ。(文部省尋常小学国語読本巻十一引用)
【写真左】琵琶湖を見る。
 同湖の北端部に当たり、最も水がきれいなところといわれている。
 右奥の山並みを超えると若狭国(福井県)に入る。


  1. 柴田勝家天正11年3月5日越前北ノ庄(福井)を発し、9日近江柳ケ瀬に着陣、直ちに江越の山々に布陣する。
  2. 佐久間盛政4月20日午前1時行市山を発して権現坂を経て、払暁大岩山中川清秀の砦を奇襲し中川清秀奮戦するが、あえなく戦死する。
  3. 同20日羽柴秀吉大垣にて大岩山の敗報を聞き、午後2時大垣を発ち夜半までに全軍木之本陣田神山に着陣する。
  4. 4月21日御前2時頃田神山を降り、黒田観音坂を経て払暁盛政軍に攻撃を開始する。秀吉自ら重臣たち(七本槍)を引き連れ、大音峠を経て賤ヶ岳馬場に来て退却する盛政軍を迎え撃つ盛政軍敗逃する。
  5. 世に言う「賤ヶ岳合戦」は、ここ賤ヶ岳頂上より北側の中腹及び湖畔において雄叫び…死闘、余呉の湖が真赤に染まったという。
  6. 秀義軍追撃を続け、狐塚にある柴田勝家軍に対戦。
  7. 勝家ひたすら奮戦、忠臣毛受庄助の身代わりの忠言に従い、一時北ノ庄へ落ちる。
  8. 忠臣毛受兄弟身代わり奮戦するが、林谷において戦死する。
  9. 羽柴秀吉、長躯して北ノ庄を攻め落とす。柴田勝家滅びる。時、天正11年4月23日(月日いずれも旧暦。合戦当時は全山ススキ・クマザサの山であったという。現在の樹木は明治以降のものである。)
【写真左】登り坂の尾根道
 冒頭の遠望写真でも分かるように、主郭までは登り勾配が続く。以外と息が切れる。

 右奥に見える祠は、合戦後の死者の霊を弔う石仏が附近に点在していたのを、昭和57年この景勝地にまとめて移転し供養したもの。地蔵仏や五輪塔の一部などが陳列されている。


■勝家辞世の句
  夏の夜の  夢路はかなき  あとの各を
           雲井にあげよ  山ほととぎす

■お市の方辞世の句
  さらぬだに  うちぬる程も  夏の夜の
            わかれを誘う  ほととぎすか

▲賤ヶ岳合戦 七本槍
   加藤清正  福島正則  片桐且元  脇坂安治
   加藤嘉明  平野長泰  糟屋武則”
【写真左】賤ヶ岳合戦絵図
 賤ヶ岳頂上に設置されているもので、この周囲に多くの城砦が残されている。


 
佐久間盛政と前田利家

 賤ヶ岳の戦いで勝家側が破れた敗因について、佐久間盛政と前田利家を取り上げた説明板がある。

現地の説明板・その3

“佐久間盛政
 天文23年(1554)尾張に生まれる。父は佐久間盛次、母は柴田勝家の姉(姉説と妹説あり)兄弟は弟に安政、柴田勝政、勝之、子に虎姫(中川秀成室)。

 永禄11年(1568)初陣以後、数々の戦いに参加し戦功を挙げる。天正3年(1575)叔父柴田勝家が越前一国を与えられた際、その麾下に配された。その後も北陸一向一揆戦などで際立った戦功を挙げ、織田信長から感状を賜り、この頃に勇猛さから「鬼玄蕃」という異名がつけられた。
【写真左】賤ヶ岳砦(城)縄張図
 右が北を示し、左が南になる。この日は左側から向かった。
 主だった遺構は冒頭で列記しているが、郭としては①南郭(左)、②主郭(中央)、④北郭の3か所が配されている。
 なお、北側尾根にある⑤の西堀切と土塁はこの日は見過ごしてしまった。


 天正8年(1580)加賀一向一揆の尾山御坊陥落により、加賀金沢城の初代城主となり、加賀一国を与えられた。
 天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いは、佐久間盛政の大岩山の奇襲作戦敢行により火蓋が切って落とされ、中川清秀を殲滅(せんめつ)させた。
【写真左】南郭付近
 現地図③の箇所で、展望台や店跡などが建っている。






 しかし、この戦法は敵陣深く攻め入る危険な戦いであり、柴田勝家は大岩山攻略後直ちに兵を退くよう命じた。けれど盛政は聞き入れなかった。
 山頂の賤ヶ岳戦跡碑文には、これが敗因で、さらに血気の小勇でちょっとした勝に狎(な)れ、大事を誤ったことかくの如く甚大である。闘いのかけひきにおいて、最も悪いことは、心驕り、慎みを忘れ警戒を怠ることである、と書かれている。
【写真左】南郭から南方に小谷城などを見る。
 この辺りがもっとも南方の視界がよく、以前紹介した浅井氏の小谷城や、信長が陣した虎御前山城などが見える。


 一方、歴史学者や歴史小説家の中で、その時の状況から盛政には、盛政の戦略構想があったであろう。戦場離脱した前田利家を、関ヶ原の戦いにおける小早川秀秋の裏切りよりも、利家の裏切りの方が大きい、つまり一戦を決定づけたと述べている。
【写真左】東に伸びる犬走り
 南郭下段から続くもので、主郭を通らずこのまま北郭に直接連絡されている。


 最初に盛政暴走説を書いたのは、小瀬甫庵で、「太閤記」の作者でもあり、後世の書物はこの説を踏襲している。甫庵は前田家の家臣で太閤記は前田家で完成された。したがって利家が裏切ったことが書けなかった。柴田勝家の敗因は盛政の強引な戦術にしてしまい史実を曲げている、との説がある。
    奥びわ湖観光協会”
【写真左】主郭・その1
 主郭は東側を最上段とし、西(余呉湖方面)に向かって約3段の構成となっている。
【写真左】主郭・その2
 西側最下段の箇所で、眼下には余呉湖が姿を見せている。








秀吉方防衛ライン

 余呉湖の北方に構えた秀吉方の第1次防衛ラインといわれた砦群で、下の写真の中では、西端を神明山砦とし、中央に堂本山砦、そして北国街道をはさんで、東の山側に東野山城を東端としたもの。

 なお、同ラインの前には当初さらに1キロ北進した天神山砦と茶臼山砦を布陣させていたが、この2砦を完全に視界におさめた別所山砦が勝家方によって築かれたため、防衛ラインを下げ、ここを第1次防衛ラインとした。

 そして第1次ラインを後方で支援すべく、写真右の岩崎山砦を北端とし、大岩山砦・賤ヶ岳の尾根筋と、北国街道をはさんで東方に田上山城が築かれ、これを第2次防衛ラインとした。

【写真左】秀吉方防衛ラインの主な砦
【写真左】主郭・その3
 再び主郭上段に上がり北郭方面に向かう。
【写真左】NHK大河ドラマ「お江」のとき設置されたもの。
 左から、お茶々、お江、お初ということらしい。
【写真左】「戦いのあと」と題された武将の銅像
 城跡の本丸跡などにはよく勝利者側大将などの銅像が建立されているが、この銅像は勝ち誇った武士の姿でなく、むしろ戦い疲れ果てた姿のものである。
 傍らには、書物を模したものがあり、文字が書かれているが、作者が誰なのかよく読み取れない。

 戦場で実際に最も多く戦ったのは名もなき足軽や雑兵である。戦さを終えた後、疲労と共に虚脱してしまった者も多くいたのだろう。
【写真左】北郭
 主郭北に続く郭で、なだらかに下がっていく。
この辺りには枡形虎口が残る。
 この先を更に尾根に沿って北に進むと、大岩山砦に繋がるが、今回の登城はここまでとした。




◎関連投稿
玄蕃尾城(福井県敦賀市刀根)

2014年10月14日火曜日

近江・横山城(滋賀県長浜市堀部町・石田町)

近江・横山城(おうみ・よこやまじょう)

●所在地 滋賀県長浜市堀部町・石田町
●築城期 室町期~永禄4年(1561)
●築城者 京極氏・浅井長政
●城主 京極氏・浅井井演
●高さ 312m(比高170m)
●遺構 郭・土塁・堀切・竪堀・井戸等
●備考 臥龍山
●登城日 2014年9月10日

◆解説(参考文献「近江城郭探訪」滋賀県教育委員会編、「近江の山城ベスト50を歩く」中井均編等)
 横山城は前稿までとりあげてきた近江・小谷城の城主・浅井亮政が永正14年(1517)、時の城主京極氏を当城に攻めたあと、三代目・長政が本格的に改修したといわれている山城である。
【写真左】横山城(臥竜山)遠望
 南東麓米原市の朝日地区から遠望したもので、この位置からは北城は見えないようだ。





 現地の説明板より

“横山城跡
 横山丘陵の最高峰(約312m)を中心とする頂部一帯に築かれたのが横山城です。当初、北近江の守護大名京極氏の支城として築かれたと考えられています。その後、浅井氏の南進拠点として、永禄4年(1561)、浅井長政によって本格的に改修されたようです。
【写真左】横山城縄張図
 この図でいえば、この日の登城口観音寺は、現在地(南城)と書かれた右側にあり、左側の北城から左方向の尾根伝いに進むと、臥龍山全体の城砦群が控える。





 元亀元年(1570)、姉川合戦で勝利した信長は、羽柴秀吉らを城番に入れ、小谷城が落城する天正元年(1573)まで、北近江の拠点としての役割を担います。

 城の遺構は、最高点を北城、そこから派生する南尾根上に南城が築かれた「別城一郭」の構造です。横山城からの眺望は素晴らしく、東は伊吹山や北国脇往還、西は長浜平野、北は小谷城を一望でき、北近江の押さえとしては絶好の位置にあります。
   米原市教育委員会
             平成23年度埋蔵文化財活用事業”
【写真左】観音寺に向かう。
 手前に観音寺専用の駐車場があり、そこから真っ直ぐな参道が観音寺まで繋がっている。

 横山城の案内標識として目立つものはないが、丁度この近くで畑仕事しておられたお婆さんがおられたので、尋ねたところ、つい最近鐘楼を新しくしたところなので、是非お参り下さい、とお勧め頂いた。


臥竜山周辺

 横山城は、前稿の近江・小谷城から麓の国道365号線を約11キロ余り南に下った位置にある。当城を含むこの丘陵地は南北に約2キロ余り伸び、別名臥竜山(がりゅうさん)と呼ばれている。

 尾根筋はほどんど長浜市と米原市との境界になっており、本稿では所在地を長浜市としているが、実際は両市を跨ぐ位置になる。そして、同山には横山城をはじめ、戦国期に築城された他の城砦も記録されている。南側から北に向かって、順に列記すると次のようになる。
  1. 横山城・南城(H:300m)
  2. 横山城・北城(H:312m)
  3. 梶原砦
  4. 北平砦
  5. 坂南砦
  6. 総山砦(H:234m)
  7. 龍ヶ鼻砦(H:180m)(信長軍の最前線基地:長浜市)
 いずれも長い尾根上のピークに築城されたもので、この日の登城もできればすべて縦走したいところだったが、時間的に余裕がなく、結局横山城の南城のみとなった。
 説明板にもあるように、当城は「別城一郭」構造である。北城が単調な構造であるのに対し、南城には多くの遺構がのこることから、それぞれの築城時期にずれがあったとされている。

 特に、信長亡き後の賤ヶ岳合戦の天正11年(1583)12月、秀吉が宇喜多秀家に宛てた書状の中に、「江州北郡表人数打出、(略)横山城を相拵、人数丈夫に入置候、(云々)」とあり、このとき大幅な改修がなされたとされている。
【写真左】観音寺本堂
 登城口の脇に古刹・観音寺が建立されている。

 本山にたどり着く前、参道の脇には本坊等の建物もあったので、鎌倉・南北朝期はかなりの規模のものだったと思われる。


 “重要文化財
 観音寺本堂
    所在地 坂田郡山東町朝日
    平成5年4月20日指定

 桁行5間、一重、入母屋造、向拝1間、背面張出附属、桟瓦葺  江戸時代

 観音寺は、弥高・大平・長尾の三ヶ寺とともに伊吹山四ヶ寺の一つであったが、正元年間(1259~60)現在地に移ったという。伊富貴山観音護国寺といい、千手観音を本尊とする天台宗の寺院である。
【写真左】四ツ目結の台
 本堂前の左右には、四ツ目結の家紋が記された台がある。寺院なのでこの台の上には灯篭があったと思われるが、神社の雰囲気も感じられるので、ひょっとして狛犬があった可能性もある。

 この家紋からも当院が当時北近江を支配していた京極氏との関係がうかがえる。


 本堂の再建は再興記録に詳しく、正徳5年(1715)上棟、地元の大工棟梁宮部太兵衛、京都の彫刻師が造営に携わったことなどが知られる。
 入母屋造の屋根は、当初葭葺(よしぶき)であったが、明治元年(1868)に桟瓦葺に改められている。
 内陣の雲龍彫刻など細部意匠に優れ、彫刻の豪華さは県下の近世社寺建築を代表する遺構である。
  平成8年3月 滋賀県教育委員会”


石田三成出生地

 ところで、横山城の南西麓にある石田町は、石田三成の出生地といわれている。登山口の一つが石田日吉神社のある石田町だが、この日は下調べも十分でなく、南東側にあたる米原市側の大原観音寺から登ったため、当地を訪れていない。

 上掲した観音寺は、当時寺の小僧であった石田三成が、鷹狩で立ち寄った豊臣秀吉に茶を献じ、その縁で三成が秀吉に仕えていったといわれている。
【写真左】登城口
 当院の右側に「至 横山城跡⇒ ハイキングコース 観音寺山を愛する会」とかかれた標識があり、この階段から登っていく。
【写真左】登城道
 前半はややきつい坂道があるものの、最初の尾根にたどり着くと大分緩やかになる。道中要所に西国三十三番観音巡拝とされた地蔵が建つ。
【写真左】南城・主郭の下
 南東部から回り込んできた尾根にたどり着くと、右手に主郭が見えてくる。
【写真左】南城・主郭
 主郭は長径15m×短径10m程度の小規模なものだが、新しい鐘楼が建っている。
【写真左】鐘楼
 「奉上棟 平成26年9月吉日…」と書かれているので、管理人が登城する数日前に上棟されたようだ。
【写真左】土塁
 主郭の南北側には高さはあまりないものの、土塁が残る。
【写真左】井戸跡
 主郭から北側に進むと、北城方面に繋がるが、主郭北の少し下がった段には井戸が残る。
 穴の大きさはあまりないようだが、深いとみえて柵が施してある。

 このあと北の尾根を進む。
【写真左】虎口
 主郭北端部に設置されているもので、少し南に向きを変えている。
【写真左】長い郭群
 虎口を降りると、尾根沿いに4,5段の郭群が続く。
 ここから北城の手前まではおよそ150m余ある。
【写真左】竪堀
 南城の中では最大のもので、北側に設けられている。
【写真左】郭段
 尾根沿いに伸びているもので、次第に下がっていく。
 幅は最大で20m前後か。このまま先を進む。
【写真左】鉄塔
 ここにきて途端に明るくなるのだが、ご覧の藪と雑草の繁茂。この日は結構湿度が高く、相当藪蚊に噛まれていた。この先を行けば北城に行けるのだが、連合いの拒否に従い、Uターンする。後で知ったのだが、北城の主郭は整備が整い、眺望がすこぶる良いようだ。
【写真左】堀切
 再び南城にもどり、今度は登城してきた尾根とは別の南方向に伸びる尾根を進む。
 主郭の真下には堀切が残る。
【写真左】展望所
 南城主郭から南西方向に伸びる尾根を進むと、途端に解放された眺望のよい場所があらわれた。
 ここも「横山ピクニック道」の一つとされている。
【写真左】展望所から北城方面を見る
 写真右側のピーク辺りが北城のピークと思われる。そのまま左に続く尾根伝いに長い郭や、二重堀切があるという。

 冒頭で紹介した信長軍の最前線基地:龍ヶ鼻砦(H:180m)は、この写真でいえばこの正面奥に連なる尾根を進むことになる。
【写真左】西方に長浜の田園地帯を俯瞰する。
 この日は大分靄がかかっていて明瞭でないが、視界がいいときは琵琶湖などが見える。
【写真左】観音寺下山道
 還りはこの南西尾根の途中から下山できる最短距離のコースがある。
 ただ、傾斜がきつく道が崩れていたりしていたため、かなり足元には注意が必要だ。