2011年9月7日水曜日

面山城(広島県安芸高田市高宮町佐々部字志部府)

面山城(めんざんじょう)

●所在地 広島県安芸高田市高宮町佐々部字志部府
●別名 免山城
●築城期 鎌倉期もしくは南北朝期
●築城者 佐々部氏
●高さ 標高428m(比高130m)
●遺構 郭・土塁・堀切等
●指定 市指定史跡
●登城日 2010年5月14日及び2011年2月25日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻等』)
 このところ備後国の山城が続いたので、今稿は安芸国の山城・面山城を取り上げたい。
【写真左】面山城遠望
 この写真は2010年5月に探訪した時のもので、東麓からみたもの。本丸は左側にあるが、登城コースは右側の山から向かう。



 所在地は現在の安芸高田市高宮町にあって、江の川の支流生田川北麓にそびえる標高428mの山に築かれている。なお、当城と同名の山である「面山(標高486m)」が、2キロ北方に聳えて紛らわしが、この山は面山城ではない。

現地の説明板より

“高宮町史跡
 面山城跡

 佐々部氏は、はじめ高階姓を名乗っていたが、ここ佐々部村志部府面山(免山とも)に城を築き、佐々部と称した。

 初代若狭守承世(つぐよ)(?~1527)が、佐々部村50貫分の牛首城に移るまでの在城期間は不明であるが、当時志部府は交通の要所で、その後も佐々部の中心地として栄えた。天正19年(1591)の『八箇国御時代分限帳』によると、佐々部市の名が見え、郡内最高額の目代給があげられている。
 「蛇多き故に牛首城に移る」と旧記い見えるが、もとより真偽のほどは不明である。

 佐々部氏は、近郷の諸豪族、阿須那の高橋氏、甲立の宍戸氏などと姻戚関係を結び、地位の保全を図った。毛利氏台頭後は、その麾下に入り、宍戸氏の配下にあって重んじられた。

 城跡は、南に低い丘陵を見下ろす標高428mの山頂にある。遺構は、7つの郭と3条の堀切と1条の竪堀からなる。
 西から東に向かってほぼ一張りに張り出した山頂をうまく利用して、3つの郭を設けている。主郭は、東と西に空堀を堀り、一段高い位置にある。

 本丸と呼ばれる山頂の郭に立つと、南東に伸びる尾根筋2キロの先端に牛首城を望むことができる。
 平成14年3月25日
   高宮町教育委員会
   高宮町文化財保護審議会”
【写真左】麓に設置してある「面山森林公園」の案内図
 この辺り一帯は現在公園としているようだが、麓の施設以外は朽ち果てているような状況だ。
 登城コースはこの図でいえば、廃寺となっている荘立寺の脇を通って、まっすぐ登り、鳥居のある右のコースから尾根伝いにまわると面山城に辿り着く。

佐々部氏

 佐々部氏については、上掲した説明板や、備前・茶臼山城(岡山県赤磐市周匝)の際に、城主笹部(佐々部)氏をとりあげているが、改めて同氏の出自について概説しておきたい。

 当地安芸国は鎌倉期以前、すなわち平安末期まで平家と深い関係を持っていた。このため源氏が平氏を滅ぼし、鎌倉幕府を開くと、それまで平氏方であった安芸国の豪族・社寺などは、土地を没収され、諸族は滅亡していった。

 特に厳島神社主職の交替はもっとも衝撃的な処置で、源氏方が安芸国には極めて強勢的な戦後処理を行ったといえる。
【写真左】北側先端部の社
 登城口から谷間を登り、北の方へ上って行くと、ピークに差し掛かり、御覧の社が建っている。
 ここから尾根伝いに南へ湾曲したコースを進む。


 そして、没収された安芸国の領地には関東・畿内から多くの源氏方武士が入国してくる。近在では、以前にも紹介したように、建久3年(1192)に三次市には三吉氏が近江国から、和智氏が双三郡和田村へ地頭として入国してくる。

 このほか旧高田郡としては、長田村に内藤氏、三田郷には三田氏、そして以前にも紹介した壬生城(広島県北広島町壬生)の山県(やまがた)氏などがいる。

 なお、戦国期中国の覇者となる毛利氏は、これより遅れること50年後の宝治元年(1247)、武蔵国多加谷から吉田荘へ入る。

 佐々部氏が当地・高宮に入国した具体的な時期は明らかにされていないが、一般的には同氏が源氏を祖としていることから、恐らく関東あたりから、上掲のごとく建久3年もしくは、承久の乱後ごろ入国したものといわれている。


高階氏

 ただ、説明板にもあるように、同氏が高階姓を名乗っていたとすると、上述したような一般的な地頭職による入部とは違うことも考えられる。というのも、鎌倉開幕期の高階といえば、どうしても高階泰経を思い起こすからである。

 高階泰経は、後白河法皇の院近臣として、常に源氏方武家との交渉役を担い、公家方の既得権を主張する余り解任され、さらに復帰した後は、源義経や行家との共同謀議の嫌疑をかけられ、伊豆に流罪。その後鎌倉幕府発足前年に赦免によって復帰し、建久8年(1197)に出家している。

 もし、佐々部氏の祖がこの高階泰経の系譜とすれば、東国から入国してきたいわゆる論功行賞による一族とはまったく経緯が違うことになり、おそらく高宮に最初に入ったころは、恩賞なき一開拓入植者のような状況だったかもしれない。
【写真左】「面山城」と書かれた標識
 北端部の郭に設置されたもので、瞬間この場所が本丸かと勘違いしてしまった。
 おそらく北側から登った場合の最初の遺構として、この場所に設置されたものだろう。
 この場所から再び南の尾根伝いに向かって進む。


 さて、佐々部氏は入国したのち、安芸国北部から石見国にかけて扶植していた高橋氏に仕えていくが、高橋氏に仕えた経緯は今のところ不明である。

 高橋氏については、これまで生田・高橋城(広島県安芸高田市美土里町生田)・琵琶甲城(びわこうじょう)・口羽氏 その1(島根県邑南町下口羽)・本城常光(ほんじょうつねみつ)のことでも述べたように、南北朝期に高師泰・師直に仕えていた高橋光国を祖とし、庶流の一人高橋師光が正平6年(1351)、備中松山城から石見に入国したのが始まりとされる。

 従って、先に入国した佐々部氏が、あとから入国(南北朝期)した高橋氏に仕えたいきさつを考えると、佐々部氏の初期は限定的な所領の支配しかできないまま、北方を支配下とした高橋氏の勢威に対抗するすべもなく、服属していったと考えられる。
【写真左】整備された尾根道
 幅1m弱の尾根道で、両端部は切崖となっている。土橋として加工されたものだろうか。
 





戦国期佐々部氏の系譜

 同氏の初期のものから始まる系譜は残念ながら残っていないが、戦国期に残された一部のものがあるので下段に示す。
  1. 承世(つぐよ)  播磨守・若狭守
  2. 通祐  兵部少輔美作守 (妻:宍戸元家女) 後に自害
 通祐の子(下段)
  1. 光祐  千代丸⇒元祐・就祐 美作守・若狭入道・又右衛門
  2. 祐賢  家祐 美作守 (妻:深瀬隆兼女)

 光祐の子(下段)
  祐賢(上記の祐賢とは別人)  宮千代丸・兵部少輔・式部少輔


 祐賢(家祐)の子(下段)
  家茂
  女子
  元宗  千法師八郎・五郎右衛門尉・実山内元通嫡


 元宗の子(下段)
  通久  実児玉・八郎左衛門男
【写真左】土塁
 さきほどの尾根道の延長上にあって、本丸が近くなった場所であるが、左側(東側)に土塁遺構が残る。





 上掲した承世の妻は、高橋大九郎興光の女である。そして嫡子通祐の妻は、宍戸悪四郎元家の女で、このころは北方の高橋氏と東方の宍戸氏との姻戚関係を通じて、佐々部氏の安泰を図っている。

 また、さらには隣国備後の山内氏との縁組を行っていることから、同氏ができるだけ武力を避け、和議によって一族の存続と勢力拡大を狙っていた節がうかがえる。

 しかし、こうした一見全方位外交的手法は時として、根底から基盤を揺るがす事態を起こすことがある。佐々部氏が縁組していた高橋氏と宍戸氏は、大永年中(1521~27)からしばしば戦闘を交え始めた。

 元々佐々部氏は承世の妻が高橋氏から嫁いでいることから、高橋氏に仕えていたが、主君である大九郎統種の悪政に佐々部氏は哀想がつき、次第に嫡男通祐の妻の実家・宍戸氏に接近し始めた。
【写真左】馬場及び二の丸・三の丸入口付近
 本丸まで120m手前の付近で、階段を上がると面山城側へ、左に向かうと「もみじの森」というところへ向かうように示してあるが、もみじの森の方向は近年管理されていないようだ。



 大永5年(1525)、宍戸元源は叔父三田玄蕃充元忠を大将に、高橋氏の拠る原田猪掛城(高宮町原田字宍戸城)を攻め立てた。
この戦いで原田猪掛城は落城したが、その最大の理由が、当城で高橋氏に与していた佐々部氏が、途中から宍戸氏に寝返ったからだといわれている。

 この落城後、佐々部氏は宍戸氏に属していき、最後は毛利氏に仕えて行くことになるが、途中で本拠城を面山城から、南東2キロ下ったところに丘城型式の牛首城(広島県安芸高田市高宮町佐々部五十貫部)へ移ることなる。
「牛首城」については次稿で紹介したい。
【写真左】馬場跡
 左側平坦部が馬場跡で、右の高い位置に二の丸や三の丸が控える。

 馬場跡の長さは、二の丸と三の丸を合わせた長さとほぼ同じで、約50mほどか。幅は5.6m程度のため、馬場としては規模が小さい。
【写真左】二の丸
 馬場跡から5m前後の高さにあって、長径20m余り、短径7.8m程度の削平地となっている。
【写真左】三の丸
 記録上は二の丸と三の丸が区分されているが、現地では既にその区分けされていたとおもわれる空堀が埋まり、二つの郭は一体のものとなっている。


 なお、明治30年代の調査によれば、三の丸の上壇に井戸が設けられていたというが、現地にはそれらしきものが見当たらなかった。
 規模は二の丸とほぼ同規模の大きさ。
【写真左】二の丸から本丸を見る
 二の丸と本丸の間には空堀があったというが、完全に埋まっている。

 現在ではそのため、二の丸から本丸までの高さは5mもないだろう。
【写真左】本丸
 本丸の幅は二の丸や三の丸に比べて少し長く10m前後あり、長さは15m程度か。
【写真左】本丸から南西部に続く郭から、本丸切崖を見る。
 二の丸側と反対の方向には、10m近い高低差をもたせた切崖が控え、その後3,4段の郭群が連続している。


 この写真は本丸から最初に下りた位置からみたもので、以前には規模の大きな堀切があったという。そのため今でもなかなか見ごたえのある切崖である。
【写真左】南西部に伸びる郭群
 上掲した郭群の一部だが、下るにつれて次第に幅が狭くなっていく。

 現状では、段差が大分緩和されているが、当時は明確な高低差を持たせ、堀切等もあったかもしれない。


 なお、この郭群の先端部まで踏査したが、総延長は恐らく100m以上はあったと思われる。
【写真左】おまけ
 本丸で「お宝発見?」









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備前・茶臼山城(岡山県赤磐市周匝)

2011年9月5日月曜日

八尾城(広島県神石高原町福永)

八尾城(やおじょう)

●所在地 広島県神石高原町福永●築城期 室町期
●築城者 新市宮氏
●高さ 510m
●遺構 郭・堀切・土塁等
●備考 神石小学校
●登城日 2008年5月28日

◆解説(参考文献「サイト『広島県のお城』」等)
 八尾城は神石高原町の北部、旧神石町にあった山城である。
【写真左】八尾城近影
 写真手前の運動場は、北側にある神石小学校の校庭。
 おそらく、当時はこの小学校全体も八尾城域となっていたと思われる。



現地の説明板より

“八尾城跡公園案内図

 この山城は約600年前(室町時代)備後最大の豪族、芦品郡新市町の宮氏によりつくられたもので、一山をすべて城郭としており、中世における典型的山城としての型がよく保存されている。


 天文21年(1552)及び翌年と、出雲尼子氏の攻撃を受けるも、毛利氏の応援により撃退している。その後、毛利氏に属し廃城となり今日に至った。


 周囲の眺望もよく城跡公園として整備し町民の憩いの場とした。この地に立ち幾星霜に亘る長き歴史と生活の変遷を思い起こしたい。


昭和60年4月
 神石町”
【写真左】八尾城要図
 上方が北を示す。
 中央上部に本丸を置き、東に2・3郭とし、北東部に堀切を隔て11郭及び12郭が続く。
 本丸の北側から西側にかけて帯郭の4郭が巻き込み、南端部には広い5郭が配されている。


 そこから切崖状の高低差をもたせ西に6郭が南北に延び、堀切を介して南側に長い13郭が控えている。
 小規模ながらバランスの取れた縄張構成となっている。


新市宮氏

築城者とされる新市宮氏については、これまで福山市熊野町の一乗山城、や同市新市町の相方城などで少し紹介しているが、同氏が最初に拠った居城は、芦品郡新市町の亀寿山城(広島県福山市新市町大字新市)である。

 築城年代は鎌倉期とされ、備後一宮吉備津神社と深いかかわりを持ち、その後、小奴可宮氏(「亀山城」)や久代宮氏(「大富山城」「五品嶽城」など)など分流を輩出していった。
【写真左】八尾城跡公園入口
 登城したこの日はあいにくの雨で、写真も全体にピンボケ気味になってしまった。
 入口は西側の斜面から向かうようになっているが、この場所を発見するまで結構時間がかかった。



 さて、今稿の八尾城については、築城者が件の新市宮氏であることは明らかにされているが、その後戦国期に至るまでの記録がはっきりしない。ただ、八尾城が所在する神石町福永は、北方の五品嶽城(東城町)や、大富山城(西城町)とさほど離れていないため、久代宮氏との接点も相当あったと考えられる。

ところで、説明板にある「天文21年、及び翌年の尼子氏の攻撃…」とあるのは、先月の「黒岩城」の稿でも紹介した「和泉合戦」の時期と思われる。
【写真左】北側から見たもの
 下の施設は小学校のプール。
 プールの上から城域となっており、木立があるため見えないが、このエリアは上掲した「13郭」や、11・12郭がある付近になる。
【写真左】登城道
 現在は公園化されているため、こうした階段が設置されている。

【写真左】郭
 記憶がはっきりしないが、恐らく4郭から5郭にかけての位置だったと思われる。
【写真左】本丸
 記憶に間違いがなければ、この写真が本丸と思われる。


【写真左】6郭付近か
 右側が堀切となっていると思われるので、恐らく6郭付近と思われる。
【写真左】切崖
 同じく6郭付近と思われるが、なかなか見ごたえのある切崖である。
【写真左】堀切
 現地には遺構名を表示したものが少ないが、この箇所だけは「堀切」という標識が立っていた。
 この場所もおそらく6郭付近と思われる。
【写真左】本丸方面を見上げる
 この辺りの切崖も見ごたえがある。
【写真左】城域北端部・その1
 結局踏査コースとしては、反時計回りとなり、最終的に北側の小学校を見下ろす位置に出た。


 前段でも記したように、11・12・13郭からさらに北に延びたこの辺りにも、城砦遺構が恐らくあったものと思われる。
 場合によっては屋敷跡などがあったかもしれない。
【写真左】城域北端部・その2
 北麓にある神石小学校のグランドと校舎。
 この写真に見える校舎に向かう坂道は、かなりの急坂となっている。このため、八尾城の東側は当初から険峻な切崖を利用したものだったのだろう。

2011年9月4日日曜日

古屋城(広島県神石高原町小畠)

古屋城(こやじょう)

●所在地 広島県神石高原町小畠
●別名 固屋城
●築城期 南北朝期
●築城者 馬屋原光忠
●遺構 郭・空堀・礎石
●高さ 標高640m(比高130m)
●登城日 2010年11月23日

◆解説(参考文献『日本城郭大系第13巻』等)
 源平合戦後、論功行賞として東国から備後国にやってきた一族の一人である上総国(現千葉県)の馬屋原氏が、地頭職を得て当地(旧三和町)に入り、その後南北朝期に分家筋にあたる秀忠が当城の基礎を造ったといわれている。
【写真左】現地南麓に設置された説明板
神石高原町役場の東側に駐車場があり、その地に設置されている。この場所に車を停め徒歩で向かう。


 現地には巨大な説明板が設置されている。下段にその内容を転載しておく。

“古屋城跡由来


 海抜643mの峻嶮な雄姿を誇る古屋城跡は、中世の典型的な山城跡の風格を備えている。本丸・二ノ丸・三ノ丸に出丸・烽台が削平された頂上に築かれ、本丸から志麻里ノ庄(小畠・上・光信・光末・常光・亀石)を一望に収めることができる。


 宮谷川の渓流は自然の濠として活され、北西面は断崖絶壁、東北面は尾根伝いに退くに容易である。東と南面は谷をなし、空濠りの役目をなしている。
 南麓の平地(中学校々庭付近)は、下屋敷や兵糧兵馬の集合集積地などに使われたと考えられ、現在のつづじが丘公園の台地は、最初の固屋跡で、古屋城が築かれたのちは出城として使われたものと思える。
【写真左】古屋城遠望
 南西麓側からみたもので、右側が出城(屋敷跡)、左側が本丸になる。
 なお、写真右下の広場が中学校の校庭で、当時、下屋敷、兵糧兵馬の集合集積地だったところに当たる。


【写真上】古屋城(出城)遠望
 南側から見たもので、この写真にみえる小丘は館跡(のちに出城)といわれる。


 城主馬屋原左衛門太夫光忠は、清和天皇(858~75)の後胤(源氏)八幡太郎義家の弟義綱より17世にあたる。
 もと上総の国(千葉県)馬屋原ノ庄にあったが、故あって備後の国に流され同姓の上村有井城主馬屋原氏に預けられ、その庇護のもとに志麻里ノ庄の小畠に固屋をつくり住んだのが始まりといわれる。


 元亨3年(1323)、後醍醐天皇は鎌倉(北条氏)幕府討伐のため、日野俊基を密かに西国に行脚させた頃より、豪族は戦乱の兆しを感じ山城の造築にかかった固屋の光忠の嫡子秀広も、正中年間(1324)有井城主の許を受けて、古屋城を築いた。


 元弘元年(1332)、河内ノ国楠木正成などに呼応して、北条討伐に旗揚げした備後ノ国宮内櫻山茲俊は、北条の配下を討つため、嫡子平太郎盛重を総大将として、御殿山城主椙原(杉原)高平等総勢5千騎をもって、神石郡第一の豪勇神石郡執行職(志麻里ノ庄地頭職)亀石城主岡田孫八郎員盛を攻め破り、その勢いで古屋城・有井城を攻めた。
【写真左】古屋城館跡
 現在「古屋城跡自然公園」という名称の施設となっている。この館跡(出城)付近は大分改変されているようだが、南北に3段の郭を構成している。


 なお、この場所には作家井伏鱒二の「黒い雨」となった主人公の舞台でもあり、「文学碑」が建立されている。
刻文は次の通り。

“文学碑

    戦争はいやだ
      勝敗はどちらでもいい 早く済みさえすればいい
いわゆる正義の戦争よりも 不正義の平和がいい”


 日本の中世・武者の時代に、こうした価値観をもっていた武将が多くいたなら、あるいは歴史は随分と変わったものになったかもしれない。
【写真左】五輪塔
 館跡地にひっそりとたたずんだ小規模な五輪塔


 当時、古屋城主成宗(秀広の子)は、有井城主とともに京都の六波羅に招かれており、急を聞いて直ちに帰城したが、北条氏にそむいて朝臣櫻山盛重の配下となり、忠勤に励んだといわれる。


 この元弘の乱より170~180年間戦国時代は続き、永正6年(1507)馬屋原但馬守正国が、九鬼城を築くまで古屋城は続いたと思われる。”
【写真左】堀切跡
 南方の館跡(出城)から北の本丸に向かう途中にあるもので、現在その箇所を東西に道路が走る。
 なおこの堀切には写真に見えるように、橋がかけられ、直接本丸へ向かうことができるようになっている。
 写真右側が出城、左側が本丸方向。


馬屋原氏

 説明板にもあるように、馬屋原(うまやはら)氏の出自は、上総国(千葉県)の馬屋原の荘で、源平合戦の功により、鎌倉初期に備後国の志麻里荘(神石高原町三和)に地頭職として入部している。

 この志麻里荘に入った馬屋原氏が最初に築いたのが、古屋城のある小畠より南西3キロほど向かった上村字城江にある有井城(未登城)である。初代馬屋原備前守貞宗から始まり、2代重宗・3代宗清・4代成宗と続いた。この一族を志麻里(利)馬屋原氏と呼ぶ。

 今稿の古屋城は、志麻里馬屋原氏が入部してから大分経った南北朝期に、同族の馬屋原光忠が上総国から志麻里馬屋原氏を頼って当地に入部し築城したとされている。

 築城期が正中年間(1324~25)ということを考えると、上総国にあった馬屋原氏は、恐らく元鎌倉御家人であったものの、北条執権体制になってから次第に距離を置かれ、已む無く全国に四散していった諸族の一人と思われる(戸田備中守森正(「鎌倉山城」2010年4月14日投稿参照)など)。
【写真左】登城途中の岩
 堀切を過ぎてからが当城の本格的な登城道となるが、ここからは急坂が多いためつづら折りとなる。
 途中でこうした岩肌が見えたりするが、道そのものは管理が行き届いていて歩きやすい方だ。



 このため、説明板にもあるように、途中から北条氏に背いて討幕方に属したのだろう。
このとき、本家筋である志麻里馬屋原氏(有井城主)と同一行動をとったことが、当地三和を戦国期に至るまで同氏が扶植した最大の理由かもしれない。
【写真左】南の郭段から本丸を見る
 古屋城の頂部は、中央に本丸を置き、南に写真にみえる郭(二ノ丸か)があり、西に3,4段の郭群を伸ばしている。
 また、北面にも広い郭を持っている。


 この写真にある小屋は休憩小屋のような建物で、この位置からは南麓に三和の街並みを俯瞰できる(下の写真参照)。
【写真左】南麓に三和の街並み
 三和小学校や神石高原町役場などの建物が見える。
 手前の小丘が先程のぼって来た城館跡(出丸)。


 なお、写真の奥・南方は府中市・福山市方面の山並。
【写真左】本丸・その1
 本丸付近には写真にみえるように石垣が残る。
【写真左】本丸・その2
 長さ30m、幅20m程度の大きさで、この写真の右にも1m程度の段差で帯郭状のものが控えている。
【写真左】本丸から西にのびる郭
 細長い馬蹄形のもので、長径30m程度か。この下にも小規模な腰郭がある。

2011年8月30日火曜日

三子山城・その2

三子山城・その2

●所在地 広島県庄原市比和町三河内

◆解説
 今稿では三子山城主であった三河内氏の菩提寺といわれている慶雲寺、および麓にみえた城砦遺構などについて紹介したい。

慶雲寺

三子山城本丸から南西麓をみた写真を前稿でも紹介したが、その地域に建立されている。
【写真左】祥光山・慶雲寺
 当院は南側に広がる三河内の田園地帯を眺めるように建っている。


 現地には縁起・由緒等記したものはないが、創建は三河内氏の菩提寺であることを考えると、恐らく戦国期だろう。
【写真左】境内から南東方向に三子山城を遠望する。
 訪れたのが、2010年12月10日であるが、御覧の通りの積雪で、如何にも備北の山間部という印象を持った。
【写真左】墓石群
 当院に三河内氏の墓所があるということだったが、同氏の墓はこの写真にある五輪塔ではなく、別のものらしい。


 自然石で造られた墓石ということだが、標識らしくものがなく確認できなかった。
【写真左】栂家累代之塔
 境内には三河内氏とは別に、この塔が建立されている。


 栂(とが)家累代、とあるので三河内氏の家臣あたりだろうか。



栂(とが)氏

 ところで、「栂」という珍しい名字を持つ一族は、実は管理人の同級生でも一人いたが、同氏の祖がこの地であったのではないかと最近考えるようになった。
 さらに全く確証はないが、この栂氏は元は京都栂尾の出身ではないかとも考えている。

 元亨3年(1323)すなわち鎌倉末期、この地の南方河北村に記録された「備後国恵蘇郡河北村替銭宿記文并」等の史料によれば、当時この地方では多くの鉄が産出され、それを領家であった京都栂尾高山寺などへ年貢として、現物ではなく、「為替」による送金が行われていた。

 おそらく、このときこの為替(替銭)を、河北村(地毘荘)から京都へと往来する役目を担った取次人が京都栂尾の出身で、その後地頭の進出によって消滅し、そのまま河北村へ永住し、出身地の栂尾から一字をとり、栂氏を名乗り、戦国期に至り北隣りの三河内に進出していった、と推測されるのだが、どうだろう。
【写真左】慶雲寺シラカシ林
 境内奥にあるもので、庄原市天然記念物(1990年指定)となっている。
 現地の説明板より


“シラカシ林は、モミ-シキミ群集においてモミやツガと混生し、標高400m以下の温暖帯域ではモミを伴わないシラカシの純林が見られるようであるが、慶雲寺の場合、標高580mの高所にあってシラカシの純林が形成されているという点で植生的に珍しい例であり、県北地の北限である。”

【写真左】境内に設置された「新比和音頭」の歌碑
 恐らく地元の方が作詞作曲されたものと思われるが、「尼子」のことも綴られている。
歌詞の内容


“新比和音頭


 平成13年 詩・曲 新田得三郎


 月の尼子を迎えて破る
  武士は大膳三つ河内
 茂るシラカシ葉越しの雨が
  泣いて降るよな 慶雲寺
    ヤートコセーで 手をたたき
    ヨーイヤナーで 比和音頭”


三子山城北麓の遺構

 ところで、西側の三河内から当城へ向かう道、すなわち西城比和線という大変に狭い古道を登っていくと、途中でつづら折りの箇所がある。

 最初の頃はあまり気にも留めていなかったが、2度目に通ったとき、その箇所だけが異質な景観になっており、車を停めて(といっても対向車が来た段階ですぐに移動しなければならないが)撮った写真が下掲のものである。
【写真左】道路北側にみえた高まり
 三子山北麓部の傾斜面にこうした人工的に造成されたものがある。
【写真左】道路付近
 道路が横断しているため、分かりづらいが、左側は土塁のような形状を残し、その奥は全体に切崖状が多い。
 【写真左】道路南側のくぼ地と後背の高まり
 写真手前が平坦地で、その奥は山の斜面を利用した壁状の囲繞遺構
【写真左】竪堀か
 規模は大きくはないものの、南側斜面には竪堀状のものが見える。









考察


 現地は曲がりくねった細い道の位置であることや、杉林で全体に暗く、明瞭な確認はしていないが、結論からいって「城館跡」の遺構に近似している。

 三子山城の大手は西側となっているので、この北麓に城館を設置していることは整合性がないが、これだけ人工的な造成遺構があることを考えると、三河内氏のもう一つの屋敷跡地ということも考えられる。
あるいは、現在と同じく当時の西城方面に抜ける場所であったから、「陣所」的施設であったかもしれない。

 なお、前稿で紹介した同氏の初期の居城「二本松城」は、小丘に築城されたとあるので、この場所ではないだろう。