2018年5月2日水曜日

安芸・松尾城(広島県安芸高田市美土里町横田)

安芸・松尾城(あき・まつおじょう)

●所在地 広島県安芸高田市美土里町横田
●別名 高橋城・松尾山城・土居城・土肥城
●高さ 457m(比高150m)
●指定 広島県指定史跡
●築城期 南北朝期か
●築城者 高橋氏
●城主 高橋氏
●遺構 郭・空堀・土塁
●登城日 2015年12月5日

◆解説(参考文献『安芸高田お城拝見 山城60ベストガイド 安芸高田市歴史民俗博物館編』等)
 安芸・松尾城(以下「松尾城」とする。)は別名高橋城とも呼ばれ、城主は石見の藤掛城・その1(島根県邑智郡邑南町木須田)でも紹介した高橋氏である。
【写真左】松尾城遠望
 南麓部から見たもので、主郭付近のみ少し高くなっている。

 中国自動車道を走っていると、いつもこの特徴ある山容が目に入っていたので、いつかは登城したいと思っていた。


現地説明板

“広島県史跡
   松尾城跡
    所在地 安芸高田市美土里町横田
    指定年月日 平成19年4月19日

 この松尾城は、南北朝時代から戦国時代にかけて、安芸・石見の両国にまたがって広大な領域を支配した国人領主、高橋氏の安芸国側の居城として構築した本格的な山城である。

 南北朝時代末期から室町時代初期に築城されたと推定され、享禄2年(1529)大内氏や、毛利氏の連合軍によって落城した。
【写真左】説明板
 県道6号線(吉田邑南線)の脇に、「松尾城入口」と記したバス停があり、そこから北に進むと、途中で右手にこの説明板が設置されている。



 城跡は、横田盆地北側にそびえる大狩山から南へ伸びた尾根上にある。比高約150mの最高所から東の尾根筋に郭を並べ、東・北・南の尾根続きに堀切、南北両側斜面に竪堀を配置し、高い切崖、明瞭な通路を有する加工度の極めて高いものである。

 広島県地域の中世政治史を語る上で、欠かせない城跡で、全国的に見ても現地に残る遺構の年代が判明する貴重な事例である。
   平成19年4月19日
      安芸高田市教育委員会”
【写真左】登城開始
 車である程度上に進むと、林道の入口に向かうが、その手前の適当な空き地に車を停める。
 そのあと、猪除けの柵を開けて進むと、ご覧の様な林道がある。
 この地点から右に曲がって進む。


築城期

 説明板にもあるように、当城の築城期ははっきりしないものの、南北朝後期から室町時代初期とされている。藤掛城・その1(島根県邑智郡邑南町木須田)でも述べたように、高橋氏が石見国に入って藤掛城を築いたのが、文和4・正平10年(1355)とされているので、松尾城はそれ以降となる。

 当稿の説明板にもあるように、文明8年(1476)の毛利命千代を護る重臣16人の契状に、高橋氏はこのころ、安芸国においては、「東は三次市作木町森山の岡、西は北広島町の壬生、南は安芸高田市美土里町の横田…」とあり、すでにこの松尾城が築かれていたことが分かる。
【写真左】登城道
 しばらく道形(みちなり)を進めば、安心と思ったが、途中で道が途切れてしまう。

 残念ながら道標らしきものは一切なく、ここから勘を頼りに向かうことにした。


 因みに、美土里町周辺においてこのほか高橋氏の城跡としては、毛利元就の兄・興元の正室の実家である生田・高橋城(広島県安芸高田市美土里町生田)があり、高宮町原田には猪掛城(別名:高橋城・黒掛城)が、また近接して猪掛城の支城といわれる高橋城もある。
 また、確定していないものの、高橋氏の支配下であったとされる城跡としては、同じく美土里町横田に篝ヶ城(かがりがじょう)、及び同町本郷には高城などが推定されている。
【写真左】直登
 初っ端から迷走したが、無作為に上を目指していたら、ご覧のような整備された道を発見。

 ただ、直登でかなり傾斜がある。ここを登っていく。しかし、整備されていた区間はほんのわずか。







高橋大九郎久光

 永正年間(1504~21)頃、当城には高橋大九郎久光が城主として記録されている。久光は大永3年(1523)、三吉氏の属城であった加井妻城(広島県三次市粟屋町上村)を攻撃していたとき、油断から陣中で戦死したとされる。

 この加井妻城は、三次市粟屋町にあった城砦で、松尾城から東へおよそ15キロほど向かった上村川が可愛川(江の川)と合流する地点に築かれていた。

 久光が亡くなったあと、紆余曲折しているようだが、最終的に跡を継いだのは嫡男・弘厚といわれている。
【写真左】尾根ピークにたどり着く。
 結局、道らしきコースを発見できず、ひたすら尾根に向かって登り、この位置まで着く。

 すると、左側の木にに劣化したテープのようなものが付いている。
 磁石と地図を片手に、本丸を目指す。




松尾城落城

 前述したように、毛利興元の妻が松尾城から北へおよそ10キロほど向かった生田・高橋城から嫁いでいたが、途中から高橋氏は尼子方に転じるようになる。

 このころの高橋氏惣領が弘厚と思われるが、「新裁軍記」によれば、享禄2年(1529)5月2日、大内方・毛利元就は弘厚の居城・松尾城を攻略、さらにその子・興光の居城・藤掛城、阿須那城(鷲影城か:管理人)を占領、興光は自害する、と記されている。
【写真左】堀切
 尾根伝いに進んで行くと、次第に小規模な郭段が確認できる。

 尾根筋は次第に傾斜がつき、きつくなったところで、この堀切が現れる。
【写真左】本丸に向かって急斜面をよじ登る。
 堀切を過ぎると、さらに険しい斜面が控えている。殆ど道らしきものがなく、足元は枯葉が堆積しているため、高度を上げた途端にズルッと下がってしまう。

 このため、切崖としての防御効果は十分あるだろう。
 この傾斜面が冒頭の遠望写真で見えたコブのようなところになる。
【写真左】本丸(主郭)にとりつく。
 喘ぎながらやっと本丸にたどり着いた。

 本丸付近は、北西から東方向に軸をとった尾根に築かれ、北西側に主郭1を置き、東に少し下がって東西に伸びる郭2を配置している。
 写真は主郭1の南側。
【写真左】主郭1の奥へ向かう。
 主郭1は幅20m×奥行30mを持ち、北西端部には土塁が構築されている。

 また南東側の半分は2,3m程下がった段が付随している。
【写真左】北西端の土塁
 高さは50cm前後と高くないが、主郭1の北西から東にかけて回り込むように築かれ、幅は最大で5m前後もある。
【写真左】土塁下の尾根に堀切
 先ほどの土塁から北の尾根に降りると、堀切がある。
 先ず、降りてみる。
【写真左】大堀切・その1
 当城最大の規模を持つもので、右側が主郭の斜面になる。
【写真左】もう一つの堀切
 大堀切の北側にはさらに小さな堀切が控えている。ただ、こちらは下段の竪堀群と接近しているので、竪堀の一つと思われる。
【写真左】二条の堀切
 主郭の北側にはこのように大堀切をはじめとし、連続堀切や竪堀群が密集している。


 


 
【写真左】井戸跡か
 主郭の南西隅に大きな窪みがある。井戸跡かもしくは狼煙台の跡かもしれない。
【写真左】主郭から南・東方向へ降りていく。
 前述したように、主郭の南東部分に郭がある。

 南側に伸びる犬走りのような道を降りて向かう。
【写真左】主郭1の下の郭
 東に向かって次第に細くなっているが、長径15m前後のもの。
【写真左】主郭1と2の中間地点
 上記郭から下を見たもので、このあたりから尾根は東に軸をとり、郭2に向かう。
【写真左】郭2との分岐点
 上記郭が左側に当たり、右側との境に溝のようなものが確認できる。

 溝の右側には小規模な土塁があり、郭2の北側には細長く土塁が東西に約40m程構築されている。
【写真左】郭2の段
 便宜上主郭1と2に区分しているが、郭2は別の呼称としては二の丸と定義できそうな郭群で構成されている。
この写真はそのうち、約半分を占める北東部分の箇所で、溝のような箇所が確認できる。
【写真左】郭2の最下段
 当城の最東端部に残る郭で、上の郭をL字で囲むように構成されている。
【写真左】大手口か
 下山コースは堀切・竪堀群のある尾根伝いを西に進んだ。

 途中で人工的に加工されたような巨石が不自然に散在していた。
 石の片面が平滑に仕上げられていたので、番所のような場所だったのかもしれない。
【写真左】土橋
 登ってきた道より大分歩きやすい状況だったので、このコースが本来の登城道だったのだろう。

 途中で土橋が出てきた。なお、この先から左に曲がり、谷伝いに降り、途中で登城途中の道と合流した。
【写真左】駐車の位置に戻る。
 麓は現在民家などが建っているが、機能性を考えるとこの付近が屋敷跡だったと思わせるものがある。

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