2015年7月19日日曜日

源頼政の墓・宇治平等院(京都府宇治市宇治蓮華116)

源頼政の墓・宇治平等院
              (みなもとのよりまさのはか・うじびょうどういん)

●所在地 京都府宇治市宇治蓮華116
●平等院創建 永承7年(1052)
●創建者 藤原頼道(関白)
●参拝 2015年7月12日

◆解説(参考文献「平等院パンフ」など)
 源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)ですでに紹介したように、頼政自身が討死したとされれる宇治平等院を先般探訪したので、紹介しておきたい。
【写真左】宇治平等院・鳳凰堂・その1
 参拝したこの日(7月12日)は日曜日で、観光客が多いことは予想していたが、それをはるかに上回る人出だった。

 しかも最も気温の上がった昼ごろだったため、当院内の観光客もいささかバテ気味の表情。

 因みに、観光客の半分以上は中国人ではないかと思うほど中国語が飛び交っていた。


現地の説明板より

源三位頼政公の墓 宝篋印塔

 源頼政は保元・平治の乱で武勲を挙げ、平清盛の奏請により、源氏として初めて従三位に叙せされました。歌人としても名高く、勅撰集に優れた和歌を多く残しています。
【写真左】源頼政の墓
 頼政の墓は鳳凰堂の裏にある不動堂の境内隅に祀られている。





 治承4年(1180)5月26日、平家追討の兵を挙げた頼政は、宇治川で平知盛軍の追撃を受け、平等院境内にて自刃しました(齢76歳)。

辞世
   埋もれ木の 花さくこともなかりしに
         身のなる果てぞ 悲しかりける”
【写真左】初代 太敬庵通圓の墓
 宇治橋の東岸に「通圓(つうえん)茶屋」という大変に古いお茶の店がある。
 この元祖は頼政の家臣であった古川右内という武士といわれている。

 頼政から「政」の字を賜り、太敬庵通園政久と名乗り、平治の乱直後、宇治橋の東詰に庵を結んだ。

 その後、通圓政久の末裔は、通圓(円)の姓を名乗り、宇治橋の橋守を仰せつかり、道行く人々に茶を差し上げてきたとされる。

 現在の通円祐介氏は、24代目となる。


宇治平等院

 永承7年(1052)3月28日、関白藤原頼道は父道長の別荘を寺院に改め、平等院と号した。この前年陸奥(東北)では、俘囚安倍頼時が反乱を起こし、朝廷から源頼義を陸奥守に任じて頼時反乱の追討を命じた。いわゆる「前9年の役」の始まりである(八木・土城(兵庫県養父市八鹿町下八木)参照)。
【写真左】宇治平等院・鳳凰堂・その2
 北側から見たもの










 そして、その翌年(天喜元年)3月4日、阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂が建立され、「鳳凰堂」と呼ばれるようになった。今では平等院といえば、この「鳳凰堂」がその代名詞ともされている。
【写真左】宇治平等院・鳳凰堂・その3
 東側から見る。










以仁王 ・頼政の戦い

 さて、宇治平等院が建立されてから約120年後の平安末期となる治承年間、源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)でも紹介したように、平氏と源氏の戦いが始まることになる。

 説明板にもあるように、宇治川の戦では平知盛軍の勝利に終わるが、戦いのあとの8月17日、源頼朝が伊豆で、9月7日には信濃で源義仲が、その3日後には、甲斐の武田信義など源氏方の相次ぐ挙兵へと繋がっていくことになる。

 ところで、この戦いでもっとも有名なのが平家物語にも書かれているように、別名「橋合戦」といわれるものである。
 これは、宇治川を挟んで平氏方(平重衡・惟盛)と、源氏(以仁王 ・源頼政)が対峙し、守勢に回った頼政側は宇治橋を壊したため、のちに「橋合戦」と呼ばれた。

 探訪したこの日は蒸し暑く、宇治川の水量は予想以上の量で、宇治の街並散策の途中、中洲に足を運び、つかの間の清涼を味わったが、余りの人出に宇治橋の方には向かわなかった。
【写真左】宇治川・その1
 上流部を見る。











巨椋池(おぐらいけ)

 さて、宇治川の源流は御存じのように、琵琶湖である。平安時代この付近の地勢を見てみると、現在の宇治橋を境にその下流部には巨椋池という巨大な湖があった。そして、平等院が建立される時期とほぼ同じころにかけて、今の宇治地区に碁盤目状の街が形成され、京の都を模したような景観が形づくられたという。
【写真左】宇治川・その2
 中洲に渡り、対岸の宇治上神社方面を見る。









 巨椋池には宇治川、木津川及び桂川も注いでいたため、それまで数えきれないほどの洪水があったという。
 このため戦国時代に豊臣秀吉が三本の川のうち、宇治川を築堤工事によって切り離した(「太閤築堤」)が、被害はさらにひどくなり、結局明治時代になって淀川水系全体を見直した治水工事が始まり、戦後になってやっと干拓田を基本とした現在の景観が生まれることになる。

 おそらく、以仁王 ・頼政の戦いは、そうした宇治川・巨椋池を主戦場とした船戦(ふないくさ)であったと思われる。
【写真左】宇治川・その3
 中洲側から下流部を見たもので、左側に宇治橋が見える。










平氏軍の先鋒

 ところで、この戦で平氏方の指揮官であったのは、清盛の五男・重衡と、重盛の嫡男・惟盛(清盛の孫)だが、先陣を務めたのは下記の信濃武士である。

   氏名          出身地
 吉田安藤馬允    長野市吉田
 笠原平五       中野市笠原
 千(常)葉三郎    飯山市常盤
 
 信濃の国人といえば、木曽(源)義仲が思い浮かぶが、この段階では義仲は信濃をまとめておらず、木曽谷に身を隠していた。そして頼朝が伊豆で挙兵すると、これに呼応する動きを見せる。

 このため、平氏方の笠原平五と同族の笠原頼直は、義仲を襲撃する態勢を整えた。その後、義仲軍の村山義直や栗田範覚らが現在の長野市市原で平氏方と戦った。義仲はその後上野に入り味方を募り、再び信濃に入り、次第に地元勢力を結集、以後平氏方を次々と破り、寿永2年(1183)遂に入京を果たすことになる。

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