美作・荒神山城(みまさか・こうじんやまじょう)
●所在地 岡山県津山市荒神山
●高さ 298m(比高150m)
●築城期 元亀元年(1570)
●築城者 花房職秀
●指定 津山市指定史跡
●遺構 郭・堀切・竪堀・虎口・石垣等
●登城日 2014年7月2日
◆解説(参考文献 『日本城郭体系第13巻』、サイト「城郭放浪記」等)
美作・荒神山城(以下「荒神山城」とする)は、神楽尾城(岡山県津山市総社)で紹介しているが、神楽尾城から南下して、吉井川を渡河した荒神山地区の標高300m弱の山頂に築かれた山城である。因みに、神楽尾城から荒神山城までの距離はおよそ10キロほどになる。
【写真上】荒神山城の鳥瞰図
山形省吾氏作成の縄張図を参考に描写してみた。
探訪したのが7月の暑い盛りだったため、上図に示した「出丸」、「花房氏家臣団屋敷跡」などは踏査していない。
【写真左】荒神山城遠望
南東麓の県道449号線側から見たもの。
この449号線は旧出雲街道と呼ばれているが、この道を東に下ると、吉井川に繋がり、逆に上ると院庄の南平福にたどり着く。
花房職秀
荒神山城は花房職秀の築城といわれている。職秀は、宇喜多直家の重鎮で、正式名は、花房助兵衛職秀といい、清和源氏足利支族といわれているが定かでない。地元美作に土着した国人領主といわれ、晩年は職秀から職之と改名した。
【写真左】登城口付近
登城口は北側の谷間にある。この奥に墓地があり、そこに向かう道が西から伸びているので、墓地用の駐車スペースもあるが、この日はこの写真の右側の空き地に停めて向かった。
元亀元年(1570)、宇喜多直家は当時毛利氏の東進を阻むため、同氏の佐良山、院庄、神楽尾城ら属城に対する備えとして職秀に荒神山城を築かせた。この後、職秀を支援すべく苔口宗十郎・難波孫左衛門・河内七郎右衛門・柴田六郎右衛門・小鴨次郎兵衛・苅田七郎兵衛らを与力として固めさせた。
職秀は当時美作の主だった戦いには殆ど参戦し、その勇猛ぶりが伝えられている。また、神楽尾城を落城させた際の巧妙な手口も知られている。
【写真左】分岐点
登城道は上の鳥瞰図でいえば、「花房氏家臣団屋敷跡」方面に向かって荒神川と並行する道を谷沿いを進み、この箇所で小さな橋を横断する。
草丈が伸びていて分かりずらいが、写真の右側を進むと屋敷跡に繋がり、橋をわたると荒神山城側の尾根にはりつく。
ところで、以前取り上げた美作の岩屋城(岡山県津山市中北上)・その1でも紹介したように、秀吉の中国侵攻の節目となった備中高松城攻めのあと、毛利方と秀吉方による領土境の協議がおこなわれている。その内容は、高梁川を境とする秀吉方の主張に対し、毛利方(美作国人領主ら)は異議申し立てがあったため、しばらく膠着状態が続いている。
【写真左】華教寺坂
途中で「華教寺坂」という標識が見える。さきほどの「家臣団屋敷跡」の位置に近いが、谷を挟んで荒神山城側の尾根斜面に同寺があったという。
この日は草の繁茂でむかっていないが、おそらく花房氏の祈願所的な寺院ではなかったと思われる。
この調整役を果たしたのが、黒田官兵衛らだが、これとは別に直家が職秀を使って、いわば実力行使によって動き出そうとしたことが知られている。最終的には当時、鞆の浦にあった足利義昭が間に入って収束をみることになる。
なお、備中・高松城(岡山県岡山市北区高松)でも紹介したように、この戦い(高松城攻め)のあと花房氏は高松城に入城しており、当地には花房氏菩提所の寺院が残っている。
【写真左】石垣
途中から角度を変えて急登するコースとなるが、その途中には「石垣」が確認できる。
【写真左】竪堀
さらに進むと、登城道は竪堀の中に入っていく。途中で小規模だが枝分かれした竪堀もリンクしている。
【写真左】出丸側との分岐点
尾根ピークにたどり着くと、本丸側と出丸側の分岐点になる。
手前(下)が出丸方面になるが、この日は向かっていない。
なお、この箇所にも3本のの竪堀があるが、右側にその一つが見える。
ここから尾根の右(東側)に設置された道を本丸に向かって進む。
【写真左】本丸に向かう道
左側が尾根筋にあたり、登城道は尾根の東側に設けられている。
冒頭の鳥瞰図で描写している郭群などがすでにこの辺りに当たる。現地はほとんど雑木が生えており、郭らしき姿ではないが、当時はこの尾根筋は殆ど郭として使われていたものと思われる。
【写真左】竪堀
当城には多くの竪堀遺構が残り、特に今稿では取り上げていないが、本丸の北尾根筋の斜面には7条前後の竪堀群がある。
この写真は登城道(大手道)の中間点に見えたもので、東側に設置されている。
【写真左】堀切
大分埋まっているが尾根を遮断するような窪みが残る。
【写真左】切崖
ここまで割となだらかな傾斜だったが、ここで突然目の前に比高8m前後の切崖が立ちはだかる。
木が生えているため写真では分かりにくいが、冬期に訪れればそのスケールが分かるだろう。
このため、登城道はさらに右に逸れて、斜面の東側に設定されている。
【写真左】井戸・その1
切崖をかわして道を進むと、左手に虎口が見えるが、それとは反対の東側の斜面下に井戸がある。先ず、下に降りてみる。
【写真左】井戸・その2
井戸の枠を保持していた石積は崩れているが、今でも少し水が残っている。
このあと、改めて上の虎口に向かう。
【写真左】枡形虎口・その1
【写真左】枡形虎口・その2
虎口形状としての遺構は大分崩れているが、この箇所は本丸から2~3段目の郭であることから特に重要視された場所と考えられる。
【写真左】土塁
この郭の南側縁にはご覧のような土塁が囲繞する。最大幅4m、高さ1.5mの規模で、6カ所で屈曲させ、横矢掛りを可能とさせている。
【写真左】土塁と郭
この郭は長径50m余り×短径最大幅22mの規模を持つもので、当城の中では最大の規模を持つ。
【写真左】瓦片
荒神山城にはこのような瓦片が散在している。この郭をはじめ、本丸には集石遺構などがあり、「日本城郭体系」でも述べられているように、近世城郭としての先駆的形態のものだったようだ。
このあと一旦尾根筋から逸れて、西側の尾根下にある「金蔵の段」に向かう。
【写真左】金蔵の段
長径20m×短径10mほどの規模を持つ郭だが、底面は平滑でない。
呼称名からすると、軍資金や宝物などが納められていたということだろうか。
【写真左】金蔵の段から北に向かう道
登城日が夏であったため向かっていないが、ここから本丸の北側尾根に配置された郭段に向かう道があるようだ。
再び、主尾根に戻り本丸に向かうことにする。
【写真左】本丸の切崖
南側から見たもので、ここに向かう途中にも郭段が連続している。
【写真左】本丸と帯郭
草丈が相当伸びているため、本丸に登る道が分からない。適当なところからよじ登る。
【写真左】本丸の標柱
長径36m×短径16mの規模を持つ。
地面の状態は草の関係で全く不明だが、この写真の右(北側)に集石遺構があるとされている。
礎石建物的なものがあったのかもしれない。
【写真左】本丸から「金蔵の段」を見下ろす。
先ほどの「金蔵の段」が本丸南端部から確認できるが、写真ではうまく撮れていない。
このあと、本丸の東側に巻き付いている帯郭側に向かう。
【写真左】1段目の帯郭
南北に約50m、最大幅10mの規模を持つもので、遺構としては残存度の高いもの。
【写真左】1段目の郭から下の郭を見下ろす。
比高差は約7m前後で、切崖状となっている。
長径30m×短径20mの台形状のもの。
【写真左】石垣
2段目の郭から見たもので、一部だが幅5m×高さ4m程度の規模の石垣が残る。
●所在地 岡山県津山市荒神山
●高さ 298m(比高150m)
●築城期 元亀元年(1570)
●築城者 花房職秀
●指定 津山市指定史跡
●遺構 郭・堀切・竪堀・虎口・石垣等
●登城日 2014年7月2日
◆解説(参考文献 『日本城郭体系第13巻』、サイト「城郭放浪記」等)
美作・荒神山城(以下「荒神山城」とする)は、神楽尾城(岡山県津山市総社)で紹介しているが、神楽尾城から南下して、吉井川を渡河した荒神山地区の標高300m弱の山頂に築かれた山城である。因みに、神楽尾城から荒神山城までの距離はおよそ10キロほどになる。
山形省吾氏作成の縄張図を参考に描写してみた。
探訪したのが7月の暑い盛りだったため、上図に示した「出丸」、「花房氏家臣団屋敷跡」などは踏査していない。
【写真左】荒神山城遠望
南東麓の県道449号線側から見たもの。
この449号線は旧出雲街道と呼ばれているが、この道を東に下ると、吉井川に繋がり、逆に上ると院庄の南平福にたどり着く。
花房職秀
荒神山城は花房職秀の築城といわれている。職秀は、宇喜多直家の重鎮で、正式名は、花房助兵衛職秀といい、清和源氏足利支族といわれているが定かでない。地元美作に土着した国人領主といわれ、晩年は職秀から職之と改名した。
【写真左】登城口付近
登城口は北側の谷間にある。この奥に墓地があり、そこに向かう道が西から伸びているので、墓地用の駐車スペースもあるが、この日はこの写真の右側の空き地に停めて向かった。
元亀元年(1570)、宇喜多直家は当時毛利氏の東進を阻むため、同氏の佐良山、院庄、神楽尾城ら属城に対する備えとして職秀に荒神山城を築かせた。この後、職秀を支援すべく苔口宗十郎・難波孫左衛門・河内七郎右衛門・柴田六郎右衛門・小鴨次郎兵衛・苅田七郎兵衛らを与力として固めさせた。
職秀は当時美作の主だった戦いには殆ど参戦し、その勇猛ぶりが伝えられている。また、神楽尾城を落城させた際の巧妙な手口も知られている。
【写真左】分岐点
登城道は上の鳥瞰図でいえば、「花房氏家臣団屋敷跡」方面に向かって荒神川と並行する道を谷沿いを進み、この箇所で小さな橋を横断する。
草丈が伸びていて分かりずらいが、写真の右側を進むと屋敷跡に繋がり、橋をわたると荒神山城側の尾根にはりつく。
ところで、以前取り上げた美作の岩屋城(岡山県津山市中北上)・その1でも紹介したように、秀吉の中国侵攻の節目となった備中高松城攻めのあと、毛利方と秀吉方による領土境の協議がおこなわれている。その内容は、高梁川を境とする秀吉方の主張に対し、毛利方(美作国人領主ら)は異議申し立てがあったため、しばらく膠着状態が続いている。
【写真左】華教寺坂
途中で「華教寺坂」という標識が見える。さきほどの「家臣団屋敷跡」の位置に近いが、谷を挟んで荒神山城側の尾根斜面に同寺があったという。
この日は草の繁茂でむかっていないが、おそらく花房氏の祈願所的な寺院ではなかったと思われる。
この調整役を果たしたのが、黒田官兵衛らだが、これとは別に直家が職秀を使って、いわば実力行使によって動き出そうとしたことが知られている。最終的には当時、鞆の浦にあった足利義昭が間に入って収束をみることになる。
なお、備中・高松城(岡山県岡山市北区高松)でも紹介したように、この戦い(高松城攻め)のあと花房氏は高松城に入城しており、当地には花房氏菩提所の寺院が残っている。
【写真左】石垣
途中から角度を変えて急登するコースとなるが、その途中には「石垣」が確認できる。
【写真左】竪堀
さらに進むと、登城道は竪堀の中に入っていく。途中で小規模だが枝分かれした竪堀もリンクしている。
【写真左】出丸側との分岐点
尾根ピークにたどり着くと、本丸側と出丸側の分岐点になる。
手前(下)が出丸方面になるが、この日は向かっていない。
なお、この箇所にも3本のの竪堀があるが、右側にその一つが見える。
ここから尾根の右(東側)に設置された道を本丸に向かって進む。
【写真左】本丸に向かう道
左側が尾根筋にあたり、登城道は尾根の東側に設けられている。
冒頭の鳥瞰図で描写している郭群などがすでにこの辺りに当たる。現地はほとんど雑木が生えており、郭らしき姿ではないが、当時はこの尾根筋は殆ど郭として使われていたものと思われる。
【写真左】竪堀
当城には多くの竪堀遺構が残り、特に今稿では取り上げていないが、本丸の北尾根筋の斜面には7条前後の竪堀群がある。
この写真は登城道(大手道)の中間点に見えたもので、東側に設置されている。
【写真左】堀切
大分埋まっているが尾根を遮断するような窪みが残る。
【写真左】切崖
ここまで割となだらかな傾斜だったが、ここで突然目の前に比高8m前後の切崖が立ちはだかる。
木が生えているため写真では分かりにくいが、冬期に訪れればそのスケールが分かるだろう。
このため、登城道はさらに右に逸れて、斜面の東側に設定されている。
【写真左】井戸・その1
切崖をかわして道を進むと、左手に虎口が見えるが、それとは反対の東側の斜面下に井戸がある。先ず、下に降りてみる。
【写真左】井戸・その2
井戸の枠を保持していた石積は崩れているが、今でも少し水が残っている。
このあと、改めて上の虎口に向かう。
【写真左】枡形虎口・その1
【写真左】枡形虎口・その2
虎口形状としての遺構は大分崩れているが、この箇所は本丸から2~3段目の郭であることから特に重要視された場所と考えられる。
【写真左】土塁
この郭の南側縁にはご覧のような土塁が囲繞する。最大幅4m、高さ1.5mの規模で、6カ所で屈曲させ、横矢掛りを可能とさせている。
【写真左】土塁と郭
この郭は長径50m余り×短径最大幅22mの規模を持つもので、当城の中では最大の規模を持つ。
【写真左】瓦片
荒神山城にはこのような瓦片が散在している。この郭をはじめ、本丸には集石遺構などがあり、「日本城郭体系」でも述べられているように、近世城郭としての先駆的形態のものだったようだ。
このあと一旦尾根筋から逸れて、西側の尾根下にある「金蔵の段」に向かう。
【写真左】金蔵の段
長径20m×短径10mほどの規模を持つ郭だが、底面は平滑でない。
呼称名からすると、軍資金や宝物などが納められていたということだろうか。
【写真左】金蔵の段から北に向かう道
登城日が夏であったため向かっていないが、ここから本丸の北側尾根に配置された郭段に向かう道があるようだ。
再び、主尾根に戻り本丸に向かうことにする。
【写真左】本丸の切崖
南側から見たもので、ここに向かう途中にも郭段が連続している。
【写真左】本丸と帯郭
草丈が相当伸びているため、本丸に登る道が分からない。適当なところからよじ登る。
【写真左】本丸の標柱
長径36m×短径16mの規模を持つ。
地面の状態は草の関係で全く不明だが、この写真の右(北側)に集石遺構があるとされている。
礎石建物的なものがあったのかもしれない。
【写真左】本丸から「金蔵の段」を見下ろす。
先ほどの「金蔵の段」が本丸南端部から確認できるが、写真ではうまく撮れていない。
このあと、本丸の東側に巻き付いている帯郭側に向かう。
【写真左】1段目の帯郭
南北に約50m、最大幅10mの規模を持つもので、遺構としては残存度の高いもの。
【写真左】1段目の郭から下の郭を見下ろす。
比高差は約7m前後で、切崖状となっている。
長径30m×短径20mの台形状のもの。
【写真左】石垣
2段目の郭から見たもので、一部だが幅5m×高さ4m程度の規模の石垣が残る。
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