2014年12月10日水曜日

荒平山城(岡山県総社市秦)

荒平山城(あらひらやまじょう)

●所在地 岡山県総社市秦
●高さ 190m(比高170m)
●築城期 永享年間(1429~41)以前
●築城者 川西(河西)氏
●城主 川西之秀
●形態 連郭式山城
●遺構 郭・堀切・城井戸等
●備考 式内石畳神社
●登城日 2014年5月1日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 荒平山城は、前稿備中・鬼ノ身城(岡山県総社市山田)のある位置から、東方約6キロほど向かった高梁川西岸に築かれた山城である。
【写真左】荒平山城遠望
 東麓の高梁川を挟んで、国道180号線から見たもの。








現地の説明板より

“荒平山城
 荒平山城は永享年間(1429~40)に地元の豪族・河西氏によって築城されたといわれる。
 平時の居館の山裾にあり、戦時の山城と対になっていた。城は尾根上にあり、全長は150mにおよぶ。各々の壇には、石を使わず土盛のみで成形しており、西の「尼子谷」に井戸が残る。
【写真左】麓の案内板
 北東部に伸びる尾根の先端部分にあって、この箇所に車が3台程度駐車できるようになっている。
【写真左】石畳神社
 駐車場の脇には石畳神社が祀られている。なお、登城口はここから始まるが、後段で紹介するように、途中で当社の御神体とされる磐座が高梁川縁に祀られている。


 天正年間(1573~85)の備中兵乱期には、河西氏が三村氏に味方したため、天正3年(1575)に毛利方の小早川隆景に攻められた。
 城兵はよく奮戦したが、城主河西之秀は城兵の助命を条件に降伏、開城し、讃岐へ落ち延びた。これ以降、破城となったものと思われる。

備中兵乱

 説明板にもあるように、備中国において戦国期もっとも激しく揺れ動いたのが、「備中兵乱」である。この乱についてはすでに、鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原)で紹介しているが、この当時の荒平山城主は、河西三郎左衛門之秀である。
【写真左】案内図
 登城口には、「秦の郷 散策コース案内図」というパンフレットが置かれている。

 これを見ると、荒平山城登城コースとは別に、西方にある正木山コース、金子池コースなどといった散策コースが整備されている。
 こういう案内図があると、とても重宝する上に、周辺部の史跡も確認できるので嬉しい。


 三村家親が永禄9年(1566)、宇喜多直家によって謀殺されると、途端に同国に動揺が走った。そして、家親の跡を元親が継いだものの、暗殺した直家が毛利氏に属したことにより、それまで毛利方についていた三村氏は毛利を離れ、織田につくことを元親が選んだ。

 これに対し、鶴首城主であった三村親成・親宣父子はこの決断に猛反発、元親から離反し、毛利方についた。そして、かれら父子は毛利方の先陣として、同族の三村氏らの諸城を攻めていくことになる。諸城の一つが前稿の備中・鬼ノ身城(岡山県総社市山田)や、今稿の荒平山城である。
【写真左】登城開始
 殆ど尾根筋を辿るコースとなっているため、短距離になるが、傾斜が次第にきつくなる。






 さて、荒平山城の城主・河西三郎左衛門之秀は、毛利から織田に鞍替えした三村元親の親族であり、また、荒平山城から高梁川を挟んで東方に聳える経山城(岡山県総社市黒尾)主・中島大炊介の一族でもあった。
【写真左】お地蔵さん
 所々にこうしたお地蔵さんが祀られている。
【写真左】秦パノラマ展望台
 途中で尾根の東側を登る道になるが、再び尾根筋に戻り、登城口から10分程度進むと、ご覧の展望台が現れる。

 当城の要図には描かれていないが、小規模な出丸若しくは物見櫓などがあったのかもしれない。
【写真左】展望台から東方を俯瞰する。
 左側から高梁川が蛇行し、南(右)の倉敷市方面に流れている。
【写真左】展望台から北方を俯瞰する。
 高梁川上流部で、この川を遡ると、備中松山城や、支流成羽川の麓にある鶴首城に繋がる。
 このあと、さらに上の方に進む。
【写真左】小郭と小岩
 尾根をしばらく進むと、途中小さなピークを迎えるが、その手前にはご覧の石がある。

 ピークは長さ10m程のものだが、出丸的な機能を持っていたと推察され、この岩もそのための役目を果たしていたのだろう。
【写真左】土橋か
 さらに上に向かうに従って尾根幅が広くなるが、途中に極端に道幅を狭めた箇所が出てくる。

 左右の法面には竪堀のような痕跡が認められることから、土橋として構築されたものだろう。
【写真左】2番目のピーク
 さらに進むと一気に高度を上げる箇所があり、そこには「三角点」が設置されている。

 位置的には、荒平山城の中心より約200m手前になる。
 そろそろ城域が近くなる。
【写真左】荒平山城要図
 現地に説明板と共に付図されているが、線がかすれていたため、管理人によって手を加えている。

 右上の「一ノ壇」と書かれている方向が、この日登ってきた道側になる。
 主郭は、この図では「二ノ壇」に当たる。
【写真左】一ノ壇
 一番手前にある郭で、この先の上部にある二ノ壇(主郭)との比高差は6m。

 ご覧の通りこの箇所は藪コギ状態。規模は、幅15m×長さ30mで、全体に北側に配置されている。
【写真左】一ノ壇と二ノ壇の間にある切崖
 この切崖を登り、主郭以南の遺構に向かう。
【写真左】三ノ壇
 最初に出くわすのが、二ノ壇(主郭)を西側から取り巻いている三ノ壇で、S字状になって、西側で六ノ壇と、南側で四ノ段と接する。

 このあと、ここから比高3mほど高くなった二ノ壇に上がる。
【写真左】二ノ壇(主郭)・その1
 東斜面から撮ったもので、方形壇となっている。およそ一辺が13m前後の規模。

 休憩小屋には、当城の説明板が掲示してある。
【写真左】二ノ壇(主郭)・その2
 三ノ壇南端部から振り飼ってみたもの。


【写真左】三ノ壇と四ノ壇
 ここから長い郭段が続くが、現場には説明板にある呼称(○ノ壇)とは別に、「二丸跡」及び「三丸跡」と書かれた標柱が建っている(下の写真参照)。
【写真左】「荒平城 二丸跡」の標柱
 俗称なのだろうが、できればどちらかに統一した標記の方がいいと思われる。
【写真左】四ノ壇と五ノ壇境付近
 三ノ壇と四ノ壇の境ははっきりしたものはないが、両壇との比高差は50cm程度あり、次第に下がっていく。

 なお、三ノ壇と四ノ壇の西側には比高1m前後下がった六ノ壇が隣接しているが、現状は雑草で覆われている。

 五ノ壇は斜めになった形状で、そのまま一気に降り、七ノ壇に向かう。
【写真左】七ノ壇へ向かう道
 七ノ壇の西側に犬走りがあり、写真にはないが、この左側の上部には五ノ壇の南端部に土塁が構築されている。
【写真左】七ノ壇
 尾根幅とほぼ同じだが、奥行はあまりない。
【写真左】七ノ壇から北の五ノ壇側切崖を見る。
 比高差8mを測るという。
【写真左】堀切
 現地の要図に記されている堀切のイメージと少し違い、尾根側は殆どフラットなもので、浅い箱堀といった感じだ。

 この写真はその脇に繋がる竪堀の跡で、当時はこの竪堀とリンクした薬研堀の形だったかもしれない。

 このあと、さらに南の尾根を進んだが、遺構らしきものはなかったため、一旦戻り、五ノ壇の西斜面にある井戸に向かう。
【写真左】井戸
 現在でも水が溜っているが、この井戸を「尼子井戸」という。

 井戸に「尼子」の名がついていることから、出雲尼子氏がしばらく当城に在城していたと考えられる。

 おそらくその時期は、同氏が備中・美作を席巻していた天文5~8年(1536~39)頃だろう。
【写真左】磐座
 下山途中で立ち寄った箇所で、石畳神社の御神体とされる磐座が高梁川縁に祀られている。






◎関連投稿
庭瀬城(岡山県岡山市庭瀬)
備中・国吉城(岡山県高梁市川上町七地)

2 件のコメント:

  1. 先祖の城です。ご紹介していただき、ありがとうございます。

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    1. 拝復
       こちらこそ、ご笑覧いただきお礼申し上げます。今後ともよろしくお願いします。
       トミー 拝

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