2014年9月15日月曜日

清瀧寺徳源院・柏原城(滋賀県米原市清滝)

清瀧寺徳源院(せいりゅうじ とくげんいん)
                     ・柏原城(かしわばらじょう)

●所在地 滋賀県米原市清滝288
●当院創建 弘安6年(1283)
●開祖 佐々木(京極)氏信(法号 清瀧寺殿)
●山号 天台宗 比叡山延暦寺派 霊通山
●備考 柏原城・京極氏菩提寺
●参拝・登城 2014年9月10日

◆解説(参考文献 当院パンフ資料、「吉川弘文館『佐々木道誉』森茂暁著等)
 今稿では、前稿尼子氏祈願所・光徳寺(鳥取県東伯郡琴浦町公文)で紹介した佐々木道誉ゆかりの地の一つである近江(滋賀県)の清瀧寺徳源院(柏原城)をとりあげたい。
【写真左】清龍寺入口付近
「史蹟 清瀧寺 京極家墓所」と刻銘された石碑が建立されている。

 この近くには江戸時代初期に将軍が朝廷(京都)と江戸城を往来する際、宿泊・休憩の目的で建てられた館・御茶屋御殿(柏原御殿)があり、ここから2キロほど東進すると美濃国(不破郡関ヶ原町)に入る。






現地の説明板より

国指定史跡 清滝寺京極家墓所
  ●指定年月日 昭和7年3月25日
           平成14年3月19日追加指定

 清滝寺(せいりゅうじ)は、京極家の始祖氏信(うじのぶ)の草創(1283)で、寺号は氏信の法号の清瀧寺殿から称されました。永仁2年(1292)氏信の死後、寺内に墓を建て、以後、京極家は清滝寺を菩提寺に定め、歴代当主の墓所としました。

 浅井氏の台頭とともに寺運は衰えますが、江戸時代の寛文12年(1672)に、丸亀藩主京極高豊(22代)が、所領の播磨国(兵庫県)二ヶ村と清滝寺周辺の土地を清滝寺周辺の土地を知行替えすることにより、子院12坊の再興と三重塔を建立して、高和(21代、初代丸亀藩主)の院号から徳源院と称しました。
【写真上】清龍寺史跡散策マップ
 文字が少し小さいため分かりづらいが、清瀧寺・徳源院は中央の上段部に図示されている。
 手前の道には「大門跡」とされる箇所があるが、おそらく当時はこの位置まで境内となっていたのだろう。

 また、左側の丸山という箇所には「北畠具行の墓」がある。後醍醐天皇の側近であったが、天皇の隠岐配流の3か月後、護送人であった道誉の助命嘆願も叶わず、当地でその生涯を終えた。なお、道誉は後醍醐天皇の隠岐配流にさいしても護送の役目を務めていたとされる。


 京極家墓所は、高豊が付近に散在していた各代の墓石を集め、順序を正して整理したものです。始祖氏信の塔から25代高中および、分家の多度津藩主5代の塔など34基の宝篋印塔と、4基の五輪塔が林立しています。鎌倉時代から江戸時代に至る約600年間の宝篋印塔群の多くには銘が刻まれており、形式の変遷を知る上でも貴重な資料になっています。
【写真左】京極家墓所・その1
 上下2段に分けられている。写真は上段のもので、手前(右側)から始祖・氏信の墓があり、4番目が道誉の墓(塔)となっている。

 なお、ここにある道誉のものは供養塔で、次稿で紹介する予定の甲良町にある勝楽寺の墓石が実際の墓である。


 歴代の墓所は、清滝寺の法灯を伝える徳源院本堂の裏の土塀に囲まれた中にあります。

 土塀のなかには上下2段に分かれ、上段には向かって右より始祖氏信の宝篋印塔を筆頭に、18代高吉におよぶ歴代当主の墓18基が整然と並び、このなかには婆沙羅大名として名を馳せた京極高氏(道誉)の塔も含まれています。
 塔の石材には花崗岩を中心に、砂岩、石灰岩などがみられます。また、形態や石材から、整理されたときに補われた部材もあるようです。


【写真左】京極家墓所・その2 配置図













 下段には、衰退していた京極家の勢力を立て直し中興の祖とされる19代高次(たかつぐ)の宝篋印塔を安置する石製の霊屋(れいおく)と、22代高豊から25代高中までの木製霊屋のほか、分家した多度津藩主の塔などが安置されています。

    平成21年度 里山・遺跡のコ・ラ・ボ事業”
【写真左】京極家墓所・その3 下段の墓石群
 左の木製霊屋から25代・高中、20代・忠高、22代・高和、22代・高豊(木製霊屋)

 


柏原荘と柏原城

 京極家菩提寺とされる清瀧寺が所在する位置は、現在の米原市にあって、JR東海道本線柏原駅があるところだが、この地には近江と美濃をつなぐ中山道が往来している。
 旧坂田郡柏原庄といわれたところで、鎌倉初期当地初代地頭であった柏原弥三郎為永が所有していたといわれる。この弥三郎は清和源氏頼光の弟頼平の流れといわれている。
【写真左】「柏原城」の標柱
 清龍寺の塀の角には「柏原城」の標柱が建っている。
 清瀧寺が建立される前に当城があったとされるが、当院の位置は城館として活用され、後背に聳える清滝山に詰城(砦)があったとされている。


 「吾妻鏡」によれば、弥三郎は地頭職として補任されたものの、中央からの命を無視し、特に朝廷からの納税義務を果たさなかった。このため、正治2年(1200)11月、弥三郎を攻め滅ぼすよう命が下った。この任を受けたのが相模権守源仲章と佐々木左衛門尉定綱である。

 さて、弥三郎が当時居城としていたのが、この清瀧寺といわれている。ただ、現在はほとんど城砦としての遺構は残っていない。おそらく平城形式の城館であったものと思われる。
【写真左】清瀧神社
 清瀧寺の北隣には清瀧神社が祀られている。

当社由緒より

“ 保延4年(1138)の創建といわれ、建長5年(1253)6月21日より5日間、太政官牒を下して当社に祈雨せしむ。清瀧権現と称し祈雨の神と崇めらる。
 応永13年(1406)、殿村伊賀守吉重、当村を領し神供田寄進、社伝に八大龍王を祀ると記す。”

佐々木定綱

 弥三郎為永を攻め滅ぼした定綱は、佐々木秀義嫡男で、別名佐々木太郎といわれる人物である。以前にも紹介したように、定綱の兄弟には、義清があり後の出雲守護となる佐々木(塩冶)高貞に繋がる。

佐々木源三秀義 ⇒ 定綱 → → 氏信(京極) → → 高氏(道誉)

           ⇒ 経高
           ⇒ 盛綱
           ⇒ 高綱

           ⇒ 義清 → → 塩冶高貞

           ⇒ 厳秀 → → 出雲吉田氏

 この定綱の次男・信綱が前稿尼子氏祈願所・光徳寺(鳥取県東伯郡琴浦町公文)で紹介したように、のちに京極氏始祖となった四男氏信の父である。
【写真左】三重塔
 第22代・高豊が、寛文12年(1672)寺の復興をはかり、建立したもの。県指定文化財。










佐々木道誉の所領

 ところで、佐々木道誉の生誕年は永仁4年(1296)といわれているが、生誕地ははっきりしない。しかし、父・宗氏は当時鎌倉幕府御家人であったことから、鎌倉で誕生した可能性が高い。そして10代後半期まで当地で過ごしたのではないかとされている(太尾山城・その3参照)。
【写真左】道誉桜
 樹齢約300年、樹高約10m、胸高周り2.3m。
道誉が植えたということから「道誉桜」と呼ばれている。
 現在のものは2代目で、昭和52年には3代目を植えている(市指定天然記念物)。


 道誉という名は出家したときに改めた名であるが、その前は高氏である。足利尊氏も偏諱を受ける前、「高氏」を名乗っているので聊か紛らわしいが、道誉の高氏は、元服の際当時幕府の得宗であった北条高時から偏諱を受けたものだろう。道誉がその後上洛も含め、近江周辺に活動の場所を移すのは20代前半からといわれている。
【写真左】池泉回遊式庭園
 京極家墓所の上段から移したもので、この日ご住職と客殿で庭園を見ながらお話を伺ったが、ついつい話に夢中になってしまい、そこで写真を撮ることを忘れてしまった。このため、この箇所(上)から撮ったもの。
 小堀遠州の作ともいわれている。

 紅葉の時期になると多くの観光客が訪れるようだ。


 南北朝期から室町初期にかけて長く活躍した道誉である。彼が所領とした土地は本拠地近江を中心にして大変多くの地域が記録されている。東海道・東山道を基点として畿内・北陸道・山陰道・山陽道・南海道に及ぶ。所領安堵の詳細については、次稿で改めて取り上げたい。

 さて、清瀧寺のある柏原荘については、氏信の代から受け継いだものと思われるが、道誉と柏原城に関するものとしては、文和2年(1353)1月5日、北野参詣と称して逐電し、近江柏原城に蟄居したとする記録が残る。これは足利尊氏の側近として仕えていた寵童・饗庭氏直(あえばうじなお)の讒言によるものとされる。

その後道誉は晩年に至ると、次稿で予定している犬上郡の甲良荘の勝楽寺に居を定めた。

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