2011年5月30日月曜日

小田草城(岡山県苫田郡鏡野町馬場)

小田草城(おだぐさじょう)

●所在地 岡山県苫田郡鏡野町馬場
●築城期 貞治7年(1364)以前
●築城者 不明(斎藤氏か)
●城主 斎藤氏
●遺構 郭・堀切・土塁等
●高さ 標高390m/比高150m
●指定 町指定史跡
●登城日 2009年5月2日

◆解説(参考文献「日本城郭大系第13巻」等)
 岡山県の津山方面から北方の鳥取県三朝町方面に向かう国道179号線沿いにある山城で、伯耆国と美作国をつなぐ要衝にあった。
【写真左】小田草城遠望











 現地の説明板より

小田草城址
 小田草城は、標高390mの小田草山に築かれた山城である。築城の時期は、明らかでないが、山麓の小田草神社の梵鐘銘に「貞治7年(1364)3月24日、小田草城主斎藤二郎」とあり、それ以前に築城され、斎藤氏の居城であったことがうかがわれる。

 天文13年(1544)出雲の富田城主尼子晴久が、美作を侵攻した際、小田草城主斎藤玄蕃は、高田城・岩屋城・井の内城とともに尼子の属将となる。

 永禄8年(1565)、富田城が毛利氏に包囲されたときには、尼子義久の援軍の求めに応じなかった。(このときの使者・平野又右衛門の自害の話が伝わっている)
 その後、永禄12年(1569)には、また尼子氏に従って参戦したが、尼子氏が敗れ[天正6年(1578)]たことにより、斎藤氏は、当時美作における毛利氏の対抗勢力であった宇喜多氏に属することとなった。 
【写真左】小田草城附近の図
 現地に設置された地図で、登城口は南東麓にある小田草神社の麓にある。














 この城は、南北に延びる尾根上に築かれており、今も空堀や土塁が残り、曲輪もはっきりしている。井戸跡もあり、麓を中心にして城址にちなんだ地名も多く残っている。
(鏡野町の文化財 鏡野町の遺跡調査)”


尼子氏の美作侵入

 説明板にある天文13年の尼子晴久による美作侵攻については、美作・高田城(岡山県真庭市勝山)その1でも触れたように、晴久自身が美作に直接入ったかどうかは記録上はっきりしない。確実に美作侵攻を行使した部将としては、重臣宇山久信の名が残る。

 晴久のこの年の動きを見ると、3月には備後国田総で戦い(鷲尾山城(広島県尾道市木ノ庄町木梨)参照)、7月には地元横田の岩屋寺領の安堵、9月には伯耆国汗入郡の土地を出雲大社へ寄進などを行い、年末の12月になって、田口志右衛門に美作国北高田荘を安堵するという記録が初めて見える。
【写真左】小田草神社
 当社は約800年前に創建されたといわれているので、鎌倉初期に祀られたものと思われる。
 
 鎌倉初期となれば、美作国守護として所管したのが、梶原景時三星城(岡山県美作市明見)参照)で文治元年から正治2年(1200)の15年間続いた。しかし、最後の年に梶原景時・景季父子は突然鎌倉幕府から誅罰され、守護職および所領もすべて没収される。

 そのあとに入ったのが、和田義盛土佐・和田本城(高知県土佐郡土佐町和田字東古城)参照)だが彼は知られているように、建保元年(1213)、幕府に対してクーデターをはかり、討死を遂げ、当然ながら和田氏も守護職・所領を没収されている。

 その後の所管についてははっきりしていないが、おそらく鎌倉幕府の執権北条氏の得宗政治が続くので、美作国は北条氏の一門が執政していたのかもしれない。

 ところで、当社の宮司は「斎藤氏」となっているので、小田草城主の末裔と思われる。


平野又右衛門久利の自害

 平野又右衛門久利(ひさとし)は、尼子分限帳によれば、御手廻衆の18,000石として、「出雲之内」を領したと記録されている。初陣は永正17年(1510)9月、安芸の国境山麓で一番槍の功名を立てている。
 こうしたことから、小田草城における「自害」のとき、おそらく彼は70歳前後になっていたと思われる。

【写真左】本丸下付近
 登城路は整備され、要所には手すりなどが設置され登り易くなっている。




 永禄8年(1565)秋、出雲の月山富田城は毛利氏によって完全に攻囲され、尼子氏譜代の郎党までも落ちて行った。時の富田城主・尼子義久尼子義久の墓(山口県阿武郡阿武町大字奈古 大覚寺)参照)は、平野又右衛門久利を呼び、美作小田草城の斎藤玄蕃に頼み、国中の兵を率いて富田城の支援に向かわせるよう頼んだ。

 これに対し、平野又右衛門は
 「こと、ここに至って、頼りにしていた譜代までもが毛利氏につき、形勢は明らかに毛利方に優位に立っております。作州(美作)の斎藤氏が尼子に与し、支援する可能性はほとんどありますまい。しかも、仮に頼みに行く私自身も作州から再びこの出雲の地に戻れる保証もありませぬ。しかし、一命を捨てるのはどこでも同じでありまするから、仰せに従い向かうこととします。」

 といって、美作小田草城に向かった。小田草城下に着いた又右衛門はさっそく、斎藤氏側にその旨を伝えると、同氏の家来が城下の宿に泊まっていた又右衛門の所にやってきて、

 「今夜はすでに夜も更けたので、明朝おいでいただきたい」との返事。
 これをきいた又右衛門は、 
 「予想通り、斎藤氏が味方するなら、今夜にでも対面するはずだ。明朝と約束したということは、それまでに兵を集め、我らを討たんとするだろう。」と悟った。

 明くる朝、斎藤氏の遣いがやってきて、小田草城へ案内した。二ノ丸を過ぎ、本丸の門前まで来てみると、兜をかぶり長刀をさげた二百余人が待ち構えていた。果たして、彼らは又右衛門主従4人を討ち取ろうとしていたのである。

 又右衛門は言った。
 「これは仰々しいお迎えでござる。ご貴殿方と一戦を交え、死出の山路の道連れとしてもよいが、富田城の者らがそれでは不審に思うであろう。しばらくの時をいただき、国許へ事情を書き認め、潔く相果てましょう。」といい、それを聞いた斎藤玄蕃も認めた。

 又右衛門は書き認めたものを一人に託し、玄蕃の前で自害した。のこった二人の従臣については、玄蕃は命を助けるといったが、二人とも
 「今更、主人の辞世をみて、どうして出雲へ帰ることができましょう」といい、刺し違えて又右衛門の跡を追ったという。
【写真左】南端部の最初の郭段
 小田草城は南北に細く伸びる尾根を利用した
山城で、写真にあるように東西幅は最大でも30m弱で、長さは約150m程度の規模となっている。


 この南北150mの間に、3カ所の堀切があり、中央部にやや大きめの土塁を設け、北と南に分けていた構成となっている。

【写真左】南から2段目の郭
 登城したのが5月という山城探訪には時宜を逸した時だったので、このように草などが繁茂し、写真に撮っても分かりづらい。
【写真左】3段目の郭
 当城最大の郭だが、それでも長径30m、短径20mしかない。
 なお、この郭の東側を少し下った位置に小規模な郭が突き出すように造られているが、現在は雑木が生い茂り、踏み込めなかった。
【写真左】堀切
 3段目から4段目の郭に向かう途中に設置されたもので、当時はもう少し深いものだったものと思われる。
【写真左】小田草城より南東方面を遠望
 南端部の郭は展望台などが設置され、眺望がよく効く。
【写真左】「馬場」地区
 南麓部には写真にみえる「馬場」という地区がある。
 小田草城は、この写真でいえば右側になる。

0 件のコメント:

コメントを投稿