2014年4月16日水曜日

阿賀城(広島県安芸高田市八千代町下根)

阿賀城(あがじょう)

●所在地 広島県安芸高田市八千代町下根
●別名 赤城
●指定 安芸高田市指定史跡
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 阿賀氏、井上越前守光貞・佐馬え助就任(毛利氏家臣)
●高さ 485m(比高220m)
●遺構 郭・古井戸等
●登城日 2013年9月20日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 安芸・備後国(広島県)と出雲国(島根県)を結ぶ現在の国道54号線沿いには多くの城砦があるが、中でも毛利元就の居城・吉田郡山城などはもっとも有名である。
【写真左】阿賀城遠望
 北西麓から見たもの。
 写真右側を国道54号線が走る。









 阿賀城は、この吉田郡山城から54号線を広島方面に約16キロほど南下した安芸高田市八千代町に所在する山城である。

 現地の説明板より

“安芸高田市 史跡指定
   阿賀城跡

 中世、阿賀氏の居城があり、後代、毛利元就の家臣・井上越前守光貞、佐馬え助就任親子二代の居城であったと伝えられている。
 現存する殿前という地名は、城主が平時に居住していた館の跡である。
 頂上には古井戸跡・本丸跡等があり、中世山城研究のための貴重な遺跡である。
    下根振興会”
【写真左】案内図
 登城口は2か所(南と北)ある。この日は北側から入った。駐車場の案内はなかったので、近くの民家の方に許可を得て、空き地(グランドゴルフ場?)に停めた。







毛利元就の家督相続と安芸・井上氏

 阿賀城の築城期・築城者などは不明だが、戦国期に至り、毛利元就の家臣・井上越前守が城主とされている。

 この阿賀城主・井上氏は、安芸・天神山城の井上氏と同族と思われる。安芸・天神山城については管理人は未登城だが、吉田郡山城から南西へ約6キロほど向かった同町竹原に所在する山城である。
【写真左】東麓の登城道
 この日のコースは北口から入ったが、暫く谷間をまっすぐに進み、途中で西側の谷間に移動していく。

 この位置から城域までは約1キロある。なお、標識のそばには「マムシ注意」の看板があった。夏などマムシが出る季節は注意が必要だ。


 井上氏の出自は、源頼信の子頼季を祖とし、信濃国高井郡井上庄の出で、清和源氏井上氏の一族である。文明18年(1486)、井上光兼の子・元兼が安芸天神山城で生まれているが、すでにこの頃、毛利元就の父・弘元の家臣団に組み込まれている。

 阿賀城主であった井上越前守光貞も、元兼の父・光兼の名称から考えて同族であったと思われる。ちなみに、阿賀城周辺で井上氏の支城と思われるものとしては、
  1. 狐ヶ城                  八千代町佐々井
  2. 源城   源氏ゆかりの武将居城      同町上根
  3. 末石城  井上越前居城           同町上根
  4. 御子丸城  井上善右衛門居城       同町佐々井
などがある。
【写真左】ケルン
 登城道は次第に阿賀城の南側の谷に向かって進むが、途中でこうしたケルンが見えた。

 阿賀城は割と登る人が多いのかもしれない。
【写真左】下から見上げる。
 方向としてはこの上に本丸があるが、実際はさらに尾根伝いを北に進んだ位置にある。

 ここから南面に取付き、一気に高度を稼ぐ。

 
 さて、毛利元就が安芸吉田郡山城に入って家督を継いだのは、大永3年(1523)8月10日のことである。知られているように、この直前までは兄興元の嫡男・幸松丸が家督を継ぐ予定となっていた。しかし、この年の鏡山城攻めの帰還後、幸松丸は突如として亡くなった。このため、この跡を誰が継ぐか一族・宿老の間で協議が交わされた。
【写真左】最初のピーク
 本丸から西に伸びる尾根ピークにたどり着く。

 ここから東に向かって約400m進むが、この道はあまり使われていないせいか、倒木が目立つ。

 その結果、一つはその頃誼を通じていた出雲・尼子氏から養子を迎えるという案と、もう一つは、元就に家督を継がせる案の二つが挙がった。

 協議後の処置として元就が家督を継ぐことになるが、その際元就を推薦した宿老15名の内、一族以外のものとしては、井上就在(なりあり)・井上元盛・井上元貞・井上元吉・井上元兼ら井上一族5名が入っていた。言いかえれば、これら井上一族が毛利家中の中でもかなりの発言権・影響力を誇示していたことなる。

 そのため、井上一族は次第に専横が顕著となり、元就にとって頭を悩ます存在となっていた。
【写真左】城域に入る。
【写真左】阿賀城略測図
 上部が北を示す。
この図では右側の郭群から登っていき、南側の方から進むようになっている。
 現地説明板より

“阿賀城跡

   標高485m 比高220m
  安芸高田市史跡(1971年4月20日指定) 

1郭は約50m×20mの長方形で、南半は土塁に囲まれその一角に井戸が残る。この1郭を中心に2~4郭が120mにわたって直線状に並ぶ。
 東に派生する尾根を加工した5郭は、登城路のある南縁に削り出しの土塁を25mにわたって設けている。
 南麓からの登城路は、1郭南西の鞍部で土塁囲みの小郭に入り、さらに山腹の坂道を100m進んで山頂郭群に至る。
 城主は阿賀氏で、戦後期(ママ)以降は毛利家臣の井上氏の居城となる。
    下根振興会”

井上一族の誅伐

 元就が家督を継いだ当初は、家臣のほとんどが井上一族の命に従っていたという。極端に言えば、元就はいわゆる井上氏による傀儡政権のような立場であった。

 天文16年(1547)8月、元就は家督を長男隆元に譲った。しかしこれは表面上のもので、依然として元就が事実上のリーダーであった。隆元に家督を譲った形をとったものの、井上一族による「上意を軽んじる」態度は日に日に甚だしくなり、このままでは毛利氏の惣領隆元が安定した支配体制を敷くことができないと元就は感じていた。
【写真左】主郭(1の郭付近)
 当城最大の郭で、奥行50m×幅20mの規模を持つ。

 左側は切崖となり、国道54号線を俯瞰できる。




 実際、元就が毛利氏の惣領となってから約35年もの間、井上一族はほとんど元就の命に従わず、毛利氏家中との争いは絶えず、元就の統制はほとんど効かなくなっていたという。

 専横の甚だしい井上一族がこのように長く続いたのは、やはり元就が家督を継ぐとき、同氏による推薦があったからで、この恩を楯に井上氏が元就に対し、尊大な態度をとってきたからだといわれている。
【写真左】井戸跡
 1の郭の南東隅に残るものだが、大分埋まっている。










 元就がこうした井上一族を誅伐しようと考えたのは当然であるが、それにしても35年もの間、よくぞ元就は堪えていたものである。

 晩年、元就は三男・小早川隆景に、井上一族に対する憤懣をぶちまけた手紙を残している。

 天文19年(1550)7月12日から13日にかけて、遂に元就は井上一族誅伐を決行した。内容は次の通り。

  1. 井上元有(元兼叔父)  竹原(小早川隆景)にて殺害
  2. 同就兼(元有嫡男)   郡山城にて殺害
  3. 元兼・就澄(嫡男)    元兼館を急襲、元兼父子自害
  4. 井上元盛一族      殺害
  5. その他
以上の者併せて30余人に及んだ。
【写真左】北側から見る。
 1の郭中央部の西側から見たもので、右側の斜面は天険の要害となっている。







 なお、この計画は前以て、大内義隆に通告・了承を得ていたとされる。その一方で、その前年元就は元春・隆景を伴なって山口に赴いた際、陶晴賢が大内義隆に対し、叛逆の意志を固めていたことを確認している。

 井上一族誅伐の背景には、当初陶晴賢と元就が合力して、大内義隆を討ち亡ぼす計画があったためだともいわれている。つまり、大内氏攻略のためには、前もって身内である毛利氏一族内の統制が完全に確立していなければならなかったからである。

【写真左】主郭付近から南西麓を見る。
 写真の谷間中央部に国道54号線が走っている。この道を南下し峠を越えていくと、可部方面すなわち、旧三入庄の熊谷氏居城・伊勢ヶ坪城などに至る。


 今稿の阿賀城主・井上越前守光貞、佐馬え助就任父子も、おそらくこの井上氏誅伐の際、滅ぼされたものと思われる。

 この日、駐車場を提供していただいた地元の老夫婦に少し話を聞いたが、自分たちが子供の頃は、この山が城山だということはまったく知らなかったという。
【写真左】2の郭
 1の郭から北に繋がる郭で、2~3m程度下がる比高差を持たせている。
 奥行は15m程度の規模のもの。
 この先にさらに「3の郭」(下の写真参照)が控える。



 近年になってこの山が城砦(山城)であることが判明したということは、冒頭の説明板にもあるように、阿賀氏の後(のち)の城主が父子2代で終えたことからも想像できる。

 言いかえれば、井上一族が毛利家中の中で、勢威を誇ったのが40年足らずの短期であったことと符合し、一族誅滅後、阿賀城は歴史の中に埋没し、暫く忘れ去られていったということなのだろう。
【写真左】3の郭
 阿賀城北端部の郭で、2の郭との比高差は5m前後ある。
 この先は切崖状となっており、要害性が認められる。
 写真は北側から見たもので、2の郭の切崖が見える。
【写真左】北方を見る。
 この位置からさらに北に登ると、毛利氏居城・吉田郡山城に至る。

2014年4月10日木曜日

出雲・生山城(島根県雲南市大東町上久野生山)

出雲・生山城(いずも・いきやまじょう)

●所在地 島根県雲南市大東町上久野生山
●築城期 不明(鎌倉期か)
●築城者 鎌倉権五郎景政?
●城主 長澤某(権五郎家臣)、布広氏(三沢氏)
●高さ 494m
●遺構 郭・堀切・竪堀・井戸等
●備考 磐根山・生山神社・鎌倉神社
●登城日 2013年10月6日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
 生山城は八岐大蛇伝説で有名な出雲の斐伊川中流域を流れる支流・久野川の上流部上久野に所在する城砦である。
【写真左】生山城遠望
 南側からみたもので、下段で紹介する生山神社は、中腹にみえる大岩の真下に鎮座する。






現地の説明板より

“磐根山 武御名方社
 鎌倉神社ご案内

主祭神 武御名方大神
合祭神 誉田別大神 大鷦鷯(おおささき)大神

由緒略

 当社の創建年代は不詳であるが、大國主大神の御子神である武御名方大神を祀り、神社後方の磐根山をご神体としてお祀りしている。
【写真左】かみくの桃源郷案内図
 生山城のまわりにはキャンプや紅葉をたのしめる「かみくの桃源郷」という施設がある。

 生山城はこの図の「現在地」付近に所在する。


 明治までは奥宮としてお祀りし、現社殿を里宮としていた。國譲りの時諏訪の地にお鎮まりになるにあたり、「わが荒御霊はこの山に鎮めて祀り、吾勝金山辺兄彦命(あかつかなやまべえひこのみこと)が斎(いつ)く社と代々厚く祀れ、わが神業なる白銅、鋼(はがね)の鉄とそが基なる黒金の鉄をも与へん、幾代久しき黒金の野辺」との度重なる神勅を受け、現社家勝部の祖にして吾勝金山辺兄彦命の末裔五代猪尾、佐瀬の地よりこの地に移りて祀る。
 以来この地は久野と名付けられ、砂鉄の産地として古代より一村の扱いを受けてきた。
【写真左】鎌倉神社・その1
 生山城の南麓に祀られている。
 この日、当社の脇に駐車すべく、隣の民家に許可を頂こうとしたら、その家が宮司さんの家だった。

 宮司さんは若い方で、訪ねたところ、生山神社への道(参道)は知っているが、その上にある生山城本丸へ向かう道は知らないとこのことだった。


 時代が降りこの地が源氏の所領となるに至り、八幡太郎義家の家臣鎌倉権五郎景政がこの地に赴き、磐根山に築城せんとしてこの山の荒神を祀るべく祠を建て、生山荒神とした。

 また、権五郎の家来、長澤の某が和歌山の地より生山の城に入城するや、源氏の守護神である八幡宮を勧請せんと鎌倉の地に出向き、鶴ヶ丘八幡宮の御分霊を奉斎して帰った。

 神輿を担いでお供したのが渡部の某である。現社地に神殿を建て、相殿にお祀りして社名を「鎌倉大明名神宮」と改名した。明治に至り社名を『鎌倉神社』と改め今日に至っている。
【写真左】鎌倉神社・その2
 写真中央の鳥居・本殿の向背に生山神社(城)が祀られている。


 戦の守護神として、また、製鉄の技術神、相撲の神、身体堅固の神、病気平癒の神、悪病退散の神として信仰をあつめている。

特殊神事

 古伝神事『御供饌祭(ごくうさい)』『古伝直会式(こでんなおらいしき)』
 『御神幸式(ごじんこうしき)』『相撲神事』
生山神社『花傘船屋台神事』
     雲南市無形民俗文化財指定

祭礼日
 例祭    10月26日
 祈年祭   3月23日
 新嘗祭   11月28日

奥宮・生山神社  祭礼日
  4月28日(花傘奉納は5年毎で直近の日曜日)”
【写真左】登城道
 生山神社に向かう道は、神社真下の鳥居から向かうようになっている。

 ただ、熊笹などが入口付近から繁茂しているため、よく見ないと道が分かりにくい。
 南斜面は急峻な形状のため、九十九折の道となっている。


鎌倉権五郎景政

 歌舞伎の市川宗家である成田屋の十八番(オハコ)の演目の一つに、「暫(しばらく)」というのがある。これは「成田屋」すなわち、代々市川團十郎・海老蔵らが受け継いできた時代物(荒事)の演目で、奇抜な衣装と隈取などでお馴染みとなっている演目である。
 ここで登場する人物で主役となるのが、鎌倉権五郎景政である。
【写真左】生山神社・その1
 鎌倉神社奥宮ともいわれ、武御名方大神荒魂鎮座岩倉生山神社である。




 景政は平安時代後期の桓武平氏の流れを組む一族の一人で、のちに鎌倉氏の祖となった武将といわれている。

 源義家を主君とし、16歳のとき、奥州における後三年の役(1083~87)に従軍したが、その際、右目を矢で射られそれを家臣が抜き取ろうとしたが、なかなか抜けなかった。やむなく三浦為継という武将が景政の顔に足をかけて抜こうとしたら、景政は為継を刺そうとした。
【写真左】生山神社・その2
 本殿部分






 景政は「武士は弓矢に当たって死ぬのは本望だが、顔を足で踏まれるのは我慢が出来ない。いっそのこと為継も刺して、自分もこのまま自害したい。」と言った。そこで、為継は膝を屈めて顔を押さえ、やっと景政の目に刺さった矢を抜くことができたという。これが後に武勇伝として伝わり、景政の名が知られるきっかけとなった。

 歌舞伎演目の「暫」にこの景政が登場しているが、歴史上の景政の活躍とは、実はほとんど関係がない筋書きとなっている。江戸時代に盛んになった歌舞伎や浄瑠璃なども、台本のもとになるものは、中世の読み本などから引用したものが多い。ただ、語り継がれたヒーローは登場するものの、芝居や観賞用としては、全くのオリジナルな脚本(フィクション)として創作されたものが多い。
【写真左】生山神社・その3
 西側から見たもので、生山城の本丸はこの岩の上にあるが、とてもここからは向かうことは不可能。

 岩の周辺部でアクセスできそうな箇所を探したが、いずれも急峻な箇所だけ。



 もっとも、ある程度の史実は解っていても、その筋書きをリアルに表現した場合、場合によっては幕府の御咎めを受けることもあって、例えば元禄時代におきた忠臣蔵などは、浅野匠守や吉良上野介などは実名で登場せず、南北朝期の太平記から引用した塩冶高貞や、高師直などに置き換えたりしている。

 さて、そうしたいきさつを持つ景政だが、この彼が出雲国の山奥の当地に赴いたと現地の説明板には書かれている。だが、景政の晩年や死没年など彼の後半期については実は殆ど記録が残されていない。
【写真左】生山神社から南麓の鎌倉神社を見る。
 手前の木立で少し遮られているが、鎌倉神社が真下に見える。






 このため、件の説明板にある景政自身が奥出雲が近いこの山間部に赴いたという説には、にわかに信じがたい。しいて言えば、その後段に書かれている、

 権五郎の家来、長澤の某が和歌山の地より生山の城に入城するや、源氏の守護神である八幡宮を勧請せんと鎌倉の地に出向き、鶴ヶ丘八幡宮の御分霊を奉斎して帰った。

 という箇所がより史実に近いかもしれない。ただ、これについても、なぜ和歌山(紀伊国)の長澤某という人物がこの地に赴いたのか、この辺りの経緯も判然としないが…。

 因みに、以前取り上げた讃岐の天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原)の香川氏も景政の末孫といわれている。
【写真左】生山城麓から南方を見る。
 道路を挟んで南側には、「かみくの桃源郷」や、三沢城に繋がる鍋坂山などが横たわる。





久野と駿河守清秀

 ところで、生山城のある上久野から4キロ余り下ったところに下久野という地区があるが、ここに久野という地名の由来を示す説明板が置かれているので、紹介しておきたい。
【写真左】下久野付近
 久野の川岸には、下段の「久野の由来」にもあるように、永正年中馬田越中守、又は久野肥後守直経の居館といわれた場所がある。

 また、写真には見えないが、この谷の南北にも2,3か所の城砦が記録されている。



“久野の由来

 久野地区に、久野の地名に関する古伝記録がある。

 「殿居敷(とのいしき)ハ下久野二在リ往古駿河国久能山ノ城主駿河守清秀故アリテ退城シ雲州二来タリ、尊信スル八幡宮ノ神託ニヨリ久野二八幡宮ヲ勧請シテ武功ヲ顕シ地頭トナリ其後戦功ヲ立テ此処二城ヲ築キ城主久野肥後守ト号セリ、爾来連綿トシテ相続キ今久野村ト称スルハ茲二起因ス、而シテ久野ハ久能ト同音相通スルニヨリ転化セルモノナリ…」とある。

 古伝を要約すると、駿河国(今の静岡県)久能山の城主であった駿河守清秀は、故あって出雲にやってきた。すると、八幡宮を建てるよう神のお告げがあったので、さっそく下久野に八幡宮を勧請しお宮を建てた。

 やがて清秀は武功をあげ、次第に勢力を伸ばしたので地頭職を賜り、下久野の殿居敷に城を築いて久野肥後守と号した。以後、久野氏は永らく続き、久野の地名になったと伝えられる。
 久野の地名が文献で確認されたのは、建長元年(1249)6月の「出雲大社杵築大社造営注進状」の中に、「流鏑馬(やぶさめ)役金勤仕 十一番 三刀屋号飯石郷 久野郷」とあり、出雲大社造営の際の課役に関するものである。したがって、鎌倉時代に入ってからの地名ということになる。

       大東町誌
       久野地域おこし委員会”
【写真左】下久野・上久野周辺案内図











 
さて、このように久野地区の上下二か所に残る伝承から推察すると、次のように整理されるのではないだろうか。

 先ず、鎌倉神社縁起にある上久野の地に、景政の家来・長澤某が生山城に入城したことが事実であるならば、景政が長治年間(1104~106)から永久4年(1116)相模国にあったことが知られているので、長澤某が出雲国に入城した時期は、おそらくこの後と思われる。

 それから約130年過ぎた鎌倉時代の北条執権体制のころ、駿河国から清秀(駿河守)が下向し、地頭職となって当地を扶植していった、という流れではなかったかと考えられる。

 ちなみに、同国ではこの建長元年、すなわち執権北条時頼のときの将軍(5代・11歳の藤原頼嗣)の命によって、国造・出雲義孝に対し、神魂神社社領として大庭保・田尻保の地頭職が安堵されている。
【写真左】野だたらの里
 久野地区もふくめた雲南市や奥出雲は昔から「たたら」で栄えた地域である。

 東国から下向してきた諸族の生活基盤は所領支配は当然だが、安定した経済活動が先ずは保障されることである。このため、この地域では「たたら」という鉄生産や、森林資源の確保に最も比重を置いた。



遺構の変遷
 
 ところで、当城の遺構については、島根県遺跡データベースにかなり詳細な内容が記録されている。興味深いことは、その遺構の使用時期が次のように列記されていることである。
  1. 郭   30箇所  ((鎌倉末~室町前期)~戦国期)
  2. 堀切  8箇所  ((鎌倉末~室町前期)~戦国期) 
  3. 竪堀  3箇所  ((鎌倉末~室町前期)~戦国期) 
  4. 井戸  1箇所  ((鎌倉末~室町前期)~戦国期) 
写真の説明でも述べているように、これだけ多くの遺構があることから、現地踏査を試みたが、神社に向かうコースからは本丸にたどり着く道は確保されていない。

 おそらく遺構調査されたときは、東側の谷間から入っていくコースが選ばれたのかもしれない。

鍋坂城

 ところで、生山城のある上久野から南の山を越えて、南下すると仁多の三沢氏の居城・三沢城へ繋がる。その間にある山が標高750m弱の鍋坂山である。

 戦国期、三沢城主・三沢為清(為虎か)の家臣・布広某が、主君に叛いて鍋坂城に立て籠もり、討取られたという。おそらく、このとき生山城は布広氏の属城となっていたものと思われる。

2014年4月3日木曜日

美作・日上山城(岡山県苫田郡鏡野町寺和田)

美作・日上山城(みまさか・ひかみやまじょう)

●所在地 岡山県苫田郡鏡野町寺和田
●築城期 文明15年(1483)
●築城者 小瀬弾正
●城主 小瀬氏
●高さ 280m(比高90m)
●指定 鏡野町指定史跡
●遺構 郭・堀切・竪堀等
●登城日 2013年11月8日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 西美作から山陰の伯耆(鳥取県)を超える主街道は、現在の国道179号線だが、鏡野町の西方にある吉井川支流の香々美川中流域から向かうためには、一旦鏡野町役場付近まで南下して改めて179号線に合流しなければ向かうことができない。
【写真左】日上山城遠望
 南側から見たもの。











 もっとも、香々美川をさかのぼっていくと、次第に道は西に折れ、津山市の加茂町に至り、そのまま現在のJR因美線沿いに進むと、因幡国に繋がるルートでもある。
 日上山城は、そうした西美作を拠点として、北は伯耆・因幡国両国へ繋がる要衝に築かれた山城である。
【写真左】小瀬甫庵翁碑
 東麓に設置されているもので、謹書は「文部大臣 与謝野馨」とある。与謝野氏と当城・甫庵と何らかの縁があるのだろうか。


現地の説明板より

“太閤記著者 小瀬甫庵翁略歴
   永禄7年(1567)日上山城主

 小瀬勘兵衛政秀の長子として生まれた。幼少より向学心に燃え、儒学者藤原惺窩に師事、併せて医学、軍学、史学、易学にも長じた。

 若年より宇喜多氏に従い多くの武功があった。一時豊臣秀次に医術を以て仕えたといわれる。

 又、堀尾吉晴に仕えたときは、松江城構築に功があった。吉晴亡後は浪人して政治、道徳の正道を求め、学問の研究著述に専念し、多くの著書を刊行した。
 晩年、加賀の前田利常に仕え、名著書太閤記を公にした。寛永17年(1640)77歳で没した。
     日上山城史跡保存整備委員会”
【写真左】日上山城跡要図
 上記の石碑付近には駐車場やこの説明板などが設置されている。
 当城は凡そ200m×幅20mの東西を長軸とする尾根を利用して築城された城砦で、南側の谷を挟んで隣にも遺構が残る。
 また、麓を流れる香々美川は、北から東、更に南にかけて当城を囲むように蛇行しており、事実上の壕の役目があったものと思われる。




小瀬甫庵

 本名、秀正、後に道喜、通称又次郎、長太夫、甫庵は号である。

 現地の説明板では、永禄7年(1567)に当城の城主とされている。ただ、永禄7年は1567年ではなく、1564年である。また、彼の生誕年は、永禄7年(1564)であるので、生まれた時に城主になっていたということになるが、これはあり得ないだろう。
【写真左】登城入口
 一瞬こ、の扉を見て、進入禁止かと思ったが、入る際は自分でこの門を開け、帰る際に再び自分で閉めておくようになっている。
 これほど頑丈な門扉は他の山城ではあまり見かけない。

 
 誕生地は尾張国といわれ、信長家臣の池田恒興に医者として仕え、その後豊臣秀次、そして宇喜多秀家に仕えたといわれる。宇喜多秀家は、戦国の梟雄・直家(備前・亀山城参照)を父とし、母は美作・高田城(岡山県真庭市勝山)主・三浦貞勝正室で、後に直家と再婚したお福(円融院)である。

 このお福が後に豊臣秀吉の寵愛を受けていたとされ、息子八郎は、秀吉から偏諱を受け、「秀家」と名乗り後に、五大老の一人に任じられることになる。
【写真左】登城道
 登城道は近年整備されたようで、南側の谷筋をほぼ真っ直ぐ登っていくと、この位置から右側の城域に向かって九十九折の道が整備されている。

 なお、写真の左側にも高櫓・腰郭・竪堀といった遺構が残るが、道は余り整備されていない。



 甫庵が日上山城主となった時期は、おそらく秀家らが慶長の役(1597~)から帰国してからだろう。甫庵が秀家から堀尾吉晴に主君を変えているのは、慶長4年(1599)に起こった「宇喜多騒動」が原因と考えられる。
 宇喜多騒動の詳細は省くが、騒動後宇喜多家に仕えていた主だった家臣・一門衆は退去している。この中に甫庵もいたものと思われる。
 
 その後甫庵が堀尾吉晴と接点を持ったきっかけは分からないが、関ヶ原の戦いで吉晴は東軍方についている。甫庵もそのとき既に東軍方に与していたのだろう。
【写真左】竪堀
 九十九折の途中から見えるもので、東西に伸びる郭段の南麓中央部に設置されている。








松江城の普請

 関ヶ原の戦いが終わった慶長5年(1600)の9月、堀尾吉晴はそれでの知行地・遠州浜松より、出雲・隠岐24万石で出雲に移封された。実際に吉晴が出雲に入ったのは、それから2か月後の11月とされ、当初尼子氏の居城であった広瀬の月山富田城に入城した。
【写真左】松江城地形測量図
 出典:松江市教育委員会


 しかし、富田城は近世城郭としては不向きであったため、慶長12年(1607)、吉晴の跡を継いだ忠晴が小瀬甫庵の縄張を基に、松江市亀田山に築城工事を開始した。
 竣工したのは、4年後の慶長16年(1611)であるが、吉晴は松江城の完成を見ずに6月17日急逝している。
【写真左】腰郭
 主郭の南側に残るもので、長さ約25m前後×幅5mの規模のもの。

 この写真の左側には主郭に連なる尾根が東西に延びている。



 吉晴が亡くなったあと、甫庵は著述に精を出すことになるが、さすがに浪人の身分では、生活も成り立たなくなったのだろう、甫庵の息子・素庵が加賀藩の前田利常に仕えたことから、知行を受け、ここから本格的な著述作品を世に送り出した。
【写真左】西側の堀切
 主郭を挟んで東西にはそれぞれ二条の堀切がある。

 この写真はそのうち西側のもので、深さは約2m、幅は4m程度のもの。

 



相坂城(逢坂城)

 ところで、麓を流れる香々美川を2キロ程登っていくと、日上山城の出城とされる相坂城がある。現在主郭付近には神社が祀られているようだが、北の守りとして築城されたものだろう。いずれ機会があれば登城したい。
【写真左】主郭・その1
 西側から見たもので、左側は断崖絶壁となっており、「日上山城」の看板が一文字づつ取り付けられている。
【写真左】主郭・その2
 主郭中央部付近で、北方を俯瞰したもの。
【写真左】主郭・その3
 さらに東に進む。
【写真左】物見台
 主郭から東に進んだ箇所で、少しこの位置は高くなっている。

 ただ、ご覧のように樹木があるため、南方は物見ができるほど眺望はよくない。
【写真左】東側の堀切
 東端部にも二条の堀切がある。この写真はそのうち最初の位置のもの。









円通寺

 ところで、日上山城の東麓には古刹・円通寺が建立されている。

現地の説明板より

“鏡野八景
  円通寺

 宝寿山円通寺は、惣持院と号し、弘仁7年弘法大師の開創された作州密宗最古の寺で、古くから美作の高野又は、二の宮高野神社の奥の院とも称されました。
 永正年間、福田玄蕃守枡形に城を築き、寺を外衛としていたが、永禄年間落城とともに寺も灰燼に帰した。
【写真左】枡形山城遠望
 日上山城から見たもので、標高640m余り。
町指定史跡


 時の院主成瑜上人は焦跡(やけあと)に小庵を結び、法孫覚清和尚がこれを再建し、現在に至っています。
 本尊は弘法大師一刀三禮の作の千手千眼観世音菩薩です。境内の春は桜、つつじ、夏は蓮、秋は紅葉で知られ、特に参道の大桜(周囲5m)、寺庭の「寿の松」は有名です。寺域の町立郷土館は、円通寺寺宝、名僧竺道契大僧正の遺品、或いは町内の文化、民族資料を展示しています。
 参道には、石仏あり滝あり、句碑、歌碑も並び文人等杖を引く者多く、「文化寺」とさえも称されています。

  石佛も橋も紅葉に照りつく
     浄土踏みゆく心にたのしく

鏡野町ふるさと運動推進会議”


 この中で、福田玄蕃守が築いたとされる枡形の城とは、日上山城の東方の峰に聳える枡形山に築かれた城砦で、永正年間の築城という。永正年間は1504~20年の期間となるので、おそらく山名氏の支配下にあったものだろう。
【写真左】円通寺

2014年3月29日土曜日

備前・白石城(岡山県岡山市北区建部町大田)

備前・白石城(びぜん・しらいしじょう)

●所在地 岡山県岡山市北区建部町大田
●築城期 嘉吉年間(1441~44)
●築城者 田淵氏光
●城主 田淵氏・橋本氏(松田氏家臣)・岡氏(宇喜多氏家臣)
●高さ 150m(比高80m)
●指定 岡山市指定史跡
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2014年3月12日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 備前・白石城(以下「白石城」とする)は、岡山市北区建部町大田に所在する城砦である。
 前稿虎倉城(岡山県岡山市北区御津虎倉)の東麓を流れる宇甘川を下り、途中で御津久保から建部大井線(71号線)を使って山間部を東進し、宇甘川の本流・旭川に出ると、建部町大田にたどり着く。

 この大田側の東岸に独立した小さな山があるが、ここに築かれた小規模な山城が白石城である。
【写真左】白石城遠望
 旭川を挟んで西側から見たもの。











現地の説明板より

“建部町指定文化財(史跡)
 白石城址

 白石城は、室町時代の嘉吉年間(1441~44)に、播磨から備前に進出した赤松氏に属した田淵氏光が築城し、永禄7年(1564)に5代城主田淵氏相が、宇喜多勢に攻められ落城するまでの約120年間、田淵氏の居城であったと伝えられている。

 その後、金川城主松田氏・岡山城主宇喜多氏の支配を経て、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で、宇喜多氏滅亡後は廃城となり、美作への備えは対岸の建部陣屋へ移った。
【写真左】登城口付近
 登城口は西麓を走る国道54号線と、北麓を走る484号線が交わる北西端部(484号線側)に設置されている。

 駐車スペースは、この右側に1台程度の空き地があるが、傾斜になっているのでサイドブレーキはしっかりとセットしておく。



 白石城は、旭川と長谷川が合流するすぐ北にある比高約80mの急峻な独立山塊を利用して築城している。山上部を削平整地して、本丸を置き、三方に下降する尾根上に計12段の小郭を設け、北西斜面には放射状の空堀14条と、その下方に山形に掘られた2本の大空堀を配している。

 城山の東西は川に挟まれ、山上からの眺望視野も広く、小規模ながら均整のとれた山容とともに、天険と地の利を併せ持つ要衝の地に築城された中世山城跡である。

  白石城址保存会”
【写真左】登城道
 登城道はよく整備されている。しばらく簡易舗装された道を進むと、やがて傾斜が付き始めるが、要所に階段が設けられている。

 登城道は、西側から回り込むコースとなっているが、途中で南西端側からの道と合流するようになっている(下段写真参照)。

 ほぼ直登だが、この写真は奥に見える竪堀が角度を変える箇所で、道はここからさらに右に回るようになっている。
【写真左】竪堀
 登城道側に最も近いところに造られた竪堀で、長さはおそらく50m以上はあると思われる。

 なお、このほか東側には畝状竪堀群が数条設けられているが、当日はその箇所までは向かっていない。


田淵氏

 田淵氏の祖は、清和源氏新田氏の後裔十左衛門氏光が伊勢国田淵に生まれ、姓を田淵としたのに始まるという。その後、説明板にもあるように、嘉吉年間(室町時代)に至って、播磨から備前に支配を広げた赤松氏に仕えることになる。

 置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)・その1でも述べたように、「嘉吉の変」によって、足利義教を謀殺した首謀者・赤松満祐は、この年(嘉吉元年:1441年)9月10日、播磨木山城において山名宗全の攻略によって自刃することになる。おそらく、白石城の田淵氏も「嘉吉の変」の際、備前のこの地において、宗全らの追討に抗したものだろう。

 その後、田淵氏は備前を支配した浦上氏に属していくが、以前にも述べたように、戦国後期にいたると、備前は宇喜多直家の勃興が勢いを増すことなり、田淵氏は宇喜多氏の軍門に下ることになる。
【写真左】登城道分岐点付近の郭
 もう一つの登城道とされる南西部から登ってきた道の脇に見えるもので、幅8m×奥行10m前後の規模。

 ここから直角に左に向きを変え、南側からほぼ直登のコースを進む。
【写真左】本丸が見えだす。
 左側に連続する郭段が見えてくる。
【写真左】本丸から下3段目の郭
 2段目から上は整備されているが、3段目以降は熊笹などが繁茂しているため、あまりいい状態ではない。

 右側は桧や雑草などがあるため分かりにくいが、この箇所から切崖となっている。
【写真左】本丸・その1
 東西に長軸をとり、幅7m×長さ20m前後の規模。

 中央には電波塔などの建物が建つ。
【写真左】本丸・その2
 「白石城址」と刻銘された石碑がある。

 裏面には、「五百年記念 田淵一族建立」と刻銘され、隣には祠が祀られている。
【写真左】本丸・その3
 東端部で、右側は伐採されていないが、よく見るとこの面も天険の要害となっており、急峻な構えである。
【写真左】本丸・その4
 東側から西方を見たもので、ベンチなどが設置されている。

 なお、植栽された樹木があるが、おそらく桜の木だろう。
【写真左】本丸・その5
 振り返って、登城道をみる。

 右側が本丸で、その下に2段目・3段目の郭が続く。
【写真左】旭川上流方向を見る。
 北側をみたもので、写真中央の街は建部町川口の街並みで、ここから旭川の支流・誕生寺川を登っていくと、美作国に繋がる。
【写真左】旭川下流方向を見る。
 旭川を降ると、一時当城を支配していた松田氏の金川城(岡山県岡山市北区御津金川)へ繋がる。
【写真左】東方を見る。
 本丸から東方を俯瞰できる箇所は少ないが、戦国期は浦上氏の居城・天神山城(岡山県和気郡和気町田土)の動きも常に監視下に置かれていたものと思われ、もっと視界が確保されていたものと思われる。
【写真左】出城か
 この写真の右側に白石城が控えているが、白石城の北麓を走る484号線の北には、ごらんの小丘が見える。

 白石城の北の守りとして、おそらくは見張櫓もしくは、出城の役目があったのかもしれない。