2009年1月18日日曜日

著書名「山陰の武将」「続・山陰の武将」など

山陰地方の中世武士を調べる際、しばしば参考にしている著書が下記の2書である。



(1)著書名 「山陰の武将」
昭和49年6月30日 初版発行
著者 藤岡大拙・藤澤秀晴

(2)著書名「続 山陰の武将」
昭和50年9月1日 初版発行
著者 藤岡大拙・藤澤秀晴・日置粂左衛門

発行所はいずれも地元の新聞社である山陰中央新報社による。

(1)の本に取り上げている武将には、名和長年、塩冶高貞、三隅兼連、尼子経久、山中鹿之助、坂崎出羽守、堀尾吉晴の7名。

(2)には、南條宗勝、神西元通、杉原盛重、赤穴久清、立原源太兵衛、米原綱寛、吉川経家、亀井茲矩、松平直政の9名が取り上げられている。

(1)の著者はいずれも、地元島根の方で、藤岡氏は元島根県立女子短大学長。現在斐川町にある荒神谷博物館の館長である。その傍らこれまで出雲地方を中心とした古代史(出雲風土記など)から中世、近代にわたり多くの研究論文を発表、さらに最近では「出雲弁」という地元の方言のほうにも研鑽をつまれている。その語り口もユーモアたっぷりで、講演会の依頼も多い。

藤澤氏は藤岡氏と同級生で、元平田市立図書館長。これまで高校の教師を務めながら県内の多くの郷土史等の編纂に当たってこれらた。
本書のあとがきに、お二人はつぎのような文章を載せている。

“……わが山陰にも、雄叫びするどく戦陣にあけくれた多数の武将がいた。彼らの多くは、中央史に足跡を印するほど有名ではない。中にはほとんど忘れれてている人物もある。だが、彼らもまた、歴史の断層に赤裸な人間性と、ひたむきな生を映し出した、魅力ある武将たちだった。

 私たちは、昭和初期の暗い谷間の時代に生まれた。そして同じ中学校の一年生のとき、日本の敗戦を経験した。戦前の価値体系の崩壊は、少年期の私たちに大きな衝撃を与えたが、同時に、権力のベールに包まれた従来の日本の歴史の真の姿について、強い関心を持つようになった。中学から高校へ、私たちは机を並べて歴史を語り合った。そして大学でも、二人は当然のことのように歴史学を専攻した。


 私たちはそこで新しい歴史学の洗礼を受けたのだが、歴史の中の人間に対する愛着は失わなかった。敗戦の衝撃によって、人間の営為のむなしさを感ずるより、歴史のきびしい条件の中で、個人がいかに生きていったかに興味をもった。「いつか二人で郷土の人物を書こう」ともに高校の歴史教師になった私たちは語りあったものだ。それが、山陰中央新報社のご好意で実現することになった。……”

お二人とも昭和7年生まれなので、上記の本を上梓されたのは、42,3歳ごろである。少年期からの夢を失うことなく、こうして生まれた背景を読むと、執筆者の熱意が伝わってくるようである。 

(2)のほうは、執筆者にお隣鳥取県の日置氏が加わり、南條宗勝を担当している。

2009年1月17日土曜日

再び冬の名和氏館跡を訪ねる

再び名和氏関係の話題に戻る。

◆以前、名和氏の史跡を探訪した際、地元にある正式な「名和氏館跡」というのを写真に納めていなかったことと、この付近の風景写真がどうしても欲しくなり、1月17日、雪の残る名和地方を訪れた。

◆前回、名和氏の館跡として名和神社周辺、という ことを記したが、確実に屋敷があった場所として史跡の表記がなされているのは、今回の写真でとりあげる場所である。

◆所在地は、「名和一族郎党の墓」がある長綱寺から、北西の方向へ狭い道を約100m程度入った民家が建ち並ぶところにある。

写真でもわかるように、その屋敷跡は予想以上に小さく、現在の普通の民家の敷地並である。
周囲は石柱を4,50センチ間隔で並べ、間を鉄製の棒でつないだ塀が囲ってある。

 敷地奥の位置に石碑が立ち、「名和神君碑」という文字が上部タイトルに見え、その下の縦書きはほとんど判読不能だが、左側に「寛政9年冬11月…」という文字がかろうじて見える。
【写真上から2番目】名和館敷地内


【写真左】石碑:幅7,80㎝、高さ地上から3mぐらいあろうか。









【写真左】名和館跡付近から見た「長綱寺」と「名和一族郎党の墓のある小山


◆前回訪れた時も感じたのだが、この小山は、各所に、山城の特徴に類似したものを持っており、ひょっとしてこの山自身が名和氏の本城ではなかったかと思えていくる。しかも、その麓には館跡があり、また、写真の左側には「氏殿神社」という社があり、本城(居城)であれば、理想的な配置になる。


◆なお、この写真には見えていないが、右側が昨年開通した山陰道(名和・淀江線)が走っており、その後ろがICになっている。


【写真左】名和館跡付近から、名和神社方向を見る
名和神社はこの山の中央よりやや左側付近の尾根部分にあり、距離は約1.2キロ程度ある。

2009年1月16日金曜日

凸富長城・荒松氏(名和町)

◆登城日  2008年2月3日

◆所在地  名和町 大山口 富長
◆遺構等   曲輪、土塁、空堀、碑
◆現状    富長神社
◆築城年
  元弘年間(1331-34
◆築城者
  荒松氏
◆歴代城主 荒松
◆形式    平城 ・海城
◆備考    名和町指定文化財


◆この城も、箆津城と同じような海岸部に近接した位置になるが、箆津城と違うのは、城郭周囲が深い藪や森となっており、現在はその中央部に「富永神社」という社殿が建てられている。
 また、海岸部からの比高もさほどないようで、その分土塁が全周囲にわたって構築されている。

◆名和氏に協力した荒松氏が、元弘年間(1331-34)に築城し、この地の防備に当っていたといわれる。また、戦国時代には、西伯の土豪・福頼左右衛門尉が在城したともいわれる。

 この城や、荒松氏についての具体的な資料がないため、詳細は不明だが、位置的に考えると、当城と名和氏の本館跡といわれる長綱寺付近まで、直線距離で約2km程度であるので、普段から物資や人の行き来があったものと思われる。



【写真左】富長城跡(富長神社)入口付近






【写真左】本殿を横からみたところ
 建物そのものはさほど大きくはないが、当時この場所が城(館)として建っていたとすれば、敷地の大きさから考えて、かなりのものと思われる。


【写真左】右側に見える土塁の一部

赤碕殿塚と赤碕塔

【写真下】花見潟墓地

 箆津(のつ)城の場所から、国道9号線をさらに東に約2キロほど行き、途中から赤碕町の狭い旧道を海岸にそっていくと、「花見潟墓地」という日本海の北風をまともに受ける大きな墓地がある。

 この墓地の中に、県及び町指定文化財をうけた赤崎殿塚と赤崎塔という古墓が建っている。
 現地の説明板によると、次の通り。

“この墓地は、東西約349m、南北19~79m、面積約20,000㎡の広さで、西日本の自然発生墓地では、最大級といわれ、とりわけ、海岸に面した墓地としてはきわめて稀である。
 発生起源は不明だが、石造物などから中世後半以降の成立と推定されており、2万余基の墓が建てられている。

 特に赤碕塔は、その形状の地域性から国東塔(大分県)と並び、石造美術史上貴重なものである。お盆には灯篭が灯された墓地に、帰省の人々と地元の人々が交わすなつかしい声があちこちで聞こえ、本町の一風物詩となっている。

 所在文化財一覧
  県指定文化財 赤碕塔(昭和32年指定)
  町指定文化財 河原地蔵尊(昭和45年指定)
            赤崎殿塚(平成8年指定)
  琴浦町教育委員会”
【写真下】赤碕殿塚
●現地の説明板より
赤碕殿塚(総高185センチ)
 赤崎殿とは、鎌倉末期の船上山合戦に北条方として従軍し、その後当地に住み、地名の「あかさき」を名字としたと伝えられている武将である。
 この石造記念碑は、文政3年(1820)に当時の赤崎番所役人・佐桐金左衛門が願主となり、地元の友三良が中心となって再建されたものであり、創建は不明で
【写真下】石像記念碑
ある。
 そして、明治33年に赤崎村が町制を施行する際に、赤碕殿塚の「𥔎」に従い、赤𥔎町としたが、現在では当用漢字の「碕」を使用している。
  平成8年6月26日指定
     琴浦町教育委員会”
【写真下2枚】赤碕塔と、未指定の別の塔
◆「赤崎塔」のほうは、詳しい説明板が現地になかったので、赤崎町誌から引用させていただく。

(関係分抜粋)
1 赤碕塔
 花見潟墓地の東部に、2基の大きな古塔がある。「赤碕宿根本」にも述べられているように、昔から、清明道満塔と呼ばれてきたものである。

 前文略 又是より化粧川の右手に掛ければ御丈弐丈斗り成石の大地蔵有茲右手に道明満道の墓ふたばか有又西の方に望めば赤碕殿塚有 右茲同別文有と言ふ、只茲赤碕と申は茲名取りて附し事聞伝へける。(吉岡鶴吉氏所蔵、明治20年ごろ、当時18歳ばかりの吉岡角平翁(号して東々庵月山)筆、「赤碕宿根本」

 この塔の特徴は、全体として眺めると赤碕塔であるが、塔身が宝塔の形式になっており、全国にもこうした類例を見ることができず、かつて京都の史跡と美術の主幹をしておられた川勝政太郎先生によって宝篋印塔と命名された。


 川勝先生の説によると、赤碕塔の塔身が宝塔の形式になっているのは、当時このあたりに、天台宗の寺院があって、その関係者の手により、供養のため建立されたものであろう、ということであった。



 現存している永福寺は、宗教の変遷(2)寺院に詳述されているように、現在の中の宮(天乃神奈斐神社)付近から、化粧川東岸のあたりまで、寺の領域になっていたという大寺院であったことが伝えられている点と、山陰地方の古寺の多くが、天台宗であったということを考え合わせると、永福寺はもと、天台宗であったかもしれない(現在は、高野派真言宗)。


 この塔は、突起の反り具合を調べてみると、赤碕殿塚より少し時代は新しいようだが、9輪の刻みは深く、各狭間、並びに花受等の手法及び、塔全体の大きさから考えると、鎌倉期のものと考えられる。

 かつて毎日新聞鳥取版に写真入りで、赤碕塔のことが載せられていたので、以下重複するところもあるが、参考までに原文のまま転載しておく。


新しい宝塔形―赤碕塔

 東伯郡赤碕町海岸、花見墓地にある“清明満道塔”は、塔身が全国でも珍しい宝塔形式をとり、高さ2.24m、横幅1.20mの立派なもの。花うけの構造などから鎌倉時代の建立と推定されている。


 昭和9年頃、町へ来た石造美術界の権威・川勝政太郎氏も、この塔を見て、宝塔形式に注目、鎌倉期に付近に天台宗の寺院があり、供養塔として建てられたものだろうと語っており、「宝篋印塔」と命名した。

 町民は長い間この塔の文化財指定を希望してきたが、このほど佐々木謙、下村章雄両文化財専門委員が実地調査を行い、近く県教委に調査結果を報告、近く県の保護文化財に指定される見通しである。(毎日新聞)  以上
◆同誌によると、「往古、赤碕某なる武将があり、花見潟に築城し、住民悦服云々」とあり、この花見潟または付近が「海城」もしくは館跡だったかもしれない。前記した箆津城といい、まだ取り上げていないが、富長城(名和町)など、この付近の中世城郭は極端なまでに海岸部に築城されている。
 また、この赤碕某なる武将の出自についても、「故野村藤蔵翁は、元弘年間、隠岐から従軍してきた武将が、そのままここに住みついたものだという。」と書かれていることから、後醍醐天皇・名和長年らが船上山で戦った隠岐の佐々木清高らの配下だったかもしれない。
◆実は、この稿には(写真を)貼り付けていないが、同墓地を散策していたら、「隠岐〇〇家」と刻まれた墓が立っていた。今は本土と隠岐の島へ往来する一般的なルートは、フェリーなどがある境港や島根半島の七類など固定されているが、当時は伯耆側からの往来も相当多かったのではないかと思われる。
 そう考えると、船上山合戦の際、北条方(幕府方)として隠岐からやってきた佐々木清高も、糟谷氏らを中心しとして、意外と早く陣立てができたかもしれない(太平記の記録と符合する確率が高くなる)。

2009年1月14日水曜日

箆津豊後守:箆津(のつ)城

箆津豊後守:箆津城(のつじょう)

●登城日     2008年2月29日
●所在地     東伯郡琴浦町箆津
●史跡指定    町指定史跡 (昭和50年6月2日)
●形式       丘城(海城)
●備考 別名    槙城


【写真①】城郭北端部:かなりの断崖である。










◆前記したように、石井垣城の赤坂掃部助のあと入ったのが、箆津豊後守であるが、その前後についての史料として、地元の「中山町史」と「赤崎町史」がある。今回は赤碕町誌のほうを参考にさせていただく。

以下、関係分引用する。


“(2)箆津豊後守
姓氏家系大辞典(昭和9年刊・大田亮著)によると、箆津豊後守について次の如く記述している。


「箆津 ノヅ 和名抄 伯耆国八橋郡に箆津郷を収む、後世野津巴という。この地より起こりにて、退休寺は正平9年、箆津淳忠の建立なり」と。また、田蓑日記に「八橋郡箆津城は、箆津豊後の拠る所」とあり、と。



 前節で述べたように、本町の安田地区箆津に居住し、後、時勢の変転と共に、糟屋氏、赤坂氏に代わって中山一帯に勢力を誇った豊後守は、下り松に居城し、八 橋、汗入両郡を領し、高は5万石であった(中山町史)ということが昭和9年発行の鳥取県神社史に

「…名和伯耆守長年が、大和の春日神社から勧請した延文年中、豊後守が八橋、汗入両郡のうち5万石を領し、当地に在館し、当社を厚く崇敬して、新たに社殿を改造し云々」

 とあり、現存する中山の春日神社の建立主云々は別として、これによっても豊後守の勢力扶植ぶりが容易に分かる。


 しかし、これについては中山町史に述べる疑問点も存在するので、参考に挙げてみると

「さて豊後守は、八橋、汗入の両郡を領有していたと、書上帳や縁起に見えるけれども、この点は疑問である。というのは、八橋汗入両郡といえば、東は今の由良まで、西は淀江町淀江地区までに当たるが、これだけの広範囲にわたっていたのなら、彼に関する記録や俗説も、単に中山・箆津地区だけでなく、もっと広がって残っているはずである」

 と述べている。いずれにしても、本町にはまだまだ豊後守の史料があるはずで、併せて箆津豊後守研究の課題が今後に残されている。


 さて、豊後守は春日神社勧請ののち、延文4年・正平14年(1359)5月23日、本町箆津地域で、勝田川を挟んで対戦し、武運つたなく討死している。伯耆民談記にあるように、墓は、安田地区箆津の竹林の中にあるが、現在では土地の人に今なお祀られている。

 豊後守の子孫名は一々明らかでないが、箆津信清が、応永8年(1401)退休寺領を増し、殿堂を改造し、七堂伽藍を建立した(東伯郡誌:明治40年)。



 豊後守の法名は「退休寺殿大叟(だいそう)心(しん)空大禅定門神袛(くうだいぜんじょうもんしんてい)」であり、夫人は「金(きん)籠(ろう)院殿顕室因(けんしついん)教(きょう)大姉(だいし)」で共に自分の建立した退休寺に祀られている。(以上 赤碕町誌より) ”


【写真②】
 写真②は、西側付近にある町指定史跡という文字が入った木柱で、横面には「文政元年(江戸時代)の「因伯古城跡図」によると、約二丁四方の広さをもつ」と書いてある。正方形の城郭と考えると、東西の長さが約200m強となる。







【写真③】


 現地は東側先端部に川が流れているので、その先端部から西へ200m伸ばすと、約半分は畑(牧草地?)になっているが、その付近も城閣跡ということになる。また北側先端部は断崖状になって、狭い砂浜の先が日本海になる(写真①参照)。南側の端部分になると、国道9号線を超えた付近まで伸びる。


 写真③は、城郭の中心部になる地点。土塁の跡を少し残したようなものが右側にあり、その西側が沼地のような状態になっていたので、当時は堀のような施設だったかもしれない。


◆この城は、写真のように日本海に突き出た丘陵上の先端部にあるもので、城の定義でいえば「海城」である。城主・箆津豊後守が初期のころ在城したものだが、こういう場所に城跡を構えたということから、その目的は日本海域の制海権を主たるものとした「水軍」の形態をもっていたかもしれない。

◆箆津豊後守は、その後、この城から前回紹介した石井垣城へ移ることになるが、せっかく手に入れた制海権を考えると、箆津城はすぐに廃城にしたとは思えない。仮にこの箆津城を廃城したとしても、その代りの役目を担うような場所を出張城のような形で、海岸部に持っていたのではないかと思われる。

◆その場合考えられるのは、石井垣城の東を流れる「甲川」の河口部(塩津という地区)に「船着場」のようなものを持っていたのではないか。そして石井垣城の川岸から船で甲川を下り、日本海へ出て活動していたような、そんな光景が目に浮かぶ。

◆なお上記資料に見える「退休寺」は現在も残っており、特に当院の門は応永年間頃の建造物のものではないかと思われる姿を残している。場所は、石井垣城がある谷の西隣の谷(下市川流域)のを少しのぼった位置にあり、北隣は「殿河内(とのかわち)」という地名があり、さらに周辺には「上市」「下市」などという地名も見えることから、中世にはこのあたりは相当な経済活動が営まれていたと考えられる。

「司馬遼太郎 因幡・伯耆のみち檮原街道 街道をゆく27」より

司馬遼太郎の街道をゆく 27(朝日新聞社発行)」の中に、因幡・伯耆のみち ― 伯耆の鰯(イワシ)売り―という小品が書かれている。

伯耆の鰯売り、とは名和長年のことである。少し長いが、部分的に転載する。

……信濃坊源盛は、そういう者であった。かれはすでに齢熟し、大山においては別当という僧兵の総大将をつとめる身になっていた。
実家は、名和氏である。
「名和」
という農地がある。大山という巨大な休火山が、かつて火山噴出物を堆積させて裾野台地をつくったが、その北辺、海近くにある。名和川(2級河川)が大山北麓の樹林に水源を発し、北に向かって土砂を深くえぐってながれ、その流域が、やがて農地になった。
名和についての古い時代のことは、わからない。
この地名が有名になるのは、南北朝のころ、名和氏が出現してからである。

名和氏の前歴もまた不詳だが、この一族が農地だけでなく、名和川の河口などに海港を持ち、新興ながら勢いがつよかったということは、傍証でわかる。

(中略)

【写真】冬の夕暮れ:大山(赤崎方面より見る)※右下時刻未調整

 この間、後醍醐は鎌倉勢にとらえられて、出雲の沖にうかぶ隠岐国に流された。
元弘2年(1332)3月のことで、翌年の閏2月にはひそかに対岸の伯耆に脱出して、名和を頼るのである。


ときに名和氏の当主は、長年であった。この時期、長高と称していた。
「長くて高いのは、危険なことではないか」
と、後醍醐がいって、長年という名を与えた。このような恩情が、この時代の無名の土豪の心にどうひびくか、世間を流浪するにつれて後醍醐は知るようになっていたのにちがいない。


私に関心があるのは、当時の名和氏の地位についてである。むろん、官位などはない。
また諸国の守護や諸郷の地頭が正規の武士であるとすれば、そういう存在ではない。『太平記』巻7に、名和長年がはじめて登場する。公家の千種忠顕(ただあき)が舟からまず一人浜に降り、土地の者に、このあたりに弓矢とって名の知れた者はいるか、ときく。

この辺には、名和又太郎長年と申す者こそ、其の身指して名有る武士にては候はね共、家富、一族広くして、心ガサ(註・心蒿(こころがさ)。思慮)ある者にて候へ。

と、土地の者がこたえることになっている。しかし、後醍醐が隠岐にあった時期に、その側近がひそかに名和長年に打診し、その承知を得、脱出して伯耆へ渡海することまで長年が手はずをととのえたのではあるまいか。長年の紋所は、極めて珍しい。帆掛け船なのである。長年はこのあたりで、海上権を持つ者ではなかったろうか。


私は、その原本を知らないが『蔗軒(しゃけん)日録』という本(長年の時代より1世紀のちに成立)に、
ハウキ(註・伯耆。長年のこと)ハ、イワシ(鰯)売り也。

とあるらしい。土地の言い伝えを書いたのだろうが、もし多少の真を伝えているとすれば、むろん振り売りの鰯売りではあるまい。漁業権を持つ者だったろう。


ついでながら、漁師は殺生をするため極楽へは行けないという恐怖が当時あって、極楽ゆきを保証してくれる時宗(教祖は一遍)に入信する者が多かった。長年は、時宗のものらしい法名をもっていた。釈阿(しゃくあ)という。だから網元をしていた、というじかな証拠にはならないが、かすかな傍証にはなるだろう。家は、富んでいたらしい。ただし、漁業だけでは富むまでには至らない。多くの商船をもっていたと考えたい。


富んでいればこそ、弟の一人を大山寺に入れて、別当にまでさせることができたのであろう。
「信濃坊源盛(しなのぼうげんじょう)」


この人物の碑を眺めていると、そういう思いが強く感じられてくる。源盛もまた兄長年とともに天皇の「謀反」と呼ばれた後醍醐の側に加担し、長年の戦死後は、遠く九州に降って肥後の八代で死ぬのである。その死は1358年で、57歳だったというから、後醍醐が隠岐から伯耆にやってきたときは、源盛は32,3歳であったろう。
(中略)


長年は決心し、すぐさま鎧をつけた。一座はことごとく武装し、なかでも長重はいち早く駆けて浜へ行った。このあと鎧の上に荒むしろを巻き、「主上を追い進(まい)らせ、鳥の飛ぶが如くして」船上山の上の智積寺(ちしゃくじ)の本堂に入れるのである。船上山は大山の古期火山群の一峰で、坂はまことにけわしい。


このあたり、いかにも名和氏は鎌倉の既成体制のなかの武家貴族ではない。非公認の土豪劣紳らしく、決断も早ければ行動もいききしている。
(中略)


【写真】花回廊(旧溝口町側)から見た大山

 名和一族の数奇な運命はこの時から始まる。
みずからそれをえらんだこの一族は、船上山に籠り、河内金剛山での正成と同様、当国の守護などの軍勢をひきつけて大いに戦うのである。ついには伯耆一国から鎌倉方を一掃した。


このことは、鎌倉時代の末期に台頭していた新興勢力のにおいを嗅ぐのにちょうどいい。


その無名性とゼニのにおいについて、名和長年のことを『梅松論』(著者は足利尊氏派の武将)では「福祐(ふくゆう)の仁(ひと)」としてのみとらえている。また同時代に成立して公家の色合い強い『増鏡』では、その第17に「あやしき民なれど、いと猛に富めるが」とこれも大差はない。フランス革命当時のブルジョアジーを思わせる。


挙兵(1333)から京都の市街戦の戦場で死ぬまで、3年でしかない。
この間、いわゆる建武の中興のつかのまの成功がある。その時期に、長年は伯耆と因幡(両国で今の鳥取県)を受領し、他にも顕職を兼ねた。陽気で率直な人柄は、後醍醐からも好かれたという。


 この「あやしき民」の実力によって、鎌倉末期の伯耆が、以外に経済力をもった土地だったことを私どもは知りうるのである。

以上。



◆楠木正成も、名和長年にしても建武の中興後、どうみても後醍醐派の形勢は不利となっていても、最後まで後醍醐に従ったということから、戦前の忠君愛国のシンボルとして利用されてしまい、戦後になったとたん、しばらくは無視されるようなことになった。その時代ごとに、こうして評価がコロコロと変わることは、二人にとっては迷惑な話である。

当初、後醍醐派として与していた同じ山陰出身の塩冶高貞は、途中から後醍醐の政策に同調できず、尊氏派に与するが、結局前記したとおり、執事・高師直の陰湿な策略で自害する。こうしてみると、二人とも京都に上るまでが絶頂期であったということになる。

2009年1月13日火曜日

糟谷弥二郎元覚:凸岩井垣城

これまで船上山などで後醍醐天皇・名和長年軍に関係した武将などを取り上げてきたが、今回は幕府方(北条方)として戦った武将や、史跡を取り上げたい。

最初に、糟谷弥二郎元覚岩井垣城を紹介する。

◆所在地 西伯郡大山町石井垣

【写真左】岩井垣城の縄張り図


現地の説明板より

“凸岩井垣城跡(中山城又は石井垣城)


元弘3年(1333)船上山合戦当時、伯耆国の守護代・糟谷弥二郎元覚が、当城に拠っていたが、名和長年軍の攻撃により炎上、糟谷氏滅亡ののち、箆津(のつ)豊後守敦忠の居城となる。


中世城郭事典に、「この城は因幡に類例のない複郭式で遺構完存の城跡」とある。城域は、南北500m、東西300mの広大な地積に及んでいる。 平成2年3月 中山町教育委員会”

◆太平記などによると、この糟谷(糟屋)弥二郎は、もともと北条一門の守護(代)で、その一族・糟屋三郎宗秋は、鎌倉幕府六波羅探題の検断の要職にあった。

◆また、名和軍が攻勢をかけて、さらに幕府方の城をせめたものとして、3月3日に、佐々木清高の籠る凸小波城(淀江町小波にあったとされ、最近その場所が調査された。まだ私は探訪していないが、平地に近い場所で、遺構はほとんど残っていないようだ)と、その後攻めた凸小鴨(おがも)城(倉吉市岩倉)が記録されている。(この城も未登)

【写真左】現在この城郭内には、写真のような神社(春日神社)が祀られている。 この神社は箆津豊後守の創建といわれている。
この本殿の後ろに、城主糟屋弥次郎元覚の後入城した箆津豊後守の墓といわれる古墓(下の写真)がある。


【写真左】城主・箆津豊後守の墓といわれるもの。






◆名和神社(館跡)や、この城も山城というより、平城といったほうがよさそうな形式だが、この付近の地形が全体になだらかで、戦略的には要害性を優先した設計とは言い難い。

しいて言えば、この東側に流れる甲川という川が、堀の役目として考えられ、西側は少し高くなっているため、簡単には攻めにくい場所である。

◆船上山合戦の際、弥二郎自身は負け戦だったものの討死はせず、一族はその後、同年(元弘3年)5月9日、近江の番場宿で、敗走ののち、同じく船上山で戦った佐々木清高らとともに自害している。

【写真上】左が当城の東側部分で、右に見えるのが日本海へそそぐ甲川

 ちなみに、「近江蓮華寺過去帳」によれば、糟屋弥二郎入道元覚64歳、以下一家13人、佐々木隠岐前司清高39歳、以下一族4人の氏名あり、となっている。

◆糟屋氏が没落した後、この城には赤坂掃部助(かもんのすけ)幸清一族が入ったが、彼は名和長年とともに、京都に従軍し大宮付近で戦死したとされている。したがって、掃部助が在城したのは、長くてもわずか3年ほどになる。

◆ちなみに、赤坂一族のものと思われる墓が、「赤坂六助田」というところの田の畔にあり、7基ある墓のうち最南端にあるのが彼の墓とも言われている(私はまだ、現地を確認していない)。


◆赤坂一族が没落した後、入って来たのが前述の箆津豊後守である。彼に関しては後ほど紹介したい。

名和長年(6)富士名判官義綱古墓

名和長年(6)
富士名判官義綱古墓(ふじなはんがんよしつなこぼ)


●所在地 島根県松江市玉湯町布志名判官山
●指定 松江市指定史跡

◆解説
 当ブログの看板名である「やまじろ」を掲げていながら、肝心の山城そのものの記事が少なく、我ながら面目ない。 もう少し、名和長年絡みの話題に付き合っていただきます。

富士名義綱

 さて、前回船上山の長年のもとにはせ参じた、近国の武将の中に、出雲から塩冶高貞と富士名義綱も見出されている。今回は、この富士名(佐々木)義綱を取り上げたい。

【写真左】富士名判官の墓地へ入る付近
 場所は、玉湯町布志名の県道263号線の途中から南のわきに入るところで、写真は携帯で撮ったためぼやけているが、案内標識がある。











 富士名(ふじな)は元々佐々木一族で、現在の松江市玉湯町に当たる布志名(ふじな)郷の地頭で、義綱と塩冶高貞はマタ従兄弟になる。

 義綱は後醍醐天皇警護の役で隠岐に渡っていた。その彼が天皇からどういう懐柔?を受けたか分からないが、天皇を隠岐から脱出させる役目を担う。このため、守護である高貞にもその計画の協力を仰ごうと、本土・出雲に戻る。

 前記したように、高貞は守護であると同時に、鎌倉創成期から有力な御家人でもある。熟慮の末、義綱の懇願を断る。
そうこうしているうちに、後醍醐天皇は義綱の帰島が待ち切れず、自ら脱出を敢行してしまったということである。

【写真左】富士名判官義綱古墓(昭和39年玉湯町指定史跡)

 左に立っている説明板の内容は以下の通り。

“義綱は、出雲国守護佐々木氏の系譜をひく。鎌倉時代末期から室町時代初期に活躍した布志名の地頭。

 鎌倉時代の末期、元弘の変で倒幕に失敗した後醍醐天皇は隠岐に流された。
 警護のため派遣された義綱は、翻意して、天皇の隠岐脱出を援助。その後も名和長年らとともに、天皇に従う。

 建武の新政、天皇に反旗を翻した足利尊氏方と各地で戦い、建武3年(1336)正月、京都での激戦で非業の死を遂げた。享年41歳。

 明治31年福庭美静の撰文になる顕彰碑が墓のある判官山の頂に建立された。大正4年、正四位上を贈られた。平成8年3月 玉湯町教育委員会”
【写真左】判官山に立つ顕彰碑
 この判官山という南から北へ突き出した丘陵部は、幅は狭いものの、義綱らが居住していた館跡もしくは、山城ではなかったかと思われる形状・要害性を感じた。

 もっとも、この判官山の約200m西隣に突き出した丘があり、「布志名城」という名の山城あとがある。ただ現在はほとんど遺構は残っていない。

2009年1月12日月曜日

名和長年(5)船上山周辺の動き

◆2月28日に伯耆の湊に疲労困憊の状態でたどり着いた後醍醐天皇が、あくる29日は船上山へ登っている。背負われて登ったということだが、そのあとすぐに幕府方(佐々木隠岐守清高ら)が麓までやってきている。そして長年側は数6,70人で、数千騎の幕府方に勝利する。(戦記物は、話を面白くするためとかく誇張が多い。よって、数値的なものは割り引いて考えたい)

◆名和方(天皇方)のほうは、割と詳しくメンバーを記しているが、幕府方が上記の佐々木清高2,000騎(大手側)、清高の弟・能登守清秋1,000騎(搦手側)と大雑把な表記になっている。下段に示すように、地元の武士大半が名和方に与しているので、幕府方は同じ地元から、これだけの兵力を短期間によく集められたものだと感心する(糟谷氏らが居たという)。
【写真右】名和神社付近から見た、大山


◆3月3日午後に、やっと近国の武士が集まる。太平記によると下記の面々

石見=佐波・三隅
出雲=塩冶高貞・富士名義綱・朝山二郎
伯耆=金持一党・大山衆徒
安芸=熊谷・小早川
美作=菅一族・江見・方賀・渋谷・南三郷
備後=江田・広沢・宮・三吉
備中=新見・成合・那須・三村・小坂・河村・庄・真壁
備前=今木・大富幸範・和田範長・知間親経・藤井・射越範貞・小嶋・中吉・美濃権介・知気季経・石生彦三郎

これら合わせて、総勢2,000余騎とのこと。

◆現実的に考えると、この3日に参集した時点から本格的な戦が始まったのではないかと思えるのだが。

◆なお、この中で、塩冶高貞、富士名判官は、すぐに駆けつけず、しばらく安来あたりで様子をうかがい、形勢が判明したころやってきたと、太平記などには書いてある。

 出雲守護という幕府方の出先機関の長であれば、他の土豪武士らと同じ行動はとれなかったのもうなずける。

名和長年(4)後醍醐天皇隠岐脱出

◆記録によると、後醍醐天皇は元弘3年(1333)閏2月24日に隠岐島を脱出し、4日後の28日、伯耆の海岸に漂着のような形でたどり着いた、とある。
 温暖化になった今でも、冬の日本海は凍てつくような寒さである。当時後醍醐天皇が乗った船は、数人が乗れる粗末なものだったということ、しかも、暖房などなく、寒風吹きすさぶ荒海の日本海で、四日間も持ちこたえるのだろうか?。常識的にはそんな環境では凍死してしまう。

◆太平記や伯耆巻などには、一切記されていないが、私なりに大胆な推理をすると、ひょっとして、名和長年は、後醍醐天皇が隠岐配流前にコンタクトをとっていて、一年後にこのチャンスを見計らい、名和の港から、廻船業者でもあった長年が、隠密裏に隠岐まで迎えに行ったのではないか、と思えるのだが、どうだろう。



【写真】冬の赤崎の浜から荒れる日本海に佇むトミー(りりしく見えますが、12歳の熟女?犬です)

2009年1月9日金曜日

名和長年(3)三人五輪・名和一族郎党の墓

名和神社周辺には、名和氏に関する史跡が数か所ある。その中から、三人五輪という首塚と、名和一族郎党の墓を取り上げる。

【写真右】三人五輪の首塚
<現地の説明板より>

“大山町指定文化財 三人五輪
名和長年および義高(長男)、高光(三男)の首塚として伝えられ、この地方では珍しく大型の五輪塔である。長年は京都大宮、義高は泉州堺(現大阪府)、高光は西坂本(現滋賀県)で、それぞれ戦死したものを家臣が持ち帰り、ここに祀ったという。 今に三人五輪と呼び、語り継がれている。 昭和57年5月 指定
大山町教育委員会“






【写真右】名和一族郎党の墓

この墓があるお寺は、「名和公菩提所・長綱寺」という。縁起は下記のとおり。

“名和公菩提所・長綱寺略縁起
当山は、元徳2年2月、名和長高公(後の長年公)の開基にして、旧記に「長高先考の為に一宇を創建す。山を萬歳と号し、寺を長高と称す」云々とあり、始め天台宗に属し、長高庵と称したるも、その後、足利氏天下を収攬するに当たり、長高の二字を忌憚し、長綱庵と改む。 ”



名和一族郎党の墓については、同じく現地の説明板によると次の通り。

★当寺の位置は元萬(ばん)歳(ぜい)山(ざん)中腹に在りしが後、祝融(しゅくゆう)の災に罹り、堂宇皆、烏(う)有(う)に帰したるを以て、現在の地に移転、霊電(殿)長老を請けし、中興第一世となし、同時に宗を曹洞に改む(これより長網寺と称す)。
★本尊は弥陀三尊にして、嘗て名和公の念持仏なりしと、又、辱(かたじけな)くも、後醍醐天皇の尊牌を安置す。旧記に「康永年間、児島(こじま)高徳(たかのり)、名和長年を訪ね弔いし後、元弘帝(後醍醐天皇)の御尊牌を捧げ来りて、長年の上位に安置す」と。


★爾来、帝の御追福を祈り奉り、名和氏累代の冥福を修し来る。当寺に用うる紋章は、帆掛舟にして戦捷(せんしょう)(いくさはじめ)の時、帝より名和氏に賜いしものと同じく、尚、名和公寄進にかかる田畑、山林、若干あり、現に堂後の山頂に名和父子の廟塔及び名和一族郎党の墓碑三百基許りありて、千古大忠臣の英霊を仰がしむ。



古代・中世の史跡がある現地の説明板というと、どうしてもこうした漢文調が多く、しかも今では使われていない漢字や「当て字」などが多く、判読するだけでも一苦労だが、その要約作業そのものも、別の意味で勉強にもなる。
どちらにしても、当時これだけまとまった数(300前後)の墓があることがめずらしい。

◎関連投稿
宇土古城(熊本県宇土市神馬町)

名和長年(2)名和神社

●所在地 鳥取県西伯郡大山町名和556
●探訪日 2008年4月

【写真左】名和神社の参道途中から北に日本海を見る。
 
写真のように、桜の名所としても知られ、この日も多くの人が訪れていた。天気が良いと、日本海の奥に後醍醐天皇が流された隠岐の島が見える。隠岐の島は、道後と島前があり、実際には天皇がどの島に配流されたかはっきりしていないようだ。

この神社は名和長年を祀っているが、創建されたのは、ずいぶんと後になった江戸期で、地元鳥取藩主・池田光仲が行っている。相伝ではこの場所がもともと名和氏の館跡だったとのこと。祀られているのは、長年とその家臣42名も含まれている。

【写真左】鳥居付近を見る

右側の石柱には「別格官幣社 名和神社」と刻銘されている。








【写真左】当社 門前の桜






2009年1月8日木曜日

名和長年(1)船上山

◆前回、出雲の守護・塩冶高貞を紹介したので、おなじく太平記がらみで、後醍醐天皇の隠岐脱出から建武新政まで協力者だった、東隣・伯耆の武将・名和長年関係の史跡を取り上げる。



【写真下】船上山遠景
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 船上山は、地形を見るに大山の一支脈として台地状(船上神社付近で海抜680余り)をなし、頂上は相当広い平坦部をなしており、ブナの密林におおわれているが、東北部は、断崖絶壁をめぐらし、そこには雄滝、雌滝と称する2つの滝があり、麓にかけては急傾斜の草原となり、天然の要害となっている。
山上からは、北に日本海が眺められ、山容の雄大さと見事さを兼ね備えた景観である。平安時代に山岳仏教寺院・智積寺(ちしゃくじ)、その他数多くの堂塔が建てられていたというが、かつてあった智積寺等の諸院は、今はなく、ブナの密林の中、現在の船上神社のあたりに遺構として土塁を残しているのみである。

船上山行宮は、元弘3年(1333)閏2月28日から5月23日まで、後醍醐天皇の行在所のあったところで、名和長年一族武家方・佐々木隠岐判官清高兄弟が激戦を重ね、名和長年は、この天険を城塞にして弟・信濃坊源盛のいた大山寺などと通じて、天皇を守護し近国の武士を招集、王政回復の旗を揚げ、いわゆる建武の中興を成し遂げたところで、それゆえに、船上山行宮跡は史跡として国の指定になったものである。 (名和町誌※より

昭和53年7月30日 発行されたもので、編者は名和町誌編纂委員会による。この本には史跡の説明もあるが、むしろ名和長年研究の史料の変遷に重点が置かれ、「伯耆巻」を中心とした他の史料との比較考証にページを割き、江戸期の水戸光圀著「大日本史」から始まって「船上記」等々の詳細な考察論文になっている。あまりにも大著なので、私には読了できなかった。


◆当地へのアクセスは、米子市側(西側)から行く際、山陰自動車道が名和町まで延長され、ずいぶんと楽になった。しかもこの高速道は片山前知事の手腕によって無料道路となっているので、とても助かっている。船上山は中級クラスの登山者にはちょど手頃な山として大山(だいせん)とともに人気がある。何回かこの山の麓は訪れているが、いまだに頂上まで登っていない。なんとなくこの山は、下からの眺望で満足していまいそうで、いつかは上まで登ってみたい。


◆なお、名和町は、2005年3月28日 西伯郡(旧)大山町、名和町、中山町が新設合併し西伯郡(新)大山町となるっている。余談だが、歴史を調べるとき、この合併によって地名や場所を探すのにずいぶん手間取るようになった。

2009年1月4日日曜日

塩冶氏と館跡・半分城(島根県出雲市)など

◆地元でありながら、驚くほど知られていない武将として、塩冶高貞(えんやたかさだ)がいる。

浄瑠璃や歌舞伎でおなじみの忠臣蔵のもとになった人物である。江戸時代に竹田出雲という人が脚本して、浅野内匠頭を塩冶高貞に、吉良上野介を高師直(こうのもろなお)に仕立てている。

「太平記」では高貞の死を女性問題(美人の妻)が絡んだものとして描いているが、実際は複雑な流れがあったようで、結果として足利新政府の犠牲者ともいえる。
【写真】出雲市塩冶町にある浄音寺境内にある「開基塩冶氏塔」と書かれた塔
 この境内も含めた部分が館跡ともいわれ、下段の館跡と合わせ複数の塩冶氏関係の施設があったものと思われる。


【写真左】塩冶氏館跡の発掘現場・その1

 
 昨年(2008年)都市計画により道路が造られることになり、事前に発掘調査された

 一般的にはこうした主だった発掘調査に併せて、一般公開・説明会などが行われる。

 残念ながら私の知る限り、そんな告知などなかったようで、現在は完全に道路となっているので、この写真のような遺構が残されている可能性は極めて低い。
【写真左】その2
 多数の窪みや穴状のものがある。礎石の跡にしては不揃いだ。
【写真左】その3
 トレンチのような箇所で、排水溝だろうか。


【写真左】出土した陶器類
 生活していた館跡らしく、陶器類や屋根瓦などが出てきた。




【写真左】塩冶高貞の石碑
 暦応4年(1341)春、高師直らに謀反の陰謀ありと訴えられ、逃亡中の松江市宍道町の白石にて壮絶な憤死を遂げた塩冶高貞の石碑(民有地と思われるが、普段の状態は写真のように雑草に覆われている)

 
◆史料によっては、高貞の憤死場所を播磨(兵庫県)あたりとする説もあるが、太平記によるとこの場所の可能性が高い。

なお、現場は今は雑木雑草に覆われた状態だが、当時は宍道湖水域が相当南まで来ており、当時は街道として使用されていたと思われる。



















【写真】出雲市塩冶町にある半分城跡 (中の写真は
遠景、下は半分城本丸跡


(現地にある説明板より)

 “この城は、上塩冶に所在する大廻城址や、大井谷城址よりも規模が広く、近くに塩冶八幡宮や、高貞社があるので、城主は代々の塩冶氏であったと考えられます。

出雲国守護としての塩冶氏は、約60年、高貞の弟・時綱からの後塩冶氏は、尼子氏に滅ぼされるまで、約190年続き、さらに尼子興久が塩冶氏を名乗っていますから、この城郭も幾度か改修されたと考えられます。

昭和53年に西一郭が発掘調査されて、土塁、柵跡(さくあと)、土壙(どこう:あな)などが検出されました。
城跡全体の遺構
○主郭部は一辺25メートルの方形
○北に郭二、東に郭三、西と南に郭各二、土塁、堀切り、帯曲輪(おびくるわ)を設けている。
平成15年10月 塩冶クラブ ”



☆どちらにしても、塩冶氏については不明な点が多く、太平記など誇張された軍記物のみでは真実が分かりずらい。

2009年1月1日木曜日

いい年でありますように(恭賀新年)

【写真上】福知山城
 近年改築されたものですが、できるだけ当時の建築技法や材料に沿ったものとしてできています。個人的には、天守閣のある改築版の城としてはトップクラスのものではないかと思っています。


☆新年明けましておめでとうございます☆

 さて、このブログも昨年、といっても、年も押しつまった12月29日立ち上げた、いわば出来立てホヤホヤの代物で、いまのところ海のものとも山のものとも分からない状態ですが、今年もよろしくお願いします。
 
 2009年の年も明けました。昨年は、いやここ数年、いやなことばかり続きます。日本に限らず、世界中がおかしくなってきたような感じです。

 このブログも「西国の山城」ということで、いわば戦(いくさ)のための要塞施設をテーマとしていますから、平和な時代の文化施設とは対極にあるかもしれません。 ただ、戦国武将すべてが好んで戦をしてきたとは思えず、むしろできるだけ乱世を終局に向かわせるべく、やむを得ず武力をもってやってきたのだ、と思いたいのです。

 しかし、結果として平安末期から江戸時代初期までの500年もの長い時間を費やして、戦や覇権による争奪戦が繰り広げられました。当時の言葉でいえば「安寧」を目指した代償があまりにも大きく、そして長すぎました。

 山城を探訪するたびに、「兵どもの夢の跡」という言葉を覚えます。現地に足を踏み入れ、そこに立っている足元に夥しい数の討死した武将の亡骸があったかと思うと、名状しがたい感慨があります。山城の探訪はある意味で、そうした武将たちへの鎮魂の旅ともいえるかもしれません。

 気ままな山城探訪ですから、更新も不定期です。気分転換にこの拙いブログをご笑覧していただければ、幸いです。

2008年12月31日水曜日

高瀬城(島根県斐川町)

高瀬城(た かせじょう)



【写真左】高瀬城遠景
 左側の方が本丸跡、右側は二の丸、三の丸跡がある。手前に見える高架道路は、山陰高速道で右方向(西方面)に斐川ICがある。左方向は松江方面。
 なお、当城への登り道の一つがこの写真の谷奥にあり、高速道路の下を通り過ぎると、車1台分の駐車スペースがある。



◆島根県には、「島根県遺跡データベース」というサイトがあります。これによると、島根県内にある山城(城跡)は1,200か所余りとのこと。

 当然この中には、砦、支城、出城などといった本城以外のものも含まれます。また、中には館跡らしきものも含まれていますので、当時の在地領主・国人領主などが本城として居城した数は限られると思います。

 戦国期に限定してみれば、出雲部ではやはり尼子氏の関係した山城が多く、石見部の場合は、西に大内氏、東に尼子氏、南に毛利氏などがいたため、一様でないようです。

【写真左】小高瀬という郭付近から大高瀬(本丸)方面を見る











◆さて、この高瀬城ですが、所在地は斐川町にあり、築城期は、南北朝時代に建部伊賀という武将が造ったと言われています。また別の説によると、平家が造ったともいわれており、定かではありません。

 城主として、記録からはっきりとわかるのは、戦国期に活躍した米原綱広(よねはらつなひろ)と嫡男・綱寛(つなひろ)です。父子で同じ呼称ですので、紛らわしいのですが、おもに記録に出ているのは嫡男・綱寛です。

◆尼子氏隆盛のころ、尼子十旗といわれる城が出雲部にありますが、この高瀬城もその一つです。

◆尼子氏はもともと今の彦根市付近にある「尼子」というところから出雲国守護代としてやってきています。その関係もあって、米原氏も同じく彦根市の隣・米原(まいばら)市から、尼子氏の被官としてやってきています。
 尼子経久から孫の晴久までが尼子氏の最盛期で、永禄5年(1562)には、米原氏も他の国人領主と同じく、毛利氏に与していきます。そして、毛利氏の一軍として九州豊後・大友氏との戦いまで従軍していきますが、永禄12年(1569)尼子勝久を立てた山中鹿之助ら尼子再興軍が、隠岐から出雲に入国すると、いち早く米原綱寛は尼子に復帰します。
◆詳細な記録は不明ですが、当時毛利軍の一員として福岡県の立花山城(立花道雪)を攻めていた綱寛が、どうやって自分たちだけ、立花山から戦線離脱できたのか、なんとも不可解です。どうやら、毛利氏としては、尼子再興軍の征伐の先鋒として、綱寛に命じたようですが、毛利方の思惑とは裏腹に、綱寛が地元に戻ったとたんに、尼子に復帰したわけです。このときの毛利方(吉川元春ら)の地団駄踏んだ表情が目に浮かびます。
◆しかし、その尼子再興軍の米原氏も元亀2年(1571)3月、高瀬城は落城。綱寛は松江・法吉町にある真山城へ逃れますが、そこも同年8月落城。鹿之助らはさらに逃亡します。

 綱寛は、真山城落城のあと、京都へ出て仏門に入ったといわれていますが、地元にはそのまま残っていたような記録もあり、なんとも言えません。
 
☆なお、この高瀬城については、今後ももう少し詳しく紹介していきたいと思います。
【写真左】高瀬城本丸跡
 全体が岩の塊のような形状で、削平されたというより、踏みつぶした結果フラットな面ができた、というような形です。
 この場所は「大高瀬」と呼ばれるつめ(甲)の丸で、高瀬城跡の最南端になります。








【写真左】高瀬城本丸跡から東南東方向に見える、加茂の高麻山城

 この城も、尼子十旗の一つで、大西氏、鞍掛氏の居城だった。一時期毛利と戦った際、破れて高瀬城へ敗走している。
(写真が小さいからわかりずらいが、中央のとがった山である)

2008年12月30日火曜日

但馬竹田城



☆写真:但馬(兵庫県)の竹田城

◆登城日 2006年9月16日
◆史跡指定 国指定史跡
◆形態 山城(標高:353.7m)
◆築城期 永享3年(1431年)
◆築城者 太田垣光継
◆城主 太田垣氏,桑山重晴,赤松広秀
◆所在地 兵庫県朝来市和田山町竹田(虎臥山)
◆別名 虎臥城(とらふすじょう、こがじょう),安井ノ城
◆現状・遺構 天守台、石垣、曲輪、井戸跡、竪堀、模擬城門

 まさに日本のマチュピチュ。日本山城の最高傑作で「天空の城」とも云われている。
雲の上に忽然と石垣群が顔を出している風景は絶景である。
そんな光景を見るためには、早朝に隣にある朝来山にのぼって、しかも下に雲海が漂っている時でないと、そうした風景は見られないとのこと。
2008年秋に、地元日本海テレビの番組で、その光景が放送された。

なお、竹田城へは、車でもかなり上まで登ることができ、駐車場(10台ぐらい)も完備されている。

この雲海の上に石垣が顔をのぞかせるような山城として考えられるのは、石見(島根)の津和野城もその可能性がありそうだが、そうした写真をまだ見たことがないので、なんともいえない。

◆この城の歴史
 永享3年(1431年)「山名四天王」の一人・太田垣光継によって築かれた安井ノ城がはじまりと云われる。
 戦国時代になると、山名氏の勢力が衰え、毛利氏に近付くが天正8年(1580年)但馬に侵攻した羽柴軍により落城した。その後二転三転し、秀吉により赤松広秀が入封した。
その後、広秀は朝鮮の役にも派兵し最終的に二万二千石を領した。
 関ヶ原合戦で西軍に属し丹後国田辺城を攻め途中で西軍敗北の報を受け引き上げた。 因幡国鹿野城主亀井滋矩から西軍の因幡国鳥取城攻めの援軍を要請されこれに応えて鳥取城を攻略した。
この時、徳川家康は鳥取城城下町に火を放ち延焼させた罪を問い詰め、これを亀井滋矩が広秀になすりつけた為、広秀は自刃して果てる。
 城は太田垣氏時代の土塁造りから羽柴・赤松時代に石垣造りに改修されたと云われる(参考:城郭放浪記より)