2016年3月24日木曜日

黄金山城(岡山県高梁市成羽町吹屋下谷)

黄金山城(こがねやまじょう)

●所在地 岡山県高梁市成羽町吹屋下谷
●別名 小金山城・古金山城
●高さ H:491m(比高50m)
●築城期 天文年間(1532~54)又は永禄年間(1558~69)
●築城者 吉田六郎兼久
●遺構 竪堀・郭・井戸跡・石垣・堀切等
●備考 銅山、国指定重要伝統的建造物群保存地区
●登城日 2016年3月15日

◆解説(参考資料 HP「備中高梁情報ステーション」等)
 前稿備中・坂本城(岡山県高梁市成羽町坂本 西江邸)から東に枝分かれする県道85号線を登っていくと、銅山やベンガラで有名な吹屋の街並みに入る。この地区は昭和52年に「鉱山町」として重要伝統的建造物群保存地区に選定され、町並みはベンガラ色に染まる建物が通りを彩る。

 吹屋は千枚・中町・下町・下谷の4地区で構成されているが、このうち、中心部から少し東の位置に当たる下谷・白石地区に黄金山城が築かれている。
【写真左】黄金山城遠望
 南側から見たもので、中央の通りも吹屋重要伝統的建造物保存地区にあたる。

 黄金山城は、東西に挟まれた谷の中央部に突出した舌陵丘陵上に築かれている。


 現地の説明板

“黄金(こがね)山城(小金山城・古金山城)

 後方の小高い山を黄金山といい、城が建っていた。(現在は石垣のみが残る。)
 永禄年中(1558~1569)山陰尼子家の武将吉田六郎兼久当城開基、吹屋の銅山を支配する。
 後、毛利に攻められて戦死。兼久の廟塔中町の裏手にあり、人称して郷名(地名)を石塔、後に関東と名付けられた。
 川向かいに大塚屋敷があり、往時この辺りは吹屋の要所であった思われる。
【写真左】黄金山城の南端部と説明板
 当城南端部で、左側が黄金山城。
 その南麓部には幅15m前後の空き地があり、道路脇には説明板が設置されている。


銅山別記
 この裏の北側を大深谷(おおぶかだに)といい、銅山発生の地であり、大深千軒といわれるほど、大いに繁栄していた。

 まかねふく  吉備の中山帯にせる。
             細谷川の昔のさやけさ。「備中府志より」”
【写真左】黄金山城の位置
 吹屋地区の要所に設置されている「吹屋ふるさと村観光案内板」に記載されているもので、文字が少し小さいが、黄色で囲んだ箇所が黄金山城の位置を示す。


【写真左】黄金山城鳥瞰図
 踏査した記憶を頼りに描いたもので、規模は南北を軸線に300m余の長さを誇り、郭幅は20m前後と小規模なものである。
 麓を走る県道85号線は、当時(戦国期)と同じルートだったと思われる。

 なお、同図の川は県道85号線と並走しながら南下し、宇治本郷に繋がり、島木川となって、鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原)の北麓で成羽川と合流する。



吉田六郎兼久

 上掲した現地の説明板では、築城期を永禄年中としているが、『御山鏡(おやまかがみ)』という史料によれば、尼子氏が当地・吹屋を支配したのは、すでに天文年間(1532~54)であったという。そして築城者は尼子家の武将・吉田六郎兼久とされている。

 尼子氏家臣団で吉田氏といえば、川手要害山城(島根県安来市上吉田町)でも紹介したように、古くから同氏に仕えた一族で、この戦国期に吹屋に赴いた六郎は、出雲吉田氏始祖と同じ名前を名乗っているので、同氏嫡流であろう(吉田兼久の墓(岡山県高梁市吹屋町)参照)。
【写真左】西側の斜面
 黄金山城は50m前後の比高差しかないが、先端部(南側)から北にかけて東西の斜面は天険となっている。
 写真は北側から先端部(南側)を見たもの。
 唯一登れそうなのが、北側に向かった切通し側になるため、このあと北に進む。


 ところで、出雲尼子氏がもっとも隆盛を誇ったのは天文年間であり、このころから備中・美作方面に盛んに進攻し、しばらく支配下に治めている時期でもある。

 この中で最も知られているのは、美作の高田城攻め(美作・高田城(岡山県真庭市勝山)その1参照)だが、備中においては紫城(岡山県高梁市備中町平川後北)でも述べたように、天文9年(1540)の段階で、紫城主平川氏が尼子氏から毛利氏へと鞍替えするとき、それを阻止するため尼子氏の被官・米原(米倉は誤記)平内正勝が戦っており、また吹屋から島木川を南下した宇治地区の国人領主・赤木氏が、天文9年以前に尼子氏に属していることなど、そのころは備中の主だった地区を支配していたと考えられる。

 また、美作・備中の支配に一定の目途がたったのだろう、天文5年(1536)12月26日付で、尼子経久は、近江国の浅井亮政(小谷城・その1(滋賀県長浜市湖北町伊部)参照)にその戦況を報告している(「江北記」)。
【写真左】切通から登る
 北端部で東西に横断する林道を登っていくと、峠付近でなだらかな尾根を確保できる。
 おそらくこの道は、当時堀切であったと考えられる。

 右が黄金山城北端部で、左側の山も中世には銅山としての坑道があったようだ。


大塚家

 ところで、吉田六郎兼久が当城を築いたころ、併せて銅山を開坑し山師としての鉱業経営も図っている。尼子氏がこのように美作・備中国の山間部まで進出した理由は、一義的には領国拡大を狙ったものだろうが、実利的な側面を見ると、やはり備中の銅採掘がもたらす富がそこにあったものと推察される。
【写真左】井戸跡か
 北端部の東斜面には小規模な郭段が残るが、尾根側に岩でかこまれた大きな窪みがある。おそらく井戸跡と考えられる。



 ちなみに、ほぼ同じ時期と思われる天文6年(1537)8月、尼子経久は石見銀山攻略を計り、それを手中に収めている。

 ところで、吉田兼久が黄金山城の周辺部で銅山を経営する際、請負人となったのが大塚孫一・松浦五右衛門らで、後に地元吉岡銅山経営などで成功したのが大塚家である。
【写真左】竪堀
 写真ではあまり明瞭でないが、西側斜面には浅い二条の竪堀が残る。
 因みに東斜面も探してみたが、こちらには竪堀は残っていない。もっともこちらの斜面は急傾斜が多いため必要なかったかもしれない。


毛利氏の吹屋攻略

 さて、尼子将の吉田兼久が後に毛利氏の攻略によって戦死することになるが、その時期については上掲した説明板には触れられていない。状況を考えると、尼子氏の居城・月山富田城が落城した永禄9年(1566)から翌10年ごろと推察される。
 なお、吹屋銅山の請負人であった大塚家などは、毛利氏の代になってもそのまま当地に留まり、銅山経営を続け、江戸期の繁栄に繋がっていくことになる。
【写真左】主郭付近
 尾根伝いに南に進んで行き、ほぼ中間地点にいくと、約5m前後高くなった段が構成されている。
 ここが主郭と思われ、小さな祠が祀ってある。
「◇建 城址 麻利天神社 願主 辰生男 堀新市◇」と書かれている。

なお、この一画だけ北から東にかけて高さ50cm程度の土塁が残る。
【写真左】低くなった段
 主郭から少し南に進むと、西側半分の幅で低く加工された段がある。
【写真左】西麓を見下ろす
 登城口に向かう前に歩いた西側の谷が見える。また、川を挟んで対岸に建立されている本教寺の屋根もかすかに見える。
【写真左】南端部
 先に進むにつれ幅は狭くなるが、平滑面は維持されている。
【写真左】南突端部
 先端部は多少の曲線を残して切崖をなしているが、この辺りの側面はすべて険峻な状態となっている。
【写真左】下山後、再度遠望
 冒頭の写真より近づいて撮ったもので、手前には伝統的建造物保存地区の家が建つ。

2016年3月16日水曜日

備中・坂本城(岡山県高梁市成羽町坂本 西江邸)

備中・坂本城(びっちゅう・さかもとじょう)

●所在地 岡山県高梁市成羽町坂本1604
●別名 坂本村山城
●備考 西江邸
●築城期 戦国時代
●築城者 西江大蔵清成
●城主 西江氏
●高さ H:330m(比高70m)
●遺構 石垣・近世建築等
●登城日 2014年11月24日
 
◆解説(参考資料 HP「奥備中 西江邸」等)
 本業とは別に、晩年はライフワークとなった放浪芸など、芸能の歴史を研究し続け、自らはその話芸に独特の境地を開いた多才な俳優がいた。小沢昭一氏である。1973年から2012年まで放送されたラジオ番組「小沢昭一的こころ」は、ほとんど車の運転中に聴いていたが、絶妙の話芸に陶酔し、笑ったり、時には涙腺が緩んだりと、随分と楽しませていただいた。
【写真左】西江邸(備中・坂本城)
 現在の姿は宝永2年(1705)、郡中惣代庄屋になったころ建てられた建物が基礎となっている。
 因みに、その2年前の元禄16年は、赤穂浪士46(47)名が切腹を命じられている。


 ところで、小沢氏最後の映画出演となったのが、2007年封切りの映画「釣りバカ日誌18」だったと思う。この映画では、岡山で政財界に強い影響力を持つ陰の実力者・渋谷剛三という役で出演している。
 その中で、渋谷の屋敷という設定で、歴史のある豪邸が紹介された。これが室町末期より当地に居住し、地方豪族として、戦国時代から江戸時代にかけて隆盛を極めた「西江邸」である。

【写真左】案内図
 現在地と書かれた箇所にあるもので、色が大分薄くなっていたため、管理人によって加筆している。
 上方が北を示す。
【写真左】吹屋に向かう県道85号線から坂本城を俯瞰する。
 坂本から分岐して吹屋に向かう県道85号線は急坂道の九十九折れとなるが、途中から天神山や、西江邸が俯瞰できる。




西江邸

 備中(岡山県)高梁市成羽町には、江戸期にベンガラ製造で栄えた吹屋地区がある。吹屋から県道85号線を西の坂本川沿いに降っていくと、県道33号線(吹屋街道)と合流するが、この場所が坂本という地区である。そして、交差点から少し南に向うと、「西江邸」という看板が見える。
【写真左】バス停前の案内標識
 南北に走る吹屋街道(県道33号線)の脇に看板があり、道路を挟んで反対の東側に専用駐車場が設置されている。
 車はここに停め、歩いて西江邸に繋がる坂道を登っていく。
【写真左】駐車場側から西江邸方面を見上げる。
 手前の道が吹屋街道で、高台に見えているのは西江邸の屋敷ではなく、広い平坦地に南北に長い建物(何らかの施設か)が建っている。
 西江邸はこの建物のさらに上の段に建てられている。



初代・西江大蔵清成と
       坂本(村山)城

 西江氏の家譜によれば、出自は関東の三浦氏とされる。
 三浦氏といえば、隣接する美作・高田城(岡山県真庭市勝山)の三浦氏が、既に南北朝時代に足利尊氏から教書を送られており、当城の三浦氏は鎌倉時代に遡ったころ既に当地(美作)に下向していたとされるので、西江氏も実際には南北朝期に、美作三浦氏の分流となり、備中国成羽に赴いたものだろう。
【写真左】西江邸に向かう坂道
 車は道路側の駐車場に停めて、歩いて向かう。北側の谷に設置された急坂道で、高低差があるため、途中で何度も休憩をとった。


 初代・西江大蔵清成はこの坂本に住み、山城(坂本村山城)を守る地侍となり、天正の乱で武勲を挙げ、毛利輝元より200町歩の土地を与えらえれた。関ヶ原の戦いで毛利氏敗退により、武士を捨て帰農した。
 江戸時代に入ると、この地は天領となり、西江家は1705年、郡中惣代庄屋として代官御用所となった。
【写真左】古墓群
 ほぼ登りきったところで、左側にご覧の墓石群が見えた。
 五輪塔や宝篋印塔形式のもので、おそらく散在していたものをこの場所に集めたものだろう。
 西江氏一族のものと思われる。


 現在の西江邸には、今も第18代当主が居住され、当時の館構えのまま、白洲(しらす)、郷蔵、駅馬舎、手習い場など往時の姿をそのまま残している。

 さて、初代清成が地侍となったとき、坂本村山城という山城を守ったと記されている。西江邸が坂本城であることを標記するものは現地にはなく、また具体的な史料も今のところ見出されていない。

 しかし、探訪したこの日、同氏18代当主の奥様にお会いし、そのことを確認したところ、当屋敷(西江邸)の前身は坂本城であったと聞いています、との返事だった。
【写真左】入口付近
 凡そ200m程登っていくと、やがて風格のある門が出迎えてくれる。
 現在は写真のように石積で高くし、舗装された道路となっているが、当時はこのあたりまで郭段が構成されていたのだろう。


 このことから、件の山城そのものが現在の西江邸を中心とした高台であったと思われ、居城としていたと考えられる。
 ただ、比高がさほど高くないため、平時はこの城郭(坂本城)にあって、有事の際の詰ノ城は、さらにここから尾根伝いに登った天神山(H:777m)もしくは、その尾根筋上にあったのかもしれない。
【写真左】門手前から振り返る。
 写真左に西江邸の建物があり、右側の登ってきた道との間は、ごらんのような大きな窪みがある。
【写真左】井戸跡か
 上の写真にも見えているが、道路脇の下には板で蓋をした四角いものが見えている。おそらく井戸跡と思われる。
【写真左】北側に延びる平坦部
 ほぼ登りきったところの東側には、北に向かって次第に細く伸びた郭状のものが残る。

 城郭の時代にはこの辺りが一番街道筋を俯瞰できるので、物見台があったかもしれない。
 この一角に朽ち果てた祠があった。

 邸内を見学(有料)したあと、坂を下りて東側の谷に向かう。
【写真左】北側の谷
 写真に見える川は、坂本川でここから左に向きを変え吹屋街道と並行して南下し、成羽川と合流する。
 西江邸は写真中央部樹林の奥にある。
 この川が濠の役目をしていたものと思われる。

 
【写真左】辰口八幡神社
 川を挟んで北側には辰口八幡神社が祀られている。

 弘安2年(1279)豊後国(大分県)の宇佐八幡宮の御玉串をいつき帰り、龍ノ口山に鎮祀したのに始まるという。

 弘安2年といえば、文永の役(1274)と弘安の役(1281)の間にあたり、その間に朝廷が全国の諸社寺に対し、異国降伏の祈祷を命じている。
 坂本の辰口八幡社創建期は不明だが、西江氏が関わった可能性が高い。

 なお、龍ノ口山というのは、現在の岡山市中区四御神にある標高256mの山で、北峰に龍の口神社が祀られている。
【写真左】龍之口八幡宮
所在地:岡山市龍之口山国有林
参拝・登城日:2020年6月20日

 当社は戦国時代の山城・龍之口山城として地元国人領主・穝所氏が居城とした。
 宇喜多直家と松田氏の争いにおいて穝所氏は松田氏に与したが、直家の謀略によって城主穝所元常は殺害された。
 本殿のある箇所が本丸といわれている。



【写真左】辰口八幡神社から西江邸側を見る。
 上の段にさきほどの道があり、かなりの高さを感じたが、下から見るとさらにその険峻さを再認識させられる。

2016年3月10日木曜日

高橋右京進館跡(愛媛県西条市喜多台)

高橋右京進館跡
          (たかはしうきょうのしん やかたあと)

●所在地 愛媛県西条市喜多台
●築城 元亀2年(1571)か
●城主 高橋右京進
●遺構 祠等
●備考 藤森神社
●登城日 2015年3月23日、2016年2月21日(藤森神社)

◆解説(参考資料 『日本城郭体系第16巻』、『愛媛県の歴史』山川出版社、HP『レファレンス協同データベース』『城郭放浪記』その他)

 前稿鷺ノ森城(愛媛県西条市壬生川)でも述べたように、今稿では高橋右京進館跡を取り上げたい。当館跡は鷺ノ森城から西に約1キロほど向かった喜多台地区に残るものである。
【写真左】高橋右京進館跡
 広々とした田圃の一画に祠を祀る。
 中央の墓石のようなものはおそらく五輪塔形式のものだったのだろう。
【写真左】高橋右京進館跡・藤森神社の配置図
 前稿でも述べたように、このあたりも中州状の地勢であったと思われる。





高橋右京進

 元亀2年(1571)、妙口剣山城主黒川美濃守と、新居郡金子山城主金子備後守らは、鷲ノ森城主壬生川摂津守を襲撃した。それまでも度々両者は鷺ノ森城を攻めていたが、壬生川摂津守は何とか持ちこたえていたものの、ついに元亀2年の攻撃では落城も時間の問題とみられていた。
【写真左】遠望写真
 北側から見たもので、小祠を祀る小屋がポツンと田圃の脇に立つ。

 土地改良された関係から当時の面影は殆ど消滅しているが、おそらくこの周囲が館跡・敷地だったのだろう。


 時の城主壬生川通国は、安芸の毛利氏と来島城(愛媛県今治市波止浜来島)の来島氏に援軍を要請した。毛利氏側から派遣されたのが、高橋右京進を将とする軍勢であった。戦いは右京進などの活躍もあり、壬生川氏が勝利した。そして、この戦功によって右京進は当地喜多台を与えられ、この地の開発に努めたという。

 現在その喜多台という地区の田圃の脇には、高橋右京進館跡が残されている。また、彼がそのころ建立したとされる藤森神社も近くに残っている(後段参照)。
【写真左】石碑
「高橋右京進館跡」と刻銘された石碑が左側に建つ。

 この横面には「昭和31年 壬生川史談会」と筆耕された文字が見えるが、もう一つの石碑には「明治27年3月吉日」と記された石碑も建立されている。

 従って、代々この地が高橋右京進の館であったと言い伝えられてきたのだろう。





 さて、この高橋氏(右京進)は、毛利氏側から派遣された武将だという。また、その時期は元亀2年(1571)であったと記録されている。元亀2年といえば、毛利元就が亡くなった年である。

 この前年、元就は長年の宿敵であった出雲月山富田城攻めにおいて、病を押して自ら出陣していたが、9月に病状は悪化し、輝元・小早川隆景を伴い、安芸吉田郡山城へ帰国した。そして、翌2年6月14日、ついに元就は75歳をもって逝去した。一週間後の同月21日、輝元・隆景らが葬儀を取り仕切った。
【写真左】館跡から瓶ヶ森を見る。
 北側から見たもので、後背には石鎚山脈の一つ瓶ヶ森(かめがもり:1,897m)が控える。




 このように、この年(元亀2年)における毛利氏の動きは、元就の死去ということもあって表立った動きは少ない。

 強いて言えば、その後尼子氏との戦いを任された吉川元春が出雲で奮戦し、弟の小早川隆景がこの年の春、備前児島での戦いなどを行っているが、途中で元就危篤の報を聞いた隆景は一旦安芸に戻っている。

 そうした状況下での、伊予壬生川氏からの毛利氏に対する支援要請である。支援要請の具体的な時期については記録がないが、どちらにしても毛利氏としては本格的な軍団を派遣する環境下ではなかったと考えられる。
【写真左】館跡から世田山(城)を見る。
 北に目を転ずると、今治市との境に聳える世田山城(愛媛県今治市朝倉~西条市楠)が見える。



益田藤兼と毛利氏

 このことから、毛利氏側としては、直属の譜代家臣らを伊予に派遣させず、他の一族で毛利氏傘下にあった者に命じた可能性が高い。そこで白羽の矢を立てられたと考えられるのが、石見益田氏である。
【写真左】益田氏の居城・七尾城
 








 弘治3年(1557)4月3日、元就は長門国勝山城にて大内義長を攻め、義長は自害することになり、ここに大内氏が滅ぶことになるが、その直前まで大内方に与していた益田藤兼は、3月23日に至って大内氏から毛利氏へと服属している。

 この後、益田藤兼の二男と吉川元春の女子が縁組を行う(永禄10年・1567)など毛利氏一族と益田氏の関係は強くなっていった。

 そこで、元就の危篤・逝去という毛利氏にとって重大な局面に対し、益田氏が協力していったことは十分に考えられる。そして、鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)で紹介した高橋氏(庶家)が益田氏の命を受け、伊予に渡ったという可能性も十分想像できる。

 ただ、残念ながら毛利氏が益田氏に対し、伊予丹生川氏支援要請をした記録や、益田氏が高橋(地頭)氏と、この件に関して契約したような記録は、『益田家文書』などには残っていない。

藤森神社

 右京進が建立したとされる神社である。場所は高橋右京進館跡から南西の方向約300mの地点にあり、境内の前は現在遊園地のような施設が併設されている。
【写真左】藤森神社
 右側には「藤森荒魂神社」と銘打った石碑が建ち、安政年間に建立された鳥居が残る。

 なお、石碑の裏には総代の名簿が記されており、この中には「高橋姓」の名も見える。


 神社の名称が、鷲影神社であれば、上述したように益田氏の家臣であった高橋氏であることがほぼ確実なのだが、残念ながら藤森神社という名称である。

 藤森神社として有名なのは、京都市伏見区深草鳥居崎町に所在するものだが、高橋氏との関係は分からない。
【写真左】拝殿
 規模は小さいが、当社では「藤まつり カラオケ歌謡際」といったイベントが定期的に行われているようだ。

 また、左側の壁には「藤森の歌」という歌詞が掲げられ、「…右京進が庵を建て社をまつる荒魂の昔を語る藤の花…」といった詩が綴られている。
【写真左】本殿
【写真左】奈良原神社
 藤森神社境内に合祀された社で、おそらく今治市の楢原山山頂に祀られている楢原(奈良原)神社を勧請したものだろう。

2016年3月6日日曜日

鷺ノ森城(愛媛県西条市壬生川)

鷺ノ森城(さぎのもりじょう)

●所在地 愛媛県西条市壬生川町三津屋
●別名 鷺の森城
●築城期 応永元年(1394)
●築城者 桑原河内守通興(河野通之)
●城主 壬生川氏(桑原氏)・壬生川通国・三郎兵衛
●形態 平城(海城)
●高さ 海抜3m
●遺構 濠・土塁
●備考 鷺森神社
●登城日 2016年2月21日

◆解説(参考資料 『日本城郭体系第16巻』、『愛媛県の歴史』山川出版社、HP『レファレンス協同データベース』『城郭放浪記』その他)

 鷺の森城は燧灘(瀬戸内海)に面した現在の西条市壬生川(にゅうがわ)町にあり、西側には国道196線やJR予讃線が走っている。
 室町時代に築かれたという鷺の森城は、当時海に面していた城郭で、現在でも比高3mという場所に所在している。
【写真左】鷺ノ森城
 現地は鷺ノ森神社となっており、入口には鳥居が建立されているが、その左側の石碑に「鷺森城跡」と刻銘された石碑が立つ。
【写真左】鷺の森城・大曲砦等配置図
 現在、鷺の森城を含めた西条市壬生川付近は、殆ど干陸化された街並みを形成しているが、中世のころは左図のような不揃いな河川が流下し、中洲状の地勢であったと考えられる。

 また、燧灘海岸部における干満差は3m前後であったことから、後段で示す大曲川の中流部・大曲砦辺りまで、満潮時は海であったと推察され、このことから、当時(中世)の戦は、いわゆる船戦さ(ふないくさ)の形態が多かったのではないかと思われる。


 応永元年(1394)、伊予国の守護職であった河野通之が、家臣であった桑原通興に命じて鷺の森に土居構えの城を築いたという(『東予市誌(東予市刊 1987)』)。

河野氏惣領家と予州家の争い

 応永年間というのは、室町幕府将軍・足利義満が将軍職を辞任し出家する(応永2年:1395)ころだが、実際には義満がこれ以降がもっとも大きな力を誇示する時期でもある。
【写真左】北側から見た鷺の森城
 手前の船着場のような水路は、当城が築城された当時は、南側を流れる大曲川の支流と考えられ、南北両川が濠の役目をしていたものと推察される。

 なお、左側に見える水門の先には、鷺の森城の東側に残る濠が繋がっている(下段の写真参照)。


 さて、この当時伊予国の守護職は、湯築城(愛媛県松山市道後湯之町)を本拠とする河野氏惣領家で、通之の兄・通義である。彼もまた前稿鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)でも紹介した石見益田氏と同じく、室町幕府のいわば外様守護的立場であったため、明徳の乱など、各地で勃発した騒乱鎮圧があるたびに幕府の命を受け、出兵を繰り返していた。
【写真左】東側の濠跡
 上記水門に繋がる濠跡で、探訪したこの時間は干潮時だったようで、底が露出していた。
 右側が鷺の森城。
【写真左】南側の濠跡
 この状況から判断すると、当城の海抜は3m前後になるだろう。
 右側が鷺の森城。







 河野氏がこのような任務に就かざるを得なかったのは、隣国の讃岐国を治めていた足利一門の細川氏が、次第に東予区域まで侵攻し出し、それを食い止める方策の一つとして、河野氏が幕府に働きかけをしていくのだが、その代償としてのものだった。

《河野氏系図》
           (惣領家) 通義 → 通久 → 教通(通直)
 通堯(通直) ⇒
           (予州家) 通之 → 通元 → 通春

 しかし、応永元年(1394)、その通義はついに病魔に侵されてしまった。『予章記』によれば、死に際に弟で河野氏予州家の通之に家督を譲ることを決意、その際その頃懐妊中だった通義の妻が男子を産んだならば、その子が成人するまで後見し、以後はその子に家督を相続させるように言い残した。通義亡き後産まれたのは通久である。

 通之は兄の遺言通り、惣領家の嫡男通久が応永13年(1406)に元服すると、家督を通久に譲り、その報告と承認を兼ねて上洛を果たした。
【写真左】鷺の森神社の楠
 境内にはご覧のような楠の大木が植わっている。
 西条市指定文化財・天然記念物で、樹高約25m、胸高幹周6.1m、樹齢600年余りといわれているので、鷺の森城築城後間もない頃に植えられたものだろう。


 しかし、その後、通之とその子・通元の父子(予州家)は、惣領家通久に敵対するようになる。
 いわば分家が本家に敵対した形で、具体的な理由は記録に残っていないが、そもそも通之・通元といったこの名前から推察するに、細川氏からの偏諱(細川頼之・頼元)による可能性が高く、予州家が細川氏に与同していったことを示すものだろう。
【写真左】鷺の森神社本殿
 現在も氏子の皆さんによって定期的に祭礼が行われているようだ。







 ところで、河野氏の宗家、すなわち惣領家は前述したように、その頃本拠地を湯築城に置き、通之ら予州家の本拠地は、現在の伊予灘に面した三津浜(湊山城)周辺で、おそらく水軍領主としての側面も持っていたものと思われる。

 この後、惣領家と予州家の争いは、次の代の教通と通春まで続き、このため同国内における河野氏の分国支配体制は確立できないまま、戦国時代を迎えることになる。

戦国期

 戦国期の享禄年間から天正年間のころになると、鷺の森城は金子山城(愛媛県新居浜市滝の宮町)の金子元宅や、小松町妙口の剣山城主黒川氏などから度々攻撃を受けた。特に、元亀2年(1571)には、金子・黒川の両陣営による猛攻撃を受け、落城の危機に瀕した。

 このとき、鷺ノ森城主であった壬生川通国は、中国の毛利氏と来島城(愛媛県今治市波止浜来島)の来島氏に救援を求めた。これに対し、毛利氏は家臣の高橋右京進を将とする軍勢を派遣させ、落城は免れたという。なお、壬生川氏は、桑原通興が当城に入ったのち、当地名であった壬生川を姓とし、桑原から壬生川に改姓している。
【写真左】大曲砦
 所在地:西条市周布(しゅう)
 大曲砦は鷺の森城の南側を流れる大曲川を約1キロほど登ったところにあり、住宅と田圃の脇に残るが、下の写真にもあるように、この砦も河川もしくは海を介した中州にあったものと思われる。
【写真左】大曲峠遠望
 北側から見たもので、砦跡には古木が植わり、明治時代にはこの場所が小社であったことが別の石碑に記されている。



 しかし、その3年後の天正2年(1574)、鷺ノ森城主・壬生川摂津守通光は、再び剣山城主黒川対馬守と戦い、城を出て大曲砦(写真参照)に陣を敷いたが、黒川勢が優位に立ち、摂津守は砦を出て、大曲橋を渡り、円海寺に入ろうとしたとき、黒川方の久米道清、首藤金世の両名に討たれた。
【写真左】近くを流れる大曲川
 大曲砦の付近で川は分岐し、写真の川が砦を囲むような配置になる。
 大曲砦はこの右の住宅の隣に位置している。





壬生川摂津守の墓

 大曲砦の脇を走る道路を北に進むと、円海寺地区に入るが、この場所に壬生川摂津守の墓が祀られている。
 この場所も田圃の脇にあって、写真のように墓と併せ小宮も併設されている。
【写真左】壬生川摂津守の墓遠望
 所在地:西条市円海寺
 大曲砦から北西約1キロ隔てたところにあって、この近くには地区名である円海寺に因んだ円海庵という寺院が所在する。また、この場所のほぼ真上を今治小松自動車道が走っている。

 写真は、北側から見たもので、コンクリート製の塀で囲み、緑色のテント式屋根が設置されている。
【写真左】摂津守の墓・その1
 熱心な地元信者の方々によって、綺麗な花が添えてある。おそらく毎日参拝されているのだろう。
 なお、この中には椅子やテーブルなどが常設されており、四国八十八ヶ所の遍路さんたちの休憩所も兼ねているのかもしれない。
【写真左】摂津守の墓・その2
 上の写真のように祭壇には多くの花・供物があるため、正面からは墓石が見えない。このため、裏に回って五輪塔を撮った。




 なお、元亀2年に応援に駆け付けた高橋右京進については、次稿で紹介することにしたい。