2016年2月20日土曜日

鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)

鷲影神社(わしかげじんじゃ)
     ・高橋地頭鼻(たかはしじとうはな)


●所在地 島根県益田市元町
●創建 長禄2年(1458)
●創建者 高橋頼之・頼久父子
●探訪日 2016年2月1日、11日

◆解説(参考文献『益田市誌』等)
  島根県益田市の市街地である元町には、鷲影神社という小さな社が祀られている。この社を創建したのは、前稿阿瀬尾城(岡山県新見市哲多町田渕)で紹介した高橋民部少輔貞春の流れを持つ「地頭鼻高橋家」である。
【写真左】阿瀬尾山 鷲影神社
 所在地 島根県益田市元町

 ご覧の通り、民家の隣で、その左側は崖となっている。




 手前の石碑には、「阿瀬尾山 鷲影神社」と刻銘されている。

 この場所は、益田市元町の南端部にあたる丘陵地で、周辺には階段状の団地が建ち並び、住宅地の脇に鎮座している。

 境内は小規模なものだが、その奥には石碑が建立されており、そこには備中阿瀬尾城から石見阿須那鷲影城に移り、さらには当地益田に下向してきた地頭鼻高橋家の由来を示す碑文が刻まれている。

鷲影神社(益田市元町)の碑文

“備中守護職松山城主高橋九郎左衛門尉光國 参河守時英事 元弘三癸酉年五月近江國番場合戦於六波羅探題北條仲時従嫡子時住太郎範時事、次子仲光次郎光時事共討死平田場峠蓮華寺葬光國之◇
 備中国阿哲郡田渕阿瀬尾城城主別名馬酔木城主高橋民部少輔貞春南北朝争乱之延文五庚子一月河内国干破釼合戦於討死

【写真左】碑文が刻まれた石碑
 本殿前の境内に建立されているが、時が経ったこともあり、筆耕された文字が部分的に潰れていたり、見難くなった箇所もある。


 嫡子高橋左近将監貞頼応永十五戌子年十月従兄石見國邑智郡阿須那藤掛城主高橋刑部少輔貞光之招応石見国邑智郡神稲郷大庭鷲影城主トナリ翌々応永十七癸寅年二月城内西之丸ニ鷲影城鎮護社創建守護神武内宿祢貞頼之曽祖父光國父貞春之三神祀ル
 貞頼之嫡子左近将監頼之◇民部少輔頼久父子嘉吉元辛酉年八月播磨赤松之乱後益田七尾城主益田越中守兼堯之招応鷲影城ヲ去り長禄二戌寅年益田庄上吉田郷移リ八幡原地頭家敷住百貫地知行三神祀鎮守社再建然処子孫高橋源四郎明治十癸未九月没被故有鎮守社廃絶今度高尾山地開発ヲ記念シ永年宿願之当鎮守阿瀬尾山鷲影神社ヲ再建ス
 昭和四十九年十一月二日 上吉田 地頭鼻 高橋正喜“
(註:◇・判読不能個所)
【写真左】鷲影神社本殿 ご覧の通り本殿は1間ほどの幅をもった小さなもので、昭和49年に再建されているようだ。





 一部判読不能な箇所もあって明瞭ではないが、この碑文を要約すると概ね次のような内容と思われる。

(要約)(途中から)
「…… 延文5年(正平15年:1360)、備中阿哲郡の田渕にある阿瀬尾城(馬酔木城)の城主であった高橋民部少輔貞春は、南北朝動乱において河内国の合戦で討死し、その後嫡子・貞頼は、父の死から40年余り経った応永15年(1408)10月、石見阿須那藤掛城主・高橋貞光の招きで近接の神稲郷大庭の鷲影城主となった。2年後の応永17年(1410)正月、鷲影城の西の丸に守護神として、武内宿祢貞頼・曽祖父光國・父貞春の三神として当城鎮護社守護神を祀る。

 嘉吉元年(1441)の乱において、頼之・頼久父子播磨に参陣、その後益田兼堯(かねたか)の招きで鷲影城を去り、長禄2年(1458)、益田庄上吉田郷に移り、八幡原地頭となり、100貫の知行を受け、三神祀鎮守社を再建した。然しその子孫高橋源四郎が明治10年に没し、鎮守社も廃絶した。この度(昭和49年)高尾山地開発を記念し、長年の願いであった当鎮守阿瀬尾山鷲影神社をここに再建する。

       昭和49年11月2日 上吉田 地頭鼻 高橋正嘉 」 
(以上 ※下線管理人による)

 上述した要約文でほぼ高橋貞春以降の流れが分かると思われるが、これをもとに順を追って足跡を整理したい。

高橋貞頼、阿須那に来住

 前稿の阿瀬尾城(岡山県新見市哲多町田渕)でも述べたように、貞春が河内国で戦死してから約40年余り経った応永15年(1408)10月、師光嫡男の石見阿須那藤掛城主・高橋貞光の招きで、貞春嫡男・貞頼は藤掛城の東隣神稲大庭の鷲影城主となった。

 おそらく、貞春が戦死したころ、貞頼は生まれて間もない幼児であったのだろう。従って、貞頼が阿須那に来住したときは既に40代半ばの年齢であったと思われる。
 このころ、高橋氏惣領・貞光は、藤掛城からさらに出羽の肥沃な上流部方面へも触手を伸ばしていった時期である。

貞頼、鷲影城を築く

 貞光の代になると、出羽氏の領地を次々と攻略、別当城(島根県邑智郡邑南町和田下和田)並びに、二ツ山城(島根県邑南町鱒淵永明寺)を手中にしたとことにより、貞光は拡大した領地の守備堅持を確保するため、甥の貞頼には同氏支配地の東方を扼する任務を与えるため鷲影城を築かせたと推察される。
【写真左】鷲影城と軍原を遠望する
 所在地:邑南町 阿須那 大庭、戸河内

 鷲影城の標高は415mなので、西隣のH・354mの藤掛城より60m余り高い。以前登城を試みたが、登城口がどのあたりなのか不明で断念した。郭・帯郭・堀切・竪堀など遺構の種類も多いようだ。
 写真の左側には出羽川が流れ、その対岸に興光が自刃したといわれる軍原古戦場(キャンプ場)がある。
 なお、貞頼らが鷲影城を居城としていたころの屋敷は、この写真にみえる大庭地区であったと考えられる。


 そして、鷲影城を築いて間もない応永17年(1410)正月、貞頼は当城西ノ丸に守護神として、同氏元祖とされる武内宿祢貞頼、曽祖父光國、そして父貞春を三神として崇め、当城鎮護社を祀った。これが後に益田に移った際の鷲影神社のもととなる。
【写真左】大庭の集落から鷲影城を見る
 西麓にある大庭の集落から見たものだが、左側に延びた舌陵丘陵部は、遺構の記録はないものの、この頂部に上がれば西方の藤掛城を見る位置にあるので、常時連絡用の物見櫓的なものが設置されていたのかもしれない。


嘉吉の乱

 嘉吉元年(1441)6月24日、播磨・備前・美作三国の守護であった赤松満祐は、将軍足利義教を謀殺した。直後幕府内に動揺が走り、混乱を極めたが、7月に至ってようやく満祐追討の命が出され、西国の諸将が発向することになった。このとき多くの西国武士が播磨・備前・美作方面に向かっているが、このうち石見国では益田兼堯が7月24日付で幕府から満祐追討の命を受けている。 また石見高橋氏では、上述したように鷲影城主であった頼之・頼久がこの戦いに参陣している。
【写真左】鷲影城本丸
 この写真は、2015年10月3日当地阿須那で行われた高橋氏660年記念事業の際、会場ロビーに展示されていた写真である。
 本丸跡には祠のようなものが鎮座しているようだ。





頼之、鷲影城を去り益田氏に仕える

 嘉吉の乱がおこったころの益田氏は、兼堯が第15代当主になって間もないころである。嘉吉の乱後、頼之・頼久父子は石見鷲影城に帰城していると思われるが、乱の17年後である長禄2年(1458)、頼之父子はこの益田兼堯の招きで益田庄へ移り、当地八幡原地頭となった。
【写真左】益田氏の居城・七尾城本丸から鷲影神社方面を俯瞰する。
 七尾城からは西方に直線距離で2キロ余りの地点に当たり、標高60mほどの丘陵地に建立されている。


 ところで、益田氏の招きとはいえ、なぜ鷲影城主であった頼之父子が、やっと住み慣れてきた阿須那を離れ、益田に赴いたのだろうか。惣領高橋氏にとっても、このころは石見・安芸の領国支配に向けて盛んに勢威を広げていく最中であり、他国の大名に対して、いわば身内同然の一族を与えるほどの余裕はなかったはずである。しかし、結果として頼之らは益田氏に仕えることになった。
【写真左】鷲影神社が祀られている高台を見る。
 写真は北麓の市民学習センター(旧石西県民文化会館)側から見たもので、高橋氏が来住する前は、益田氏の庶流益田兼家が赤城(せきじょう)を築いていた場所である。
 従って、高橋氏もおそらくこの赤城跡に居城を構えていたものと思われる。


 七尾城・その3でも述べたように、嘉吉の乱に際し、同年(嘉吉元年:1441)8月23日、兼堯は山名氏の一族山名道作の配下に属し、美作高尾の城(所在地不明)を落とし、細川持之から感状を受けたのを皮切りに、27日には東に進んで蟹坂(兵庫県明石市和坂)へ進撃したが、暫くそこに留まっている。その後は、九州へも発向している。この後も度々幕府の命によって各国(九州・中国・四国・畿内など)の戦地に赴いている。
【写真左】鷲影神社直下
 写真の高台右側に当社が祀られているが、この付近から急坂道となり、高低差が著しい。
 おそらく郭段が構成されていたのだろう。


 寛正4年(1463)12月20日、兼堯は戦乱平定により幕府に対し、帰国の願いを申し出た。しかし、幕府は再度の上洛を命じた(『萩閥7』)。兼堯は大げさに言えば、本貫地である石見益田に在居することはほとんどなく、戦に明け暮れていたと思える。こうした経緯を考えると、そもそも頼之父子は嘉吉の乱後、すぐには石見阿須那に帰城できず、かなり長い間、益田兼堯に随従・同行していたのではないだろうかとも考えられる。

高橋地頭鼻

 ところで、冒頭で紹介した「鷲影神社」から北に下がり、現在の益田市役所方面に向かうと、道路脇に「地頭鼻高橋本家地蔵菩薩」と呼ばれる地蔵菩薩が祀られている。
【写真左】地頭鼻高橋本家地蔵菩薩が祀られている小堂
 小堂の中には地蔵菩薩が納められている。








説明板より

“地頭鼻高橋本家地地蔵菩薩(通称赤城地蔵)
1、 建立の由来
 長禄2年高橋次郎左衛門尉頼久が、上吉田地頭となって8代子孫の吉左衛門頼勝の時、貞享3年倅新之助を亡くし、その供養のため正徳年間に地蔵菩薩を建立した。

 高橋本家は、次郎左衛門尉頼久より5代子孫の三郎左衛門尉頼泰の時、毛利氏に従って須佐に移住した益田氏の下を離れ上吉田に残り帰農し、以降「地頭鼻高橋家」と称した。
 明治になり地頭鼻高橋本家は休溢(現元町)の山手に屋敷を移したが、地蔵菩薩は建立場所(現市役所裏手)に留めた。

【写真左】正面からみた小堂
右には「子守子授け地蔵菩薩」、左には「地頭鼻高橋本家」と書かれた表札が掲げられている。





2、 近年の模様
 吉田地区における二大石造地蔵菩薩(赤城、今西)の内の一体であり、「子守子授け地蔵」として広く地域内外の信仰を集め、お参りが絶えない。
 特に次郎左衛門尉頼久より18代子孫の正喜は厚く敬い、毎年4月21日には先祖と共に供養を行っていた。現在も管理は地頭鼻高橋本家で引き継がれている。
(その経緯は「益田市史(矢富熊一郎著)370p~371p」、「益田市誌上巻(益田市誌編纂委員会)874p~875p」に記載されている)”

 以上のように、備中阿瀬尾城(馬醉木城)主であった高橋貞春の系譜は、石見阿須那(神稲大庭)の鷲影城へ入り、その後益田氏の招きで上吉田の地頭となっていくが、その後天正年間に至ると、頼恭(よりたか)は益田氏が毛利氏に属したことから、同6年(1578)の播磨上月城攻めに参陣している。

 なお、元亀年間、東予(愛媛県)の鷺ノ森城主・壬生川氏(河野氏家臣)が、周辺の諸豪に攻められたとき、毛利氏の命によって、救援に駆けつけた高橋某という将がいるが、次稿ではこれに関わる城址を紹介したい。


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嶽山城(大阪府富田林市龍泉)

2016年2月16日火曜日

阿瀬尾城(岡山県新見市哲多町田渕)

阿瀬尾城(あせびじょう)

●所在地 岡山県新見市哲多町田渕
●別名 馬醉木城
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 高橋民部少輔貞春(藤木)
●形態 丘城(城館か)
●高さ 510m(比高20m)
●遺構 郭
●備考 荒戸山観光レクリェーション施設
●登城日 2016年2月14日

◆解説(参考文献・資料 『日本城郭体系第13巻』『大和村誌』「鷲影神社碑文」等)
 前稿まで石見高橋氏の惣領、すなわち師光の系譜を中心として紹介してきたが、ここで師光の弟と思われる武将を取り上げたい。

高橋貞春

 その武将とは、高橋民部少輔貞春、別名藤太という人物である。これまで述べたように、師光が石見阿須那に下向する前に拠っていたのが、備中松山城(岡山県高梁市内山下)であった。これに対し、貞春は同国の北西部に当たる現在の新見市哲多町田渕を本拠としていた。そして、その居城とされているのが、阿瀬尾城、別名「馬醉(酔)木城」である。
【写真左】馬酔木城遠望・その1
 馬酔木城は、下段でもしめすように、その形態は丘城とされ、一般的な要害を誇る山城ではない。
 



貞春と師光などの関係

 ところで、『益田市誌』などには、貞春は師光の子として記されているが、状況を考えると、師光が息子を備中に残したまま、石見に下向することは考えられない。このため『大和村誌』にもあるように、父を光義とし、その子に師光・貞春・詮光の三兄弟がいたと考えられる。

 さて、貞春はその名前から推測すると、おそらく細川頼春(細川頼春の墓(徳島県鳴門市大麻町萩原)参照)から偏諱を受けたものだろう。すなわち、そのころ、武家方(尊氏・高師直派)の一員であったと考えられる。
【写真左】阿瀬尾城跡に設置された施設案内図
 現地にあった案内図で、上方が北方向を示す。案内図は大分劣化していたため、管理人によって分かりやすく修正したものだが、現在の南麓を東西に走る県道50号線のすぐ上に位置し、山小屋・コミュニティー広場といった辺り全体がおそらく阿瀬尾城の城域だったと考えられる。

 施設整備のため大幅な改変が為されたと思われるが、形態として丘城であったことを考えると、当時この場所が高橋貞春らの屋敷跡だったと推測される。

 
 兄師光が石見阿須那に下向して地歩を固めつつあったころ、弟貞春は延文5年・正平15年(1360)、5月、河内国千早赤阪(千早城(大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早)参照) に参陣するも武運拙く討死した(『太平記』)。

 この戦いは、当時南朝方として一翼を担っていた楠木正儀の拠る河内赤阪城などを幕府軍が攻略したものだが、すでにこのころ頼春は亡くなり、生前彼が後見していた細川清氏(白峰合戦古戦場(香川県坂出市林田町)参照)が率いて戦ったものである。
【写真左】グランドと屋内型運動場
 上記の案内図にはこの建物は描かれていないが、中はグランドゴルフなどができるようになっている。

 左側が入口で北になり、ここからさらに南側の施設に向かう。




貞春遺児・頼貞、石見阿須那に下向する 

 貞春が河内国で亡くなったあと、所領地であった備中国田淵はその後どうなったのか詳細は不明であるが、そのころから細川氏による守護職としての力が弱まり、秋庭氏(後期秋庭氏)などへ移りつつあったので、貞春没後の高橋氏は当地の支配は出来なくなっていったのだろう。

 貞春没後40年余り経った応永15年(1408)、彼の嫡男・頼貞は、石見阿須那の高橋貞光の招きで、神稲郷大庭の鷲影城主となった。
【写真左】山小屋
 この付近でキャンプを行うようになっていたようだが、現在では小屋も使用されず朽ち果ててきている。






阿瀬尾城(馬醉木城)

 さて、当城は写真にもあるように、現在地元民のためのレクリェーション施設となっており、遺構は殆ど残っていない。所在地を考えると、備中国の北西端部にあたり、備後国と接し、さらには伯耆・出雲両国とも近いため、貞春らは常に緊張した領国経営を強いられていたものと考えられる。
【写真左】南側の段
 小屋の南側に廻ってみると、東西に延びた段が確認できたが、当時のものか、近年のものか判断できない。
【写真左】忠魂碑
 小屋側入口付近に建立されているもので、城跡の碑かと期待したが、先の大戦における地元戦没者を慰霊したもの。




阿瀬尾城の文字

 一通り現地を踏査したが、現地には阿瀬尾城を示すものが全くないため、半ばあきらめかけていたとき、発見したのが次の写真である。

【写真左】合祀者氏名欄の末尾に記された「阿瀬尾城」の文字

 忠魂碑の裏側には戦没者名が列記してあるが、末尾には次のように記されている。

“昭和四十二年十月十二日 大字田渕

     阿瀬尾城址 ◇◇

 新砥 忠魂碑建設委員会◇◇”

 なお、当初阿瀬尾城を「あせおじょう」と呼称していたが、別名馬酔木城、とあるのでツツジ科アセビ属の常緑低木のアセビから命名されたものだろう。従って、阿瀬尾城の呼称は「あせびじょう」としておく。



荒戸神社と荒戸山

 ところで、阿瀬尾城から西北西へ伸びる山道を約1キロほど登っていくと、荒戸神社がある。その真北に聳えるのが荒戸山である。
【写真左】荒戸神社・本殿
 左側斜面は荒戸山の南面に当たる。









現地の説明板

“岡山県指定重要文化財 昭和62年4月3日指定
    荒戸神社本殿

 本殿は室町時代の建築様式を伝える貴重な建造物で、祭神は大錦積命、天照大神、他に16神がある。
 創建は、正中元年(1324)荒戸山山頂に建立されたが、嘉吉2年火災により焼失したため、文安元年(1444)現在地に再建された。

 本殿の特徴として、入母屋造桧皮葺で、向拝を持たない屋根は全国的にも少ない古い形態で、基壇を作らず石敷きとした床下の工法は古式のものである。

 荒戸神社  新見市教育委員会”
【写真左】荒戸神社境内
 向背に見える山が、荒戸山(城)である。









 当社の創建は正中元年(1324)とされている。この時期の備中国を支配していたのは、秋庭氏累代の墓(岡山県高梁市有漢町有漢茶堂)でも紹介したように、「前期秋庭氏」の時代で、おそらく4代・秋庭小三郎、及び5代・三郎重和が創建に関わったものだろう。
【写真左】阿瀬尾城(馬醉木城)と荒戸山(城)を遠望する。
 東方から見たもので、阿瀬尾城は手前に延びる丘陵部があるため見ずらいが、奥の方にある。


 そして、その7年後の元弘元年(1331)から高橋氏や高氏(こうのし)などが代わって支配することになるが、それは、笠置山城(京都府相楽郡笠置町笠置) に拠った後醍醐天皇が捕らわれ、翌元弘2年、隠岐の島へ配流され、高橋氏は、武家方の一員として尊氏及び、高師直などに属して戦った時期でもある。

 また、高橋貞春が居城を阿瀬尾城としていたとき、荒戸山城はおそらく詰の城としての機能を持っていたものと推察される。
【写真左】荒戸山全景

説明板より

“新見市指定天然記念物 昭和41年6月1日指定

 荒戸山

 昔から土地の人々の間では「鍋山」と呼び、標高761.9mで町内一の高さを誇り、地質時代新生代第3紀の初め(約200万年前)に噴出したと考えられている。この火山は、玄武岩から成っており、トロイデ(鐘状火山)といわれる。

 荒戸山中腹には、玄武岩の柱状節理が多くみられる。この柱状節理は、学術的に価値の高いものである。また、山中には推定樹齢150年以上の荒戸神社参道の杉並木や、200年を超えるケヤキ、コナラ、クヌギなどが混成する天然林がある。
  荒戸神社  新見市教育委員会”
【写真左】荒戸山登山口
 この日は登城(登山)する時間もなく向かっていないが、一般の登山・ハイキングコースとして利用されているようだ。
 また、荒戸神社を中心にして東西に広い駐車場が設置されているので、定期的な祭事が行われているのかもしれない。



 その後、当社は嘉吉2年(1442)火災に遭ったという。この火災は単なる失火ではないだろう。当時社は山頂にあり、荒戸山そのものが山城であったので、戦火が交わったとしても不思議でない。それを裏付ける出来事としては、前年の6月24日、赤松満祐が、時の将軍足利義教を暗殺(嘉吉の乱)し、9月この満祐らを追討すべく、主だった西国の諸将が播磨を目指して参陣している。そうした混乱に起因したものだろう。
【写真左】荒戸神社下山途中の道から阿瀬尾城を見る。
 黄色の線で囲んだ箇所が阿瀬尾城になるが、冬以外の時期では樹木に覆われて見えないかもしれない。

 

 そしてこの嘉吉の乱に参陣した西国の武将の中には、石見鷲影城主となっていた頼貞の嫡男・頼之とその子・頼久らがいた。

 次稿ではこの頼之・頼久の動きを追って見たい。

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 鷲影神社・高橋地頭鼻(島根県益田市元町)

2016年1月31日日曜日

藤掛城・その2(島根県邑智郡邑南町木須田)

藤掛城(ふじかけじょう)・その2


●所在地 島根県邑智郡邑南町木須田
●別名 藤根城
●高さ 354m
●登城日 2015年10月3日、4日

◆解説(参考文献 『佐田町史』、『石見町誌』、「大宅姓高橋氏の時代から毛利氏へ」2015年10月13日、高橋氏660年記念事業 岸田裕之広島大名誉教授講演添付資料等)

高橋興光の墓

 藤掛城の西麓には、享禄2年(1529)5月2日、元就の謀略による高橋氏一族の鷲影城主であった盛光によって自害に追い込まれた藤掛城主・興光の墓が祀られている。
【写真左】高橋興光の墓・その1
 自然石を加工したもので、いつ頃建立されたものかわからないが、架台を含めた高さは2m近い規模のもの。

 


 興光の墓の場所は非常に分かりにくい所にある。これまで、藤掛城の登城も何度か試みるものの、道が分からず断念し、そのあとは興光の墓だけでも探し出そうとしたが、当時現地には案内を示すものなどがまったくないため、これも分からなかった。
 
 今回の「高橋氏660年記念事業」で地元の方々によって、要所に案内標識が設置されたことにより、登城と併せ念願の墓石をみつけることができた。
【写真左】常栄寺付近を見る。
 写真は藤掛城の東麓を示したもので、麓には常栄寺というすでに廃寺となった寺院がある。

 興光の墓はこの寺の裏側に南北に延びる小道があり、その道を南に向かったところにある。
 なお、常栄寺については後段でも触れる。
【写真左】興光墓に向かう
 本堂の北側に向かうと、ご覧の標識が設置されており、イノシシ除けの柵を開けて、そこから南に進む道がある。この道は地元の方の墓地にもつながっている。

 なお、写真の左側に常栄寺の本堂がある。
【写真左】麓から伸びる細い丘陵
 墓石の位置は、常念寺から南へ凡そ200m程度進んだ箇所になるが、丁度この右側が谷になっており、その対岸部を人工的に伸ばしたような丘陵部先端に祀られている。

 墓石の祀られている箇所の先端部からは、急傾斜で出羽川と接しているため、この箇所も対岸を扼す櫓的な機能を持たせた単独の郭だったかもしれない。
【写真左】高橋興光の墓・その2
 石碑には
「藤掛城主 高橋大九郎興光之墓 享禄2年5月2日」
と刻まれてている。














常栄寺

 ところで、興光の墓に向かう位置には先ほど紹介した常栄寺がある。常栄寺という寺院は、吉田郡山城・その2でも紹介しているように、毛利元就の長男隆元の菩提寺で、毛利氏の居城・郡山城の一画に建立され、のちに防長移封後、山口に移っている。
【写真左】常栄寺本堂屋根にある家紋
 御存知の「一文字・三星」で、毛利氏の家紋である。




 藤掛城麓の常栄寺もそれに関わる寺院で、天正5年(1577)、郡山城時代の常栄寺にあった一人の僧がこの地に来住し庵を建て、38年後の元和元年(1615)、それまでの禅宗から浄土真宗に改宗し、山号を「郡要山」として布教につとめたという。
【写真左】本堂に設置された山号
「郡要山」の山号が掲げられている。










 なお、興光が自害した経緯は、前稿でも紹介しているが、これとは別に、2009年に投稿した口羽氏・その3 二つの軍原(いくさばら)でも取り上げているのでご覧いただきたい。

藤掛城周辺部

 さて、藤掛城の主だった遺構部は前稿で紹介しているが、当城から谷を隔てた南の尾根も少し紹介しておきたい。
【写真左】藤掛城の南側の尾根を進む。
 この写真でいえば、手前で左側に向かうと藤掛城に繋がる。
●登城日:2014年10月28日




 結論から言えば、いわゆる山城遺構としての明瞭なものは確認できなかった。しかし、この場所からさらに南西部に進むと、室町期高橋氏の一族とされる雪田民部少輔光理が領地していた雪田に繋がっていたので、当城の本丸南側の尾根にある堀切を介して、さらに南側尾根筋にも物見櫓的な遺構があったのかもしれない。
【写真左】長い尾根
 藤掛城のピーク(H:358m)からさらに尾根伝いに南進するとH:452mのピークがあるが、その途中にはまとまった長さの平坦な尾根がある。

 おそらく、こうした箇所は負け戦の際、逃走するためのルートとしても想定されていたのかもしれない。



賀茂神社

 藤掛城の東麓には阿須那の街並みがあるが、ここに賀茂神社が祀られている。現地に設置された説明板には創建時期が書かれていないため、分からないが、おそらく南北朝期と思われる。
 
 『石見誌』によれば、高橋氏が阿須那に入部する前、当地を支配していた出羽氏が建立したものとされている。その後、高橋氏の勢力が急激に拡大していき、藤掛城などの築城に繋がる。
【写真左】賀茂神社
 本殿および境内付近












当社には数種の文化財が残されている。
この中では棟札が3枚あり、それぞれ次のようなものである。

  • 「奉再興賀茂大明神社一宇 天文19年」   天文19年(1550)9月、毛利隆元と口羽通良が当社を再建したときのもの。
  • 「奉建立天神宮御賽殿一宇 弘治4年」  口羽通良が天神宮(天満宮)を建立した際の棟札。
  • 「奉諸願成就 八蓮壹本大宅朝臣 元亀4年」  天正元年(1573)11月、大宅(高橋)氏一統を鎮魂するため八注連神楽を奉納したときの棟札。

【写真左】高橋氏鎮魂の神楽置札(棟札)
 岸田名誉教授の講演会の会場ロビーに設置されていた写真だが、キャプションには、
「興光憤死後40数年も経ってから、通良に霊祭を催させた阿須那の人々の心は、今も変わっていない」
 と書かれている。

 それだけ当時から阿須那における高橋氏は、領民に慕われていたのだろう。


 口羽通良については、以前紹介したように、藤掛城から出羽川を下った江の川との合流地点にある口羽の琵琶甲城主で、高橋氏が滅んだあと、口羽・阿須那を治めた毛利氏の重鎮で、同氏四家老の一人といわれた信仰心の厚い武将である。

 この他の文化財としては、「板得著色神馬図 二面」があるが、現地の説明板では、永禄12年(1569)に大宅朝臣(高橋)就光が祈願成就のお礼として奉納した、と書かれている。しかし、高橋氏は前稿でも紹介したように享禄2年(1529)に興光を最期として事実上滅んでいるので、一見すると不可解に思える。

 しかし、石見高橋氏の嫡流は興光の自害で消滅しているが、貞光の時期(室町初期)に庶流が一時阿須那に下向し、その後益田氏に仕えているので、永禄12年に奉納したという高橋就光はこの系譜かもしれない。
【写真左】講演中の岸田裕之広島大学名誉教授
 2015年10月3日
 阿須那公民館








高橋氏の系図

 さて、高橋氏を取り上げる際、度々管理人は同氏の系譜・系図をその都度確認してきているが、諸説が多く、未だに不明瞭な点が多い。従って、了得していないものの、数種の史料を元にまとめてみると、同氏後半期の系譜上の流れは、おそらく下記のようなものではなかったかと推察される。

   師光 ⇒ 貞光 ⇒ 朝貞 ⇒ 久光 ⇒ 清光

と続き、この清光には、下記の4人の男子がいた。
  1. 元光
  2. 重光(弘厚) 平時の居城は、田所の本城で、属城としては松尾城(但し石見久喜の松尾城)
  3. 盛光  鷲影城主
  4. 家光
そして、重光(弘厚)の子に、興光と光吉の二人の男子がいた。

 重光(弘厚) → 興光
         → 光吉(幸松丸)

 以上のような繋がりではなかったかと考えられるが、これでもなお不確かな点があり、同氏系図については、まだ検討の余地がある。

 次稿では、興光を急襲した盛光が居城としていた鷲影城に関わる高橋氏の庶流などについて取り上げたい。

2015年12月9日水曜日

藤掛城・その1(島根県邑智郡邑南町木須田)

藤掛城(ふじかけじょう)・その1

●所在地 島根県邑智郡邑南町木須田
●別名 藤根城
●高さ 354m
●築城期 文和4・正平10念(1355年)ごろ(南北朝期)
●築城者 高橋師光
●城主 高橋氏(興光)
●廃城年 享禄3年(1530)ごろ
●遺構 郭(本丸・二の丸)、空堀、井戸、石塁、土壇
●登城日 2015年10月3日、4日

◆解説(参考文献 「大宅姓高橋氏の時代から毛利氏へ」2015年10月3日、高橋氏660年記念事業 岸田裕之広島大名誉教授講演添付資料等)

 藤掛城は石見と安芸の境に接する現在の島根県邑南町木須田に所在する山城で、石見・高橋氏が築城したものである。
【写真左】藤掛城遠望・その1
 東麓の阿須那公民館側から見たもの。
【写真左】藤掛城遠望・その2
 撮影日 2017年11月30日
東麓の阿須那の町並みから望む。
写真の通りは旧石見銀山街道。右に羽根尾山・賀茂神社。
 街道は奥でぐるっと右に旋回し、蛇行した出羽川に沿う。出羽川は藤掛城の濠の役目をしていたものと思われる。



 当城及び城主・高橋氏についてはこれまで琵琶甲城(びわこうじょう)・口羽氏 その1(島根県邑南町下口羽)、壬生城(広島県北広島町壬生)、別当城(島根県邑智郡邑南町和田下和田)、生田・高橋城(広島県安芸高田市美土里町生田)、二ツ山城(島根県邑南町鱒淵永明寺)、口羽氏・その3 二つの軍原(いくさばら)などで度々紹介してきた。

 今年(2015年)10月3日、当城の麓邑南町阿須那において、「高橋氏660年記念事業」が開催され、広島大学名誉教授岸田裕之氏の講演並びに、藤掛城登城のイベント企画があったため管理人も参加した。
【写真左】藤掛城の縄張図
 説明板に添えられたもので、上方が北を示す。
 左側に薄い線だが、登城道が表示されている。

 この図を元に、管理人が作図したのが下段の鳥瞰図である。
【写真左】藤掛城鳥瞰図
 上記縄張図を基に描いたもので、東側から鳥瞰しているため、西側の遺構については表示できないが、主だった遺構は描いたつもりである。
 当城の主だった構成は、最高所に南北に長い本丸があり、その中央部に土壇が設けられている。

 現在の登城道はこの絵図の裏側(西側)になるが、本丸の南西部に本丸の入口がある。また、本丸から北の二ノ丸へは凡そ8m程下った尾根筋に設けられ、その先の尾根筋にも二条の堀切や、櫓段が配置されている。
 この他、東側に下りた尾根筋には長郭(仮称)とされるおよそ長さ30m×幅8mの規模を持つ長い郭が突出している。


阿須那公民館側に設置されている説明板より

“藤掛城(藤根城)
 1355年(文和4・正平10)頃、岡山県高梁市の松山城に居た高橋九郎左衛門師光は、室町幕府の足利尊氏将軍から、石見、安芸の両国にまたがる3千貫の領地を与えられ、その本拠と定めたこの阿須那の地にやってきた。
【写真左】登城口
 講演後、凡そ40人前後の参加者の皆さんと藤掛城へ登城すべく、チャーターされたマイクロバスで裏側(西側)の谷にある登城口まで来る。
 藤掛城はこの写真の左側の山である。
 主催者側から簡単な説明を聞いた後、いよいよ登城開始。


 そして、反幕府方へついた石見の国人領主に対抗する最前線の拠城として、木須田の藤掛山に城を築いた。引き続き、大庭と戸河内境に聳え、眺望に優れた鷲影山に城を築き、更に、安芸、備後への連絡に適した、下口羽の高畑に砦を築いた。

 1361年(康安元・正平16)、師光は嫡男貞光を従え、出羽弾正左衛門尉実祐を二つ山城で討ち、出羽氏を君谷へ追放した。そして、この周辺へ勢力を拡大していった。
【写真左】案内板
 この日(2015年10月3日)のために、事前に実行委員会の方々によって道の整備や、案内板が設置されていた。




 1470年頃、大九郎久光は、毛利氏との間の不利な紛争の解決のため、引退して幼い命千代に家督を譲った。

 1476年(文明8)の命千代を護る重臣16人の契状から、
   東は三次市作木町森山の岡、西は北広島町の壬生、
   南は安芸高田市美土里町の横田、北は飯南町の井戸谷、
 という高橋氏の領域が推察できる。

 1508年(永正5)、大内義興に従い、足利義尹を推して京へ攻め上がった褒賞として、福岡県東部の三つの荘や、山口県柳井の荘を賜った。最盛期の所領は1万6千貫という。

【写真左】馬の水飲み場跡
説明板より

“藤掛城は南の山からの豊富な地下水に恵まれて、この高い所へ堤で池を造り、馬に水を飲ませていたという。北隣の谷には涸れることのない清水が湧いている。”




 1515年(永正12)、高橋民部少輔元光は三吉氏の属城の西入君の本亀城を攻め、楽勝の油断を突かれて討死した。驚いた大内義興は、家督を元光の子の治部少輔弘厚でなく、孫の大九郎興光に継がせることを勧めた。これが高橋氏の家中に内紛を招き、後年、毛利元就は、高橋弾正盛光に反間の計をめぐらした。
【写真左】本丸と長郭への分岐点
 後半はかなり急坂となった道を登っていくが、やがて尾根ピークに達する。

 この位置で、左(北)に進むと、本丸へ、右に進むと東斜面に独立して伸びる長郭へ向かう。
 また、尾根の反対側には二条の堀切がある。
先ずは、この尾根南に延びる堀切に向かう。
 

 1529年(享禄2)頃、鷲影城主の盛光は、興光の帰城を軍原に待伏せて襲いかかった。瞬時に達観した興光は、奮戦して多くの敵を倒しながら、傍らの巨岩に駆け上がり、高橋家の滅亡を予言、慨嘆しながら切腹して果てた。興光の首を届けた盛光が、毛利方に討たれたのは3日後と伝える。

  高橋氏660年記念事業2015年”
【写真左】二条の堀切
 分岐点からさほど遠くない南尾根に設置されたもので、手前の堀切がやや深い。
 なお、写真は講演会の時のものでなく、明くる日再び登城したときのものである。

 団体で登城した場合は、どうしても時間的に制限があり、踏査できない箇所があったため、改めて登城した(以降の写真は当日と翌日の2日間に渡って撮影したものである)。


石見・高橋氏

 説明板にもあるように、築城者である高橋氏は1355年(文和4・正平10)、備中松山城(岡山県高梁市内山下)から高橋九郎左衛門師光が阿須那に下向してきたのに始まる。ただ、資料によっては、下向したのが観応2・正平6年(1351)というのもある。これについては後段でも言及しておきたい。
【写真左】長郭・その1
 二条の堀切を見た後、今度は尾根の東斜面を少し下がりながら行くと、独立した長い郭が見えてくる。
【写真左】長郭・その2
 先端部から西方を見る。長郭の軸線はほぼその上にある主郭の土壇(櫓)と重なるが、ここから直接主郭に向かうことは出来ない。かなり険しい切崖があるからである。
 尚現在郭周囲は雑木が繁茂しているため視界は良くないが、この位置からは口羽方面が見えるため、主として東方を扼する位置にある。



 師光の祖は元弘3年(1335)5月、六波羅を落とされた探題北条仲時らが遁れて、近江番場で自害した際、彼らと共に従軍していた高橋(大九郎佐衛門)光国である。光国は従って北条氏側であったが、もともと高師直・師泰兄弟(三隅城・その2(島根県浜田市三隅町三隅)参照)のいきのかかっていた人物である。
【写真左】蓮華寺にある北条仲時以下432名の墓石
 所在地 滋賀県米原市蓮華寺
 参拝日 2015年10月24日

 元弘3年(1333)5月9日、近江番場にて佐々木道誉(勝楽寺・勝楽寺城(滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4)参照)らに追われ一族ら432人自刃。仲時享年28歳。
 この中に高橋光国も随臣し殉死した。中央の大きな墓が仲時で、光国の墓もこの墓石群の中にあるだろう。(近江・蓮華寺(滋賀県米原市番場511)参照) 



 光国が北条氏と運命を共にしたとき、その子光義は備中松山城に残り、尊氏方に与し、その戦功によって感状も賜っている。光義には三人の男子があり、後の藤掛城主となる師光は次男といわれている。

 前述したように、高橋氏が高師直・師泰と深い関係をもっていた裏付けとなるのが、師光という名が示すように、おそらく師光の「師」は高兄弟の「師」から偏諱を受けていたと思われる点である。
【写真左】備中松山城
 所在地 岡山県高梁市







 そして、この石見・高橋氏の祖ともいえる師光が、当地(阿須那木須田)に下向したのは、通説では足利尊氏の命といわれているが、資料によっては、正平6年(1351)2月26日、摂津国で高師直・師泰兄弟が上杉能憲に殺害され、このため備中を追われ石見に下向してきたという説(『大和村誌 上巻』)があり、こちらの方がより事実に近いかもしれない。従って、このことから高橋氏の石見(阿須那)下向時期については、上述したように二説考えられる。
【写真左】本丸・その1
 本丸の入口は西南側にあるが、写真はその南端部から北方向を見たもので、奥には中央部に高くなった櫓(土壇)が見える。
 土壇から南方向に延びる郭の長さは凡そ25m前後ある。
 ここからさらに北に進む。



 さらには、生田・高橋城(広島県安芸高田市美土里町生田)でも触れているが、1361年(康安元・正平16)、師光は嫡男貞光を従え、出羽弾正左衛門尉実祐を二ツ山城(島根県邑南町鱒淵永明寺)で討ち、出羽氏を君谷へ追放しているが、この命を出したのは尊氏でなく、足利直冬といわれる。

 というのも、すでに足利尊氏は正平13年(1358)に死去しており、直冬が石見国でもっとも勢威を拡大している時期でもあったからである。因みに、二つ山城を陥落させた直後、師光は鱒淵(旧瑞穂町)に本城を築いている。
【写真左】本丸・その2 櫓(土壇)
 南北に延びる本丸のほぼ中央に設置されているもので、規模は東西幅10m×奥行2m×高さ2m前後のもの。
【写真左】本丸・その3
 櫓台から北側に延びる郭を見たもの。南側より若干長く、30m近くあるかもしれない。
【写真左】本丸・その4
 北側から櫓台を見る。
 なお、現在本丸からの眺望は周囲に雑木があるため、あまり期待できない。
 


高橋氏の領域

 上掲した説明板や、岸田裕之氏の講演でも紹介されていたが、1470年(文明2)ごろ、毛利氏との争いから、大九郎久光は、引退して幼い命千代に家督を譲り、その幼主を支えるべく、一族16名が笠連判状を残している。その内訳は次の通りである。

 岸田氏も述べているように、この名簿から分かることは、その姓名が殆ど当時各々が領地していた土地名を名乗っていたことから、この時期高橋氏が治めていた支配地域が確認できることである。具体的にこの名簿の右側にその地区を付記して置く(管理人による)。

石見国内(島根県)
  1. 雪田民部少輔 光理     邑智郡邑南町雪田
  2. 上出羽◇ 光教        邑智郡邑南町出羽
  3. 下出羽藤兵衛尉 光明     邑智郡邑南町出羽
  4. 口羽下野守 光慶       邑智郡邑南町上・下口羽
  5. 与次郎 清光          邑智郡邑南町阿須那与次郎山
  6. 長田備前守 光季      邑智郡邑南町上田長田市
  7. 井戸大膳助 光益     飯石郡飯南町井戸谷井戸(井戸城主か) ⇒北端(井戸は厳密には出雲国になるが、石見国との国境に当たる)
安芸国内(広島県)
  1. 山形河内◇ 光朝     北広島町の壬生   ⇒西端
  2. 重延大和守 光秀      安芸高田市美土里町横田重信
  3. 北越後守 光康       安芸高田市美土里町北 
  4. 横田常陸守 朝光      安芸高田市美土里町横田(松尾城主)  ⇒南端
  5. 生田右馬助 秀光      安芸高田市美土里町生田(生田・高橋城主か)
  6. 岡長門守 光基      三次市作木町森山の岡  ⇒東端
その他
  1. 山城守 光直           不明
  2. 繁安筑後守 光通          不明
  3. 新見◇後入道 浄鳳        不明
※ ◇印は判読困難

 上記のうち、下段の「その他」で示した三人の武将は、おそらく備中高梁時代から高橋氏を支えてきた譜代家臣と思われ、特に新見某などは、楪城(岡山県新見市上市)の新見氏の庶流と考えられる。
【写真左】二の丸・その1
 本丸北端から険しい切崖を下ると二の丸が控える。
 写真は、二の丸側から本丸の切崖をみたもので、伐採など整備はされていない。


 またこの連判状とは別に、以前紹介した面山城(広島県安芸高田市高宮町佐々部字志部府)の佐々部氏もまた高橋氏に仕えている。

 その時期は文明年間の久光時代よりもかなり遡った南北朝期と考えられ、芸石・高橋氏が尊氏派又は直冬派となって活躍していた段階ですでに麾下となっていた可能性もある。従って、文明年間ごろの高橋氏の支配領域は、東端部は佐々部氏領地(高宮)まで拡大していたと考えられる。
【写真左】二の丸・その2
 ご覧のように熊笹などが繁茂しているため、遺構の状況が明瞭でないが、尾根幅は次第に細くなるものの、長さは本丸の約半分程度ある。

 この先の尾根を下っていくと、一旦鞍部となった先に小郭群が連続し、櫓状の頂部があるようだが、藪コギのため断念した。


 次稿では、藤掛城周辺部、及び戦国期毛利氏の調略によって当城で自刃した城主高橋興光の墓などを紹介したいと思う。


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安芸・松尾城(広島県安芸高田市美土里町横田)