2014年12月13日土曜日

備中・冠山城(岡山県岡山市北区下足守)

備中・冠山城(びっちゅう・かんむりやまじょう)

●所在地 岡山県岡山市北区下足守
●高さ 40m
●形態 丘城
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 河津左衛門尉氏明、守福寺某
●遺構 郭
●登城日 2014年5月1日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 本年のNHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」もいよいよ残すところあと一回の最終回となったが、件のドラマで冠山城が少し紹介されていたことを御存じの方も多いと思う。

 このときの内容は、主として備中高松城攻めを中心としたものだったが、この一連の戦いにおいて、当城もまた戦火を交えた城砦であった。特に、官兵衛の息子・長政が初陣を挙げた城であることも知られている。当然ながら冠山城は、備中高松城に近い場所で、高松城から北へ足守川沿いに約4キロ余り向かった下足守に所在する。
【写真左】冠山城遠望・その1
 南側から見たもので、ご覧の通り小規模な城砦で、現在田圃や住宅地に囲まれた中にポツンと見える小丘である。
【写真左】冠山城遠望・その2
 冠山城の西方に聳える古代山城・鬼の城(H:400)から見たもの。
 手前は鬼の城ゴルフ倶楽部のゴルフ場。




現地の説明板より

“冠山合戦を偲ぶ

 天正10年4月17日冠山城は、織田軍2万、宇喜多勢1万に囲まれ、下足守の山や谷は陣馬で埋まった。
 守りは城主林三郎左衛門、祢屋七郎兵衛、松田左衛門尉、鳥越左兵衛、三村三郎兵衛、竹井将監、舟木興五郎、難波惣四郎、岩田多郎兵衛、権寂和尚、祢屋興七郎、佐野和泉守、守屋新之丞、祢屋孫一郎、庄九郎、秋山新四郎など300騎、総勢3,600人で、羽柴秀吉の旗本杉原七郎左衛門、宇喜多忠家らと戦った。
【写真左】配置図
 附近に設置された観光マップだが、これには当城は記載されていなかったため、管理人によって付け加えた。
 参考までに、中央部に「高松城」などがあり、その上に「冠山城」、そしてさらに、北には同じく宇喜多勢などが戦った「鍛冶山城」「宮地山城」などの位置を図示した。



 城内より打ち出す銃火ははげしく、また城兵には豪の者多くめざましい働きにより、寄せ手の犠牲は大きく、一時攻めあぐんだ。
 4月25日、不幸にして城内より出火し、火は燃え拡がり城中大混乱となった。城主林三郎左衛門は、最早これまでと城兵に別れを告げ自決した。竹井将監、鳥越左兵衛、秋山新四郎、舟木興五郎、難波惣四郎、権寂和尚など将兵139人は、自刃或いは壮烈な討死を遂げた。
【写真左】冠山城鳥瞰図
 かなりデフォルメした絵だが、管理人によって作成してみたもの。

 特に、この図は当時の周囲の状況を想像して描いたもので、西方を流れる足守川がおそらく当時堤防などなかったものと思われ、これが事実上の濠の役目をしていたのではないかと考える。

 なお、三ノ壇の西側に「虎口」を図示しているが、『日本城郭体系第13巻』では、これは「隠し虎口」ではなかったか、とされている。残念ながら、登城したこの日、この個所の確認はできなかった。


 加藤清正一番乗りの功名話、荒武者竹井将監が加藤清正と激闘ののち戦死したことなど激戦の状況が戦史に詳しく伝えられている。

 小山ながら難攻の冠山城も遂に落城した。林三郎左衛門は、行年51歳、備中の国を半国与えようという羽柴秀吉の誘いも断り、毛利並びに小早川隆景に義を貫いた。
 武士道に徹した冠山の城主、及び将兵を心から称えたい。

 昭和58年11月吉日
  冠山城址四百年記念事業奉賛会”
【写真左】葦守八幡宮・八幡神社鳥居付近
 当城東麓にある個所で、古木がある個所が「足守一里塚跡」である。
 登城口はこの写真の左側になり、ここから西に向かって細い道が続き、大手道に繋がる。
【写真左】登城口
 先ほどの箇所からほぼ真っ直ぐに道がついている。奥に見える小山が冠山城。
 なお、この先まで民家が立ち並んで、狭い道のため、この日は大分離れた空き地に車を停めて歩いて向かった。



秀吉(信長)備中攻めの前哨戦

 秀吉らが備中に入ったのは、天正10年(1582)3月下旬である。そして有名な高松城攻めで、城主・清水宗治が城兵の命と引き替えに自刃したのが、同年6月4日といわれている。

 冠山城の戦いはこの高松城攻めの前哨戦であるが、当城を攻め落とす前に秀吉方の備前勢(宇喜多氏ら)が拠ったのが、冠山城の北方にあった宮地山城である(上の配置図参照)。
 この城には毛利方の乃美少輔七郎元信がいたが、対岸の鍛冶山城にあった備前勢は乃美らに城の明け渡しを迫り、元信を追放した。
【写真左】祠
 登城道脇に祀られている。
自刃した城主や、討死した城兵を供養したものだろう。






 ところで、秀吉方は宮地山城を奪取した後、冠山城を攻めたという説と、宮地山城に最後まで抵抗した乃美氏は、冠山城が落城したため降伏したという説の二つがあり、どちらが事実なのかよく分からないが、備中国における戦いの前哨戦であった。

 そして、節目々で常に黒田官兵衛らが毛利氏(安国寺恵瓊など)と粘り強い交渉を行っている。
【写真左】三の丸と大手門跡手前
 現在残る登城道は大手道を基軸としたもののようだが、麓の周囲はご覧のような竹林などに覆われ、容易に中に入ることは出来ない。

 写真の左側には、「三の丸跡」と記した標柱が建っている。上段の鳥瞰図でいえば、「三ノ壇」に当たる。左側に向かうコースのようだが、藪コギで無理のようだ。
 なお、道中途中の左側には「溜め井(戸)」があるようだが、これも確認できない。

 そのまま真っ直ぐに向かうと、大手門跡がある。
【写真左】二の丸(二ノ壇)・その1
 大手門を過ぎると、先ず二の丸の郭段が左右に拡がる。
 奥の階段を上がると本丸(一ノ壇)にたどり着く。
【写真左】二の丸(二ノ壇)・その2
 本丸に向かう階段の右下(北東麓)側の箇所で、奥に進むにしたがって細くなり、途中で消滅する。
 なお、この右下にも不定型な郭段が残る。
【写真左】二の丸(二ノ壇)・その3
 今度は反対側(南側)に伸びる箇所で、二ノ丸の主要部になる。
 少し踏み込んでみたが、倒竹が多く、途中で断念。

 階段を上がり本丸に向かう。
【写真左】本丸(一ノ壇)・その1
 殆ど方形で、東西42m×南北21mの規模を持つ。
【写真左】本丸(一ノ壇)・その2
 石碑
「天正10年 4月25日落城 冠山合戦戦死将兵慰霊碑」と刻銘されたかなり大型の石碑。
 昭和58年11月吉日 建立されている。

 このあと、本丸周囲で歩行が可能な箇所を無作為に踏査する。
【写真左】本丸(一ノ壇)・その3
 本丸中心部から西の方向に進んだ箇所で、平滑な施工跡が見える。
【写真左】本丸北側から東側に進んだ箇所
 本丸から時計回りに進み、次第に降りて行った箇所で、この辺りにも郭段があったのかもしれないが、大分崩落している。
【写真左】本丸・二の丸の東隣の段
 鳥瞰図でいえば、「郭」と図示した箇所で、左側にも削平地が伸びているが、整備されている箇所はここまで。
【写真左】北側外周部
 下山後、東麓から北側に回り込み外周部を散策。
 左側のこんもりとした林が冠山城だが、外周部にはご覧のようなコンクリート製の小川と、田圃が広がる。
 おそらく当時はこのあたりは足守川の川床だったと思われる。
【写真左】外周西端部の切崖
 冠山城は標高40mほどの小規模な丘城である。このため、緒戦で攻めた宇喜多勢は、最初「片手を掛けるだけで落とせる」と思っていたという。

 しかし、侮った宇喜多勢は予想をはるかに超える犠牲者を出し、退却を余儀なくされたという。
 この個所の切崖をみても、そんな雰囲気が感じられる。
【写真左】南麓部
 手前左側から右に向かって二ノ壇・三ノ壇の切崖箇所に当たる。

 現在南麓部には寺院が建っているため、この辺りの遺構がどの程度残っているか不明だが、この箇所の傾斜も当時とほとんど変わらないものだったと思われる。

2014年12月10日水曜日

荒平山城(岡山県総社市秦)

荒平山城(あらひらやまじょう)

●所在地 岡山県総社市秦
●高さ 190m(比高170m)
●築城期 永享年間(1429~41)以前
●築城者 川西(河西)氏
●城主 川西之秀
●形態 連郭式山城
●遺構 郭・堀切・城井戸等
●備考 式内石畳神社
●登城日 2014年5月1日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 荒平山城は、前稿備中・鬼ノ身城(岡山県総社市山田)のある位置から、東方約6キロほど向かった高梁川西岸に築かれた山城である。
【写真左】荒平山城遠望
 東麓の高梁川を挟んで、国道180号線から見たもの。








現地の説明板より

“荒平山城
 荒平山城は永享年間(1429~40)に地元の豪族・河西氏によって築城されたといわれる。
 平時の居館の山裾にあり、戦時の山城と対になっていた。城は尾根上にあり、全長は150mにおよぶ。各々の壇には、石を使わず土盛のみで成形しており、西の「尼子谷」に井戸が残る。
【写真左】麓の案内板
 北東部に伸びる尾根の先端部分にあって、この箇所に車が3台程度駐車できるようになっている。
【写真左】石畳神社
 駐車場の脇には石畳神社が祀られている。なお、登城口はここから始まるが、後段で紹介するように、途中で当社の御神体とされる磐座が高梁川縁に祀られている。


 天正年間(1573~85)の備中兵乱期には、河西氏が三村氏に味方したため、天正3年(1575)に毛利方の小早川隆景に攻められた。
 城兵はよく奮戦したが、城主河西之秀は城兵の助命を条件に降伏、開城し、讃岐へ落ち延びた。これ以降、破城となったものと思われる。

備中兵乱

 説明板にもあるように、備中国において戦国期もっとも激しく揺れ動いたのが、「備中兵乱」である。この乱についてはすでに、鶴首城(岡山県高梁市成羽町下原)で紹介しているが、この当時の荒平山城主は、河西三郎左衛門之秀である。
【写真左】案内図
 登城口には、「秦の郷 散策コース案内図」というパンフレットが置かれている。

 これを見ると、荒平山城登城コースとは別に、西方にある正木山コース、金子池コースなどといった散策コースが整備されている。
 こういう案内図があると、とても重宝する上に、周辺部の史跡も確認できるので嬉しい。


 三村家親が永禄9年(1566)、宇喜多直家によって謀殺されると、途端に同国に動揺が走った。そして、家親の跡を元親が継いだものの、暗殺した直家が毛利氏に属したことにより、それまで毛利方についていた三村氏は毛利を離れ、織田につくことを元親が選んだ。

 これに対し、鶴首城主であった三村親成・親宣父子はこの決断に猛反発、元親から離反し、毛利方についた。そして、かれら父子は毛利方の先陣として、同族の三村氏らの諸城を攻めていくことになる。諸城の一つが前稿の備中・鬼ノ身城(岡山県総社市山田)や、今稿の荒平山城である。
【写真左】登城開始
 殆ど尾根筋を辿るコースとなっているため、短距離になるが、傾斜が次第にきつくなる。






 さて、荒平山城の城主・河西三郎左衛門之秀は、毛利から織田に鞍替えした三村元親の親族であり、また、荒平山城から高梁川を挟んで東方に聳える経山城(岡山県総社市黒尾)主・中島大炊介の一族でもあった。
【写真左】お地蔵さん
 所々にこうしたお地蔵さんが祀られている。
【写真左】秦パノラマ展望台
 途中で尾根の東側を登る道になるが、再び尾根筋に戻り、登城口から10分程度進むと、ご覧の展望台が現れる。

 当城の要図には描かれていないが、小規模な出丸若しくは物見櫓などがあったのかもしれない。
【写真左】展望台から東方を俯瞰する。
 左側から高梁川が蛇行し、南(右)の倉敷市方面に流れている。
【写真左】展望台から北方を俯瞰する。
 高梁川上流部で、この川を遡ると、備中松山城や、支流成羽川の麓にある鶴首城に繋がる。
 このあと、さらに上の方に進む。
【写真左】小郭と小岩
 尾根をしばらく進むと、途中小さなピークを迎えるが、その手前にはご覧の石がある。

 ピークは長さ10m程のものだが、出丸的な機能を持っていたと推察され、この岩もそのための役目を果たしていたのだろう。
【写真左】土橋か
 さらに上に向かうに従って尾根幅が広くなるが、途中に極端に道幅を狭めた箇所が出てくる。

 左右の法面には竪堀のような痕跡が認められることから、土橋として構築されたものだろう。
【写真左】2番目のピーク
 さらに進むと一気に高度を上げる箇所があり、そこには「三角点」が設置されている。

 位置的には、荒平山城の中心より約200m手前になる。
 そろそろ城域が近くなる。
【写真左】荒平山城要図
 現地に説明板と共に付図されているが、線がかすれていたため、管理人によって手を加えている。

 右上の「一ノ壇」と書かれている方向が、この日登ってきた道側になる。
 主郭は、この図では「二ノ壇」に当たる。
【写真左】一ノ壇
 一番手前にある郭で、この先の上部にある二ノ壇(主郭)との比高差は6m。

 ご覧の通りこの箇所は藪コギ状態。規模は、幅15m×長さ30mで、全体に北側に配置されている。
【写真左】一ノ壇と二ノ壇の間にある切崖
 この切崖を登り、主郭以南の遺構に向かう。
【写真左】三ノ壇
 最初に出くわすのが、二ノ壇(主郭)を西側から取り巻いている三ノ壇で、S字状になって、西側で六ノ壇と、南側で四ノ段と接する。

 このあと、ここから比高3mほど高くなった二ノ壇に上がる。
【写真左】二ノ壇(主郭)・その1
 東斜面から撮ったもので、方形壇となっている。およそ一辺が13m前後の規模。

 休憩小屋には、当城の説明板が掲示してある。
【写真左】二ノ壇(主郭)・その2
 三ノ壇南端部から振り飼ってみたもの。


【写真左】三ノ壇と四ノ壇
 ここから長い郭段が続くが、現場には説明板にある呼称(○ノ壇)とは別に、「二丸跡」及び「三丸跡」と書かれた標柱が建っている(下の写真参照)。
【写真左】「荒平城 二丸跡」の標柱
 俗称なのだろうが、できればどちらかに統一した標記の方がいいと思われる。
【写真左】四ノ壇と五ノ壇境付近
 三ノ壇と四ノ壇の境ははっきりしたものはないが、両壇との比高差は50cm程度あり、次第に下がっていく。

 なお、三ノ壇と四ノ壇の西側には比高1m前後下がった六ノ壇が隣接しているが、現状は雑草で覆われている。

 五ノ壇は斜めになった形状で、そのまま一気に降り、七ノ壇に向かう。
【写真左】七ノ壇へ向かう道
 七ノ壇の西側に犬走りがあり、写真にはないが、この左側の上部には五ノ壇の南端部に土塁が構築されている。
【写真左】七ノ壇
 尾根幅とほぼ同じだが、奥行はあまりない。
【写真左】七ノ壇から北の五ノ壇側切崖を見る。
 比高差8mを測るという。
【写真左】堀切
 現地の要図に記されている堀切のイメージと少し違い、尾根側は殆どフラットなもので、浅い箱堀といった感じだ。

 この写真はその脇に繋がる竪堀の跡で、当時はこの竪堀とリンクした薬研堀の形だったかもしれない。

 このあと、さらに南の尾根を進んだが、遺構らしきものはなかったため、一旦戻り、五ノ壇の西斜面にある井戸に向かう。
【写真左】井戸
 現在でも水が溜っているが、この井戸を「尼子井戸」という。

 井戸に「尼子」の名がついていることから、出雲尼子氏がしばらく当城に在城していたと考えられる。

 おそらくその時期は、同氏が備中・美作を席巻していた天文5~8年(1536~39)頃だろう。
【写真左】磐座
 下山途中で立ち寄った箇所で、石畳神社の御神体とされる磐座が高梁川縁に祀られている。






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備中・国吉城(岡山県高梁市川上町七地)

2014年12月9日火曜日

備中・鬼ノ身城(岡山県総社市山田)

備中・鬼ノ身城(びっちゅう・きのみじょう)

●所在地 岡山県総社市山田
●別名 鬼身城
●高さ 284m
●指定 総社市指定重要文化財(史跡)
●築城期 至徳2年・元中2年(1385)以前
●築城者 不明
●城主 今川上総介泰範、上田氏(実親など)、宍戸氏
●遺構 郭段・井戸なと
●登城日 2014年5月1日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 鬼ノ身城は、岡山三大河川の一つ・高梁川の西方に築かれた城砦である。
【写真左】鬼ノ身城遠望・その1
 南側から見たもの。
【写真左】鬼ノ身城遠望・その2
 同じく南側から見たもので、撮影日は2015年2月21日。








現地の説明板より

“鬼ノ身城跡
     昭和55年(1980)1月14日指定

 鬼ノ身城がいつ、誰によって築かれた城であったかについては伝えられていませんが、南北朝時代末期には今川上総介泰範が、16世紀初めからは上田氏が城主になったことが分かっています。

 5代目の上田孫次郎実親は、備中松山城主三村元親の弟で、三村方に所属していました。その三村氏は、毛利方に所属していましたが、天正2(1574)に謀叛を起こしたことで、同年11月に毛利方の大軍が備中国へ出陣してきました。三村方は居城の松山城をはじめ、備中国内にある出場の防御を固め、鬼ノ身城へも兵3,000騎を配置しました。
【写真左】登城道・その1
 鬼ノ身城に向かう道は南側からは2コースあるようだが、いずれも途中から幅員は狭くなり、さらにワダチが深くなるところも多いため、この日管理人は一番西側の亀甲池手前の空き地に車を停め、そこから1キロ余りの道を歩いて向かった。

 左の池は亀甲池と呼ばれる溜池で、池の西岸の先には、後段で紹介する当城主であった今川氏の位牌残る華光寺がある。


 しかし、三村方の諸城はことごとく落城し、鬼ノ身城も天正3年1月16日より包囲され籠城戦となり、23日からは数万の兵による総攻撃を受けました。城は昼夜の戦いにも耐え続けましたが、ついに開城するしか方法がなくなりました。城内の兵を救うために城主上田実親は命をかけました。1月29日辰の刻に切腹。この時、実親は20歳でした。

 上田氏滅亡のあとは、毛利方の武将である宍戸安芸守陸家が城主に命ぜられて、城代が置かれましたが、関ヶ原の合戦の後に廃城となりました。
【写真左】切通しされた道
 登城道の前半部であるが、この手前から大分登り坂になり、この箇所で鬼ノ身城の尾根下にたどり着く。

 軽自動車の四駆ならここまで来れるかもしれない。


 城が築かれた場所は、瀬戸内から陸路で松山城へと通じる街道に面しており、また瀬戸内への前線拠点としても重要な城でした。岡山県下では珍しい「扇の縄」といわれる堅固な山城を築いています。
 山頂の主郭(一ノ壇)から扇を広げた形に壇を連続し、人頭大の石や一抱えもある角礫を使った石垣なども築きながら3段で構成されています。
 中世から戦国期の山城の形状がよく残されており、防御性にすぐれた山城であったと評価されています。
      平成22(2010)10月  総社市教育委員会”
【写真左】分岐点
 矢印で示した線がこの日向かった道だが、この写真の手前左側にも登る道がある。

 この道はさらに東側の谷から向かった道で、どちらからでも登れるようだ。


上田氏

 『日本城郭体系第13巻』によれば、少なくとも源平合戦の頃までさかのぼることができるが、当時の城主は不明とされている。

 その後、南北朝時代には説明板にもあるように、今川上総介泰範となっている。これは鬼ノ身城の西麓にある華光寺の位牌に記されているという。今川氏が在城した時期は具体的には至徳2年・元中2年(1385)ごろとされている。この時期は室町幕府第3代将軍・足利義満がもっとも権力を誇示したころで、特に西国の領主らに対する公式な土地の安堵状発行が目立っている。
【写真左】両側にブロックが敷かれている箇所
 途中から道の両側にはコンクリート製のブロックが敷設されている。おそらくこれは管理のため、軽トラックでも登れるよう地元の関係者のためのものだろう。

 連れ合いが一見楽しそうに杖を振っているが、道中には桜の木が植えてあり、その枝から尺取虫が垂れ下がり、常に顔などに当たるため、杖で前以て振り落している。尺取虫が異常に多い。


 翌元中3年7月10日、義満は京都・鎌倉の五山の順位を定め、京都においては南禅寺を五山の上とし、禅寺の最高位としている。また、さらに翌元中4年には南北朝動乱期、尊氏・直義らとあらそった足利直冬が7月、ひっそりと石見の山中で没した(足利直冬・慈恩寺(島根県江津市都治町)参照)。
【写真左】もう一つの登り口がある谷
 この日、最初にトライした谷で、道があり、簡易舗装されていたが、とても車で登れるほどの幅員でなかったため、取りやめた場所。



 鬼ノ身城の城主がその後、上田氏に代わっていくが、その経緯ははっきりしない。上田氏がその名を初めて見せるのは、文亀元年(1501)である。

 初代上田勘解由左衛門は、備中国水内荘の管理運営に優れた手腕を発揮したとされている。この水内荘というのは、鬼ノ身城の東麓を流れる高梁川を遡った現在の総社市の原という地区で、山間部でありながら規模の大きな棚田が広がっている所である。

 その後、大永2年(1522)には上田近江守光宝、永禄9年(1566)には上田近江守家実と続き、天正年間の初めには、上田入道阿西が城主であったという。そして、阿西は、備中松山城(岡山県高梁市内山下)の三村元親の弟を養子に迎え、上田孫次郎実親と名乗らせた。
【写真左】石積が見える。
 この箇所はすでに城域の入り口付近だが、ここからぐるっと旋回する道となる。
 石積跡らしき大きな石が不揃いに残っている。
 小規模な出丸跡もしくは、櫓台かもしれない。



毛利勢の猛攻

 当城が毛利氏の手によって陥落したのは、天正3年(1575)の正月だとされている。城内には3,000余の兵が詰めていた。

 当初、上田勢は地の利を生かし、大木や大石などを落とし毛利勢の寄せ手を阻んでいたが、七重八重と取り囲んだ毛利氏がやがてじわじわと侵攻してきたため、城主実親は、残った城内の者たちの命を助けるために、自害したという。

 実親が養子として入ったのは、天正年間の初めとされるから、その2,3年後に落城したことになる。城主とはいえ、僅か20歳という若さで命を絶った。
【写真左】鬼ノ身城の略測図
 当城は、典型的な「扇の縄」といわれる連郭式の山城といわれている。

 この図でいえば、登城コースは北東部から回り込んで、東側の十二ノ壇あたりから向かう道が残るが、写真でも分かるように、登城した時期が5月でもあったため、草丈が伸びて遺構の詳細なものは撮れなかった。


 落城後、宍戸隆家(安芸・宍戸氏の墓(広島県安芸高田市甲田町)参照)が城主となり、城代として佐々部美作守(面山城(広島県安芸高田市高宮町佐々部字志部府)参照)が在番したが、その後隆家の嫡子左衛門佐元秀の子・備前守基継が城主となり、8万石を領した。慶長5年(1600)関ヶ原の合戦後、廃城となった。
【写真左】東側の低い郭段
 上図でいえば、十二ノ壇・十一ノ壇付近で、この辺りから踏み跡があったため、そのまま進む。
【写真左】上の段に向かう。
 轍がある所を見ると、この上まで軽トラで向かうように道が造られているようだ。
 遺構の管理より、樹木などの管理が主体となっているようだ。
 この箇所なども切崖若しくは虎口などがあったのかもしれない。
【写真左】三ノ壇付近
 坂を登ると、おそらく三ノ壇付近と思われるが、削平地がある。
 写真正面方向に二ノ壇、そして主郭となる一ノ壇が控える。
【写真左】一ノ壇に向かう。
 一ノ壇に向かう道は二ノ壇の左側(東側)にある坂道(犬走りか)を登る。
【写真左】一ノ壇・その1
 いわゆる主郭に当たる所だが、長径36m×短径22m前後の規模を持つもので、北辺の端部には列石で固められた部分があるとされている。
【写真左】一ノ壇・その2 諏訪神社
 現地には南側から鳥居が建立され、奥には祠が祀られている。その間には礎石が残るが、おそらく当社の本殿が建てられていたのだろう。
【写真左】三角点
 一ノ壇の南端部にあり、この先は切崖となっている。
【写真左】休憩所
 一ノ壇にはご覧のような建物が建っている。「瀬戸内大橋開通記念」という看板が飾られている。
 1988年に瀬戸内大橋が完成しているので、この建物もそれに併せて建てられたのだろう。
 中には、鬼ノ身城から眺望できる瀬戸内方面の絵図や、当山に咲く色々な花などを写した写真なども飾られている。
【写真左】南麓を見る。
 鬼ノ身城の南麓には西から新本川が流れ、広い平坦地が広がる。奥に見える東西の丘陵地を超えると、倉敷市真備町に至る。
【写真左】鬼ノ身城から夕部山城を遠望する。
 毛利氏(小早川隆景)が陣を構えた夕部山城(岡山県総社市下原)で、この他、西方には市場古城などがある。
【写真左】東南方向に児島半島を遠望する。
 現地の絵図には、天気が良いと常山城(岡山県玉野市字藤木・岡山市灘崎町迫川)が見えるようだが、この日は靄がかかり見えない。