2014年11月16日日曜日

土佐・和田本城(高知県土佐郡土佐町和田字東古城)

土佐・和田本城(とさ・わだほんじょう)

●所在地 高知県土佐郡土佐町和田字東古城
●別名 土佐・和田東古城
●高さ 695m
●築城期 貞応2年(1223)11月
●築城者 和田義直
●城主 和田義直、三男・三郎衛門高(若狭守)など
●遺構 土塁・郭・堀
●備考 東八幡宮、土佐・和田西城
●登城日 2014年3月17日

◆解説
 土佐・和田本城は、2009年に紹介した土佐・和田城(高知県土佐町和田)と対をなすもので、高知県のほぼ中央部にある四国の「水がめ」といわれる早明浦ダムの南西に伸びる標高700m弱の山頂に築かれている山城である。
【写真左】「土佐和田城址」の石碑
【写真左】和田本城及び西城・子守神社配置図
 西城から東の本城までのラインは東西に走る尾根筋になり、南(左側)は総じて断崖絶壁となっている。

 このため南側からの攻撃は不可能である。尾根から北側は比較的緩やかで、高所の割に平坦地が多い。








 前回訪れた「土佐・和田城」は、このうち西側に築かれた高さ732mの山頂に築かれているが、この位置から東におよそ1キロほど尾根伝いに向かった標高695.3mの頂部に今稿の土佐・和田本城がある。また両城とのほぼ中間点に「子守神社」が建立されている。
【写真左】分岐点・その1
 さめうらダム湖の南岸を進むと、ダム湖をまたぐ上吉野川橋が見えるが、この橋を渡らず、少し進むと左側に細い道が分岐している。この道を進んで行くと和田地区に入る。

 前回通った時、林道のような狭い道で民家が途切れ、さみしくなるようなところだが、暫く登っていくと和田の集落が見えてくる。
 写真は分岐点の箇所で、左側にはおそらく小学校だったと思われる建物がある。
【写真左】分岐点・その2
 右にいくと前回探訪した子守神社や西城に向かう。
 今回は、反対側の東方面(左)へ向かい、和田本城(東八幡社)を目指す。

 

 現地には「土佐和田城址」と刻銘された石碑のほか、土佐・和田氏の由来などを記した石碑が数基建立されている。
 以下主だった碑文を転記しておく。なお、原文は漢字とカタカナで記されているが、便宜上カタカナをひらがなに、また句読点なども含め管理人によって若干校訂している。
【写真左】西側付近
 別名東古城といわれているように、前回探訪した「子守神社」を中心に東へ伸びる尾根を進んで行った箇所に当たる。

 東古城までの道路は、途中で二つに分かれるが、登り坂となる左側の道を進む。枯れ枝や小石などが転がっているので、慎重に運転していく。たどり着くと、ご覧のような広場が出迎えてくれる。
 ここが、和田本城・東八幡宮である。
【写真左】本丸遠望
 上の写真とほぼ変わらないが、奥に本丸があり、その麓は整地され、公園のようになっている。
 おそらく当時はこの周りも郭段となっていたと考えられる。



現地の石碑より・その1

“和田氏太祖 侍所別当和田義盛

 建保元年5月北条氏と政権を争う、同族の三浦氏に裏切られ和田合戦に敗れ討死す。

 子四男若狭守義直一族を引連れ鎌倉を下り、讃岐和田浜に7年住す。此の間二度追手と戦い貞応2年11月和田へ入国、城を築き宮を建つ。子孫大いに繁昌、広く県内各地に分家し世を忍ぶ。
一門の軍神弓矢八幡大神、高野に奉祀す。
 義直三男三郎衛門高宗7歳、後二代若狭守となる。四男若名3歳で入国。栗木分家。義直妹照代姫30歳で入国。
【写真左】本丸跡に建つ東八幡宮
 最高所であるこの位置には現在東八幡宮が祀られている。

 下段の写真でも示すように、三方が土塁で囲繞され、その中には和田若狭守の墓や、小規模な本殿(祠)が祀られている。


家来一番 若狭守弥二郎衛門宗高 38歳
   二番 若狭守弥三郎義高 45歳
   三番 仝 盛近義盛 35歳
   四番 仝 義盛 58歳
   五番 仝 清之助義盛 55歳
   六番 仝 伊左衛門元近 60歳
   七番 仝 和田彦左衛門 80歳
   八番 仝 三郎衛門盛近 25歳
   九番 仝 若名義盛 48歳 神官
   十番 仝 和田宗近高盛 18歳
   十一番 仝 伊左衛門盛義 48歳
   十二番 仝 和田鹿之助義高 10歳
   十三番 仝 盛近義兼 35歳
   十四番 仝 近盛左衛門高義 21歳
   十五番 仝 新左衛門高義 75歳
   十六番 仝 伊左衛門竹義 76歳
【写真左】主郭中央部に向かう。
 左側はコンクリート壁が設置されているが、当時この付近も土塁や切崖で構成されていたと考えられる。



貞応2年6月鎌倉の使者6名出発
同12月末到達し討死
   一番 和田義盛 37歳
   二番 和田新左衛門盛近 70歳
   三番 和田盛左衛門高近 30歳
   四番 森若狭守義宗 35歳
   五番 和田盛之助宗盛 25歳
   六番 和田盛若 17歳”

 さらに、土塁で囲まれた箇所(主郭)には、「和田若狭守之墓」が建立され、墓石の三面には同氏の遺徳を顕彰した銘文が刻まれている。
【写真左】和田若狭守之墓
 土塁でかこまれた主郭の北側に祀られている。









現地の石碑より・その2

“和田若狭守由緒

 土佐名家系譜に言う和田氏は、日本の名族なりと桓武天皇苗栄裔高望より出て、11代三浦大助義明の孫左衛門尉義盛相州三浦郡和田荘に住み、和田氏を称え以て和田氏の祖神たり。

 後裔鎌倉の城主和田若狭守義直又の名義則、故有って退城、貞応年間、子守神社を勧請供奉一族を率いて土佐に入国、土佐郡土佐村に止まり、邑主となる後、居城を興し地名を和田村と改め、威令四辺に及び、子孫大いに繁昌、幾多の功業を遣して此地に没す。
【写真左】東八幡宮・祠



  昭和44年如月裔栄進高野に鎮座す和田一門の軍神弓矢八幡並びに、祖神慰霊の祭儀奉仕の砌、和田若狭守の由緒の碑建立の儀を、石鎚派権中教範田岡妙栄に記して、伺い奏し奉りし處、突如榊葉揺れて其儀ゆくりなくも愛ぐし欣かしお思うとの神託あり、仍而和田一族の有志並に協賛者相諮り、若狭守由縁の地東古城の奥津城(おくつき)を撰び、謹みて此碑を建て、以て祖神の遺徳を顕彰す。
  和田義章 撰

 昭和45年3月15日
      建碑先達  和田栄進
        副先達  明坂峰富
    外和田一族並びに協賛者有志”
【写真左】主郭・祠・土塁
 土塁の上に登り、北から西側の方を見たもので、主郭内底面からの土塁の高さは1.5m前後だが、土塁の外側のうち、西・北・東面は切崖となっている。


和田義盛と和田合戦
 
 建保元年(1213)5月、頼朝以来幕府創立功臣の1人で、侍所別当であった和田義盛は、2代執権北条義時と鎌倉で争い、兵力に勝る幕府軍が圧倒、義盛は同月24日討死した。これを和田合戦という。
【写真左】北側の土塁
 この辺りの土塁天端幅は広い。











 ところで、源頼朝が鎌倉幕府を開いた時期については、一般的にこれまで建久3年、すなわち1192年とされてきた。しかし、近年になって、この他に、①1180年説、②1183年説、③1185年説、④1190説などさまざまな説が生まれてきている。

 どちらにしても建久3年より早い段階で幕府の体制が確立していたことを示しているが、この時期は、のちの鎌倉御家人といわれる諸族が最も活躍したころである。
【写真左】西側の土塁
 南側から見たもので、南北およそ30m前後の長さを持つ。









 和田義盛は、上掲した説明板にもあるように、相模国三浦郡衣笠城主・三浦義明の孫といわれている。久安3年(1147)の生誕とされるので、頼朝と同じ年に生まれている。

 義盛が敗死した和田合戦のきっかけは、元をただせば頼朝の急死から始まる。こののち、嫡男頼家や、頼家の子・一幡(いちまん)および実朝などに託したものの、混迷の極みに達した。
【写真左】虎口跡か
 西側の土塁の途中にはご覧の開口部がある。おそらく虎口だったと思われる。
 また左側には根元に石積が見える。




 そして、結果的には将軍家外戚であった北条氏が、次々と有力御家人を誅滅・排除していったことになる。

 主だった御家人として、最初に討たれたのが梶原景時で、その後、頼家の外戚・比企能員(よしかず)、畠山重忠と続き、建保元年(1213)、北條氏打倒の陰謀があったとして、和田義盛までも北条義時によって討たれることになる。
【写真左】本丸から西方を見る。
 本丸の西方には整地された公園のような景色が広がる。

 中央の小高いところには休憩小屋のような建物があるが、出丸であったかもしれない。


和田合戦のその後

 義盛亡き後、和田一族余党は翌建保2年(1214)11月13日、頼家の三男・栄実を奉じ、京において蜂起した。栄実は一幡の異母弟であるが、彼はまだこのときわずか14歳であった。

 しかも和田余党に担がれる前、同じく北條氏に反旗を翻した信濃の豪族・泉親衡にも担がれ、北条義時誅滅の首謀者とされた。
【写真左】建仁寺
所在地・京都市東山区
臨済宗建仁寺派大本山寺院、京都五山の第3位。
創建、建仁2年(1202)、開基 源頼家、栄西(開山)。





 この謀計は義盛が討たれる3か月前の建保元年(1213)2月であったが、露見したため束縛、同年11月、祖母・北条政子の計らいで出家し、当時京に建立して間もない建仁寺(伊志見郷(島根県松江市宍道町伊志見)参照)を建てた栄西の弟子となり、法名を栄実と名乗った。
【写真左】本丸西側の切崖
 西側が公園のようなっているため、比高はさほどないが、切崖の形状を残している。






 出家して間もない栄実であったが、翌2年11月13日、和田余党は京において再び彼を担ぎ出した。
 鎌倉における北条氏打倒の動きは、京においても同じような状況を呈していた。六波羅探題はいち早くこうした動きを封じ込めるため、監視体制をとっていたのだろう。和田余党はあえなく探題に攻め滅ぼされ、年若い栄実はここに自害した。
【写真左】本丸南側
 左側に本丸(東八幡宮)があり、その南側はご覧のように舗装された駐車場が施工されているが、おそらく当時はこのあたりに腰郭などがあったものと思われる。

 なお、その外側はかなり傾斜のついた斜面となっているので、要害性は高い。


四男・和田若狭守義直の四国下向

 京における和田余党の乱から2年後の建保4年(1216)、義盛の四男・義直は讃岐に入った。幕府御家人を次々と滅ぼした北条義時は、この年大江広元に源実朝の官位昇進を諌めさせた。これは明らかに政権を源氏から執権北條氏へ替えようとする動きの一つであった。
【写真左】和田氏末裔による寄付芳名者
 八幡宮の中にある建物には、和田氏一族の末裔者と思われる方々の芳名が記されている。
 地元土佐町をはじめ、佐川町、土佐山村、鏡村等が記されている。


 さて、義直が足を踏み入れた讃岐和田浜とは、現在の香川県観音寺市豊浜町和田浜付近で、ここに7年間住んだという。この間、追手である北條氏が2度も当地を攻めたといわれる。

 ところで、この追手追討は和田余党による栄実を奉じて蜂起した戦いのあとのものだけでなく、この間の承久3年(1221)に起こったいわゆる「承久の乱」があったことから、おそらく義直らは後鳥羽上皇に与し、敗れた結果、さらなる六波羅探題の追討をうけたため、讃岐からさらに奥深い四国山脈を越えた険しい山並みのこの地・和田へ逃げこみ住み着いたものだろう。

寳劍 伝天國

 義直の土佐入国以来、和田氏一族が代々秘蔵として受け継いできたものに「刀匠・天国」作といわれる「宝剣」があるという。その由来も現地の石碑に刻まれている。
【写真左】石碑に刻まれた「宝剣 伝天國」
















“寳劍 伝天國 土佐和田家 重代

 「天国」は奈良朝末期から平安朝初期にかけて大和国に出現した神秘の刀匠と云われ、従来の唐太刀とは全くその作刀の基調を異にする諸刃鎬造の純日本刀を創始した。

 現在「天国」在銘の剣は皆無であり、皇室の御物小烏丸(伝天国)が天国の作ではなかろうかと云われているのみである。かくの如く上古刀の天国は幽玄で格調の高いものである。

 鎌倉時代―時の侍所の別当であった和田義盛が北條氏の策謀により非業に斃(たお)れた時、嫡子義則は危うく難を免れ、少数の同族と共にこの宝剣を抱いて四国山脈の懐深く潜伏し、時の至るのを待った。

 爾後星霜七百余年、幾多の起伏を経て天国の剣は、奇しくも殆ど完全な姿のまま和田一族の間に秘蔵されてきた。誠に神仏の加護による歴史的奇跡と云う他はあるまい。

    和田義盛後裔會
    昭和丁卯四月吉日
    医学博士法学士
        和田健偉 建立”

2014年11月12日水曜日

梨羽城(広島県三原市本郷町上北方)

梨羽城(なしはじょう)

●所在地 広島県三原市本郷町上北方
●高さ 179m(比高150m)
●築城期 室町初期(応永年間か)
●築城者 梨羽時春
●城主 梨羽氏
●遺構 郭・竪堀・井戸など
●登城日 2014年3月25日

◆解説(参考資料「サイト『城郭放浪記』」等)
 梨羽城は、三原市本郷町上北方にあって、小早川氏の庶流・梨羽氏が築いた城である。また、南麓部から東へ向かい沼田川を少しさかのぼると、小早川氏の居城である安芸・高山城及び新高山城に繋がる。
【写真左】梨羽城遠望・その1
 北西側の谷から見たもので、高山城と同じく当城の真下を山陽新幹線が走っている。
【写真左】梨羽城遠望・その2
 これは反対に南東麓が見たもので、手前には梨和川が流れている。
 この川を下っていく(右方向)と、沼田川にたどり着く。



 現地の説明板より

“梨羽城周辺整備事業
 梨羽城は梨羽氏の城で小早川9代春平の三男を初代としている。代々のお墓は今井谷にあります。
 関ヶ原戦後慶長年中(1600年)長州(山口県)移転の時、城主6代の位牌を田中家(現在尾道市三成)に預けた。参勤交代等の節は墓所、田中家の位牌に参り、下北方心光寺の和尚にたのみ、供養をされることが明治維新まで行われていた。
   文化財保護委員 兼保 義之
【写真左】梨羽城位置図
 梨羽城の西麓付近に設置されている地図で、少し文字が小さいが、現在地付近(左側)に梨羽城、右側には高山城などが記されている。


梨羽氏系図
 9代・小早川春平
     ↓
 10代・則平
     令薫
     時春-潔景-元仁-景行-康平-友行-景宗(以下略)

梨羽城跡 三原市本郷町上北方
 現状 山林、保存状況 完存、立地 丘陵頂部、標高 179m・比高150m
 史料 芸藩通誌 巻85・92

 概要
  1郭は30m×25m程度の規模で、南側に2郭に通じる虎口が開く。2郭の北西下には径7mの凹みのある郭があり、井戸跡と思われる。1郭の東側には4条の、3郭の西側には2条の堀切がある。1・2郭の南側斜面には畝状空堀群がある。城主は梨羽氏と伝えられる。” 
【写真左】道路脇の大きな看板
 梨羽城の南麓を東西に走る道路(59号線)脇にご覧の大きな看板が設置されている。
 その後ろには梨羽城登城道が見えている。


【写真左】梨羽城イメージ図
 登城口一つである西麓付近に説明板が設置され、その中にご覧の絵が添えられている。








  
梨羽氏

 説明板にもあるように、梨羽氏は小早川氏9代の春平の三男・時春を初代としている。9代の小早川春平については、以前三原市沼田東町の米山寺・小早川隆景墓でも紹介しているように、応永4年(1398)、古刹・仏通寺を開基した人物である。

 春平の子には、長男・則平、二男・令薫、そして三男・時春がいた。長男・則平は、東広島市福富町上戸野にある安芸・高塚城でも触れたように、南北朝期、園城寺や東寺の寺領であった河内町・福富町を室町期に至ると、自らの所領として子息・煕平へとつないでいる。

 三男・時春の生没年などははっきりしないが、父・春平や長兄・則平などの記録を見ると、梨羽氏を名乗った時期は、おそらく室町初期の応永年間(1394~1427)頃だろう。
【写真左】登城道
 南西麓にある登城口付近には、北方のコミュニティセンターがあり、そこに駐車させていただいた。

 そこから道路を渡ると、直ぐに登城道がある。傾斜は多少あるものの、幅約1m程度の簡易舗装が主郭直下まで施工されているので、歩きやすい。
【写真左】主郭が見えてきた。
 西側から伸びる尾根を伝って進むが、途中で最初のピーク(見張櫓か)がある。このあたりから視界がぐんと広くなってくる。
【写真左】山陽新幹線
 西麓に目をやると、山陽新幹線が見える。奥のトンネルを過ぎ、山を越えると竹原市に至る。
【写真左】堀切
 最初に見えたもので、ここまで舗装されていると堀切のリアリティさが今一つ伝わってこないが、歩く分には助かる。
【写真左】今井谷城
 南麓の梨和側をはさんで南西方向には梨羽城の支城といわれた今井谷城が見える。H:160m。
 なお、この麓には梨羽氏累代の墓石がある(下段参照)。
【写真左】3郭西端部
 登城道はこの辺りで尾根筋から北側斜面に代わり、簡易舗装はここまで。
 写真右側の上には3郭が控えるが、その先端部にも小郭がある。
【写真左】井戸跡
 北側に変わった登城道をしばらく進むと、左下の斜面に井戸跡が見えてくる。
 現在は大分埋まっているが、直径約4m余とかなり大きなもの。
 この位置から真上には2郭が控えている。

 このあと、先ず2・3郭方面に登る。
【写真左】3郭
 西に向かって細くなった三角形の郭で、奥行15m前後のもの。
【写真左】2郭
 3郭の西に隣接するもので、長辺・短辺とも約15m前後の規模を持つ。
【写真左】2郭から1郭(主郭)を見上げる。
 2郭天端から1郭天端までの比高差は約10m前後あるが、比較的なだらかな切崖となっている。
 ここから1郭までの道は再び南側に設置されている。
【写真左】1郭に向かう階段部
 北側の斜面(切崖)はかなり険しいため、こちら(南)に設置されたようだ。
【写真左】1郭(主郭)・その1
 主郭は2,3郭に比べ傾斜は殆どなく、フラットな施工となっている。
 長径20m×短径15m前後の規模を持つ。

 なお、この写真の中央奥に見える台形状の山があるが、あるいは高山城かもしれない。
【写真左】主郭から西方に2郭・3郭を見る。
 この位置からは支城の今井谷や今井谷城がよく見える。
【写真左】主郭から南東方面を俯瞰する。
 この谷筋を下っていくと、沼田川本流や小早川家累代の墓所がある米山寺にたどり着く。
【写真左】畝状竪堀群
 1郭及び2郭の南側には10条以上の数を誇る畝状竪堀群がある。
 ただ現状は大分埋まっていて明瞭な箇所がすくなくなっている。
【写真左】梨羽城主歴代の墓・その1
 梨羽城の南麓にあたる今井谷には今井谷城があるが、この麓に今井谷集会所がある。この写真は入口付近で、おそらく今井谷城の登城口であったと思われる。
【写真左】梨羽城主歴代の墓・その2
 100mほど山の中に向かうと同氏累代の墓が祀られている。


初代・時春
2代・煕平(潔景)
3代・元仁
4代・景行
5代・康平
6代・友行

2014年11月9日日曜日

安芸・鬼が丸城(広島県東広島市八本松町吉川)

安芸・鬼が丸城(あき・おにがまるじょう)

●所在地 広島県東広島市八本松町吉川
●高さ 410m(比高110m)
●築城期 不明(戦国期か)
●城主 毛利氏(小早川隆景)
●遺構 郭
●登城日 2014年3月2日

◆解説
 鬼が丸城は前稿槌山城(広島県東広島市八本松町吉川)でも紹介したように、槌山城の西に聳える標高410mの岩塊に築城された向城である。
【写真左】鬼が丸城の絶壁
 主郭はこの大岩の上にある。登城道は特に標示されていないが、この大岩の南斜面に2,30cm程度の幅でよじ登る個所があり、周りに生えている樹木に捕まりながら向かう。
【写真左】鬼が丸城遠望
 槌山城の西郭群付近からみたもの。

 後段で紹介する「オフロードバイク・ライダー」氏がバイクで登ってきたコースは、北側からだが、毛利氏(小早川隆景)らが当城に向かったコースとおそらく同じだったかもしれない。


 現地の説明板より

“槌山城(八本松町吉川)

 槌山城は、大内氏の安芸国支配の拠点として西条守護が在城していました。天文20年(1551)、陶氏によって大内義隆が滅ぼされると、槌山城には大内義隆派の将兵が篭り陶氏に対して反旗を翻しました。

 陶氏は毛利氏に命じて槌山城を攻撃しますが、この時、毛利隆元は吉川砥石山、吉川元春は東山、小早川隆景は鬼ヶ城に陣して三兄弟は協力して槌山城を攻めたと伝えられています。”


オフロードバイク・ライダーとの遭遇

 これまで650か所以上の山城を登城しているが、主郭・本丸付近でバイクに遭遇したのは初めてである。しかも、鬼が丸城の主郭は槌山城と同じく巨岩の塊で、ここにたどり着くまでは険しい岩場や、急傾斜の尾根道などがあり、徒歩による登城でも途中には油断すると滑落する危険な場所がある。
【写真左】鬼が丸城と槌山城方面との分岐点
 左(西)に向かうと鬼が丸城、右(東)に向かうと槌山城。







 前稿でも紹介したが、槌山城登城途中で、鬼が丸に向かう道と槌山城に向かう道の分岐点がある。尾根の鞍部に当たるが、ここから鬼が丸城の主郭までは西の尾根を伝って約300mの距離である。

【写真左】削平された頂部
 尾根道ピークにあるもので、鬼が丸城と槌山城側分岐点との中間地点に当たる。
【写真左】鬼が丸城が見えてきた。
 この段階で当城が岩塊であることが分かる。








 暫く尾根伝いを進むと、丁度中間地点で綺麗に削平された頂部(写真参照)がある。ここまではよかったのだが、この先から次第に険しい尾根が続くようになる。連れ合いは、眼前に見える大岩と麓からの傾斜を見て行きたくない、と拒否する。仕方がないので、管理人のみトライすべく、歩を進めた。

【写真左】大岩を横から見る。
 ほぼ垂直に大岩が屹立している。その真上に主郭がある。ロッククライミング経験者ならこの岩を登れるだろうが、一般の者にはまず無理。

 手前南側に進み、匍匐前進で何とか登れるヵ所をみつける。





 主郭大岩の南斜面から登ってきた時、最初に目にしたのがこのバイクである。急斜面を喘ぎながら登ってきた者にとって、頭上にバイクが見えた時、一瞬わが目を疑った。

 こんな場所にそもそもバイクがあること自体考えられないことである。バイクは岩の脇に横に置かれ、ライダーの姿は見えない。しばらくすると、上の主郭のほうからヘルメットを着けた青年が下りてきた。

 バイクでどうやってきたのか尋ねたところ、北側の溜池付近から乗ってきたという。途中まで林道のような道だったから造作もなかったが、さすがに後半になると岩が露出した箇所があり、それなりに神経は使うが、この程度は慣れているという。地元の青年のようで、暇ができるとこうしたオフロードを走るのが趣味だという。それにしても恐れ入った。
【写真左】オフロードバイクとライダー氏
 この先に主郭があり、管理人は写真の右側の斜面から登ってきた。







 バイクを降りて、上の主郭付近まで向かったが特に何もなかったという。この山が戦国期に戦いのあった山城であるということを伝えると、まったく知らなかったらしく、結構興味をもってくれた。
 そして、記念にバイクと一緒に写真を撮らせてほしいというと、ご覧のVサインのポーズできめてくれた。
 ライダー氏と別れて、改めて主郭を目指す。
【写真左】主郭付近
 鬼が丸城の主郭付近は、北側が頂部となって全体に岩で構成されている。そこからやや南に下がると、細長い小規模な郭段が2段ある(下の写真参照)
【写真左】主郭南側の段
 東西15m×南北4m前後の腰郭



【写真左】主郭から槌山城を遠望する。
 主郭の東端部である岩塊から見たもので、槌山城全体が確認できる。
 足元の先はほぼ垂直の絶壁。
【写真左】主郭から南方に砥石山城を俯瞰する。
 槌山城攻めの際は、毛利三兄弟が主体となって行ったが、このうち、鬼が丸城は小早川隆景といわれ、南の溜池をはさんで砥石山城には、長男の毛利隆元が陣したという。

 なお、前稿・槌山城(広島県東広島市八本松町吉川)でも述べたように、吉川元春は、槌山城の東方にある東山城に布陣した。


竹内屋敷

 ところで、槌山城の南東麓には「竹内屋敷」といわれるところがある。詳細は不明だが、槌山城主・城番であった弘中氏又は、菅田越中守宣真らが関係した館跡かもしれない。
【写真左】竹内屋敷跡・その1
 現在は屋敷跡に一般の住宅などが建ち、遺構としてはあまり残っていない。

 奥に見える山は槌山城。
【写真左】竹内屋敷跡・その2
 土塁跡か
【写真左】竹内屋敷跡・その3
 土塀跡
 周囲には用水路のようなものが残っており、おそらく当時これらが屋敷周りの濠跡だったと考えられる。





維新の傑僧宇都宮黙霖

 ところで、竹内屋敷の北隣には浄土真宗本願寺派 多聞山 西福寺がある。当院の出身といわれる宇都宮黙霖について次のように記されている。
【写真左】浄土真宗本願寺派 多聞山 西福寺











“維新の傑僧 宇都宮黙霖(もくりん)

 黙霖は文政7年(1824)呉市広町長浜で生まれた。父は後に吉川西福寺住職となった峻嶺(しゅんれい)で、母は宇都宮 琴(こと)といった。

 3歳で正力善証庵の養子となったが、10年後に再び長浜に帰り、専徳寺常諦(じょうたい)のもとで学問に志し、また寺家の野坂由節(ゆうせつ)、蒲刈弘願寺(ぐがんじ)の円識に学んで、その才を伸ばした。
 21歳のころ大病で聾唖の身となったが屈せず諸国修行を重ね、動乱の幕末にあっては、激越な尊王倒幕の志士として活躍し、吉田松陰、頼三樹三郎、梅田雲浜、僧月性らと合許した。
 維新成就後、黙霖は郷里長浜に帰り、大蔵経の和歌訳など著述に没頭したが、晩年は呉市の沢原家に迎えられて余生を送り、明治30年9月15日、74歳の生涯を閉じた。
 墓は父母が眠る当西福寺の境内にあり、大正5年維新の功により従五位をおくられた。
     東広島ウエストライオンズクラブ
     東広島市郷土史研究会”