2014年11月6日木曜日

槌山城(広島県東広島市八本松町吉川)

槌山城(つちやまじょう)

●所在地 広島県東広島市八本町吉川)
●別名 明神山城
●高さ 489m(比高260m)
●築城期 応永年間(1394~1428)ごろ
●築城者 大内氏
●城主 弘中隆兼等
●遺構 郭・空堀・石垣等
●指定 東広島市指定史跡
●登城日 2014年3月20日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第13巻』等)
 槌山城は東広島市の西端・八本松町にあって、ここから8キロ余り東に進んだ西条町御薗宇には鏡山城がある。また、南麓を走る津江八本松線(335号線)を西に進み、戸坂峠を越えると、阿戸町に至り、熊野川を下っていくと、瀬野で瀬野川本流と合流し、国道2号線やJR山陽本線と並行しながら西進し、海田町(安芸郡)の広島湾にたどり着く。
【写真左】槌山城遠望
 南東麓から見たもの。中央の最高所が本丸になるが、後段で示す「鬼が丸城」は左側の尾根に隠れて見えない。





現地の説明板より

“東広島市指定史跡
 槌山城跡
    昭和53年11月15日 指定

 槌山城は、西条盆地の西端、標高490mの急峻な槌山に築かれた中世の山城で、明神山城とも呼ばれました。城が築かれたのは南北朝時代と言われていますが、明らかではありません。

 室町・戦国時代、この地域は山口の守護大名大内氏の所領でした。大永3(1523)年出雲尼子氏によって鏡山城が落城し、大永5(1525)年以降大内氏の拠点は、杣城(そまじょう)及び槌山城に移されました。
【写真左】槌山城跡略測図
 本丸跡に設置されているもので、この日は同図の西郭群(4郭)から登城した。





 天文12(1543)年、大内氏は、守護代として重臣の弘中隆兼を槌山城に派遣します。弘中隆兼は、天文15(1546)年には「西条守護殿」と呼ばれ、天文19(1550)年頃まで槌山城を本拠として芸備両国を支配していました。

 天文20(1551)年、陶氏の反乱によって大内義隆が滅亡した際、当城は大内義隆派の城番が守っていましたが、陶氏の命を受けた毛利氏らによって攻め落とされています。厳島合戦は、小早川氏が管理していましたが、「当国守護山」ということで毛利氏に移管されています。
【写真左】登城口付近
 正面奥に見える山が槌山城で、この日は南麓側から向かったが、登城コースはこのほかに北東麓から向かうコースもあるようだ。
 写真の位置から本丸まで970mと書かれている。

 ご覧の通り伐採作業が終わった後のようで、麓の視界は極めて良好。手前の道路は東広島市と安芸区・熊野町を結ぶ道路で、西進すると戸坂峠に至る。


 城跡は、東西400m、南北250mの範囲に拡がる大規模なもので、1郭、2郭、3郭、4郭を中心とする郭群にそれぞれ分けられます。1郭を中心とする郭群は本丸に当たると考えられ、3段からなります。3郭を中心とする郭群は登城路が集まる場所に当たり、重要な郭群となっています。城内の要所には石垣を築いており、本城跡は、戦国時代中期の代表的な城跡として重要です。”
【写真左】鬼が丸城との分岐点
 登城道を進んで行くと、次第に岩塊の多い景色が増えるが、この位置までは歩きやすい。

 写真は鬼が丸城へ向かうコースとの分岐点になり、左に向かうと、鬼が丸城へ、右に進むと槌山城へ向かう。
 なお、鬼が丸城については次稿で取り上げたい。


弘中隆兼

 大内氏の家臣として戦国期に名を連ねた主だった一族と本拠城(館)は、長門・周防国に限定すると次の通りである。
  1. 陶氏(右田氏) 周防・若山城(山口県周防市福川) 
  2. 内藤氏      荒滝山城(山口県宇部市大字東吉部字荒滝)
  3. 杉氏        鞍掛山城(山口県岩国市玖珂町字谷津)
  4. 江良氏       現・本生山龍雲寺(山口県周南市鹿野)境内
  5. 弘中氏       亀尾城(岩国市錦見)
今稿の槌山城の城主といわれたのがその弘中氏である。弘中氏の出自は清和源氏の流れを汲み、上掲したように鎌倉の開幕期から代々岩国の領主を努めていたとされる。
 槌山城主・弘中隆兼(諱:隆包)は、大永元年(1521)生まれといわれるので、陶晴賢と同じ年である。
【写真左】急坂道
 先ほどの分岐点を過ぎた途端に、ここから急坂道が続く。
 ほぼ尾根筋を直進するコースのため、九十九折でない。途端に息が荒くなる。



 陶晴賢や内藤興盛などは武断派といわれ、後に主君大内義隆を倒したのに対し、江良房栄や、弘中隆兼はかれらの行動とは途中から別の動きをすることになる。

 両者は毛利元就が大内氏の麾下となっていたころ、特に隆兼は元就をはじめ、隆元・元春らとも親交を深めている。
【写真左】西郭群・その1
 おそらく西郭群の西端部に当たると思われるが、途中で小郭の段が出てくる。ただ、それもつかの間で、この先は最後の急傾斜が控えている。


 天文20(1551)年、陶晴賢が大内義隆を討ち、義隆跡に豊後の大友宗麟の弟・義長を迎えると、芸備両国の国人衆に動揺が走った。このころ槌山城の城番には菅田越中守宣真が入っていた。上掲の説明板にある大内義隆派の城番とは彼のことである。

 彼は以前紹介した槌山城西方にある堀の城(広島県安芸郡熊野町城之堀区字城之堀)の菅田豊後守と同族である。安芸国国人領主の中でも特に宣真は、晴賢が行った反乱には批判的であった。
【写真左】西郭群・その2
 さらにキツイ郭段。実際は切崖の連続である。余り汗をかかない連れ合いも、このときはタオルで何度もぬぐった。管理人は途中からTシャツ一枚になったが、それでも暑くなり、ペットボトル1本は空になった。


 ところで、弘中隆兼が天文19年ごろまで槌山城主であったが、その後何故、この菅田宣真が当城の城番になったのか、その理由ははっきりしない。しかし、このころの隆兼もまた、晴賢による義隆討滅に対し異を唱えていたので、その態度を示すため自ら下城したのかもしれない。

 そうした関係もあって、後に大内氏が陶晴賢によって殺害されたあと、元就が晴賢と対立した際、隆兼は江良房栄とともに、毛利氏との内通を疑われ、江良房栄は殺害され、隆兼も危うく難を逃れた。
【写真左】西郭群・その3
 難所を過ぎるとやっと尾根は緩やかになり、細長い郭が前方に見えてきた。本丸まであと少し。




 その後、隆兼は大内義長(晴賢)に従い、厳島で毛利氏と戦ったが、負け戦となり、総大将であった陶晴賢の奔走を援助すべく、自ら楯となった(宮尾城(広島県廿日市市宮島町)参照)。しかし、結局この戦いで、晴賢は自刃、隆兼もこの島で討死した。享年34歳。諱は隆包という。
 
杣城(そまじょう)

 大永3年に鏡山城が尼子氏によって落城した後、槌山城とともに大内氏の拠城となったのが、杣城である。別名曽場が城ともいわれ、鏡山城から西方に位置した場所で、鏡山城からは北西方向へ約8キロの距離になる。
【写真左】曽場が城(杣城)遠望
 写真は2014年9月22日に撮ったものだが、この日は登城していない。南麓を走る林道側から見たもの。






 また槌山城は杣城(曽場が城)から南西方向へ6キロ余の位置にあって、鏡山城に拠った尼子氏がその後、西進するのを防ぐように、両城が置かれている。
【写真左】本丸・その1
 冒頭の略測図でいう主郭群(1郭)のことで、東西65m×南北20mの規模。東西方向に段差によって3つに区分されている。
 現地はそのうち南半分が伐採され、北側の方は雑木が残してある。
【写真左】説明板
 登城口に設置してあるものとほぼ同じ内容が書かれているが、それ以外の事柄としては、
“…南西方面に下りる通路と北東郭群へ下りる通路があり、城の斜面には、各所に石垣が見られます。また、東郭群の南北には、麓に通じる道があり、大手道と考えられます。”
 と記されている。
 従って、この日登城したコースは大手道でなく、搦手のコースだったと考えられる。
【写真左】本丸から南東方面を俯瞰する。
 八本松町や西条町の街並みがみえる。
【写真左】東山城
 槌山城の東方には東山城が見える。
 槌山城攻めの際、毛利三兄弟が主体となって行われたが、そのうち、吉川元春はこの山に拠った。

 このあと、その大手道に向かうことにする。
【写真左】北東郭群(2郭)・その1
 この写真は上から見たもので、傾斜の雰囲気は感じられないが、下の写真を見ていただきたい。
【写真左】北東郭群(2郭)・その2
 急傾斜で管理人は殆ど滑り落ちるように下ってしまった。
 
 連れ合いは、とてもこのあと再びよじ登るのは無理だといって、途中で座り込んだ。
【写真左】北東郭群(2郭)・その3
 やっと平坦な郭群になった。
【写真左】北東郭群(3郭)
 西端部まで来たが、ここまで来たものの、今回は相当体力を消耗した。これ以上降ると、戻る体力がもたない。この辺りでUターンする。
【写真左】石積
 帰りのコース途中に見えたもので、主郭群と西郭群の境付近には、二通りの道が残っており、そのうち南側の道を辿ると、右手頭上に見える。

2014年10月28日火曜日

伯耆・市場城(鳥取県倉吉市小鴨)

伯耆・市場城(ほうき・いちばじょう)

●所在地 鳥取県倉吉市小鴨
●築城期 不明(鎌倉末期~南北朝期頃か)
●形態 平山城(居館跡)
●高さ 70m(比高20m)
●遺構 郭・空堀・土塁
●城主 岡田氏
●登城日 2011年10月15日及び2014年10月26日

◆解説(参考文献「サイト『城郭放浪記』」、『県史 鳥取県の歴史』山川出版社等)
 本稿では前稿でとりあげた伯耆・岩倉城(鳥取県倉吉市岩倉)の城主・小鴨氏の居館といわれている市場城を取り上げたい。
【写真左】市場城遠望・その1
 東側から見たもの。
 手前は田圃が広がり、市場城の西側に出ると、再び隣の谷が北東方向に伸びている。




現地の説明板より

“市場城跡

 小鴨氏の居城であった岩倉城の出城で、小鴨氏の家来・岡田某氏がいた、ということである。
 天正10年(1582)5月、吉川軍に攻められて落城し、本城の岩倉城と共に廃城となった。(伯耆民談記による)

 文政元年(1818)鳥取藩が調査して作成した古図が残っている。
 市場村古城跡
 高6間位(約10m)
 天神野ノ裾通リニシテ松林有
 當時山上ハ社地也”

【写真左】市場城遠望・その2
 小鴨氏の居城・岩倉城から見たもの。
 左(南側)から細い丘陵が伸びているが、その一角に築かれている。


小鴨氏

 ところで小鴨氏の出自については、前稿でも述べたようにその出自は平安末期に遡る地元在庁官人とされている。

 小鴨氏はその後戦国期にいたると、伯耆国における国人衆「伯耆衆」の一人とされている。ちなみに、伯耆衆とは、
  • 小鴨・越振・塩冶・遠藤・長(ちょう)・山口・広瀬・野津
の諸氏である。
 小鴨氏はその後、山名氏の衰退にともない南条氏と結び、南条宗元(入道宗勝)の次男・元清が小鴨氏に養子として入り、小鴨元清と名乗った。元清の兄は南条元続(勘兵衛・直秀)(羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石)参照)であるが、彼ら兄弟は、当初毛利方に属していたものの、その後信長の西進に従い、毛利氏を離れ、秀吉方についた。
【写真左】入口付近
 東麓を流れる用水路を渡ると、4m前後の高さ(土塁跡か)の坂があり、それを登ると最初の小郭がある。

 現在はこの箇所から入るようになっているが、主要な入口としての虎口は、後段で紹介する西側の土塁群の一角だったと思われる。


市場村古城跡図

 現地の説明板には、「文政元年(1818)鳥取藩が調査して作成した古図が残っている」、と記され、それをもとにした図が描かれている。


【写真左】市場村古城跡図



 これを見ると、市場城は二つに区分され、

(1)横三十間(約55m)×長百間位(約182m)
(2)横四十間(約73m)×長七十間(約127m)

の二つが並んでいることになる。

 そして(2)の方には西側(上段)に土手が描かれ、その先には堀切を介して「表夘四間四方(8×8m)」のものがあったとされている。
 この古図の描き方には、平面図的な作図と、立体的な書き方が混ざったもので、すこし混乱するが、概ね配置状況は同図でいえば、右が北を示し、上が西を示すものだろう。

 そして、上段にかかれている「表夘四間四方(8×8m)」には、付記されている「山上ハ社地」すなわち、小鴨氏が崇拝した神社が祀られていたものだろう。

 また、現在畑地となっているところが、左側のもの、即ち(2)の箇所と思われ、(1)は現在、野地(一部畑地)となった低地付近と思われる。
【写真左】東麓部
 市場城の東面で、北側から見たもので、境には現在農道や用水路などが並行して走っているが、当時はこの周囲には濠が巡らされていたと考えられる。


市場城の周辺

 前回の登城(2011年)の際、東側から入って現在畑地となっている館跡付近しか踏査していなかったが、『城郭放浪記』氏など他のサイトを確認したところ、周囲に空堀などがあることが分かり、今回(2014年)再登城した。

 市場城のある位置は、南西部から伸びた長い低丘陵の中にある。いわゆる山城的な要害性を持たせた性質のものでなく、比高もさほどなく、館跡としての機能が優先された城館である。しかし、周囲にこれだけ大規模な空堀と土塁を駆使していることは、防御の面においてかなり意を用いたものといえるだろう。
【写真左】土塁
 入口から少し入った所で、東側に残る土塁。
 左側は小郭となっており、ここからさらに西に向かって5m程度高くなった上段の郭がある。
【写真左】上段の郭
 現在一部がこのような畑地となっているが、奥に見える野地となった箇所も郭跡と考えられ、おそらく小鴨氏(家臣・岡田某氏)の居館などが建っていたものと思われる。

 中央や左側も藪化しているが、この郭(居館跡)の北・西・南側はほぼ土塁で囲繞されている。

 なお、右側の藪は切崖となっており、奥に進むほど(北方向)比高が高くなり、切崖の様相を呈している。
  規模は上掲した市場村古城跡図の(2)に該当する場所と思われ、横約73m×長約127mの大きさだろう。
【写真左】北端部の切崖
 北に向かうにつれ、麓の農道と市場城郭天端との比高差が高くなっていく。

 おそらくこの位置では10mを測るだろう。急傾斜の切崖である。
【写真左】南端部
 一旦城域から外に出て、南側に回り込むと、丁度城域の境に当たる位置には西に向かって登り坂が敷設されている。
 左の竹藪が城域になるが、実はこの道路側から土塁が道路に沿って下まで伸び、その土塁の中側には長大な空堀が敷設されている。
【写真左】東西に伸びる空堀と土塁
 道路側のもので、右の土塁を超えるとすぐに道路となっており、左側の土塁を登ると、市場城の館・郭に繋がる。

 なお、右側の土塁天端から堀切底部までは3~5m、左側の土塁天端から堀切底部までは最大で8m前後の比高差がある。

 この箇所における空堀総延長は東端部から西端部(1郭まで)で約40m前後。

 次に、もう少し坂を上った所から改めて向かう。
【写真左】西端部の堀切
 西側の堀切で、驚異的な孟宗竹の繁茂のため写真では分かりづらいが、中央部が堀切底部で、右の土塁の上が市場城館になる。

 なお、左の土塁を登るとさらに高い郭跡があるようだが、おそらくこの上に「社」があったものと思われる。
 奥行は、従って130m前後あるだろう。
【写真左】東西の空堀と西側の南北の空堀が交差する箇所
 写真右が道路側に当たるが、竹がなければ見事な空堀を見ることができるだろう。
【写真左】西端部境
 城域の西側境を過ぎると、傾斜を保ったまま、現在ナシ園となった畑地が続く。
【写真左】市場城から南東方向に岩倉城を遠望する。
 市場城から岩倉城方面を見ると、手前左右の山が若干遮ることになり、岩倉城の全景は見ることができないようだ。
【写真左】市場城から打吹城を遠望する。
 小鴨氏の元主君であった山名氏の居城・打吹山城はどの方向からでも流麗な山容を見せてくれる。

2014年10月25日土曜日

伯耆・岩倉城(鳥取県倉吉市岩倉)

伯耆・岩倉城(ほうき・いわくらじょう)

●所在地 鳥取県倉吉市岩倉
●別名 小鴨城
●高さ 247m(比高154m)
●築城期 寿永・元歴年間(1182~85)
●築城者 小鴨左衛門尉元兼
●城主 小鴨氏基・之基・元清など
●遺構 郭・堀切等
●登城日 2009年5月2日、2013年10月30日

◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
 伯耆・岩倉城(以下「岩倉城」とする)については、これまで草畿山城・関金要害山城(鳥取県倉吉市関金町)、打吹山城(鳥取県倉吉市)、羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石)でも紹介しているが、打吹山城から西麓を流れる小鴨川沿いを7キロ余り遡った岩倉の地に築かれた城砦である。
【写真左】岩倉城遠望
 この写真は2009年に探訪したもので、登城口が分からず、西麓から写真のみを撮ったもの。




現地の説明板より

“小鴨氏と岩倉城

 小鴨氏は、律令時代-奈良・平安時代-すでに名があり、伯耆国庁につとめた在庁官人の家柄と考えられている。平安時代の末期に、寿永元年(1182)小鴨基保(もとやす)が西伯耆の豪族紀成盛と戦った記録がある。

 鎌倉時代に、小鴨氏は岩倉山(海抜247m)の山上に砦を築き、ここを代々の居城とした。
 元弘3年(1333)後醍醐天皇が船上山に潜幸の際、名和氏の軍勢により小鴨城が攻略されたという記事もあるが、よくわからない。
 天皇が京都へ還幸になるとき、小鴨氏基は供奉したといわれる。
【写真左】岩倉城・概要図
 現地に設置されているものだが、塗料が大分薄くなっているため、分かりずらいが、本丸はほぼ中央部に描かれている。









 応仁の乱(1467~77)には、伯耆守護山名教之に従い、小鴨安芸守之基(ゆきもと)は、主人に代わって防戦し、船岡山の戦いで討死した。

 大永4年(1524)5月、尼子経久が出雲より伯耆へ侵攻し、伯耆のすべての城が陥落し、小鴨氏の岩倉城も落城の憂き目にあった。

 永禄4年(1561)西国より起こった毛利氏が強くなり、羽衣石城の南条氏と共に毛利氏に加担して尼子氏に反攻。永禄9年(1566)尼子氏は毛利氏に降伏し、小鴨氏は南條氏と共に吉川元春の配下となった。
【写真左】登城口
 岩倉城の北麓に林道のような道があり、道路脇の斜面に「岩倉城」と記された標柱がある。もっとも、周囲の草に覆われていて、時期によってはこの標柱は見えないかもしれない。

 また、入口付近の道は狭い坂道で、最初に足を踏み入れた時は、この先の道は消滅しているのではないかと不安になった。しかし、除草していないのは前半だけで、その先ははっきりとした踏み跡があり、迷うことはない。

 なお、この標柱には登城道とは別に、もう少し林道を進んだ上の方に「大手門跡へ」と記されたものもあり、登城前にその箇所を捜してみたが分からなかった。


 元亀元年(1570)、山中鹿助の配下に一時奪われたが、因幡の湯原氏の応援を得て奪還した。
 天正7年(1579)、小鴨元清は南条元続(もとつぐ)と共に毛利氏から離れ、織田氏に帰属することになった。毛利氏は吉川元長を長として、圧倒的な軍勢を以て、岩倉城に猛烈な攻撃をしかけてきた。天正10年(1582)5月のことである。忠勇十二勇士の誓願盟約による奮戦も空しく、遂に落城した。城主小鴨元清は、南条氏を頼って羽衣石に逃れ、ここに岩倉城の歴史は幕を閉じた。
 
   小鴨地区総合開発協議会”
【写真左】堀切
 郭段などが現れる箇所より大分手前に設置されたもので、このあたりから登城道は傾斜がきつくなる。





小鴨基保と紀成盛

 平安時代末期の公卿で、後の鎌倉幕府において初代関東申次となった吉田経房が残した日記『吉記(吉戸記)』によれば、

 “寿永元年(1182)8月20日、伯耆国の紀成盛と小鴨基保の合戦に雲石等国々与力する。”

と記されている。
【写真左】「頂上まで80m」と記された箇所。
 城域に向かう道は北側から東に回り込むコースがとられている。
【写真左】登城道を塞いでいる大岩
 この箇所は土砂が崩落し、その上にあった大岩が落ちてきたものだろう。軟弱な土質のようだ。




 紀成盛は元々朝廷から遣わされた官人であったが、伯耆守として当地に下向したいわゆる在庁官人である。その後土着して伯耆国会見郡東部を本拠に勢力を拡大していった紀氏の一人である。
 紀氏は一時は伯耆国西部から出雲国東部まで所領を拡大していたといわれ、以前紹介した松江市の宍道湖北岸に所在する本宮山城(ほんぐうざんじょう)の大野氏も、元は紀氏である。

一方、小鴨基保の小鴨氏もまた同国久米郡小鴨郷を本拠として、国府在庁官人を努めた一族である。
【写真左】曲輪配置(推定図)
 現地に設置されているもので、右側が登城コースとなっている。

 主な遺構としては、右(北)から二の曲輪(二の丸)・主郭(本丸)があり、その西(上)に井戸曲輪が描かれている。


 両氏は互いの支配地が隣接していたため、度々衝突が起きていたようで、源平合戦が行われた寿永元年(1182)、紀氏は源氏方に、小鴨氏は平氏方に分かれ壮絶な戦いが繰り広げられた。伯耆国におけるこの戦いは、西隣の出雲国にも及び、両氏はそれぞれの与力一族に支援を求めたとされる。

 さて、源平合戦において平氏は滅びることになるが、平氏に与していた小鴨氏は、その後源氏に帰順したようで所領地小鴨郷を保持した。
【写真左】北側の腰郭
 二の丸の手前には2段の郭があり、そのうち下段のもの。幅は狭いが、東西に長い。








南北朝期から室町期

 現地の説明板では、「元弘3年(1333)後醍醐天皇が船上山に潜幸の際、名和氏の軍勢により小鴨城が攻略された…」とあるものの、よく分からない、と記されている。

 『日本城郭体系 第4巻』では、小鴨入道の時、名和長年に味方して船上山に馳せ参じた、と記されているので、どちらが真実であったか分からない。別説では、これは小鴨氏内部において後醍醐派と幕府方に分裂していたのではないかとされている。
【写真左】石積
 上記の腰郭東部に残るもので、土塁の一部と思われる。









 さて、後醍醐天皇による建武の新政は破たんを来し、尊氏は後醍醐と袂を分かち、南北朝時代へと突入するが、正平8年・文和2年(1353)6月、南朝方の楠木正儀らが京都を奪還した際、佐々木道誉の嫡男で近江守・侍所であった秀綱は、同月13日、近江堅田に討死した。

 この勲功に対し、翌文和3年尊氏は秀綱跡に出雲国安来荘をはじめ山陰の数か所の土地を宛行している。その中には、「伯耆国小鴨次郎・同庶子等跡幷蚊屋荘・神田荘・因幡国私都郷」が記録されている(勝楽寺・勝楽寺城(滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4)参照)。
 このことは、小鴨次郎をはじめとする一族が当時南朝方であったことを示している。
【写真左】二の曲輪(二の丸)
 北西方向に伸びるもので、長径50m×短径20m前後の規模を持つ。








 下って応安4年(1371)2月、鎌倉幕府倒幕から南北朝末期まで波乱にとんだ活躍を見せた山名時氏は、丹波・但馬・因幡そして伯耆国をその傘下に治め73歳の天寿を全うした(山名寺・山名時氏墓(鳥取県倉吉市巌城)参照)。

 時氏死後も伯耆国は山名氏が守護職として治めるが、小鴨氏はそのころから山名氏の臣下として活躍することになる。嘉吉元年(1441)に勃発した嘉吉の乱の際も、山名軍の主要な重臣として活躍し、論功行賞では山名氏庶流の教之とともに、小鴨之基は備前国の守護代として赴くことになる。
【写真左】二の丸西端部
 西側は要害性に富んだ切崖となっている。
 このあと、本丸側へ向かう。






戦国期

 主君山名氏はその後、家督及び所領地などを巡って一族内で内紛がおこり、次第に統率が乱れ始めていく。この隙をついてきたのが、出雲の尼子氏である。尼子氏が伯耆国周辺を攻略したのが大永年間とする定説がこれまであったが、最近ではこれを訂正する動きもある。

 ただ、流れとしては尼子氏による伯耆国侵攻があったことは事実で、その後、小鴨氏は羽衣石城の南條氏らとともに尼子氏の攻撃に対し抗戦を続けた。
 その後の経緯については、説明板の通りである。
【写真左】二の丸と本丸の間の郭群・その1
 二の丸と本丸を連絡する郭群は、4,5段の小規模な郭で構成され、幅は一旦この間で狭くなっている。
 ただ、東側の下には小規模な腰郭が付属している。
【写真左】二の丸と本丸の間の郭群・その2
 次第に登り勾配となり本丸に連絡されているが、それぞれの郭段は全体に中央部に窪みの痕跡があり、もともと西側に土塁が敷設されていたのではないかと思わせる。
【写真左】本丸・その1
 本丸北端部で、中央には祠のようなものがある。
【写真左】本丸・その2
 本丸北端部から奥に進むと、一旦中央部で細くなっている。ただ、このあたりから右側下には井戸郭などがある。
 本丸平面は平滑で施工精度が高い。
【写真左】本丸・その3
 この辺りが最も広い箇所で、特に北西方向に長く伸びている。
 その先を降りて、井戸郭に向かう。
【写真左】井戸跡か
 あまり明瞭でないが、二本の木の間が極端に窪んでいたのでこれだろうか。
【写真左】二の丸付近から北北東を見る。
 山名氏の居城・打吹城が見えるかと期待したが、登城時期が悪かったのか見えない。
 おそらくこの写真の右側辺りだろう。
【写真左】岩倉城から市場城を望む。
 市場城は次稿で予定しているが、岩倉城の出城とされ、小鴨氏家臣の岡田某氏が在城していたといわれる。
 天正10年5月、吉川軍に攻められて落城したといわれる。


【写真左】永昌寺十三重塔
 岩倉城の麓には古刹・永昌寺が建立されている。当院の縁起などは分からないが、ここに県指定保護文化財の「永昌寺十三重塔」がある。



 現地の説明板より

“県指定保護文化財

 永昌寺十三重塔(昭和31年5月30日指定)

 もと岩倉城跡付近から出土したもので、この城を居城としていた小鴨氏との関係も考えられる。
 笠石の軒のそり返り、上と下の笠石の長さの違いなどが、極端すぎることなく、全体的に美しく安定している。
 形などからみて、鎌倉時代から室町時代初め頃までに造られたと思われるが、県内では、十三重塔でこの時期のものは他になく、貴重な資料である。
  昭和59年7月
     鳥取県教育委員会”
【写真左】永昌寺石造宝塔
 同じく永昌寺には、三基の石造宝塔が残されている。


現地の説明板より

“市指定有形文化財(建造物)

 永昌寺石造宝塔 三基

所在地 倉吉市岩倉
構造及び形式又は寸法
(第1号)
寸法 高さ48.8cm 塔身幅40.0cm
材質 凝灰岩

(第2号)
寸法 高さ51.5cm 塔身幅40.4cm
材質 凝灰岩

(第3号) 
寸法 高さ44.5cm 塔身幅34.8cm
材質 凝灰岩

建築の年代又は時代 鎌倉時代
指定年月日 昭和61年8月1日

 宝塔は「法華経」に基づいて、造立されたものである。基礎・塔身・笠・相輪の各部からなる。基礎と笠の平面形は方形、塔身の平面形が円形で上部にやや細い首部が造られているのを特色とする。
 永昌寺の石造宝塔は三基とも、岩倉字奥新田(通称奥の院口)の水田から出土したもので、塔身以外は失われている。いずれも鎌倉時代に造られたものである。三基の中で、1号塔にだけ仏菩薩や経典を表す梵字が彫られている。梵字で表されているのは、釈迦如来と多宝如来の二仏を中心に諸尊を配した法華曼荼羅と、密教の経典に基づいた胎蔵界曼荼羅の大日如来、金剛界曼荼羅の四仏である。法華曼荼羅と密教の二つの曼荼羅が一つにまとめられている例は全国的に少なく、当時の仏教の状況を知ることのできる貴重な資料であるとともに、倉吉の密教文化の水準の高さを示すものである。
   倉吉市教育委員会”