2022年3月9日水曜日

備後・亀山城(広島県三次市西河内町下郷)

 備後・亀山城(びんご・かめやまじょう)

●所在地 広島県三次市西河内町下郷
●高さ 240m(比高70m)
●築城期 不明
●築城者 不明
●城主 河内隆季・隆実・隆孚
●遺構 郭・土塁・堀・竪堀
●登城日 2017年6月12日

◆解説
 備後・亀山城(以下「亀山城」とする。)は、三次市に注ぎ込む西城川の下流域にあって、尾関山城からおよそ4キロほど西城川を遡った西河内町に所在する山城である。
【写真左】亀山城遠望
 東方から見たもので、麓を西城川が流れている。展望台と記した個所が本丸位置に当たる。
【写真左】亀山城の配置図
 本丸に設置されているもので、左方向が北を示す。

 右に行くと、西城川は三次市街地で、南東から流れてきた馬洗川と合流し、江の川本流となって石見に注ぐ。
 
 なお、左中段の「至高野」と書かれた道が、後に「石見銀山街道」となる。







現地の説明板より

“亀山城址
  西河内村古城山(326m)
 中世の山城にして、三吉氏支配下北部地帯の砦として重要な役割を果たしていた。

城主
 河内隆季―河内隆実―河内治部尉隆孚3代の居城であった。
 山腹に平坦な処があり八幡丸(本丸)と呼んでいた。
 国郡志書下帳に山の峰平地にして一反三畝、二段目八幡丸と申す。
 平地二畝、東南に一段平地にして三畝、北方に添山があり平地三畝とあり。
いわゆる階段式郭を持つ(芸藩通志より)。
 ここは土地所有者「立川佐十郎」氏の了承の下、展望台として整備し、地域として活用しています。
   三次市西河内まちづくり推進協議会
       着工 平成18年4月“
【写真左】亀山城入口
 亀山城東麓の位置に喫茶店があり、そこでコーヒーなどを飲み、車は当店の駐車場に止めさせていただいた。

 そこから亀山城の北側に棚田があり、農道を西に進むと、イノシシ除けの扉がありここを開錠して少し進む。
 写真はイノシシ除けの扉。

河内氏

 亀山城の築城期・築城者等については不明だが、おそらく城主とされる河内氏が築いたのだろう。当城は、初代河内隆季から始まり、隆実・隆孚と三代にわたる居城とされている。

 在城時期が不明だが、河内性は当地名からとったもので、初代の隆季から推しはかると、主君である比叡尾山城主・三吉氏の隆亮の代(?~1588年)と思われる。言い換えれば、三吉隆亮から「隆」の字を与えられ、河内隆季と名乗ったと考えられる。
 なお、後段の写真で少し触れているが、三代の城主とは別に、豊高という城主もいたようだが、詳細は不明である。
【写真左】登城開始
 イノシシ除けの扉からさらに進むと再び案内標識のついた箇所があり、ここの扉を開けて左側の山側に登城道に向かう。
「亀山城展望 参百米」と書かれた標柱が建っている。
【写真左】亀山城の北側を流れる川
 亀山城に登る前には橋が架かっており、その下を小川が流れている。現在は土地改良したため川幅は狭くなっているが、当時はこの川が濠の役目をしていたものと思われる。
 


 また、三吉隆亮はかなり長寿であったらしく、主君は大内義隆に始まり、その後毛利氏に帰順し、元就、隆元、輝元まで仕えた。このことから、隆季はじめ、隆実・隆孚とも隆亮から偏諱を受けていた可能性が高い。

亀山城の周辺

 亀山城は西側の標高288mの主峰から東に伸びる尾根先端部に構築されている。そして東麓は、県道39号線(三次高野線)と並行して西城川が東方から流れこみ、北麓には北から南下する街道(江戸期に石見銀山街道となる)がこの位置で両線と合流する。
【写真左】竪堀
 北側斜面から登る登城道だが、麓から険峻な道が続き、さらにこの個所でかなり大きな竪堀が出てきた。
 


 亀山城の南側で西城川が大きく左回転方向に蛇行し、亀山城側の山塊を抉るような流形となっている。
 従って、南麓を走る県道39号線の山側はほぼ垂直である。こうした険しい地形であったことから、戦国期ではまだ道は存在しなかったと思われる。おそらく亀山城の東麓で陸路での道は終点となり、そこから西城川を伝って船で三次の街まで南下していったと思われる。
【写真左】最初の段
 尾根に向かって登って行くと、途中でこの段が出てくる。北側斜面の一角に独立して設置された腰郭。
 


 亀山城主・河内氏が、主君である三吉氏の居城・比叡尾山城まで出向くルートは、上述したように、西城川を船で南下し、現在の三次市街地である旭橋付近で船から上がり、県道434号線(和知三次線)に沿って東進し、畠敷の比叡尾山城に辿り着く方法がとられたのだろう。

【写真左】同上の腰郭
 「亀山城 段階式城址の一部 北の添山 「平地の三畝」と記された標柱が建っている。
 前方には本丸に繋がる階段が見えている。




遺構の概要

 説明板にもあるように、尾根先端部に築かれ、尾根筋には本丸とされる長形の郭(本丸)を置き、先端部に向かって中小の腰郭が付随している。本丸奥には土塁を介し、尾根に向かって三条の堀切があり、両斜面にも畝状竪堀群が構築されている。
 全体にコンパクトな城郭だが、無駄のない縄張といえる。
【写真左】堀切
 先ほどの箇所から少し進むと小さな郭があり、その先に堀切がある。
【写真左】竪堀
 北側斜面にあるもので、雑木などがあるため分かりにくいが、かなり下の方まで延びているようだ。
【写真左】左の段
 先ほどの箇所から登って行くと、本丸を中心とした郭群が出てくる。
 虎口付近から左方向に見たもので、奥が東方を指す。
【写真左】中央の段から主郭を見る。
【写真左】看板
 下の中央部の段に設置されているもので、

亀山城址 峰 『平地一反三畝』 城主 三吉河内守豊高(千五百年代) 現在 土地所有者 立川〇〇〇 西河内町まちづくり協議会

と書かれている。
 「河内豊高」という城主名は初めて見る名だが、河内治部尉隆孚の跡を継いだ武将だろうか。
 このあと本丸に上がる。
【写真左】本丸・その1
 奥には西から北に延びる土塁が見える。
【写真左】本丸・その2
 中心部でほとんどフラット。
【写真左】本丸から西城川を見る。
 西城川を遡っていくと、庄原市に至る。
畠敷の比叡尾山城は、この写真では右側の山並みを越えた方向に当たる。

 この場所に建つと、当城は東方を扼することに主眼を置いていたように見え、甲山城(広島県庄原市山内町本郷)の山内首藤の動きを監視していたのではないかと思われる。
【写真左】土塁・その1
 本丸を囲繞しているもので、この辺りは比較的良好に残っている。
【写真左】土塁から下を覗く。
 大分劣化しているが竪堀の痕跡が見える。
【写真左】土塁・その2
 土塁の高さは場所によって高低差はあるが、写真の箇所は比較的高いもの。
【写真左】本丸中心部を見る。
 東端部に展望台が設置され、手前には作業小屋のようなものが建っている。

 
 

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