2015年5月21日木曜日

妻鹿・国府山城(兵庫県姫路市妻鹿町甲山)

妻鹿・国分山城(めが・こうやまじょう)

●所在地 兵庫県姫路市妻鹿町甲山
●別名 妻鹿城・功山城・甲山城
●高さ 98m(比高98m)
●築城期 南北朝期
●築城者 妻鹿長宗
●城主 妻鹿氏・黒田職隆・官兵衛
●遺構 石垣・土塁・郭等
●登城日 2014年11月21日
 
◆解説(参考文献『黒田家略系図』荘厳寺所蔵等)
 前稿御着城(兵庫県姫路市御国野町御着)から、西に2キロ余り向かうと、北方の福崎方面から流れてきた市川という河川に突き当たる。ここからこの川を約3キロ半ほど下ると、東岸に100m足らずの小丘が見えるが、これが甲山と呼ばれ、南北朝期妻鹿氏が築城したといわれる妻鹿城、別名、国分山城である。
【写真左】国府山城遠望
 南麓部にある専用の駐車場側から見たもの。

 アングル的には西麓を流れる市川から遠望した写真が見栄えがいいが、この日は時間的に余裕がなく、この角度から撮った。
【写真左】石碑
 国府山城は別名妻鹿城とも呼ばれている。南麓には「妻鹿城址」と刻まれた石碑が建立されている。

 登城口は、この近くにある荒神社の脇にある。


 戦国期には、黒田官兵衛がそれまで居城としていた姫路城を秀吉に譲り、自らはこの国府山城に移ったといわれている。

現地の説明板より

“国府山城

 国府山城(功山城とも)は城郭の観点から見て、砦のような小規模な城だが、大変優れた城であった。
 先ず第一は大変堅固な要砦をなしているということ。
 市川は妻鹿の河口で二つに分かれ、一つは現在のように南に流れ、別の流れは現在の浜国道の南沿いに流、今は埋め立て地となっている妻鹿港に流れていて、天然の堀となっていた。
【写真左】妻鹿 国府山城址 平面図
 荒神社の脇に設置されているもので、写真では文字が小さいため分かりずらいが、中央上段部が主郭となっており、空堀・竪堀・石垣・狼煙・かまど・馬駈け跡等が図示されている。

 登城口はこの図でいえば、中央の下段方面になる。


 また南の一部には松原山があり、東には御旅山、妻鹿山が連なっている。北は峻険な切崖をなし、従って妻鹿村全体が大規模な城郭となっていた。
 第二は、瀬戸内海を一望のもとに眺めることができ、見晴しの大変よい城である。名城の条件を満たしている。
 第三は、市川は当時現在の京口川とつながっており、姫路城近くまで船で行くことができた。軍の移動も物資の運搬にも大変便利よく、真北に位置する姫路城の枝城としては申し分なき城であった。

 軍師官兵衛も一時期この城を居城としており、築城の名手黒田官兵衛はこの城から始まったといっても過言ではない。”
【写真左】登城開始
 荒神社の脇から、しばらくなだらかな道が続く。










官兵衛、姫路城から国府山城に移る。
 
 ところで、黒田官兵衛の出自については、以前とりあげた黒田城(兵庫県西脇市黒田庄黒田字城山)でも少し触れているが、官兵衛の父とされる職隆は官兵衛の実父ではなく、養父であり、実父はこれまで祖父といわれてきた重隆であることが指摘されてきている。
【写真左】井戸跡
 最初に見えてくる遺構で、直径1m弱の小さなもの。









 いずれ官兵衛の出自については、あらためて別稿で取り上げる予定だが、今稿では大要に留めたい。

 そこで、先ず父とされる重隆だが、現在の西脇市黒田庄にあった黒田城の城主で、約35年間当城の主であった。彼は永禄10年(1567)8月17日没しているが、官兵衛は天正15年(1544)に生まれているので、父重隆が亡くなった時は、13歳であったことになる。

 さらに、通説ではこれまで官兵衛の兄弟などはいなかったとされてきているが、官兵衛には実兄とされる治隆がおり、彼は黒田城を父・重隆から引き継いだものの、黒田城の西方を流れる加古川の対岸・石原の石原氏、及び丹波・赤井氏との連合軍に襲撃され討死、これにより黒田城は落城した。これにより、兄治隆が黒田城の最後の城主となった。
【写真左】門石跡
 このあたりから少し登り勾配となっており、左右には門を設置するための礎石などがあったものと思われる。城域の入口ということだろう。



 官兵衛が一時、姓を小寺としているが、これは官兵衛が姫路城代であった小寺職隆の猶子、すなわち養子になった(『小野藩一柳家古文書』小野市好古館)からで、その後小寺職隆が御着城へ移ったあと、官兵衛は姫路城主となっている。
 小寺職隆は、小寺則職の子で、代々置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)を居城としていた赤松氏の重臣である。

 さて、官兵衛が秀吉に姫路城を譲り、当城・国府山城に移った時期については、天正元年(1573)など様々な時期がいわれているが、確定していない。
【写真左】かまど跡
 門石から入ってすぐに左側に進んだ箇所にあるが、全体にこのあたりは広い平坦地となっており、カマドも含めた平時の生活遺構があったものと思われる。
【写真左】馬駈け
 かまど跡から元のコースに戻り、少し登ると開けた場所に出る。現地には「馬駈け」と表記されたものがある。東西に凡そ100mほど伸びた細長い平坦地で、いわゆる馬場跡と思われる。
【写真左】経塚跡
 国府山城の南端部にあるもので、甲山経塚(こうやまきょうづか)と呼ばれている。

説明板より

“甲山経塚

 甲山は御旅山の北西端に位置し、経塚はその緩やかな山頂部の突端に造営されている。
 経塚とは、経文を容器(経筒)に入れて土中に埋納した遺跡である。経典を後世に伝え、その仏教的な作善行為によって極楽往生を願う経塚の造営は、平安時代中期以降に全国的に盛行した。
【写真左】甲山経塚から南方に市川河口を俯瞰する。
 河口は姫路港につながり、その先には播磨灘が広がる。
 南北朝期の妻鹿氏が城主であったころは、おそらく当城も海城の機能を有していたものと思われる。



 甲山経塚は、昭和42年に地元有志の調査によって発見され、その後の調査で立石状に露頭した岩の周囲で3基の埋納杭が確認された。埋納杭は板石で囲んで構築されていた。

 遺物は土師質外容器・経筒、須恵器甕、青白磁合子、泥塔、銅鏡、銅銭などが出土した。このうち泥塔は塔身に二仏の座像が陽形の笵で浮き出されている。同一型式のものが甲山南麓の荒神社に御神体として祀られていた。類例が乏しく珍しいものである。須恵器甕は香川県の甕山窯の製品で、平安時代中期から後期のものと考えられる。

 また、経塚周辺から鎌倉時代から室町時代の瓦質土器土釜・土師器香炉・白磁皿などが出土しており、中世を通じて信仰されてきた可能性がある。
   平成23年6月    姫路市教育委員会”
【写真左】土塁跡
 経塚を過ぎるとここから尾根筋を伝ってやや上り勾配の道となる。この土塁にいたるまでに
3,4ヵ所の郭段が散見される。
【写真左】狼煙郭
 登城道の途中に設置されたもので、石積を施した高台が残る。

 この狼煙の目的は内陸側との連絡もあっただろうが、むしろ播磨灘を往来する船との交信が主なものであったと思われる。
【写真左】二層の隅櫓跡
 中腹部にあるもので、狼煙郭より西側にあり、市川を望む箇所に設置されている。

 また、このあたりから西側には主郭に向かって土塁や礎石が長く伸びる。
【写真左】主郭が見えてきた。
 登り勾配ながらさほど急傾斜ではない。
【写真左】主郭・その1
 南北に伸びる郭で、およそ奥行30m×幅20mの規模。
 西側に眺望が開ける。
【写真左】主郭・その2
 北方向に姫路城・廣峯神社・置塩城を見る。
 奇しくも当城と姫路城を結んだ延長線上の北には置塩城が位置する。
【写真左】主郭・その3
 西南方向を見る。
 JR山陽線より南側の街並みで、戦国期はおそらく遠浅の海が広がっていたものと思われる。

 このあと、主郭から北の尾根伝いに進む。
【写真左】井戸郭の案内板
 「急傾斜につき 危険ですよ!」の看板もあり、降りるのを断念。
【写真左】庭園郭
 主郭から尾根伝を北に進むと、ご覧の郭がある。奇岩が横たわり、「庭園郭」と命名されている。

 この遺構があるところから、当城は有事のみの城塞ではなく、平時の城館としても使われたようだ。
【写真左】磐座(いわくら)
 さきほどの庭園郭からさらに進むと、2,3か所の郭があり、その先にはご覧の磐座跡がある。
 これは、さらに大きな奇岩が鎮座している。

 祭祀用のものと思われるが、戦国期というより、前半で紹介した「経塚」が埋納された平安期以降のものかもしれない。
【写真左】帯郭
 帰りのコースとなるが、尾根終点から降りて、東側に向かうと、長い帯郭がある。
 写真の右側に主郭などがある。
【写真左】専用駐車場
 国府山城登城者のための駐車場で、地元妻鹿自治会さんのご好意で設置されている。

 山城登城の際、もっとも手間取るのが駐車場の確保だが、ここまで行き届いていると嬉しくなる。お礼を申し上げたい。

1 件のコメント:

  1. はじめまして。
    突然失礼しますが、歴史散策に関心がおありのようなので、一つお知らせさせてください。

    兵庫県西宮市の越木岩神社所縁の磐座がマンション建設で破壊の危機に瀕しています

    ・越木岩神社境内奥に甑岩という磐座があり古代祭祀から続く信仰の場として大切にされてきました
    ・今破壊の危機にあるのは境内隣接地にある3つの磐座です。
    ・神社や地元の人たちが守ってきた共有地を戦後の厳しい時代、大学を設置するということであればと譲渡しました。
    ・大学の経営難によって第三者が購入し現在、3つの磐座以外更地になっています。
    ・当初の計画では磐座の保存を前提にしたマンション建設だったそうですが業者が約束を破棄し磐座を破壊して建設する計画へと変更してしまったのだそうです
    (http://white.ap.teacup.com/hakuto/2280.html )

    イワクラ学会で行っている磐座の保存を求める署名活動 最終締切5月31日
    http://iwakura.main.jp/news/20150419_news/newst_20150419.html

    また越木岩神社ブログでは電子署名サイトchange.orgにて署名を開始
    http://ameblo.jp/koshikiiwa-negi/entry-12022809803.html

    よろしかったらご賛同お願い致します。

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